エルソル飛脚ブログ ~Run 4 Fun~

四万十川周辺をチョロチョロしている飛脚の記録です。

大阪物語2020 「あしあと」(1)

2020年04月02日 | エルソル大阪物語~番外編

※以前書いた「大阪物語」を読んでいただいた方だけが楽しめる日記です。

~おことわり~
新型コロナウイルス、
4月を迎えた今現在は、凄まじい勢いを見せるウイルスに対して三つの密が注意喚起されたり、
(換気の悪い密閉空間、多くの人が密集、近距離での密接した会話)
週末の不要不急な外出を控えるように促されたりと、
爆発的感染に至らぬよう毎日のように報道を通じて呼びかけがされている非常事態が続いています。

これから書く日記は、まだウイルス騒動が大きくなる少し前のお話です。あしからず・・

~1~

通路側に備え付けられたカーテンを引くと狭い個室が出来上がる。

空気のこもった空間に、ついさっき振りまいたエタノールの消毒臭が鼻をかすめる。

高知を出発した夜行バスは、深く倒した座席シートの上で前後左右に揺られながら大阪へと向かう。

7年ぶりの大阪は、親戚のお見舞いが主な目的だが、「自分の足跡を探す旅」でもある。

久しぶりの一人旅でフットワークも軽く思いのままだ。

世間はウイルス騒動のさなかで、

3月中旬の大阪は、ライブハウスからクラスター感染したニュースで騒ぎ始めた頃だった。

去年の暮れから決めていた大阪行き、10枚のマスクと携帯するエタノールで対処する。

1泊2日の大阪は、北から南へとかなりの距離を歩くことになるはずだ。

少しでも寝ておきたいところが、おそらくそれは無理だろう。

これから出会う人や景色の事を思うと胸の高まりが抑えられない。

大阪で仕事をしていた頃にもよく利用した夜行バス、

うれしい帰省に胸を膨らませ、いつも寝つきが悪かったものだ。

夜行バスというタイムマシンは、揺れながら長く暗いトンネルをくぐる。

朝6時前、タイムマシンは大阪難波近くの湊町バスターミナルに到着した。

リュックを背負い外に出ると、実に当たり前の見慣れた大阪の景色が現れた。

「すぅ~」っと大きく息を吸うと、もう何だか大阪に帰ってきたような感覚になった。

吐いた息は白い煙となって空に消えた。

前日に訪れた寒波は、寒の戻りとなって冷たい空気が頬を刺す。

ニット帽を持ってきたのは正解だった。

まだ少し夜の雰囲気を残す景色の中を歩き出す。

目の前に現れたビル群、自然と目線が上がる。

バスの着いた湊町は、高速の高架をくぐるとすぐに西区になる。

四ツ橋筋を徒歩で進む。

目の前に見えている黄色いビルは早速昔の職場である。

西区南堀江は、繁華街御堂筋側から見るとアメリカ村を挟んでひとつ西側のエリア。

約30年前当時は、オシャレなショップが集まりはじめた洗練されたエリアだった。

私は昔の足跡を辿っている。

見慣れた風景、変わってしまった風景、寝不足な頭でも分かる「懐かしい空気」を感じながら歩く。

ほどなく昔の職場に到着した。

角は「照ちゃんラーメン」だった場所、その横が私の修行場「ターニング」だった。

一体何がそうさせたのか・・、まるでNY。

照(てる)ちゃんラーメン、広島のさらに山奥の出身だった大将はお元気でおられるだろうか・・。

修行に入ったばかりで貧乏だった私に、チャーハンを勝手に大盛にしてくれた大将。

照ちゃんラーメンの焼きめしは、今でも私のナンバーワンだ。

「ターニング」

このシャッター、今は何屋さんなのか想像もつかない。

苦難の末に辿り着いた修行先ターニング、

今の私の技術を支えている大きな部分はここで勉強したものだ。

マスターが河内長野に店舗兼住宅を購入したあと、知り合いの理容師に権利を譲ったと聞いていたが、

どうやらここはもう理髪店ではなさそうだ。

地下鉄に乗るためにアメリカ村方面へ向かう。

高速環状線をくぐるとアメ村エリアはすぐそこ。

