龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

連休中、ブログをお休みしていました。

2012年05月10日 23時13分22秒 | インポート
連休中、2度青森を訪れた。
一度目は桜には早すぎ、二度目は満開を過ぎていた(たぶん5月1日か2日が弘前公園の満開だったのかな?)。

それでも十分楽しかった。
津軽平野は私の大好きな場所の一つ。

岩木山という独立峰に惹かれるのだろうか。

周囲をぐるりと巡ってその山を意識しながら走る。
そんなドライブが好きなのかも知れない。
岩木山がそうだし、富士山もそう。阿蘇山もそれに近い。
どちらも屋根を開けて、その山を身近に感じながら走ることができる。いずれも好きなドライブコースだ。

壁のように山が道路の先に立ちふさがっていると、向こう側にいかなきゃならない。
でも、その道は往々にして半年ぐらい道が雪でふさがれていたりする。
山越え、峠越えのドライブもそれはそれで楽しいけれど、ゆっくり流すにはチトきつい。

のんびりとオープンクルージングを楽しむには、どこからみても山を自分の近傍に感じることができるのがいいのかもしれない。

それに、道の駅。
大鰐弘前のI.C.を降りてすぐの弘前の道の駅は「なかなか」のものなのだ。

ゴールデンウィーク過ぎまで、1個50円のサンふじ(りんご)を売っている。
そしてこれが旨い。

地元のおじいちゃんが買いに来る。そして店の人も、
「あと二週間でもうおしまい。買えんならいっぱい買ってぃきな」
なんて地元の人と会話している。

そんな道の駅だから、地元の野菜もいっぱい並んでいる。
品揃えのために他県の野菜も並んでいるが、逆にいえばだから、地域の台所としても機能しちゃう。
一見客向けの観光物産館、じゃないのだ。
青森県にも他にたくさん道の駅があり、それぞれに特徴があって楽しいけれど、いつ行ってもこの道の駅の集客力には脱帽する。

道の駅的な地元産品直売系のお店の売上は、コンビニ顔負けだったりしてね。
私はすっかりリピーターになってしまった。

道の駅は、まりだすとこれはこれでおもしろい。
八峰で買った椎茸は焼いて食べたら美味しかったとか、その弘前の1個50円のサンふじがいいとか、塙の道の駅で売ってた餅つきイベントのお餅が絶品だったとか(長芋もうまかった!)。

今年からは、クルマにシェラフを積んで道の駅ツアーでもしようか、ともくろんでいる。
キャンプとか大げさなものではなく、気軽にたどり着いたところで寝倒れ車中泊の旅、である。

こういうとき、ロードスターのオープンエアーの気持ちよさを取るか、後席フラットで寝やすい快適性のレガシィを取るか、が極めて悩ましい。

オープン2シータ-の決定的な弱点は、人や荷物を積めないことではない。
問題は、クルマで寝るのが極めて難しいことなのだ。
一度福島から松江までノンストップドライブをしたとき、夜中東名高速のPAで仮眠を取ったのだけれど、これが辛かった。
一時間と続けて眠れないし、なにせ身体が固まってしまう。

目的地に着いてからはオープンが楽しいに決まっているんだけどね。

それに対してワゴン車はシェラフとマットがあれば、ほとんど苦にならずに睡眠が取れる。
道の駅ならトイレもあるし、場所を選べば風呂にも入れる。
もっともお風呂は最近、どこでも日帰り温泉サービスをやっているので、存外お風呂には困らないようになってきた。

というわけで、連休中は活字を離れて福島-青森を二往復。

でも、本当は、ドライブにとって目的地が目的、じゃない。
どこでもない場所の「自由」は、走っている最中のクルマの動きの中にこそ、ある。
道の駅は、その中のちょっとした結節点、といったところだ。

