龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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経済について考える(3)

2010年09月06日 23時23分45秒 | 社会
経済について考える(3) 

ちょっと横道にそれて、公務員給与水準の引き下げについて妄想してみる。

たとえば、今は公務員バッシングが盛んだ。
これは公務員以外の人はほぼ全員賛成する話題で、その図式自体はルサンチマンのはけ口みたいな道具になっている側面もあって、そのフレーム自体はいただけない、と思う。

私も末端の現場作業員とはいえ公務員の端くれだから、公務員の給与水準は民間より平均年ベースで200万円高い、という報道などを見ると、ああ明日から公務員の給与を200万円下げればいいのに、って、公務員以外のほとんどの人は思うんだろうなあ、とちょっと想像し、正直げんなりする。

資格のある専門職として30年やってきた経験からいって、とりあえず平均が違うんだから給与を200万円下げておけ、と言われて黙って引き下がるわけにも行かないしね。

しかし、そう突きつけられなければ、仕事をしてもしなくてもその平均水準の差はそのまま維持されていくこともまた、確かだ。

以前なら、人事院勧告は労働権の制限があったから、ほぼ「聖域」に近かった。しかし、今は労働組合が正規雇用の既得権益を守る硬直した団体、という文脈で捉えられているとするなら、その権利制限などという裏書きは、あってないも同然である。

ではいったい、公務員の正当な労働の評価は、どんな形でなされるべきなのだろうか。

池波正太郎は、「公務員なんてものは給料をたくさんもらったらダメなんだよ」と鬼平がらみのことでコメントしていた。

私も、自分の給与水準が下がるのは本当に困るけれど、公務員の給与を一斉に今の7割ぐらいにしてみるのは意外に面白いと思う。

そうなったら、仕事が好きじゃない奴はあきらかにあぶりだされてくるはずだ。
やっていられない、となって、有為な人材の半分は転職していくかもしれない。

残りは、圧倒的に力のない公務員のカスと、圧倒的に仕事が好きな公務員ヲタクが共存する、戦後すぐのデモシカ時代が擬似的に再現されるかもしれない。そしてそれは、必ずしも悪いことだけじゃない。
もしかすると、「給料も安いし、文句があるならいつでも辞めるよ」、っていうノリが、教育の「自由」の確保のためには大切かもしれない。
むしろ中途半端に安定した給料を取り払って、低いペイと高い志の方が、仕事は面白くなるのじゃないか。

その代わり、余計な仕事は一切なしで、勉強を教えることとか、生徒と遊ぶことに集中させてほしい。中途半端な100万200万を失う代わりに、好きな教育だけができるんだったら、安いものじゃないか……。

そんなことは、脳天気な無責任発言だろうか。

でもじゃあ、公務員たちは、自分の仕事がその給与水準で妥当だと、どうやったら証明できるだろう?
おそらく、それは無理な相談の部分が大きい。
公務員の仕事は、民間企業のようにはお金は稼げない。公共的な仕事はそろばんに乗らないことも多いからだ。

たぶんそれは現場の私たちによってではなく、きちんとした学問的裏付けのある公共事業学のシミュレーションによって判定されるべきことかもしれない。

だが、民間の企業とは違って、公務員は最初から「全体の奉仕者」という立場を職業として選んでいる。
公務員こそが、新しい「公共的なるもの」に対する敏感な精神を養って積極的に社会に向けて提案していくべきなのではないか?
たとえば教育にしても福祉にしても、手厚い市民サービスというのは、単なる一律のお仕着せでは本当に価値あるサービスにはならない。

といって、コストを上げては元も子もない。
アタマを使ってぎりぎり絞り出すように、他者が必要とするボールを投げることが公務員にどれだけできるか。

世迷い言も休み休み言え、と言われるだろうか。

ではだが、貧乏人の嫉妬を利用し、溜飲を下げるためだけの道具に公務員改革を利用するのでないならば、誰もが納得のいく公務員改革(霞ヶ関とかはどうでもいい。現場作業員の先端部分における公務員の硬直化をどうするのか)は、どんな形で行えばいいのか。


「シャドウワーク」(今時はそういう言い方ははやらないのかな?)を担うモノたちは、そんな「宗教的」ともいえる「公共的なるもの」を志向する他者への姿勢を持つべきだし、ポケットに入るお金の金額ではなく知恵を出していくことが快楽であっていいのだと思う。

公務員というのは本来、そういう「生き物」であっっていいのではないか?