通称三角公園(アメリカ村)。

三角公園はアメ村の中心部、・・だがしかし周りの景色は一変した。

アメカジなアパレルショップが軒を連ねていた昔と違って、飲食店が多い。

昔は若者が溢れ、掘り出し物の多いアパレル街だった。

路上のゴミ、人の多い所はマナーの悪い人も増えるということか・・

御堂筋に到着。

梅田と難波、キタとミナミを繋ぐ大阪のメインストリート「御堂筋」。

当然だが、山なんて何処にも見えない(笑)。

神座のラーメン。

まだ朝の6時半、早朝にラーメンを食しているという・・、眠らない街「ミナミ」。

ちなみにこのお店の営業時間はAM10:00からAM7:00だ。

ザ・大阪!道頓堀のグリコ。

通称「ひっかけ橋」。

ひっかけ橋=ナンパ橋、友人と一度だけナンパに挑戦した記憶がある・・(笑)。

かに道楽。

その巨大オブジェは大阪のシンボルのひとつでもある。

道頓堀川。

今現在田舎に住む者として、この汚染された川に飛び込む若者達は勇者に違いない(笑)。

御堂筋を南下する。

派手な建物は新歌舞伎座。

その向かいのアーケードに入ると、今夜の宿になるビジネスホテルがある。

御堂筋ホテル。

実はすぐ近くの千日前のホテルを予約していたのだが、

「ウイルス騒動で宿泊客のキャンセルが相次いだため」臨時休館になった模様で、

代替ホテルとして紹介されたホテルだった。

天然温泉がウリだというが、今夜は酒の宴があり、湯船に浸かるのは無理だろう・・

まだ早朝なのでチェックインは出来ず、場所の確認だけでスルーする。

地下にもぐる。

地下鉄御堂筋線。

当然ながらマスク率が高い。

梅田に向かう。

月曜日早朝、世間は休日明けの出勤風景。

昔はこういう人混みに紛れていたものだ。

田舎者の梅田の待ち合わせ場所は紀伊国屋書店そばのスクリーン前。

外に出て中津に向かう。

梅田は難波とは違って、歩いていても食べ物の臭いがしない(笑)。

阪急梅田駅から歩いて向かう中津、これも昔の通勤道だった。
 
モクレンが綺麗に咲いていた。

こんなに綺麗に咲いているのに、通勤で急ぎ足の人々はまるで無関心に通り過ぎる。

しかし・・目的地までが結構遠い、こんな遠い距離を毎日通っていたとは・・。

田舎暮らしが長くなると歩かなくなる。

歩くのはマイカーが置いてある駐車場までで、あとは車での移動が基本となる。

当然都会の人達のほうがよく歩く。

田舎の人達が健康的なイメージなのは景色や雰囲気によるものである。

徒歩20分、もう一つの職場「ラッキー」に到着。

ここは約2年半働いた職場で、少し安い料金設定なお店はいつも繁盛していて、

「数をこなす」という修行にはもってこいの職場だった。

さすがに月曜は定休日で、マスターに会うことはできなかった。

周りのお店が全て変わっているところを見て、そのまま存在しているラッキーが今でも繁盛店なのを確信する。

きっとマスターも変わらずお元気に違いない。

Uターンして梅田に戻る。

その途中、MBSビル前でタクシーを拾う。


「長柄橋を越えて上新庄までお願いします」

まだ道をちゃんと伝えられる自分がうれしく感じる。

淀川を渡る車窓から見える景色、遠くの山は白い。

「雪が降ったんですか?」

「ああ、神戸のほうは降ったみたいですね~」

「やっぱりコロナは大変ですか?」

「もう商売はさっぱりですわ~」

「大相撲も無観客やし、センバツまで中止って、ホンマえらいことですわ~」

「ホテルも飲食も・・・、潰れるところも出てくるんやないですか~?」

「高知でもデマに踊らされてトイレットペーパーなんか無かったですよ!」

「今でもマスクやアルコールは全く手に入りませんしね」

「ウチら運転手にもマスクは3日に一回、一枚しか支給されませんわ~」

「申し訳ないけれども、私のマスク、今日が3日目ですわ~(笑)」

降ろしてもらったのは上新庄。