息継ぎをしながら、その結節点を跨ぎ越して旅を続けて行く。

最近はまっているレゲエ系?の歌い方をするLecca(烈火の如く、の「レッカ」から由来するネーミングだとか?)の曲にも同じようなテイストを感じる。
スクエアな拍を跨ぎ越して、音楽の「現場」が広がっていくような印象の歌なのだが、ドライブの醍醐味の一つに、その「点を跨ぎ越す」感覚があるように思う。

もちろん、高速道路をひたすら走るだけのドライブよりは、ワインディングロードをひらひら運転した方が楽しいことは間違いない。
でも、一見修業もしくは労働に等しいクルマの道行きにも、実は日常と、そこを離れた遠い目的地との「間」の、どこでもない場所でリズムを刻む楽しみが確かに存在するのだ。

そんなこと、感じない人が多いと思うけどね(笑)。

私自身、もし後部座席に乗っていたら、長距離ドライブは睡眠のための時間に過ぎないかもしれない。
それでも、なお、移動している間のこの感じは、何か心に訴えるものがある。
ゆっくりそんなことも、また考えていきたい。

そんなこんなで、ようやくブログ復帰です。

「スピノザ入門」第1回 (その5『知性改善論』の方法論

2012年04月10日 22時57分11秒 | インポート
「スピノザ入門」第1回 (その5『知性改善論』の方法論)

のメモをメディア日記にアップしました。

朝日カルチャーセンターでの國分功一郎氏の講座のメモ。
講座は年間12回が予定されている、その1回目です。
例によって不正確な忘備に過ぎませんのでそのつもりでご笑覧を。

レガシィ納車!(その1)

2012年04月02日 12時47分56秒 | インポート

インパネ付近からビビり音……。

3/30日金曜の夕方
レガシィツーリングワゴン
2.5LNA B-SPORTS G パッケージ
が納車になり、そのまま松島まで220km走った。

走り出してすぐにがっかりしたのは、プラスチックのインバネ周りから絶えずビビり音がすること。

新車時のヒビリ音は一番の興ざめ、幻滅の対象だ。


4年たった軽自動車だって、8年もののオープンカーだってこんな風にプラスチックがびびったりしない。
レガシィ恐るべし(笑)

まあ、たまたまなんだろうけれどね。
でも、私にとってはそれが全て。
残念ながら、レガシィの内装はその程度のクオリティでしかない、ということだ。

ともあれ早速帰ったら調整してもらおう。
必ずしもチープな内装、とは思わないが、こういうところはちゃんとしておいてもらいたいですね。



『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(3)

2012年03月21日 00時37分03秒 | インポート
メディア日記「龍の尾亭」に『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』のメモ(3)をアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=36e22760a1ff6e155f2c60275273e1df

いよいよ千葉雅也氏の博士論文のさわりのところに入ります。

繋がっていくドゥルーズ

離れていくドゥルーズ

その二つは、「しすぎてはいけない」という「間」の感覚で連関しているっていうお話。
面白いです!


10年春新卒者、半数以上就職できず、の記事

2012年03月21日 00時27分17秒 | インポート
NHKでも昨日から報道していたが、毎日JPに下記の記事が。

雇用:10年春新卒者、半数以上就職できずまたは早期離職(毎日新聞3/19。【宮島寛】)


http://mainichi.jp/select/seiji/news/m20120320k0000m010058000c.html

ここ数年の実感にきわめてちかいです。
本当に深刻に考える必要があるなあ。

たぶん、「正規雇用」=「雇用」っていう考え方じゃもう対応できないんでしょうね。
企業が擬似的な共同体として「国民」を支えてきたシステムはもう、存在しえないわけだし。

だからといって、年金も福祉も雇用も全て今の「国家」が賄えるはずもない。

そのジレンマが「消費税」あたりに吹き寄せられてくる、のかもしれません。

年金にしても、医療保険にしても、その他の社会保障にしても、私達自身が社会の中で労働することが前提になっているはずなのに、その働きたいという入り口で社会が門戸を閉ざしていたら、どうにもならない。

