ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:若さ

2012年12月17日 21時24分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

(2006年3月20日付で、私のホームページに掲載した雑文を、ここに再び掲載いたします。)

 ぼくが大分大学の助教授になった年、2002年に、岩波新書として、香山リカ『若者の法則』という本が出版された。

 不可思議なことだが、ぼくはこの本を大分で見たことがなかった。いや、気づかなかっただけかもしれない。しかし、当時、大分大学生協の書籍コーナーを毎日チェックしていたし、自宅の斜め向かいにあった明林堂書店宮崎店やブックス豊後戸次店、そして明屋書店羽屋店、そして本命の淳久堂書店大分店などによく足を向けていた。自家用車通勤だったから、仕事の帰りなど、気晴らしに立ち読みなどをしたのである。それなのに、全く知らなかった。最近は岩波新書を扱わない本屋が多くなっているので、そのせいかもしれないが、それだけではないだろう。

 いつ、何処で購入したかは忘れたが、大東文化大学に移ってからのことである。何となく買ったというものであるが、気になる一節があったので、何度か読み返している。

 その一節は、次のようなものである。

 「高校や短大で十代の若者たちを前に講演をするときに、必ずしてみる質問がある。『あなたは、自分は若いと思っていますか?』。何を言っているんだ、と思う人もいるだろう。若さ真っ盛りの十代にそんなあたりまえの質問をしたって意味ないじゃないか、と。

 ところが、驚くべきことにどの会場でも『若い』という方に手をあげる若者は、わずか一割か二割。八割以上は、『自分は若くない、と思う人は?』という方に手をあげる。むしろ元気よく『若い』に手をあげ生徒たちに笑われるのは、会場にいる教師たちだ。」

 この部分にピンと来る人は少ないかもしれない。しかし、香山氏、そしてぼくのような職業に就いている人なら気づいていることであろう。そして、最初にこの部分を読んだ時、ふと、就職して間もない頃のことを思い出した。

 ぼくは大学院に5年間通ったので、就職したのが遅い。最初の勤務先である大分大学教育学部の教員になったのが28歳の時である。就職してまだ一週間も経つか経たないかの頃、ゼミの4年の男子学生と、法・政演習室で話をしていた。その時、外が急に賑やかになった。入学したばかりの1年生たちが教室から出てきたのである。その1年生たちを見て、4年生の彼がこう言ったのである。

 「いいなあ、若いなあ!若いっていいよなあ!」

 最初は驚いた。「何を言っているのか?」と思った。ぼく自身が若い、青いと思っていたし、学部の4年生なら21歳か22歳であるから、十分に若い(当時のぼくと彼とは年齢がそれほど離れている訳ではないとも言える。もう彼も30代前半である)。しかし、彼は同じ言葉を繰り返す。冗談なのか本気なのかわからないので、ぼくは彼に「若いくせに何を言っているんだい?」と言ったが、彼はまた繰り返す。そして、男子学生なのに「お肌の艶が」などと言い出した。この部分は明らかに冗談であろうが(本気だったら怖い)、たった3歳ほど年下の人を見て「若い」という彼の感覚は何だろうかと思った。10代後半と20代前半という違いはあるかもしれないが、少なくとも外見だけから一瞬で大きな違いを見受けることが可能であるようには思えない。彼はさらに続けた、「ぼくなんか、もう若くない。年をとっていますよ」。これが本当なら、ぼくは生きる屍のようなものである。だから彼に言った、「君が年寄りだったら、おれは何だ?」。

 一度だけのことであれば、特別な事件で片付けられる。しかし、このようなことがまた繰り返された。毎年、4月になると、3年生や4年生が1年生を見て「若い」と言うのである。学生の性別は問わない。そこで、上記と同じようなパターンの会話が繰り返される。やはりぼくのゼミにいた女子学生の一人は、ぼくが「それならおれは何だ?」と尋ねたのに対し、嘘か本当か、どういうつもりなのかわからないが「先生は別ですよ」と言った。

 いまや30代後半となって久しいぼくが、学生を見て「若いなあ」と言うことは許されると思う。しかし、10代や20代の人たちが、自分よりわずか3歳か4歳下の人を見て「若いなあ」と言うのは理解できなかった。ぼくが学生だった頃にはそのようなことなど思い浮かばなかったし、考えさせられるような環境でもなかった。ぼくと同じ世代で、こんなことを言っていた人がいたのであろうか。よくわからないが。

