椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

2月19日のまち その5

2020-03-04 10:00:08 | 歴史あれこれ

庚申塔の真剣な祈りの姿のせいで、ちょっと道草をします。

18世紀前半の日本はどうであったのでしょうか。

1707年に記録に残る日本最大級の地震という宝永の地震があったとのこと。→ こちら

  南海トラフ沿いの巨大地震ですね。津波も噴火もあったようです。

その復興のために、紀州藩主であった吉宗が8代将軍に抜擢されたということのようです。

  吉宗による享保の改革は こちら

1741年の「元文の黒船」すなわちロシア帝国の探検船は、地震被災後の日本を視察にきたのではないでしょうか。

  吉宗による倹約令などにより、日本は魅力がなかったかもしれませんね。

1742年には、寛保江戸洪水が起きたようです。 → こちら

  当時のロシア帝国がスウェーデンやプロイセンなどと戦っていたことは日本にとって幸いであったのかもしれません。→ こちら

公事方御定書(くじがたおさだめがき)などは、きめの細かい治安対策だと感じられます。 → こちら

吉宗は続いた大災害の復興に明け暮れた一生だったようです。

ひょっとして、飛鳥山の桜は自分の息抜きでもあったのでしょうか。

鳥居のしめ縄からの連想ですが

禍福は糾(あざな)える縄のごとし

―― 災いと幸せは表裏一体のようにやって来る

物事に動じないためには、そう考えるとよいのかもしれませんね。


2月19日のまち その4

2020-03-02 23:18:28 | 所沢

所沢・熊野神社から所沢駅方面に歩いてみました。地図は持たず、導かれるように歩くのがお勧めです。

大きな木がありました。モミの木だそうです。日本にもけっこうあるんですね。 モミについては こちら

天皇行幸の御座所に植えられた木であったとか。

東町というところに濱川神社という祠があって、庚申塔が並んでいました。

 

端の石には元文5年と刻まれています。元文年間は1736年~41年とのこと。

このころ、元文の黒船と呼ばれるロシア帝国の探検船来航の事件があったようです。→ こちら

当時は、どういうふうにして事件が伝わるのかわかりませんが、文字通りの流言飛語が飛び交ったのではないでしょうか。


2月19日のまち その3

2020-03-01 12:01:55 | 所沢

案内板によると、言い伝えでは安閑天皇の世に創建され、室町時代に再興とのこと。

東川(あずまがわ)沿いにあります。

外出を控えているので、あれこれ検索しまくり、想像力を大いに羽ばたかせてみることにしました。

 

古代の安閑天皇時代に政変があったようです。辛亥の変については こちら

安閑とは、何もせずのんびりしていること、の意味のようですが、「安閑としている場合じゃない」のように使われることが多いんですよね。

秦河勝が安閑天皇の落胤であるという説もあるのだとか。となると、安閑天皇が秦・始皇帝とつながりがある?

それとも安閑天皇は秦グループによって退位させられた?

秦河勝については こちら

安閑天皇の時代に、上毛野小熊(かみつけのおくま)という人物がいて、武蔵国造の争いに敗れたんだとか。→ こちら

 

熊野は平家とつながりがあるようです。どちからというと、将門伝説まである所沢は平家寄りであったような・・・・

 

速玉熊野神社の神木がナギだとか。ナギの木とは別にナギという別名をもつミズアオイという植物があるようです。

田んぼに生えるため、農薬のない時代には農民たちにもよく知られた植物であったようです。

(写真はWikipediaから)

ミズアオイについては こちら

徳川家の葵紋について、薬学者だと聞いている家康は何を伝えようとしているのかずっと気になっていたんですが・・・・

国の基本は農民だと考えていて、ミズアオイを示すことで、いざとなると食料ともなり,染料ともなることを示した?

熊野とつながりがある、となると徳川は平家ともつながっていると示した?

万葉集にもナギが登場しているようです。→ こちら

1933年(昭和8年)に昭和天皇が詠んだ歌に

天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

というものがあるようです。何とか戦争を止めたいという気持ちがあったのではないでしょうか?

ひょっとして熊野や南方熊楠を思い出していたとか? 南方熊楠と昭和天皇については こちら

ナギは海の凪とも掛けられているので、家康と昭和天皇は時代こそ違うものの同じ思いを持った時間があるのですね。

 

当然のことながら家康については後世でつくられていった姿もあることでしょう。

 所沢・熊野神社についても、あれこれの時代にいた物知りが新たな伝説を加えたのかもしれません。

 ただ、それは人寄せとか商売のためではなくて、元気を出してもらおうという気持であったのではないでしょうか。