とにかく、基本私達が安心して生きられる=働ける状況じゃないとダメだよねえ。

それにしても日本人は「大変」病にかかっていてかつ「動けない」病にもかかってるからやっかい、ってかんじがします。
日本人、なんて偉そうなことを言わずに、自分が、というべきかな。
なんか「大変」そうで、「身動き採れない」感じに縛られている。
この「閉塞感」の方が、実際の危機よりも危機かもね。

っていうか、そういう「閉塞感」みたいなことが経済的・政治的危機の結果じゃなくて原因になっていたりして……。

んー、難しい。



『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』のメモ(1)

2012年03月20日 00時39分58秒 | インポート
メディア日記「龍の尾亭」に『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』のメモ(1)をアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120319
ドゥルーズの息づかいがぐっと身近に感じられる素敵な対談(3/17朝日カルチャーセンター新宿)でした。
かつての80年代ポスト構造主義流行という枠組みにとどまらない、21世紀におけるドゥルーズ読解の現場の匂いをかがせてもらったみたいな楽しさです。

よろしかったらごらんください。
雰囲気が少しでも伝われば。



Facebookの写真、スマホの画面だと眼の焦点が合わない……

2012年01月27日 22時41分57秒 | インポート
今、久しぶりにFacebookをうろつき、知人の写真をよく見ようと思ってダブルタップしたら、全然瞳の焦点が合わなくて、良く見えない。メガネを外してもかけてもダメ。
かなりショックですぅ……※
そのためにわざわざPC立ち上げる気はしないし。
もういい加減にiPadを買えということか。
しゃ~。



ニッポンのジレンマ(Eテレ)再放送1/8を見た。

2012年01月09日 00時35分55秒 | インポート
これを見ていたら、何が面白いのか皆目見当がつかずに途中で放り出していた
『リトル・ピープルの時代』宇野常寛
を再読しようと思った。すばる2月号の対談『個人と世界をつなぐもの』(國分功一郎×宇野常寛)を併せて昨日読んでいたことも大きかったかもしれない。

個人と世界をつなぐものは、私は端的に言えば「人為」だと思っている。
もちろん、個人の認識も、世界の認識も、個人に対して現象するものだし、理性の中で起こる閉じられた事象、という側面もある。
逆に、個は常に「アフォーダンス」的に多数の身体を環境の中で持つものだし、それは動物的次元においても社会的文化的次元に於いても様々に錯綜した関係を構成しつつ多層なレイヤーの集積として初めて「個」も「世界」も成立する、という側面もある。

私は個人的に
「人為」が大きな裂け目を見せた3.11の出来事のの中で、飼い犬と父親の死も重なり、

 個人→(動物的→存在論的→社会的)→世界

という、個人と世界との間にある、①動物と②実存と③人為(=社会)との三つの側面から中間領域を考えてみなければ、という主題を背負った。

そういう意味では、宇野常寛のいう「拡張現実」は一読してどうにも平板であり、かつ村上春樹を対象として今評論を書く意味が分からず、仮面ライダーにもガンダムにもAKB48にも関心があまりない53歳としては、とりつく島もない状態だったのだ。

だが、改めて宇野氏の発する言葉を聞いて、あるいは國分×宇野対談を読んでいるうちに、もう少し丁寧に追いかけておくべきなのではないか、という思いが強くなってきたのだ。
自分が福島の事故においてスティグマを背負ったという自覚は、自分の内面に傷というか襞を生じさせる。
だが、一方それは、都会から出版されたり発信されたりする言葉や表現については、どこか一面的平面的な印象を持ってしまう危険を増大させもする。

