椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

2月19日のまち その6

2020-03-04 11:55:00 | 所沢

所沢には御幸町(みゆきちょう)という住所があります。→ こちら

これは1912年11月、所沢飛行場への大正天皇の行幸を記念しての命名であるとか。

御幸(みゆき)とは天皇の外出の意味とのこと。

青森出身の私は、「みゆき」となると雪を連想してしまいます。万葉集では?

大雪は豊作へとつながるため、歓迎されたようです。

愛唱歌として知られている「雪のふるまちを」は山形・鶴岡市と北海道・旭川市が発祥地を主張しているのだとか。

山形にも熊野大社があるようです。→ こちら

また国宝・羽黒山五重塔のすばらしい紹介ページ「行って見たい神社とお寺」で見つけました。→ こちら

出かけられないとなると、かえってあちこちに出かけたくなります(汗

 

御幸町にある川端霊園です。ビルに囲まれつつあります。

 

聞いた話なんですが、東京では超高層ビルなどの規制が厳しくなってきて、今や規制の緩い?所沢に目をつけられているのだとか。

日本では高層ビルについての法律などが遅れている?  高層ビルがくっついてしまうのは美観上も問題であると感じます。

駅前が渋滞になったり、小学校が過密になったり、火事や地震など災害時の対応は大丈夫でしょうか?

 

それにしても、この日の私の(無意識の)目的地がここだったのでしょうか?

えっ、あのモミの木が黒幕?


2月19日のまち その5

2020-03-04 10:00:08 | 歴史あれこれ

庚申塔の真剣な祈りの姿のせいで、ちょっと道草をします。

18世紀前半の日本はどうであったのでしょうか。

1707年に記録に残る日本最大級の地震という宝永の地震があったとのこと。→ こちら

  南海トラフ沿いの巨大地震ですね。津波も噴火もあったようです。

その復興のために、紀州藩主であった吉宗が8代将軍に抜擢されたということのようです。

  吉宗による享保の改革は こちら

1741年の「元文の黒船」すなわちロシア帝国の探検船は、地震被災後の日本を視察にきたのではないでしょうか。

  吉宗による倹約令などにより、日本は魅力がなかったかもしれませんね。

1742年には、寛保江戸洪水が起きたようです。 → こちら

  当時のロシア帝国がスウェーデンやプロイセンなどと戦っていたことは日本にとって幸いであったのかもしれません。→ こちら

公事方御定書(くじがたおさだめがき)などは、きめの細かい治安対策だと感じられます。 → こちら

吉宗は続いた大災害の復興に明け暮れた一生だったようです。

ひょっとして、飛鳥山の桜は自分の息抜きでもあったのでしょうか。

鳥居のしめ縄からの連想ですが

禍福は糾(あざな)える縄のごとし

―― 災いと幸せは表裏一体のようにやって来る

物事に動じないためには、そう考えるとよいのかもしれませんね。