龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

音声入力の凄さ(iOs6)

2012年10月09日 01時52分42秒 | インポート
この文章は文字通りつぶやきながら入力している。これがなかなか正確なのだ。
今入れた正確だけは選択が必要だけれども。「」 。などもそのまま入力できる。
これは、慣れてくるとiPadでガラス面の擬似キーボードを叩いて入力するよりも便利かもしれない。
siliという音声ガイダンスはあまり使い物にならないけれど、このディクテーションソフトというのかな、しゃべったままメールの本文を入力してくれるソフトはなかなか快適です。
本当に、静かな所で入力できるのなら、キーボードよりも思考を妨げずに書ける分面白いかもしれない。
ただし、喋るほうがいいのか、キーボードのほうがいいのか、はたまた、手で書いたほうがいいのか、にわかには決めがたいところでもある。
うわー、でもこれだけのものがしゃべっただけで入力できるとなるともはやこれからは、こうやって喋って入力するようになるんじゃないかなぁ。
ちなみにこれはiPad ios 6の機能です。


11/3(Sat.)13:30~あさのあつこ講演会(ラトブ6F)にて

2012年09月30日 11時29分37秒 | インポート
あさのあつこさんの講演会が、11月3日(土曜)13時30分より
いわき駅前ラトブ6Fで開かれます。
申込みは下記まで往復ハガキで。

〒970-8026いわき市平字田町120いわき総合図書館
0246ー22ー5552

『バッテリー』があまりにも有名ですが、『夜叉桜』とか、時代小説もいいんですよねえ。


三谷幸喜の『short cut』が日本民間放送連盟賞を受賞。

2012年09月22日 08時27分58秒 | インポート
三谷幸喜×中井貴一×鈴木京香『short cut』というwowowのテレビドラマが、日本民間放送連盟賞を受賞した。

素晴らしい!

三谷幸喜が変態的に追求してきた舞台的時間と映画的時間のせめぎ合いが、一つの達成を果たした作品だと思います。

『HR』『ラヂオの時間』など、TVや映画でも、芝居の中のようにリアルタイムで進行するような「劇」の描写にこだわってきた。

しかし、舞台の劇場TV中継が異常な「眠さ」をもたらすように、舞台の中に流れている時間と、映像の中で流れる時間は違う。

鈴木京香や小泉今日子が舞台でみせるヒドさと、映像作品における輝きの落差、の中にもそれは見て取れる。
鈴木京香が野田芝居に出たときの存在感のなさ、小泉今日子が小林聡美と共演したときの小林聡美の凄さ、そういうのを見ただけでも映像作品と舞台は全く違った生き物だと分かる。

最近みた高倉健のインタビューで、彼が映像の一回性を言っていた。
『short cut』で提示されている「時間」の問題と響き合っているかもしれない。

たぶん三谷幸喜はそういうことを全部分かっていて、なお「時間性」の越境を試みる。
もちろん、一本うどん(一食分全く切れ目のないうどん)として作られたドラマだから凄いってだけの話じゃなくてね。

、『short cut』、ぜひお薦めです。ちょっと大きめのレンタル屋さんにはあるんじゃないかな。

よろしかったらメディア日記もご覧下さい。

三谷幸喜『shor tcut』を観た。2012.06.21 Thursday 00:22
http://blog.foxydog.pepper.jp/?search=%BB%B0%C3%AB%B9%AC%B4%EE

メディア日記に伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』感想をアップ。

2012年09月10日 21時04分04秒 | インポート
メディア日記龍の尾亭に、伊藤計劃(+円城塔)『屍者の帝国』の感想を書きました。

こちらも参照してください。
メディア日記龍の尾亭 『屍者の帝国』

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980388

面白い。
パロディといえば全面パロディみたいな雰囲気を漂わせ、しかも登場人物達がそれを「演じきる」感覚は、語り方として抜群に上手い設定だと感じます。

盛り込まれたアイディアもSFファンならずとも楽しめる要素が満載。満載過ぎてこちらが消化しきれないのか、作品がもたついているのか、ちょっと判断に迷うところがありましたが(再読してゆっくり味わいながらその辺りはもう一度)。

