いわき市民と、避難している双葉郡の方々との摩擦が昨日NHKの朝のニュースで報じられたと聞く。
大震災、そして原発事故から二年。
分割線はむしろ至る所、無数に生起しているように思われる。
スピノザが主著『エチカ』の第3部で最も分量を裂いて論じていた感情の一つが、「ねたみ」だった。
ねたみは他人の不幸を喜び、他人の幸せを悲しむことであり、そしてこれは自分と同等のものにしか感じない、とスピノザはいう。
別にスピノザじゃなくてもそのぐらいは分かるよね。
でも、繰り返し言及しているという意味で、スピノザにとって「ねたみ」は大きな課題だったに違いない。
東日本大震災以後の、そして東京電力福島第一原子力発電所事故以後の私たちにとって、この分割線が無数に生起し、それが露わになっている現象は、非常に重要なことだと私には思われてならない。
つまり、「自分と同等のもの」「自分と近しいもの」という感覚が、単に「想像力」によって広げられていくと、至る所にその分断線が、自分と他者との間に繰り返し巻き返し引かれてしまうのではないか。
私たちはすでにもう十分に傷ついている。むしろ「裂け目」は内側にこそある。どうしてそれを外側にまで保持して、異なるものたちとつながることができようか……。
「傷は一つでたくさんだ」
そう直感して自分たちを「守ろう」とすれば、私たちは「ねたみ」のために分割線を無数に引いていくことになるだろう。
無論だからと言って私は、私たちはそれをスピノザのように
「永遠の相の下に」考えればすべては自然の秩序そのものであり、個人の意志が入り込む余地がない
というハードな結論にたどり着くわけにはいかない。
分割線は分断線となり、無数の差異を自分の周りに煽り立てて境界線のバリアを張り、なんとか自分を保持しようとしてしまうだろう。それはある意味で自己保存のために必須の振る舞いでさえあるのかもしれない。
私はニュースを見ていないからそれこそ憶測でものをいってしまうが、「よそ者は出て行け」という信号はたやすく人の心をとらえるであろうことは、想像に難くない。
私たちはむしろ「想像力」がもたらす偏見の発動を、いやというほど見続けてきた。
こういう分断を「想像力の欠如」と捉え、「もっと想像力があれば」と考えてしまうと、たぶん問題を解決する方向には向かわないのではないか。
「理性」を伴わない「想像力」はむしろ人を隔てさえする。
むしろ、身近なことをリアルに感じるのは、理性を働かせつつ具体的なことの手触りを共有することの方が重要ではないか。
そして、私たちはその「理性」をきちんと育ててきただろうか、と自省せずにはいられない。
さてでは、その分割線を引かずに「絆」とかとぼけたかけ声をかけて済ませられるか、といえば、そうもいくまい。
擬似制度的な「共同体」の再編という物語につきあっていくことはもはや中期的には不可能だろう。
それは分割線の隠蔽と忘却を招くばかりだ。
分割線を無数に自分の周りに生起させようとする力を隠蔽するのではなく、そこから「間」にある人間の力、自然の膂力に触れる方法はないのか?
