やまかがし 振り向きたれば 尾を振りぬ
梅士 Baishi
花金とは街のこと、金曜日の遍路道には、出会う人
も狸もいない。
この季節の山野草は、フキの花が盛んである。
城戸南蔵院の駅裏から登り始めて、遍路道を散策し
た。
秋ともなると、額田王の歌を思い出す。
冬ごもり 春去り来れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず
草深み 取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ
青きをば 置きてそ歎く
そこし恨めし 秋山われは
春も盛んになって魅力があるけど、草深くなって分け
入れない。
その点、秋は紅葉が思い深げで好きだわ、と言うの
である。
春のときめきより、秋の切なさのほうが私の心境なの
だというのだろう。
天智天皇と藤原鎌足との歌くらべだなんてねえ、いい
なあと思う。
確かに、春も進むと草深くなって分け入ることもでき
なくなる。
それでも早春の山はまだ新鮮で、ときめきがある。
しかし、初秋の山は女郎蜘蛛に阻まれて恐ろしい。
紅葉は美しいけれど、蜘蛛の巣が本当に嫌だと思う。
で、どちらがいいかとなると、冬から春にかけてが好
きである。
そこには希望があるからである。
人にも狸にも逢わない平日の遍路道をさらに登った。
すると、やまかがしのおちびちゃんと出会った。
夏場に遭遇したヤマカガシはでかかったのでたまがっ
たのだが、その後出会ったヤマカガシは子ヘビだった。
たまがったのはヘビのほうだった。
それがかわいらしくもあった。
動くものに出会えただけで、ああ、よかったと思えた。
幸福の科学では、山歩き修行を馬鹿にするところが
あるが、最澄も歩いたが、空海だって歩いたのだ。
山岳を歩くことで得られる悟りは、瞑想による対話が
あり、自然霊との美の出会いがあり、さわやかな感動と
汗を流すことの健康の喜びがある。
それほど馬鹿にしたものではない。
ただ、教学と思想的な探求がなければ宗教家として
の修行には不足だということである。
逆に、幸福の科学の「出家」者も巡礼的山歩き行を
取り入れてはいかがですかな。
幸福実現党のたすき掛けで通勤するとかもよろしい
のではないですか。
下積みのどろくささというのがこの世の努力というも
のでしょう。
それなくしては、才能があっても支持されませんから
ね。
そういう、汚れ仕事をしない優越感がどうも好きにな
れません。
火山のようにすごい勢いで幸福の科学出版の新刊
書が噴出している。
ありがたい経典ではあるが、あっという間にずるっと
後退してしまった。
幸福の科学大学創立への心意気のすごさでもあろう。
カール・ポパー的教育の荒廃と劣化は我慢ならない
ところである。
エル・カンターレの叡智に学ぶ好機でもある。
周辺書籍も合わせると、膨大な読書量が求められて
いるが、ありがたい修行課題である。
おかげで、読書スピードは自在になったが、時間の
やりくりが下手というか、まだ本気ではないのだろう。
山歩きもしたいのだが、本の山歩きが不足している。
ちょっとがんばらなければならない。
宗教というものは、神から流出づる叡智に学ぶ永遠
の修行である。
霊能力で病気を救済することは人助けだが、宗教の
本質ではない。
宗教とは人格完成への道であり、思想を深めることと、
その実践による人類救済の実績が問われる菩薩への
道でもある。
救済されるだけでは信心である。
救済する側に己を高めてこその信仰なのだ。
宗教の尊さを汚してはなるまいぞ。
信仰の本質は、「敬天愛人」と知るべきである。
愛とは、叡智たる信仰による行動である。
反日人民・民主党の議員よ、厚かましい枝野議員よ、
恥を知れ!
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党