私は本当にこういうお話が大好きです。
辻村深月の「語り」に惹かれた、と昨日書いたけれど、この伊藤計劃的(要素なんだか円城塔的要素なんだか分かりませんが)な「語り」もまた、非常に魅力的です。

語られ方と素材が、響き合ってるし、そこをきちんと読者に優れた身振りで示してくれる作品たち。
景気が悪いとか雇用が心配とか、年金がダメダメとか、いろいろ心配事は多くなってきているこの10年20年だけれど、口はばったい横町のご隠居さん的に放言させてもらえば、「文化的」には断然面白いものが湧いて出てきていると思う。

本を読む目の力と体力さえあれば、老後は安泰かもしれない。
そういう意味では、伊藤計劃の早すぎる死(まだ作家としてのキャリアは始まったばかりだったというのに!)は、惜しんでも惜しみきれない。

そして、この作品を未完として埋もれさせずに出版まで持ってきて下さった全ての人に感謝です。

大傑作という完成度は感じません。でも、このアイディア満載状態のお話は、私たちがこの後ずっと、ここから(ちょうど「菌株」のように?)想像を膨らませていく苗床として、抜群の「力」を持っています。

少なくても私はそう思います。



「人為の裂け目に立ち現れる自然」について(2)

2012年09月07日 18時10分58秒 | インポート
「人為のリミットにおいて、その裂け目から圧倒的な自然が顔を出す」

ということについてもう少し書いておく。

八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』には

「日本人は普通、(中略)理性の働きが先にあって、それによって理性の限界に気付くとき、理性の限界を超えた神に対する信仰が生まれる」

とある。ここで
「人為の裂け目に立ち現れる自然」
とは、決してそういう日本人の常識の意味ではない。

むしろ方向が逆だ。

人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?

この一年半ほど、ずっとそこにこだわり続けている。

そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?

そういう思いを抱えている、といってもいい。

意識が発動し、自分の意志を確かめて考え、発信しようと考え始めたのは、確かに大震災以後のことである。

整備された社会システム、共同体とインフラの中で、無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。

「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。

恐れの分析にも関わることだけれど、1,動物的な恐怖、2,存在論的な恐怖とは別のこの恐怖は、実は虚構化された第二の自然つまり社会的な環境(擬似自然といってもいい)を当然のこととして無意識に生きてしまっていた私たちが、様々な水準の生の基盤を一挙に失ったことによって、あられもないナマの世界と向き合ったことによる畏怖とみていいだろう。

人為/自然、正気/狂気
という区分が有効ではなく、
意識/無意識の二項対立が混乱してしまうようなあられもない世界の相貌。
大げさでなく私たちが見たのはそういう種類のモノだ。

そこから立ち上がる「理性」については、その瞳を凝らすための訓練が必要なのだ。





「山の学校」のラテン語入門講座を受講した(3)

2012年08月26日 21時27分44秒 | インポート
先生のお話(3)--------------------------------------------------

ラテン語の古典といえばカエサルとキケロ。

カエサルの『ガリア戦記』は言葉をそぎ落として無駄の一切無い表現が魅力。
反対に
キケロの文章は、1ページずっと「.」がないような息の長い一文があったりするのに、極めて流麗で、曖昧だったり意味が取れなかったりするところがが全くない、素晴らしい文学性を備えている。

一年しっかり勉強していけば、この二つのテキストにチャレンジすることが十分可能です。

キケロはどちらかというとギリシア哲学よりも一段低くみられがちです。
自分の節を全面に打ち出して主張するのではなく、多角的にそれぞれの視点を踏まえて文章を展開していく。
たとえば……

といって本棚から出してきて下さった本が岩波書店の『キケロ選集』第11巻
『神々の本性について』でした。

キケロは複数の哲学者の視点を設定して、総合的に思考を進めていく。そこにキケロの思想の特徴があるんです。しかも、自分の思想とは違った側にたって、そちらの方が説得力があるのではないか?というところにまで言及している……
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全く未知=無知の領域なので「へー、ふーん」とお話を伺うしかなかったのですが、
キリスト教以降の神という唯一かつ超越的なものに向かう感じよりは、むしろ「複数性」を前提とした議論の総合みたいなところにポイントがありそうにお話を受け止めました。

