〔以下、「待合室」第105回の「2001年冬の長崎市(その3)」(2004年7月16日から23日まで掲載)の再掲載です。なお、今回の写真も、全て2001年12月23日に撮影したものです。〕
第100回、第101回と、2001年冬の長崎市を取り上げたのですが、まだ終わっていません。3回続けて渋谷を取り上げたので、ここで2001年12月の長崎市に戻ります。
12月23日、オランダ坂付近を歩いてから、長崎電気軌道の路面電車を乗り継ぎ、松山町電停で降りました。本来の目的地の一つ、平和公園に入ります。ここは、既に、第15回目として2002年8月2日に掲載し、2003年2月9日に再掲載した別室2で取り上げていますが、写真が残っていましたので、ここに掲載します。
平和の泉です。1969(昭和44)年に完成したとのことです。右側のほうに見える黒い石に、原爆の被害にあった少女の手記の一節が彫られています。ここに引用しておきましょう。
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが 一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
広島でも、原爆が投下された直後、多くの人が水を求めました。灼熱の、地獄絵図にも似た状況の中です。当然の行為と言えます。しかし、その水は、渇きを癒すものではなく、人を此岸から彼岸へ導くものだったとのことです。
今はないドイツ民主共和国から寄贈されたという「諸国民友好の像」です。このようなモニュメントが平和公園にはいくつかあるのですが、別室2でも記したように、何故か東欧諸国からのものが多いのです。
この平和公園を歩き、閑静な住宅地の中を、浦上天主堂へ向かいます。平和公園からは少し離れていて、起伏のある街の中を歩いていきます。
浦上地区は、16世紀からキリスト教布教の地でした。大正時代に、この浦上天主堂が建設されたとのことですが、原爆によって完全に破壊されました。原爆資料館には、被爆したロザリオ、天使像などが展示されています。現在の建物は、昭和30年代に再建されたものです。
この日、私は天主堂の中に入りました。荘厳な雰囲気に身を包まれました。この近くに原爆が投下されたとは思えない、そんな気分になります。どのくらい、天主堂の中にいたでしょうか。
撮影した場所を思い出せないのですが、浦上天主堂ではないでしょうか。数字に注目して下さい。1945年8月9日(午前)11時2分、すなわち、原爆が投下された時刻なのです。
ここから、次は原爆資料館に向かい、さらに原子爆弾落下中心地にも足を運びました。このあたりのことは別室2に記しました。さらに、長崎電気軌道の路面電車で赤迫へ出て、そこから千歳町に戻り、街の中を歩き、DVDなどを購入して(小さいながらも良い店があり、さすが長崎!と感心したのです)、長崎電気軌道の路面電車を使って長崎駅前のホテルに戻ったのですが、その日の間、そしてそれ以降も、浦上地区のことが私の頭から離れません。
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