まあ、実際そういうモノも多いんだけどね。

正直、そんなこんな宇野氏や東氏の言葉は、直ちには自分の中に響いてこなかった。

でも、性急に自分の中だけを探るのではなく、少しディレイをかけるというか、テンポを変えて読む、あるいは掌の上にそれらの言説をのせて転がして見ていると、幾重にも折り重ねられた屈折や屈託があって、その上で「敢えてする」表現が乗せられた形で手渡される、ということがあるのではないか、というぼんやりした「感じ」がある種のリズムとして、あるいは手の中に生じてくる感触として感じられるようになってきたのである。

個人的には「國分効果」ととりあえず呼んでおこう(笑)。
差異を「本来性」によって排除せず、「浅く触れ続ける」(たぶんロラン・バルト)感じとでもいえばいいだろうか。

結果、未読ラインナップに再度挫折していた『リトル・ピープルの時代』を再掲せねばならなくなってしまいました。

ふぅっ。
書き込みしている暇に読まねば!


P.S.
萱野さんもカッコ良かったです。『ナショナリズムは悪なのか』は好著でしたね。面白かった!
でも一つ疑問を抱いてもいるので、それも忘れないうちに書いておかなくちゃならないんだけど、それもまた後で。ああ宿題ばかりが増えるなあ。

つまりは、ナショナリズムで吹き上がる底辺労働者のような意識すら持たずに、「土人of 土人」というか「キングof無関心」というか、AKB48かパチンコかモバゲーかってところで生きる人々をどう考えるか、なんですけどね。
識字率は高いのに革命起きないみたいな(苦笑)。
まあ、齋藤環だかが指摘していたように、親の資産があるから社会に参加しないで引きこもれるって側面もあるんでしょうが。
そのあたり、もう少し考えてみたいです。






TBSラジオ・Dig. 神保哲生さんと萱野稔人さん、金平茂紀さんの新春座談会。(You Tube)

2012年01月09日 00時08分56秒 | インポート
を聴いた。面白かった。
今日は、まず、萱野氏が「ニッポンのジレンマ」でもいっていた民主主義の課題に反応しておきたい。
3.11について、大きな「切断」(金平)と捉えるよりは、今まで連続し、実は自明であったものが露わになった(萱野)という方に立ちたいですが、それは別にat10の開沼論文について触れるところで書きます。
萱野氏の指摘---------------
民主主義には二つの側面がある。
1当事者性の担保
2人気投票(利益誘導)

でも、現在は20世紀型の成長路線の戦後処理、マイナスの分配を政治がやらなければならなくなっていて、1・2ともに機能不全に陥っている。
たとえばEUの中ではギリシャ・イタリアのトップが首を切られ、官僚や学者が次のトップになって敗戦処理をさせられているのをみても、もはや今までの「政治家」が利益誘導による人気を取る余地はないし、民意によって政策選択をする余地も少なくなってしまった(誰がどうマイナスの資産を負担するか、という話になってしまったため)。
政治家は、不人気政策ができない。公平なマイナスの分配は官僚的・学問的・機械的にならざるをえない。

お金がない+政府の正当性が欠如=民衆の次元での不満増大
--------------------------

これ、とっても納得がいった。
これがとっても暗い話に思えてしまうのは、「成長戦略」の夢をつい目線が追ってしまうから、だろうか。

成長すれば全ては解決する(坂の上の雲認識)VS成長神話からの脱却(坂の上の坂認識)
というのは、今日の朝日新聞の一面にある
前原VS枝野
みたいな話になりそうだが。

私は極めて個人的には「成長戦略」が採れればそれに越したことはないと思うけれど、国民の一人として53年間「成長」とかに資することなんて全くやってこなかったので、もし仮に「成長」なんてことがあるとしたら、私とは全く関係ない場所で起こることに違いない、と確信している。

だから、正直「成長戦略」なんて知ったことではない。私にできることはない。何かしようとも思わない。
そんな形で天下国家を論じたいとも思わない。

私はそんなこととは関係なく、山で穴を掘って暮らしたい。

だが、安富歩も指摘するように、自立を目指して他者への依存を拒否していくと、最後に拒否しきれない依存が残ったとき、それに対する固着・執着・依存の比率が大きくなって、取り返しのつかないことになる。
社会から隔絶した状態で、山で穴を掘って暮らすことなど、実際にはほとんど不可能に近い。