不肖の受講者ですんません。

でも、びっくりしたのはその後です。

京都から帰って来た日の深夜、玄関に積んであったアマゾンクリックの成果=残骸を夜中にごそごそと探っていたら、
『西洋哲学史』Ⅰ(神崎繁・熊野純彦・鈴木泉)講談社選書メチエ
の序文をぱらっと見たところ、

不干斎ハビアンは16世紀末から17世紀初めにかけて、神学や哲学を、しかもラテン語で学んだほとんど最初の日本人である。だが、学んだのは単なる知識としてではない……

という文脈で、日本人ハビアンの思想的背景に
「キケロの『両方の側から( in utramque Studiorum)』議論を見るという、特有の見方があるように思われる」

という部分が出てきます。しかもキケロ選集11巻、まさに山下先生の訳した『神々の本性について』の引用を前提にして。
「両方の側」から、という視点。

不干斎ハビアンは、イエズス会の布教の結果キリスト教を信仰し、仏教、儒教、神道をそれぞれ批判した挙げ句、キリスト教まで批判していくことになるのです。

その背景に、キケロが親しんだヘレニズム期の懐疑論があったのではないかっていう(神崎繁センセの)話です。

全くよく分からないけれど、面白い(笑)。
アリストテレスだけじゃないんだよって所だけでも、素人にとっては十分興味深いお話でした。

余談ながら、16世紀末に優秀な人材がイエズス会の宣教師として東洋の宣教に加わった理由として、16世紀半ば以降、スペイン・ポルトガルではマラーノ(改宗ユダヤ人)を公職追放したので、その結果日本に優秀な人材が宣教師として流れ着いたなんて背景もあるんだとか(『西洋哲学史Ⅰ』P3)。
それもまた、面白い。

スピノザも、その流れを汲んでオランダに移住したマラーノの末裔なんですよね。

そんなこんなで「ををっ」って感じが重なっています。





この夏、ラテン語入門講座を受講した。

2012年08月26日 20時11分14秒 | インポート

この夏、京都の「山の学校」(山下太郎)でラテン語入門講座を受講した。
8月18日19日の二日間、計6時間の初心者講座である。

なぜ今更ラテン語入門か?

理由1 お金の(あまり)掛からない老後の楽しみ
理由2 スピノザのテキストを原文と訳を対比で眺めたい。
    (原文で読みたい、と言い切れないのが心の弱いところ)
理由3 講座を口実に、フラフラ遊びにでかけられる。

まあ3,2,1の順番かな。

でも、とても楽しかったのでちょっと感想を。
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京都の夏は暑い。
福島だってそう負けてはいないが、お盆過ぎの京都はとにかく熱い。

鴨川沿い(正確には高野川?)のホテルから歩いて約30分。
16日の夜、大文字焼きの「大」の文字が見えた山のちょと北側の山を少し登ったところ、北白川幼稚園に「山の学校」はある。

いささかならず汗ばみながら階段を上ってようやく到着。
授業は教室ではなく、離れの一室で、とのこと。

集まった生徒はなんと2名!
一人(私)は東北から、もう一人の方は九州からの参加だった。

なんとも贅沢な講習になりそう。

山下太郎先生(北白川幼稚園の園長先生でもある)は大学でラテン語を教えていて、その後家業?の幼稚園の先生に。

生まれてからこのかた高校以外は左京区から出たことがないという生粋の京都っ子だ。

そういう先生が、地元の子供達(そして勿論私たちのような大人たちもなのだが)を育てていく、文化力の地層の厚さが垣間見える。

授業は生徒二人なので、中身は充実していて、かつ速度も速い。
練習問題は二人しか生徒がいないのだから、交代で解答しなければならないのが大変だが、3時間たっぷり休みなしの授業があっという間だった。

