龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

社長の報酬公開の流れ

2010年06月23日 21時49分38秒 | インポート
今日のニュースを見ていたら、一億円以上の役員報酬を得ている人の金額が公開されていた。
自分の生涯賃金の何倍もの報酬を一年で手にする勤め人、というのは想像の外だけれど、遺産とか資産の相続よりは納得できるかな。
社長とかは運と能力とチャンスだからねぇ。


もちろん教育とか就職とかだって親のストックに大きく左右される。
けれど、まだ本人の力、みたいな部分もあり、また本人が大きな責任を背負って仕事をしてることは間違いないし。

あとは公共的なるもの、に対する感度の高さ、低さ、が割と問題。
大企業の経営者の給料がプライバシーだ、とか簡単に言ってしまうどこかの社長(テレビに出てた)は、センスないなあ。

でも想像の外にしても、年3億円(宝くじ)以上は日本的にはなんかぽかんとするね。
たぶん自分の上司だって1000万いってないぐらいだとすると、その30倍を越えると、個人の仕事の密度としてほんとに妥当なのかどうか。

仕事の規模からいえば平社員の何百倍でもいいけど、人間の能力は、仕事の規模に比例するわけじゃないんじゃないかな。

ま、経済の話だからわからないけど、会社トップの給料を決めるのがそのトップ自身だとすると、今いち納得はしにくいかなあ。

スポーツ選手は記録や成績だからいくら高くても納得だけどね、その人しか絶対できないんだから。
経営者の能力って、どうなんだろう。
ビルゲイツとか、スティーブンジョブズとかだったら高くても納得ですが。

実のところ、自分の給料が本当に妥当なのかどうか、わからない。
あるいはこの倍が妥当なのか、もしくは半分が正当なのか。

しかし専門職が30年働いて控除後の金額550万強。どうなんだろうね。
そんなに専門性があるのかって言われると「?」だし。
そりゃあ新人さんよりはたしかに力があると自分でも思う。
でも、専門性なんて、所詮状況によるもんなあ。
適応力を失った専門家ほど始末の悪いものもない。
経験を状況に応じて生かす「力」があるかどうか。人間力次第、なんだろうね、結局。

社長も同じか……〓
今は、経験を積んでも給料は下がり続けてるから、仕事があるだけ有り難い、と思うべきか。

いや、力があるなら、堂々と評価を求めるべきだし、ポストを求めるべきなのかもしれないね。

これからは、そういう方向と、逆に評価や対価を敢えて求めないか、二極化するのかな。

私はむろんそろそろセミリタイアしたいクチ、ですが(笑)。


梅雨らしい雨だ

2010年06月23日 11時25分38秒 | インポート
ほんの向かい側の丘でさえ、細かい雨粒のベールに隔てられて薄ぼんやりと見える。
雨樋を伝って落ちる水の音だけは威勢が良いけれど、地面はしっとりと濡れていて、表面に打ち付けるほどの雨足ではない。
梅雨(つゆ)という言葉を持たなかったら、やはりこれも温帯モンスーンの「雨期(いや雨季か?)」とでもいうことななってしまうのだろうか。
いや、それが悪い、というのではない。

でも実際ははっきりときめにくく、後から気象関係者が宣言しなおしたしする程度の「入梅」や「梅雨明け」だとすれば、それは気象現象であるだけではなく、私たちの世界に対する姿勢、作法、態度の問題でもあるだろう。

8月も半ばなってから「実は梅雨は何日まででした」
とコールされるぐらいなら、最初からそんな宣言は要らないよ、と、忙しい朝のニュースに文句をいってしまいがちだ自分はたしかにあるにしても、ちょっとゆとりを持って考え直せば、やっぱり「時候の挨拶」
ほどの儀礼的硬直性を煙たく思うよりは、やっぱり何時梅雨があけるのか、日本中で話題にしてもよいのかもしれない。

そういえば、山菜が最近好きになったのと同様、手紙の「時候の挨拶」も、若い頃より抵抗が少なくなった気がする。

そういえば若いときは、なんでも「自分」だった。麦秋(ばくしゅう)だの啓蟄(けいちつ)だのと、ふだん使いもしない言葉で紋切り型の定型文を連ねる人の気が知れない、と思っていた。
だが、そういう思いが消えたわけではないが、そういう、自分からみた「世界の開け=開闢」の限界から外に配達されるべき「手紙」に、定型の殻が伴っているのは、ある意味当然なのかもしれない、とも思うようになった。

こうやってぼんやり物思いにふけっているうちに、見えなかった向かい側の丘が、うっすらと窓の向こうに輪郭を現してきたようだ。

この梅雨を、千年前の中古の人もおなじように「ながめ」ていたのだろうか。