 考えられることの一つは、話題の共通性の程度であろう。ほんの1歳だけ違うのに、例えば社会問題などについて全くかみ合わないことがある。大分大学で実際に経験した例としては、私の高校時代の同級生である某ミュージシャン(ヒントはフリッパーズギターの一人)について話をしたら、彼を知っているので驚いたという学生と彼のことを知らない学生とに分かれた。知っている学生のほうが年長で、間はわずか2歳くらいである。文化、流行については、こういうことがありうる。2歳、3歳くらいの差であると共通の話題が少なくなるのかもしれない。

 しかし、これでは「若い」という発言の根拠にならない。年齢の差というが、むしろ開いているほうが、色々と話が弾むという場合もある。それに、話題に合わせるか否かは本人の心構え次第であろう(あとは趣味志向などに左右される)。

 次に考えたのは、発言した学生が、年齢の割に豊富な人生経験を積んでいるかもしれないということであった。しかし、これも根拠にはならないだろう。なる場合もあるかもしれないが、ぼくが知る限りでは人生経験の程度など無関係である。それに、人生経験を積んでいようがいまいが「わたしは若い!」と思っている人も少なくないはずである。

 そうなると、年齢感覚ということになる。実は、最近まで気づかなかった。香山氏が上記の本で記しており、「そういうことなのか」と思った次第である。もっとも、既に気づいていたとしても、香山氏のように「じゃ、あなたはいつが若かったの?」と尋ねることができたであろうか。同じ質問でも、質問者の立場やその場の雰囲気などで意味は異なりうる。ぼくが迂闊に質問すれば、相手次第では後でとんでもないことになりかねない。それでも、やはり一度は何かの席で訊いてみればよかったと思う。

 香山氏が講演などの会場で尋ねたところ、返ってきた答えは、「小学生まで」、あるいは「中学一年くらいまでかな」というものであった。どのようにお考えになるであろうか。

 「小学生まで」。何となくわかるような気もする。或る意味で一番楽しい時期かもしれないからである。6年間もあるから、具体的にいつごろなのかということについては、おそらく意見が分かれるとは思われるが。

 また、「中学一年くらいまでかな」。これもわかるような気がする。2年生以上になったら高校受験を気にし始めなければならないし、思春期ゆえの様々な体験もあろう。それとも、刑法第41条の責任年齢のことを知っているのであろうか。いや、昔の元服のことなどを考えているのか。

 色々と想像していたら、香山氏が書かれていた答えは、「楽しかったから」、あるいは「希望や夢があったから」というものである。実は、ぼくもこの点は理解できる。ぼく自身がそう考えていたからでもある。但し、希望や夢については異論がある。ぼくの場合は、希望や夢が年齢などによって変化しているが、失った訳ではない。まだまだやってみたいこともあるし、やり直したいこともある。人生をやり直せるのであれば、なるべく幼少期に戻ったほうがよいのであろう。その点は同感であるが(いったい、ぼくの精神年齢はいくつなのだろう?)、それにしても、今は楽しくない、希望も夢もない、なんて、10代にしてもう人生に疲れたということなのであろうか。それが大人というものか。いや、あるいは、10代の後半となると、一種特有の疲労感を抱くのであろうか。しかし、楽しくない、夢も希望もない、なんてことになると、「それでよく生き続けていられるね」と意地悪く尋ねたくもなる。次は「死ぬんだって大変だろうし、そんなことをしたら疲れちゃうよ」などと返されるかもしれない。

 そのうえ、若くもなければ大人でもないということになると、話が混乱してくる。

 若さというものの正体はいったい何であるのか。実のところ、ぼくにもわからない。ただ、世の中には若さを美徳とする考えがあることも確かである。美徳はおおげさかもしれないが、何か良いものであると考えられている気がする。確かに、若い人が持つ美には独特の良さがある。そうでなければ、グラビアなどが氾濫するはずもない。しかし、年齢相応の美もある。10代、20代、30代、……。こういうものを感じることができないというのも悲しい。そして、年齢とは無関係の美もある。美は外見だけから生ずるものではないし、内面の美が外見の美につながることも多い。

 あるいは、美ではなく、可能性の大きさが若さということなのか。肉体的な機能、精神面、思考能力などを考えると、これも或る程度までは妥当する。しかし、あくまでも或る程度までの話である。自ら可能性を閉ざしておいて、若い、若くない、などと思うこと自体がおかしい。