1,発音
2,アクセント
3,第一変化動詞
4,第一変化名詞
5,sumの現在変化
6,第二変化名詞
7,第二変化動詞
8,第一代に変化形容詞

第3変化の前まで。
まずは暗記すべき基本ルールを徹底的に、ということだろう。


活用変化を音読する→書き写す→暗唱する。

基本的にラテン語は無理に「喋らなくてもいい言語」なので、大人の独習には向いている言語だ。
そう思って取り組もうとしているわけだし。

だが、それにしてもまずは教わっておいた方がいいことはあるはず。
そう思って受講して正解だった。

名詞の第3変化、そして動詞のさまざまな時制による変化を学習するあたりから本当の「初級」が始まるのだろう。
その予感というか、まず入門を二日間で手ほどきしてもらった。

いろいろ興味深いお話も聞いたのだけれど、すぐにここにメモをアップしなかったせいで、大分忘れてしまった。

でも、いくつか印象に残った言葉があるので以下、メモ代わりに書き留めておく。

先生のお話(1)---------------------------------------------
語学学習には大きく二つの山登りの仕方があって、
一つは今回のような文法学習から入るもの。
もう一つはダイレクトメソッドといって、その言語をとにかく直接読んでいく中で習得していくもの。

後で調べたらアテネ・フランセのラテン語入門講座は、
Lingua Latina Pars 1: Familia Romana
を使ったダイレクトメソッド。

今の日本の英語教育は、どちらかというと文法優先のやり方から離れて、高校の新課程でも英語で英語を教える方法が取られていくようだ。

当然ながらどちらかだけでいいということはない。
大人が短期間で習得するには、文法学習が適していると思う。
ダイレクトメソッドはやはり時間が掛かるので。

ただし、一つ重要な点がある。

文法学習から入る語学は、その文法が本当にしっかり頭に入っていて使えるように常に訓練しておかないと、

「全てが崩れていきます」
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んー、ここがもっとも印象的だった。
そうですよねぇ(><;)。
頑張らねば。

教員のメンタルヘルス

2012年08月07日 21時28分58秒 | インポート
知人・友人たちの中に、「鬱病」で戦線離脱を余儀なくされる人が相次いでいる。

ここ一年のうちに知り合いの教師が四名も心を病んで現場を離れてしまった。

教員のメンタルヘルスの調査統計については、以下のデータを参照のこと。

教員のメンタルヘルスの現状
平成24年1月22日
文部科学省
初等中等教育局初等中等教育企画課
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/088/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2012/02/24/1316629_001.pdf

病休全体の6割以上を精神疾患が占めており、教員全体を分母としても全体の0.5%に達している。

0.5%精神疾患って、200人に一人ということか。

しかし、被災した教員の範囲に限って言えば、その比率では到底収まらない印象を抱く。
親しい人達の中でも、真面目で尊敬に値する人達が、精神的にしんどい、といってリタイアしていくこの状況は、普通ではない。

自分も他人事ではない、と思う。
仕事がうまくいかなかったり、忙しかったり、責任が重かったりして、その重圧に悩む、ということはどんな職場でもあり得ることだろう。

しかし、教師は「感情労働」の最先端にある。
管理強化が進む職場の中で、被災した裂け目を自分の存在でなんとか「普通」に保とうとして引き裂かれていくと、

「もうダメだよ」

という声は、リタイアした知人の心からばかりではなく、自分自身の心の中からも聞こえてくる。

特に、震災以後、みんながいっぱいいっぱいになっているときは、余計なことをせず、じっと身を潜める身振りも大切なのではないか。

3.11から一年半が経って、いよいよ精神的にしんどい時期になってきた、という思いは深い。

どこまでこのままやっていけるのか?
いや、むしろ、どうやったらきちんと戦線を縮小していけるのか?