だから、むしろ「浅く触れる」出入り可能な社会システム・環境を構想したい、という関心ならある。

だから興味があるのは「中間領域」ということになる。
グローバリゼーションだの国家だのいきなり言われても挨拶に困る。

ただ、自分と世界が適切に接続・連結したり、時には関係を解放したりする仕組みは、絶対に必要だと思うし、人間が社会を営んで行く動物である限り、いや、人間が動物である限りにおいて、環境世界の「可能性条件」とどう向き合い、その中での自己に配慮しつつどう生きていくか、は大きな課題だ。

そういう意味で、迂回路を通ってではあるけれど、自分の生きる環境を常に捉え直し、その中で常に生きている間は動き・変化しつづけるであろう自己と環境の関係を顧慮して生きられる世界のシステムが欲しい。

今日のこの対談でもちらっと触れられていたけれど、民主主義がクローズアップされる前に産業革命がまずあって、成長していくことを前提に資本主義と民主主義はシンクロしてこの数世紀「生きてきた」のだとすれば、近代の見直しを、かつて80年代きわめて「狭い」ところでやっていたポスト構造主義のような袋小路じゃなくて、もっと柄の大きな数百年単位で捉え直すことが必要なんだろう。

水野和夫と萱野稔人の『超マクロ展望 世界経済の真実』の、大きな(ある種ホラ話のようでもあるけれど)スパンでの視点が必要だという指摘とも重なる。

中世→神学あたりの匂いも嗅いでみたくなるというものだ(苦笑)。

さて、ではどうするか、なんて考えてもよくは分からないけれど、國分功一郎がスピノザ・ホイヘンスを参照して、デカルト・ニュートン的な世界像を見直そうとしているのも、うなずける。

安富歩はちょっと表現が「過激」だけれど、自分達の足下を支えてきたロジックを問い直す、という意味で「東大話法」
という言葉を敢えて挑発的に用いている。
「拡張現実」(宇野常寛)、「一般意志2.0」(東浩紀)
もまた、幾重にも屈折を抱えつつ、なおも個と世界の関係を「社会」や「言語」や「宗教」や「倫理」において問い直そうとする3.11以後の営みという点では通底するところがあると思う。

一度にいろいろなことを考えなければならなくなっていて、毎朝それだけで脳味噌が溢れそうだ。

頼まれもしないのに。

でも、今年も書いていこうと思う。
他に趣味も特技もない私にできることは、こうやって言葉を線状的にだらだらと吐き出しながら、その場その場で考えていくことだけだから。



大澤真幸×佐々木敦トークセッション、面白い!

2012年01月06日 22時13分44秒 | インポート
今、「テン年代のリアルとは?」大澤真幸×佐々木敦トークセッションを聴きました。
面白い!佐々木氏の『未知との遭遇』出版記念イベントだそうです。ジュンク堂ポッドキャストで公開中。
まだ本を読んでいないのに、読んだ気分になっちゃいました(^^;)。

他にも
「未知との遭遇は如何にして可能か?」千葉雅也×佐々木敦


も、まだ聴いてませんが、おもしろそう。よろしかったらぜひぜひ。

2011.12.24(水)

2011年12月25日 13時03分24秒 | インポート
10:00
朝から郡山市立美術館『歌川国芳展』を観に来た。
武者絵、面白い。
版画なのだから、基本は線と面によってベタに表現されているはず……なのだが、横に三枚並べて刷られたセットの組み絵は、躍動感に溢れている。

かつまた筋肉の細部までこだわった描写と、時折見せる吹きかけられたようなボカしの「硝煙」の表現、さらにはベタな絵というよりデザイン的な虚構性を孕んだ絵たちの画面は、動き続けている力の表象とでもいうべきものになっている。