 おそらく、多くの人が、美、可能性、その他様々なものが綯い交ぜになって漠然として存在している若さというものに囚われているのであろう。そうでなければ、人生について悟りを得る時期の問題であるのか。しかし、それにしてはおかしい。若くもなければ大人でもないという時期が存在するからである。ぼくは、こういう時期があることを否定しないし、若くないすなわち大人とは言えないと思っている。しかし、大人であるから若くないというのも、あまりに単純な考え方ではないであろうか。

 また、香山氏は記していないが、ぼくには気になることもある。実際のところは、先の「若くない」ほど多く耳にすることがない発言ではあるが、それだけに恐ろしくなる。

 多くの人から叱られるかもしれないが、年をとればとるほど、若くないと思われている世代になればなるほど「今の若い者(若い奴)は」などという決まり文句を頭につけて不平不満を言う傾向が強くなる。早い話が老人の繰言であり、アニメの「サザエさん」に登場する磯野波平さんお得意のフレーズである。聞き苦しいことこの上ないし、ぼくはこういう人にはなりたくないので自戒している(あるいはもう言っているのかもしれないが、そうであるとすれば反省しなければならない)。故植草甚一氏は、何かのエッセイで「それならお前は何をやってきたんだ?」と言いたくなる、聞いていて気分が悪くなる、というようなことを書いていた(正確な引用ではない)。ぼくは、高校生の時に六本木のABCで植草氏の全集の3分の1くらい(ジャズ関係ばかり)を買って読んでいたし、植草氏の、年齢に関係のない好奇心の旺盛さに感心していた。だから、年を取っても精神面では若さを保とうと思っている。

 「今の若い者(若い奴)は」。こんな老人の繰言、あるいは波平さんの口癖を、ぼくよりもはるかに年下の人が言うのである。嘘ではない。ぼくは何度か、学生から発せられるのを耳にしている。つい、話を合わせてしまうことが多いのであるが、少し経ってから「やはりおかしい」と思うのである。場合によっては、ぼくが「今の若い者(若い奴)」の中に(無理やり)含められているかもしれないので、真意を確かめたくなるほどである。

 世代間の断絶は、年々厳しく、しかも細かくなっているのであろうか。今、一つの世代は10年ではなく、2年か3年程度なのであろうか。

 どうなっているのかよくわからなくなっているが、まだ20代前半の人から「今の若い者(若い奴)は」などと話されると、背筋が震えてくる。やはり、「もう若くはない」という自意識から発せられるのであろうか。それとも、単に異なる世代に対する理解力の不足に由来するのであろうか。

 こんなことを書き連ねてきたぼくは、最近、時々ではあるが自問する。「もう、おれも若くないのかな?」と。


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2 コメント

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いつもブログ拝見しております。 ()
2012-12-18 02:07:28
あくまで私のケースですが(年齢は教授とほぼ同じです)、平成以降は、
大学入学して間もなく現実に直面(就職事情など)するようになったので、
大学4年にもなると、新入生がまぶしく映るという気持ちはよくわかります。
学生時代、仲間と「大学院に進んだって食っていけない」という話になり、
「大学に入って、自分の世界が(広がるどころか)何倍も縮んだ」と言った者も
いました。
私は、神奈川県のT蔭学園にスパルタ教育盛んなころ通い疲れていたせいか、
同世代の若者に対して 「いいなあ、若いなあ! 若いっていいよなあ!」と
高校時代から確かに言ってました(冷や汗)。
今は、若さは気持ちの持ちようで、「若いっていいよなあ!」と言いたくなるのは
単に「隣の芝は青く見える」ためではないかと思っております。
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こんにちは。 (川崎高津公法研究室長)
2012-12-18 09:14:40
現在勤務している大東文化大学は、一部の学部を除き、1年生と2年生は東松山校舎、3年生と4年生は板橋校舎に通うのが基本となるため(多くの大学で見られる都心回帰は、大東には無関係のようです)、4年生が1年生を見て「若いなあ!」と叫ぶようなことは、私が見ている限りではあまりないようです(サークル活動などであれば別かもしれませんが)。
非常勤で行っている国学院大学や東洋大学では、1年生から4年生まで同じキャンパスで過ごすようなので、本文のような光景があるかもしれません。ただ、上の文は2006年3月に書いて掲載したものであり、それから6年以上が経っていますので、今はまた違うのかもしれません。
私は神奈川県立の某多摩区宿河原所在高校を卒業しました。今はどうか知りませんが、当時はスパルタ教育とは全く異なる校風でした。
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