四〇代、五〇代の教師は、日本全国正念場らしいしね。




東電は、事故後の記録映像を全面公開すべきだ。

2012年08月07日 20時49分07秒 | インポート
東電から、東京電力福島第一原子力発電所の事故直後の映像が一部公開された。

内部資料だから、公開するかどうかの裁量権は東京電力にある、というコメント付きでごく一部。
しかもモザイク。
さらに公式の事故調査が出揃った後での公開。

たいそう不満である。
事故原因の究明を国民と共にやりきろうという姿勢はみじんもない。
そういうことは最初から考慮の外、なんだろうね。

単なる私企業なら、それを消費者が判断して買うなり買わないなりすればいい。
でも、電力は事実上の独占企業。しかも半分「国策的」。

端的にいって、私(一人の福島県民=国民)は大層不満だ。

モザイクは社員のプライバシーを守るため、ともあった。
それは分かる。
裁量権がほとんどなく、命令によって動くしかない下っ端社員の一挙手一投足をあげつらうことだってマスコミは平気でやっちゃうだろうから。

でも、一〇〇時間以上あるものを数十分のみ、しかも編集後のものを、録画/録音を禁止して、期間を区切って一部のマスコミのみに公開するっていう手法は、多くの人が、情報の共有さえ厭い、渋々いやいや限定公開しているという印象を抱かざるをえないのではないか。

守秘義務を持ったしかるべきメンバーが観る、とか、数種類ある事故調に提出し、公開の基準を委ねるとか、未曾有の原発事故と真摯に向き合うなら、やれることはもっとある。

法律上、自分達の裁量の範囲内だ、と言っておきたい企業防衛の「欲望」が、こんな中途半端な「公開」を選ばせたのか?
そうかもしれない。

だが、これは極めて短期的な戦術として有効なだけだろう。
必要か必要でないかは、東京電力の裁量範囲ではなくなるべきだ。

刑事告訴の捜査範囲として、押収し、吟味するという方法もある。

ただ、刑事責任だけがこの事件の責任の全てでもあるまい。

ひたすら残念だ。国民がこの事件の課題を共有するために情報公開すべきだ、ととりあえず書き付けておく。


ホッブズ『哲学原論』渡部秀和/伊藤宏之訳の凄さ。

2012年07月29日 15時02分59秒 | インポート
週末、
『哲学原論・自然法及び国家法の原理』柏書房刊
(一冊本20,000円)



の訳者の一人と同席できる機会があった。友人の友人ということで、無理を言って一緒にお酒を飲ませてもらったのだ(私はとんぼ返りだったのでノンアルコールビールでしたが)。

実に面白かった。

17世紀半ばイギリスで思索と著述をしていたホッブズと、オランダで哲学していたスピノザ。
比較して話をしているだけで、いろいろな面白い課題・論点が次々と浮かび上がってくる。

この著作、訳業それ自体でも大きな価値があるのだけれど、仕事が実にクリアであるという点が、特筆に値する。

それは例えばこういうことだ。
中世のいわゆる「神学論争」の面倒くささ、不可解さの感触をビビッドに伝えてくれる山内志朗の『存在の一義性を求めて』なんかも同じ。

ホッブズの哲学の前提にある人間観、世界観が、この著作ではおそらくトータルな形では日本で初めて示されたことになるのだろう。
その訳のお仕事のクリアさは、今後ホッブズに関心のあるプロパーばかりでなく、一般の読者にとっても、大きな価値を持ってくるだろうと考えられる。

大体この厚さだ。そう簡単には読了できまい。
そして、これが本邦初訳だということは、哲学プロパーの怠慢をこそ意味しているわけだから、学者たちの評価だって高がしれているだろう。

手前味噌になるが、私のように17世紀の別の哲学者に関心があるような種類の周辺読者にとって、あるいは改めて今の日本において権力論、人間論、広い意味での社会哲学を組み立て直そうと志す者達にとってこそ、福音になるはずだ。

10年、20年たって真価が理解される仕事になるかもしれない。

それがこの福島の地から、この時期に(実際の訳業は10年以上の粘り強い営為から生み出されたものですが)世に出たことの意議も大きい。

誰にでも買って読め、と勧められる「物体」ではありませんが、図書館には入れてもらっておくべき一冊です。
内容については、じっくり読みながら、メディア日記にぼちぼち感想を書いていきます。
そちらも読んでいただければ幸いです。

