第5連隊の雪中行軍参加者210名のうち、凍死したのは193名
伊藤薫著「八甲田山消された真実」山と渓谷社 2018年 によれば
装備とくに靴に問題があったということが言われています。
展示されているのは当然のことながら実際のものではありませんが・・・・・
ほとんどがわら靴であったようです。しかも、写真より短く、かかとが足首のあたりまでの深さ程度のものだとのこと。
靴下3枚を重ねてわら靴 あるいは底にゴムがついていない地下足袋にわら靴 など防水性がない状態での着用とか。
地下足袋については こちら
ただし支給品でないわら靴で底厚のものを用意していて助かった場合があったようです。
無事であった弘前第31連隊は革靴を履いてその上にわら靴であったようです。
第5連隊で生き残った倉石一大尉という人物は、ただひとりゴム靴を履いていたとのこと。ただし、この写真のようなものではなく、ゴム製のオーバーシューズを革靴の上に履いていたんだとか。倉石一大尉は体調が悪かったようで、服装も慎重に用意していたようです。
凍傷については こちら
ただ、対ロシア戦の訓練であれば、弘前第31連隊のようにかなり念入りな準備というものがあるはず。
1泊2日という予定が油断を招いたんでしょうか。
前日に夜更けまでお酒を飲んでいたグループもあるようですし、荷物運搬のソリにもお酒が積み込まれていたようです。
遭難が起こるべくして起こった、というふうにも見えます。
なお、ゴムの歴史について こちら
1902年の雪中行軍のときに、ゴムのオーバーシューズが入手できたというのはラッキーなことであったと思います。
しかし、倉石大尉は、日露戦争で戦死。凍傷で手足の切断をした兵卒の数人は生き延びた・・・・・
戦争というものは運命を強く感じさせるもの、人間の無力さを思い知るもの
それでもなぜ、戦争が起きるのか、を少しでも知ることは大事ではないかと思います。
将校は自分たちで上等なものを用意できた
兵卒は粗末な木綿の下着や外套であった
身分差が大きくそれが当たり前であった時代だったのだ、ということがわかります。
ナポレオンのモスクワからの退却時というときには、凍死者でなくても衣服・装備の収奪はあったのではないでしょうか。
遠征ということはそういう結果となるのだ
と思いますが、旧日本軍の教訓とはならなかった・・・・・
関東大震災ではアスファルトが溶けてしまったということですから、今の靴底では高熱のところは歩けない?
あるいは突然の雪で交通機関がストップしたとき、どういう靴ならば歩けるか
安全な靴を考える必要がありますね。
火事や噴火に対しての靴ということも大事かと思います。
急激な気象の変化や地震などでの雪崩が起きやすい状況の中、装備、あるいは機器類は十分なのでしょうか?
雪中行軍の教訓は十分過ぎるほど生かす必要があると思います。
なだれ、停電の可能性が高くなります。
流通にも影響があると思います。
食料、水の備蓄だけではなく防寒衣料、スコップなどもご用意ください。
については
なぜ日本が太平洋戦争の引き金を引かされたか、と同じ答えになる?
自衛隊や警察、あるいはそれに類する仕事の宿泊施設は、今後かなり注意しての改築をしていく必要がありそうです。
それでなくても自衛隊の装備があれこれいわれていたんですから・・・・
防衛族の皆様
警察関係の皆様
若者を守ることについて
だいじょうぶでしょうか?
そういうことでありませんように。
日本の政治のペラペラ感といったものを
なんとかして変えていただきたいと思います。
もしくは敵対する国内の工作か
兵士たちが狙われた、ということがあったようにも感じられます。
また戦争末期には知り過ぎた前線の兵士たちを抹殺したい力が働く
もしくはその兵士たちがPTSDとなってしまう、ということもあったように思います。
戦争を確実にコントロールできる軍事力があると過信してはいけないと思います。