不思議な力感の魅力に溢れた作品群。

鯨やら骸骨やらの奇想溢れた前期の展示を見逃したのは残念だが、森アートギャラリーだかで2月までやっている別の展覧会でいくつかは見ることができるだろう。

12:00
昼、山の中のパン屋さんで昼食用のパンを買おうとしたらクルマが縁石に乗り上げ、危うく走行不能状態に。
幸いすんでのところでガリガリ車体とコンクリートの擦れる音を立てながら脱出……。
修理費を考えると凹むなあ。

13:30
そこからアウトレットへ行き、家族は買い物。
私は貴重な読書&ブログタイム。

買い物圏域から離脱することができないため、むしろテキストと向き合うには他に選択の余地が無い分好都合。
かえって仕事が進んだりもする。

というわけで積ん読だった
東浩紀『一般意志2.0』を読み始める。

大震災「前/後」の区切り方についての東のスタンスには疑問があるし、この今読んでいる本の方向性にも同意はしないが、ルソーの「一般意志」に遡って「個人」を超えた政治について論じようとする姿勢には納得。

別に過去の哲学や著作作品群の引用をしなきゃならんわけではないが。

問題はどんな道具を調達し、それによって「今」を分析し、どう使用していくかの姿勢と方向性。

ほのめかされているように多分ネットワーク状の一般意志みたいな落としどころになるのだろう。
『ised-情報社会の思想的視座』
から続くアーキテクチャ優先論でしょう。

ただ、宮台のエリート主義とは違うが、階層的というかネット「地域」代表的匂いがして、今ひとつおじさんはついていけない。

まあ、齋藤純一や大澤真幸、アーレント ハーバーマスを参照してるし、その困難を踏まえてはいて、響き合ってはいないけれど「敢えてする」議論という点では共通しているかも?

私は、たぶんこの方向の議論には相変わらず納得できないかもしれない。

たとえツッコミどころ満載であっても同じ敢えてするなら心情的にはアーレントの議論のほうも拾っておきたい気がしてしまう。

けれど、この東浩紀のお話は、これはこれとしてしっかり聞いて考えねばなるまい……ともかんじるのだ。

というわけで、また本に戻る。

19:30『一般意志2.0』を半分ほど読んだところで佐野出発。

とりあえずルソーについても少し勉強せねば、と思う。
でも、公共性とか一般意志とかについて考えるとなれば、私はやっばり「神」のところから考え直さないとピンとこない。

というわけで、年末、またどうしてもスピノザについて考えねばならなくなっている。


それはだから「表現」の問題なのだ。

2011年12月23日 08時39分18秒 | インポート
ソウオモッテ寝床から抜け出した後、
ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』
を思わず手にとった。

何度読もうとしても読めずにいた本の中の一冊。

まず
本質-属性-様態
とかいう用語から勉強し直さなきゃならないみたいな切なさ。

面倒くさい……っていうか、よくわからん。

でも、人為の裂け目にこだわるとすると、ここは避けて通れない道だ、と思う。

別にそれは何がなんでも
スピノザでなければならないというわけではない。
ドゥルーズでなければ、ということでもない。
多分中世キリスト教から考えたって構わないのだ。
今ここにまだ見えている「近代」の自明を疑うために「/」を参照することは出来ない、というだけのとこだ。

とにかく、裂け目に瞳を凝らし続けるのは容易じゃないってことだけはわかっている。

見なければ取り違えだって交換可能だ。
だが、裂け目に瞳を凝らす行為は、その向こう側にたやすく自然とか神様とかをはじめとする何かを
招き寄せてしまいかねない。
それでもなお、そこをみようとするときには、哲学が必要になる。自分にとって手近に転がっているのがそれらだ、というだけのことかもしれない。

まあとにかく、取り敢えず冬休みの課題図書は決まったようである。