私たちはようやく、「近代」という舞台装置をその機能不全まで含めて生きるという体験をし始めたところである。
理性(1)の限界を嘆くのではなく、その分割線の生起する大きな一つの世界の動きと秩序に反応できる瞳を鍛えていこうではないか。
それが理性(2)を目指すことだし、その努力を重ねていく意味はあるだろう。
スピノザならそれを「直観」と呼ぶのだろうか。
よく分からない。
しかし、理性(1)のロジックの限界を自分の世界の限界としない、というメッセージだけは、確かにスピノザから受け取ったような気がしている。
「私の言葉の限界が世界の限界だ」(たぶんヴィトゲンシュタイン、かな)
という言葉は、逆説的に、ということは手のひらではなく手の甲で、世界の輪郭に触れていることの報告だろう。
それは、決して、「外部」との接点ではないのだ、とスピノザなら語るかもしれない。
いや、そんな「想像力」に頼るのではなく、身近なところから始めよう。
この連休は、とりあえず、その分割線が単なる分断に終わらないために、どんな言葉を組織しえるのかをもがいてみる時間にしたい。
もちろんそれはそう簡単なことではあるまい。
自分にできることだとも思わない。
しかし、それをせずに福島以後を生きる意味は、全くない、と私は、私たちは考えている。
何をどうすればいいのかさえ分からないけれど、始めてみる。そういうことだ。
大震災、そして原発事故から二年。
分割線はむしろ至る所、無数に生起しているように思われる。
スピノザが主著『エチカ』の第3部で最も分量を裂いて論じていた感情の一つが、「ねたみ」だった。
ねたみは他人の不幸を喜び、他人の幸せを悲しむことであり、そしてこれは自分と同等のものにしか感じない、とスピノザはいう。
別にスピノザじゃなくてもそのぐらいは分かるよね。
でも、繰り返し言及しているという意味で、スピノザにとって「ねたみ」は大きな課題だったに違いない。
東日本大震災以後の、そして東京電力福島第一原子力発電所事故以後の私たちにとって、この分割線が無数に生起し、それが露わになっている現象は、非常に重要なことだと私には思われてならない。
つまり、「自分と同等のもの」「自分と近しいもの」という感覚が、単に「想像力」によって広げられていくと、至る所にその分断線が、自分と他者との間に繰り返し巻き返し引かれてしまうのではないか。
私たちはすでにもう十分に傷ついている。むしろ「裂け目」は内側にこそある。どうしてそれを外側にまで保持して、異なるものたちとつながることができようか……。
「傷は一つでたくさんだ」
そう直感して自分たちを「守ろう」とすれば、私たちは「ねたみ」のために分割線を無数に引いていくことになるだろう。
無論だからと言って私は、私たちはそれをスピノザのように
「永遠の相の下に」考えればすべては自然の秩序そのものであり、個人の意志が入り込む余地がない
というハードな結論にたどり着くわけにはいかない。
分割線は分断線となり、無数の差異を自分の周りに煽り立てて境界線のバリアを張り、なんとか自分を保持しようとしてしまうだろう。それはある意味で自己保存のために必須の振る舞いでさえあるのかもしれない。
私はニュースを見ていないからそれこそ憶測でものをいってしまうが、「よそ者は出て行け」という信号はたやすく人の心をとらえるであろうことは、想像に難くない。
私たちはむしろ「想像力」がもたらす偏見の発動を、いやというほど見続けてきた。
こういう分断を「想像力の欠如」と捉え、「もっと想像力があれば」と考えてしまうと、たぶん問題を解決する方向には向かわないのではないか。
「理性」を伴わない「想像力」はむしろ人を隔てさえする。
むしろ、身近なことをリアルに感じるのは、理性を働かせつつ具体的なことの手触りを共有することの方が重要ではないか。
そして、私たちはその「理性」をきちんと育ててきただろうか、と自省せずにはいられない。
さてでは、その分割線を引かずに「絆」とかとぼけたかけ声をかけて済ませられるか、といえば、そうもいくまい。
擬似制度的な「共同体」の再編という物語につきあっていくことはもはや中期的には不可能だろう。
それは分割線の隠蔽と忘却を招くばかりだ。
分割線を無数に自分の周りに生起させようとする力を隠蔽するのではなく、そこから「間」にある人間の力、自然の膂力に触れる方法はないのか?
私たちはようやく、「近代」という舞台装置をその機能不全まで含めて生きるという体験をし始めたところである。
理性(1)の限界を嘆くのではなく、その分割線の生起する大きな一つの世界の動きと秩序に反応できる瞳を鍛えていこうではないか。
それが理性(2)を目指すことだし、その努力を重ねていく意味はあるだろう。
スピノザならそれを「直観」と呼ぶのだろうか。
よく分からない。
しかし、理性(1)のロジックの限界を自分の世界の限界としない、というメッセージだけは、確かにスピノザから受け取ったような気がしている。
「私の言葉の限界が世界の限界だ」(たぶんヴィトゲンシュタイン、かな)
という言葉は、逆説的に、ということは手のひらではなく手の甲で、世界の輪郭に触れていることの報告だろう。
それは、決して、「外部」との接点ではないのだ、とスピノザなら語るかもしれない。
いや、そんな「想像力」に頼るのではなく、身近なところから始めよう。
この連休は、とりあえず、その分割線が単なる分断に終わらないために、どんな言葉を組織しえるのかをもがいてみる時間にしたい。
もちろんそれはそう簡単なことではあるまい。
自分にできることだとも思わない。
しかし、それをせずに福島以後を生きる意味は、全くない、と私は、私たちは考えている。
何をどうすればいいのかさえ分からないけれど、始めてみる。そういうことだ。