新婚当初に住んだ最上階の部屋は、夏に水都祭の花火が見られる眺めのいい部屋だった。

その夏の事、嫁のお腹は臨月を迎え、それはちょうど私の休日だった。

近所に雷が落ちたことがきっかけで陣痛が始まり、駆け込んだ産婦人科ではお産が重なりパニックぎみ。

医者に促されたまま一緒に分娩室に入り、心の準備も出来ないままの立ち合い出産だった。

長女はここで2歳まで暮らしたが、本人はもう覚えていないだろう。

難波のお店で店長として雇われ、家では頼りない新米パパ。

バタバタだったが充実していたあの頃、ここにもしっかりと足跡が刻まれていた。

新幹線の高架を曲がると下新庄へ向かう。

下新庄は結婚までの数年住んだマンションがある。

仕事は中津のラッキーに勤めていた頃で、やりたい仕事と違うジレンマがストレスなりモヤモヤとしていた時期である。

今でもちゃんとあったマンション。

裏側の北向きの部屋は日当りが悪かったが、遅く帰って寝るだけの部屋だったんで問題は無かった。

すぐ近くの公園はヨチヨチ歩きの娘をよく連れて行った場所。

柵で囲まれた砂場は、常連のお母さん方が群れていて、

「公園デビュー」ならぬ「砂場デビュー」はかなりハードルが高かった。

下新庄の駅ホームに立つ。

再度梅田に向かう。

朝9時前に人と会う約束があるのだ。

阪急梅田駅。

バタバタした難波と違って落ち着いた梅田は気品さえ感じる。

大阪で過ごした半分は南の南海電車で、もう半分は北の阪急電車が通勤電車だった。

駅構内の歩くエスカレーター。

しまった・・、乗り損ねた・・(笑)。

阪急百貨店の通路は昔から洗練されたままだ。

「上田さ~ん!?」

待ち合わせ場所に現れたのは、理容ヘアテックで店長をしていた時のお隣美容室コラージュのサンちゃん。

今では一児の母で、ウイルス騒動で長い春休みになった娘さんを連れていた。

近くの喫茶でモーニング。

サンちゃんは私の知り合いの中でもスキルの高い人。

「前を向く力」「前に進む力」に優れ、地に足のついた大人で、

今回の弾丸大阪ツアーで会いたかった一人だ。

私よりも早く独立したサンちゃん、今は神戸芦屋でヒーリングサロンを経営しながらフリーランスとして活躍もしている。

私の質問に理路整然と答え、適切なアドバイスもくれるしっかり者のサンちゃん。

こういう女性の傍には大体、放っておけない男が存在したりするものだ(笑)。

最初に会った人がサンちゃんで良かった、そう感じながらコーヒーを飲んだ。

こんな私でも早朝から電車に乗ってわざわざ会いに来てくれる人がいる。

これも私が大阪に残している足跡のひとつでもあるという事にしておこう。

次は高校時代の友人(女性)とのランチに向かう。

サンちゃんに教えてもらった道を進むが、やはり田舎者は外に出たくなる。

地上はもうすでに何処だか分からない・・。

野生の勘でどうにかハービス大阪に辿り着いた。

友人が予約してくれているB2の「禅園」に到着。

仕事の昼休憩中にほどなく現れた友人と合流してランチ。

本来は懐石料理などで敷居が高い感じのお店だが、昼のランチはリーズナブルなものらしい。

クラスメートだった友人との会話は方言丸出し(笑)。

全く気を遣わない同級生とのやりとりはしばしの癒しでもある。

ランチ後、近くのリッツカールトンホテルのロビーにて、

「いや~ん!ここメッチャ雰囲気ええや~ん!ここで一緒に写真撮ろうーっ!」

「嫌や!恥ずかしいぞ!」

「スミマセン!ちょっと写真撮ってもらえますか!?」(勝手に近くの女性に頼み込んでいる)

「ちょっと待てっ!こらっ!!え?マジ!?」

「ハイポーズ」カシャ!

同級生と別れ、地上に出る。

ここが何処なのか分からないが、あのビルには見覚えがある。

空中庭園とかいって話題になったあのビルは確か西梅田。

ここは一体何処なのだろう・・

あれはJRの梅田駅?