書籍の「自炊」の話(4)具体的手順

2012年07月02日 22時23分24秒 | インポート
1,書籍の背の裁断

1、本の表裏の表紙2枚を鳥の羽のように広げ、その二枚だけを逆向きにして、表紙に繋がっている最初と最後のページを少し表紙から半ば剥がし気味にする。

2,裁断機の外側にその表紙二枚だけを出し、糊の付いた背のところを、活字にかからないように裁断すべく、調整してセットする。

3,背表紙がのり付けされているので、裁断機の刃が本に当たると、のり付けされた部分がゆがんで、後半のページが「逃げる」。すると、上の方の最初に切れるページは十分活字から離れているように見えても、後半のページは背表紙側に着いた部分が「逃げる」ため、油断すると裁断の線が活字にかかる危険があるので注意する。


4,裁断が終わったら、間に広告やしおりがはいっていないか、背表紙の糊付け部分がきりはなされているかを確認する。
万一のり付け面が残っていると、二重送りになったり、最悪はページがジャムって破れてしまうことがあるので確認は絶対。紙を捌いて、繋がっていないかどうかチェック。

5,スキャナをPCにつないで双方の電源をつける。

6,スキャナの差し込みトレイに、1回50枚~70枚(両面なので100ページから140ページ程度)を下向きの裏向きでセットする。このとき、ScanSnap S1500の場合、解像度はモノクロ150dpi程度で十分。少なくてもipadで読む分にはお釣りが来るぐらい。
 最初文庫本を知らずにカラー自動判別で読み取ったところ、黄色っぽい紙の文庫はカラーと認識されてしまい、前ページカラーの旅行ガイド並の100Mbyteにまでサイズが増えてしまった。
しばらくしてからそれに気づき、全部やりなおす結果になった。くれぐれも活字本の場合はモノクロでサイズ節約を心がけるとよい。

7,パソコンに保存する形式は、ScanSnapに着いてくるOrganaizerというソフトでPDFとして読み取る設定にしてある。
スキャナで読み取った画像は、「絵」として扱うことも勿論可能だが、1枚1枚バラバラの絵として扱っていては、書籍として収集がつかなくなる。PDFという形式は、複数枚を一冊のまとまり(本)としてあつかうフォーマットなので、これを選ぶこと。
 パソコンでも携帯でもタブレット端末でもPDF形式なら間違いなく対応しており、それを後で編集したり検索したり、手書きを加えたり、消しゴムで消したり活字をデータで書き直したりと、さまざまなソフトも出ているのでPDFに読み込むのが正解。

8,ipadの場合は、パソコンと違って本体に読み込みさえすればどのソフトでもPDFファイルが読めるわけではない。
 この辺は善し悪し分かれるところだが、ウィルスなどや内部の不整合を避けるため、同じPDFファイルでも、アプリケーションごとに読み込む必要がある。だから、基本どのPDFリーダーを使うのかは、選択のために時間を掛ける必要がある。
(ソフトによっては他アプリケーションで取り込んだPDFを閲覧することができる場合もある。そのあたりの手順も含めて、ipadは自分なりに決めておくのが吉。

アンドロイド端末の場合はもっと自由度が高いのかな?
触ったことが無いので分かりません……。

9端末について
 メーカー販売の電子書籍リーダーの場合は最初からソフトは決まっているのかもしれないので、そのあたりの使い勝手を選べる点ではipadかアンドロイドのいわゆるタブレット端末の方が有利。

 索引も自由に付けられるソフトもあるし、マーカーを引けるもの、上から手書きデータをかぶせられるものなど既に沢山ソフトがある。

 ただし、電子書籍リーダーは単機能だから重さは軽い可能性が高い。

 その辺り、安く提供されれば楽天やソニー、アマゾンのキンドルなど複数の電子書籍端末を手元に置くのも選択肢の一つ。

10読み取った後あとはPCにファイルができる。

 それを端末に転送する必要がある。方法は主に二つ。

 ア、evernoteとかDropboxなどのクラウドサービスにファイルを置き、ipadにダウンロードする。 
 イ、ipadをUSBケーブルでPCに繋ぎ、i-Tuneというソフトを立ち上げて、PDFリーダーソフトと関連づけをして、ipad側に転送する。

