この長屋門は、隠居所として使われた後に、幕末から明治時代に分家の本多雖軒(すいけん)が村医を開業して、教育や書画など多方面に活動する拠点として利用されたそうです。
国分寺市教育委員会による「旧本多家住宅 長屋門・倉 見学のしおり」より
村医者・本多雖軒
天保6年(1835)に国分寺村名主本多良助の四男として生まれた雖軒は、16歳の時に下谷保(しもやほ)村(現国立市)の医者本田覚庵(かくあん)のもとで医学・詩文・書画等を学び、その7年後には長崎へ遊学の旅に出るなど、充実した青年時代を過ごしました。
覚庵のもとを離れた文久元年(1861)に府中宿で医者を開業し、小川新田(現小平市)名主の娘ちかと結婚すると、慶応元年(1865)には国分寺村へ帰郷します。長屋門を拠点に村医者を営んだ雖軒のもとには、小平・府中・三鷹市域の村々をはじめ、多摩川を越えて八王子や町田市域周辺の患者も通院していたようです。
書家としても知られ、依頼に応じて多くの幟(のぼり)・扁額(へんがく)などに詩句や語句を揮毫(きごう)した他、自ら書画会を主催するなど、生涯を通じて書画に対する情熱を抱き続けていました。また、府中宿時代には剣術・国学・和歌も習得するなど、北多摩郡を代表する知識人としても活躍しました。さらに、村の教育にも熱心で、明治17年(1884)まで訓導(くんどう・小学校教員)と教導職(きょうどうしょく)を歴任し、同43年(1910)村医者を辞した後は、晩年まで書画や文筆活動に勤しみ、大正5年(1916)に82歳で亡くなりました。
こちらのタンスは薬を入れておくもののようです。
本多雖軒は森鴎外の父である森静男に髭なども似ています。
明治時代の医療や教育は、目立たないところで支えられていたという気がします。
現代の脆弱性といったものを変えるには、具体的な歴史で考えてみることが大事ではないでしょうか。
脆弱性に気づかずに忙しくしている、ということもありそうです。えっ、スマホのせいもある?
日本の医療制度が誇るべきもの
というわけではなさそうになっている?
外国人の工作員がいるとして
日本では競争心というものを利用するべき
と考えていないか、と思うときがあります。
この本多雖軒のような人たちを書いている?
つまり父である森静雄の回想により
それを支えにしていた、ということもあるのかもしれませんね。
ということはどのようであるべきか
森鴎外のテーマの1つであったように
感じられたりします。
村医・本多雖軒に遭遇するとは・・・・
ちょっとびっくり。
えっ、日本は世界のお医者さんのような相談役をすればいいっていうことなんでしょうか?
日本はできるだけのことをする必要がないでしょうか。
在日の方たちはどのようにすればよいと思うでしょうか。
森鴎外「カズイスチカ」をどうぞ。
森静雄は煎茶と盆栽が趣味であったとか。
心身の健康によいのかもしれませんね。
子どものうちに、頭の中に多くの引き出しをつくる、というのは大事なことなのかもしれません。詰め込むのではなく、引き出しの機能といったもの。
地方で育っていたら?
と思ったりします。