「梅田は変わった」そういう知識はあったが、これほどまでに変貌しているとは・・。

サンちゃんの話では、この後の大阪万博に向かってさらに大きく変わるらしい。

都会とは常に変化を求める場所なのだ。

ほどなく地下鉄御堂筋線の梅田駅に辿り着いた。

そうそう、変化といえば駅の改札。

チャージしたカードでICタッチ。

これは便利。

がしかし、お金を使っているという感覚が鈍る。

地下鉄で再び難波に戻る。

そういえば、難波も風景は変わった。

難波駅から徒歩2~3分、グラムール美容学校に到着。

すぐ近くの難波府立体育館そばにあった旧関西美容理容難波専門学校。

母校であり、助教師として働いた職場でもあった。

その頃のこのビルは、学校の持ちビルで高砂殿という結婚式場だった。

その後、高砂殿は複合テナントビルになり、

さらにその後、専門学校はグラムールと名を変えてこの地に移った。

このグラムールに立ち寄るのは恩師に会うためだ。

受付ロビーで待たされた後に出てきた恩師・・

長澤先生。

理容科が無くなった後も学校に残り、学校の広報として全国の学校説明会に出向いていた頃、

四万十中村にも立ち寄り、私も仕事を抜けてホテルで行われた学校説明会にグラムール職員として椅子に座らされた・・、

あの時以来の再会である。

長澤先生は学生時代の先生でもあり、職場の上司でもあり、最後は関美グループの同僚でもあった。

私の一番の恩師だ。

少し歳をとった先生は、少し痩せて、少し背中も丸くなったような気がした。

「おお、ひさしぶりやな!」

「お久しぶりです、もうこの歳になるとこうやって訪ねてくる人も居ないんちゃいます?」

「この前お前の教え子の大園が突然きたわ、覚えてるか?」

「大柄な色白の子でしょ、覚えてますわ、へ~、頑張ってるんや~」

「ちなみに同期の辻上とかの情報とか無いんですか?」

「さすがに無いな~、もうあの辺の子達も結構な歳になってるな、それぞれ頑張っるんちゃうか?」

そういう長澤先生も、一度定年で退職したあと、再雇用でのパート勤務らしい。

「長い時間働かせてもらわれへんねん、2時に終わるから、後でもう一度おいで」とのこと。

そんな話をしているところに社長(校長)に出くわした。

さらに、着付けの谷先生も現れた。

しばし、昔話に花を咲かせる。

2時までまだ少し時間があるので、昔の職場に向かう。

高島屋裏手の高架下マクドナルド。

その昔、周辺には高島屋、府立体育館、大阪球場、場外馬券場などがあり、多くの人が行き交う場所だった・

このマクドナルドは当時、西日本で一番の売上を誇ったらしい。

すぐ近くに、ホテル南海だったビル。

ここが私の大阪のすべての「はじまり」だった。

真向いのパーキング奥には、私の大阪の最後の職場だったヘアテックが見えている。

何とも感慨深い空間・・。

あの何ともいえない湿気がまとわりついた難波、早春ではあるが今では全く感じられない・・。

私が大人になったのか、街が変わったのか、

あの熱気に満ちた湿気はもう感じられないのだろうか・・。

府立体育館横の交番。

クレーマーなお客「厄介」連れて飛び込んだ交番(笑)。

若気の至り・・だったかな。

府立体育館。

現在の正式名称は写真のとおり。

現在大相撲春場所が開催中であるが、ウイルス騒動により無観客で行われている。

派手なノボリも全く無く、表に人は誰もいない。

体育館横手に回る。

力士もマスク姿で歩いている。

本来難波はこの季節、歩く力士のビンヅケ油の匂いが漂うが、

ほとんどの力士がタクシー移動を義務付けられているようで、辺りは閑散としたものだった。

体育館裏手でタクシーから降りる力士達。

この時、警備員に「近づかないように」と警告された。

今場所は無観客開催、

お客を入れない、こんな開催に何の意味があるのだろう・・。

昔の職場、旧関美、旧美容室コラージュ、旧理容室ヘアテック。

バーバーヘアテック(だった場所)

心臓は鼓動を打ち、目を見開くような緊張感、

今すぐにでも働けそうな・・やる気に満ちたエネルギーを残している。

シャッター前はホームレスの寝床だった。

そういえば、そこら中にいたホームレス達は何処にいったのだろう・・

昔はこんなリヤカーで、大量の段ボールを集めていた人達も多かったものだ。

グラムールに帰り、長澤先生と合流して「なんばCITY」に潜り込んだ。

先生は初めてというスタバでコーヒーを飲む。

今現在、下降線を走る美容学生の数、そして学生の質の低下。

「働くということ」「自分のために修行するということ」「教えていただくということ」、

社会は少子化が進むにつれ、いつの間にか学生達の売り手市場となり、

「お店で働かせてもらっている」という意識が薄れ、

将来の目標もないまま働くことから、簡単に辞めて安易に転職をする者が多いらしい。

これは今後に起こる美容業界の不況が簡単に予測できる。

理容師に至っては空前の灯、もう後継ぎさえ見つからない伝統工芸の域だ。

先生と別れ、そのまま隣の高島屋に入る。

バタバタ旅なので、お土産は買えるときに買っておく。

午後3時過ぎ、ホテルのチェックインに向かう。

高島屋前スクランブル交差点。

すぐに551蓬莱、これも大阪名物だが、お腹は空いていない。

再びホテルに到着。

立地条件は素晴らしすぎ、次回来るときはここにしよう。

室内は普通のビジネスホテル。

カプセルホテルでもよかったのだが、しっかりと寝たいので・・

不要な荷物を部屋に降ろしてすぐにホテルを出る。

~1~


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