 アの方法は外出先でダウンロードできるという利点あり。
  だが、クラウドサーバーの容量は無料だと限界もあるので、必要なものをある程度絞って置いておく必要がある。
 イの方法は直接PCと繋ぐので、作業ができるのは自宅のみだが、転送は高速である。

 それぞれ一長一短あるが、比較的失ってはいけない大切な書籍データの場合は、PCにのみ置いておくよりは、クラウドサービスにも保存しておく方が安全。

11バックアップ
現在はwi-fiでもアクセスできる1テラのネットワーク接続のHDDが休眠状態だったので、PCとそのサーバーもどきHDD二カ所に書籍データを置くことにしている。


12ファイルサイズ
 文庫版の「差異と反復(上)」ジル・ドゥルーズ(河出文庫?)で30Mbyteぐらい。あ、結構大きいね。
 スピノザの「デカルトの哲学原理」で14Mbyte。
 なんだろう、新書の「上野先生、勝手に死なれちゃこまります」は6Mちょっと。文庫は意外と大きいなあ、ファイルサイズ。
 でも30Gで1000冊は入るから、十分ちゃ十分ですね。

現在とりあえずお試し4日間で48冊終了しました。


裁断自体は1冊2~3分。スキャンは5分程度。前準備や後処理もありますから、なんだかんだと今のところ1冊10分ぐらい。流れが掴めればもう少し速くできるようになるかもです。


ただし、スキャナが動いている時は片手間の仕事になりますから、webサーフィンをしたり、それこそ本を読みながら裁断した本のセットと排出処理をしていけばそれほどの手間でもありません。
このブログを書きながら、だったり(笑)。

今ざっと書斎の中の本だけを数えたら、800冊弱でした。平日の夜で10~15冊ぐらいは電子化できますから、休日頑張れば週に100冊ぐらいはいけそうです。とすれば、書斎の本の半分を電子化するのに、さぼりながらでも1ヶ月ぐらいあればなんとかなるってことでしょう。
まあ、蔵書全体となると数千冊にはなるんでしょうが、手元に残すのは書斎の本棚に入る600冊から700冊程度で十分(他に全集とかオールタイムベストの古典は別の場所にありますが)、と思い切ることができそうです。
のこりの数千冊を古本屋に出すものとスキャンをかけるものとに分けていけば、虫干しにもなるし、一石三鳥ぐらいにはなりそうかな(^^;)。

そういう「計算」が立つというのも、この本の電子化の副次的な利得かもしれません。

1324人の福島県民が東電会長らを告訴

2012年06月11日 23時17分30秒 | インポート
東京電力福島第1原発事故で被ばく被害を受けたとして、発生時の福島県民1324人が11日、東電の勝俣恒久会長や原子力安全委員会の学者ら33人について、業務上過失致傷容疑などで福島地検に告訴状を出した。(毎日新聞)
記事は下のURLで
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120611-00000073-mai-soci

いよいよ長い戦いが始まりました。

今後、最後まで注目していきたいと思います。

私は、被曝被害の責任が刑事的に問われないとしたら、この国に未来はない、と考えています。

東電会長や原子力安全委員会の学者さんは否認すると思いますが、刑事的責任を追及する必要があります。

「人為を超えたもの」をきちんと見つめるためにこそ、人為と自然との臨界面を法的にも明らかにする努力が、私達に課せられた課題の一つだと考えるからです。


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個人的には今回の原告には残念ながら参加できませんでした。
高橋哲哉氏の講演会でその動きは聞いていたが、行動が伴わなかったのです。
反省。
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國分功一郎 スピノザ入門第2回 (その2)

2012年05月23日 21時05分15秒 | インポート
國分功一郎 スピノザ入門第2回(その2)
を下のブログに書きました。
メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120522

『知性改善論』のポイントとなるところに入って来ました。
これを踏まえて7・8・9月は『デカルトの哲学原理』を中心に読むことになります。
よろしかったらこの夏、スピノザなどご一緒にいかがでしょう?

スピノザのテキストには、不思議なほど透明な「風」が吹いていると最近思います。


山が見えると落ち着く、という話を

2012年05月12日 15時56分53秒 | インポート
昔誰かがしていた。長田弘(高校時代を福島の盆地で過ごしていたはずだから、吾妻山を見ながらってことになります)のエッセイだったか、友人とのおしゃべりの中だったかそれも覚えていない。

たぶん高校生か大学生の頃の私は、その話にちっとも納得しなかった。
山は所詮山だろう。
その山に囲まれて狭苦しく閉塞感に満ちた盆地が懐かしくなるなんてことが起きるわけがない、そう思っていたからだ。

また、ご多分に漏れず、かつて山に住んでいる若い者がクルマを運転するようになると、「海に行こう」と人を誘うのが基本だった。
たぶん今はそんなことはしないのかな。
私は20代前半の頃、仕事が終わるとそこから深夜にかけて、女の子を誘ったり男の子同士だったりカップルだったりいろいろしたが、実によく「海に行こう」を繰り返していた。

御用達は双葉の海。請戸の海に何度いったことか。
今は警戒区域で行けないし、津波の直撃でほとんど何も残っていないそうですが。


だが、、今になって冷静に考えてみると、ただないものねだりをしていただけで、特別海が好きだったわけでもないような気もする。釣りとか嫌いだったし(笑)。
海によく行ったのは山に住んでいた頃だし、スキーを本格的に始めたのは、海沿いに住むようになってから。
ま、そんなものかもしれません。

でも、さいきん、ちょっと年を取ったせいか、だんだんあの吾妻小富士や安達太良も、そして磐梯山も、故郷福島の山々はなかなかどうしていいもんじゃないか、と思うようになってきた。

風景の中に垂直軸があると、心の構図が安定する。
景色は絵画とは違うけれど、そういうことがあるのかもしれない。

生徒が宮沢賢治の蠍の短歌をメモして持ってきた。合唱曲になっているのだとか。
ちとネットをうろうろしてみただけでも、宮沢賢治は蠍座のアンタレスを「赤い目玉」としていたく気に入っていたようだ。また、その赤を、他者への献身の炎に身を焦がす赤(よだかの星みたいですが)と捉えていたと書いている人もたくさんいた。
老後の楽しみにとってある校本(『宮沢賢治』)を今ひっくりかえしてみる余裕もないが、賢治のお気に入りの一つではあったようだ。

星座も子供の頃全く興味が持てないものの一つだった。
膨大な広がりを、勝手に人間が遠近を無視して平面上にプロットし、しかも恣意的に結びつけた名前など、バカバカしくて覚える気にもならない。
そう思っていた。

今となっては星座に限らず、モノの名前など到底覚えられない。
この前iPodにクラシックの二枚組CDを転送したのだが、手順を間違えて逆順のリストになってしまった。
楽章というかまとまりごとにその曲の名前を覚えたいのに、たかだか10曲程度の音楽とその表題が結びつかない。

名前など恣意的であってもいいのだ、と分かってきたのも最近だ。
「恣意的」かそうでないかを判断するその「思惟」の「恣意」を誰が判断するんだって話でもあるし、そういうグルグルからようやく解き放たれたということでもあるかもしれない。
まあ「恣意的」でないものは、神の意志以外には存在しないのだし。

いや、そもそも神に意志とか意思とかがあるとかないとかって考える必要も元からなかった。
そこにあることが即ち神なのだとすれば。

自然に対する「観照」の態度・姿勢が変わってきたのだ。「意識の価値」とやらの切り下げが、ようやくこの年になって起こってきたらしい。
「おそかりし由良の助、待ちかねた」
って感じだけれど、老後はぎりぎりセーフで豊かに過ごせるかもしれない。

相変わらずその豊かさはボケと取引されたものではないかと、切り下げられてもなお「意識」に固執する「自分」は不安を持ち続けてしまうのではあるが。

とにかく、山も海も空も☆も、自然がすべからく「まったき」姿を示してくれることに感謝しつつ。