それをやったら公務員も開き直れるし、市民もサービスの精選・厳選に納得がいくと思うなあ。

実は教育の現場なんかでは、超非正規雇用化(正採用の減少と講師採用の一般化)が進行していて、早晩それが現実になるんだけどね。
30人学級の実現ってことは、正規採用を止めて多くを非正規雇用にするってことだから。

スーパーは店長以外はパートかバイト、だけれど、学校も主任以外は基本講師っていう風になっていくのだろうね。
それでいい、とは言わないけれど、そういう形で時代の変化においついていく以外にないのだろうと思う。

地方の予算も今までのように教師の正採用ですべての学校をカバーするようなことは不可能だし。
仕事に希望が持てるなら、ペイの額なんて多少低くてもデフレ時代、しょうがないよ。

そう考えていくと、公務員なんて仕事をしている者は、民間の好景気なんかとは無縁な、書生っぽの貧乏暮らしがいいのかもしれない。金儲けがしたければ、企業に行くなり起業するなりすればいいわけで。


いやそんなものじゃあまだ甘い。
公務員なんて概念そのものをもっと小さく見積もって、ほぼ民間でやっていけばいい、という考え方もあるだろう。次回はそこをさらに妄想してみますか……。


経済について考える(2)

2010年09月06日 22時24分48秒 | 社会
経済について考える(2)
まず深く共感したことから。
小田嶋隆という人が「ア・ピース・オブ・警句」の8月27日号でこんなことを書いている。
深く納得してしまった。
引用開始-----------------------------------------------------------------------
 ところが、なぜなのか、経済の世界では、全員が表面的な議論をしているように見える。でなくても、それぞれの論客が、前提からしてまったく異なった基盤の上に立って論争を展開している。
 当然、議論は噛み合わず、各々の主張は、話せば話すほど乖離して行く。
 しかも、前回予測を外した学者が、まったく悪びれることなく次の予想を述べ立てているかと思えば、隣の席で別立ての提言を開陳している評論家は、先月とはまったく逆のことを言っていたりする。いったい彼らの眉の下の目は何を見ているんだ? 節穴なのか?

 こんなふうに経済に関する議論があやふやになるのは、そもそもそれが人間の活動を扱う研究分野だからだ。
 天体の運行やDNAの配列と違って、人間の欲望は法則に縛られない。むしろ、裏をかこうとする。でなくても、研究対象が自分のアタマで考える主体である以上、予測はほとんど不可能になる。当然だ。
引用終了-------------------------------------------------------------------------

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100826/215976/

「自分のアタマで考える主体」について考える、ということは、そのことによって考えられた「考え」もまた、対象たるべき「経済主体」によって「織り込み済み」のデータとして、当初の「自分のアタマで考える主体」にフィードバックされて影響を与えるということになるだろう。

つまり、「再帰的」な現象の内部的言説としてしか、経済政策の話は成立していない、ということだ。

私たちが経済についての学者や評論家の話の中に「真実」を探そうとするとなんだかとんでもない迷路に放り出されたような気がしてしまうのは、実は彼らは客観的分析者ではなく、大きな意味では言説プレイヤーの一人だからなのかもしれない、わけだ。

まあ、そうでなければ「借金するな」という主張と「借金してでも金を使え」という主張が同時に専門家の間でぬけぬけと語られるはずもないよね。

前提となっている「世界」についての理解も違えば、それぞれの学説や立場も違い、それぞれがそれぞれの「社会観」や「人間観」、「経済活動」の本質理解も違っていて、ほとんど別世界の話をしているようなものなのだろう。

私たち経済の素人はだから、たぶん、どの人の言うのが「正しい」のか、というナイーブな発想で彼らの「御説」を拝聴してはいけないのだ。
むろん、専門家の見識に一定の敬意を払うべきだ、ということに異論はない。
しかし、自然科学や、ことによったら文学に比べてさえ、現状打開についての「経済学的言説」は、何か一つの偏った説だけを「真実」として受け止めたりしては危うい、という感じがしだいにしてくる。

まあこれは経済学的理解、というよりは社会学的言説理解、に過ぎないのだけれどね。
どこの分野でも、起こったことの分析はできても、学者に未来を語らせるのが、考えてみれば無理ってものだろう。しかもたった一人の未来じゃない。何十億人の人類たちが営んでいる経済活動の未来である。

そのごく一部のプレーヤーである日本の、そのまたごくごく一部の経済活動や政治活動に限定された場所で、「こうすれば万能だ」なんて方策があるはずがないことは、経済学の素人でもちょっと考えれば分かることだった。

しかし、素人であれば素人であるほど、「万能じゃあない」ことに不安を抱き、何か「声高」だったり「恫喝」や「甘言」が入っていると、ついついそちらの味方をしたくなってしまうような気がする。

自分の経済的あるいは政治的立場が明確で、その利害に従って行動する(だけの)存在なら、まだ話は簡単だ。

しかし、いったん「自分の利害だけを追いかけていては、実は自分の利害を最大化できないのではないか」と考え始め、「再帰的存在」としての「現代人」を自覚的に生きようとすると、どこに単純な自己の利害を超えた基盤を見いだせるか、という課題もそこに生じてきて、さらにややこしくなってくる……ような気もする。




経済について考える(1)

2010年09月06日 14時46分15秒 | インポート
経済について考える(1)
円高・株安である。
そして日本の政府は未曾有の借金を重ね、かつデフレ状態で、雇用も振るわず、大変なことになっている(らしい)。

もちろん、経済について素人の私には問題の核心の所在がよく分からない。

とりあえずはもう少し円安になって日本人の輸出関連企業が元気を出し、雇用を広げてくれればいいのかなあ、と漠然と思うばかりである。
円高だったら、その間になにか日本人は買っておけばいいんじゃないの?お金はだぶついてるってはなしじゃなかったけ?そんな疑問は脳裏をよぎるが、それとて泡のようなものにすぎない。

こんなときに民主党の代表選。
当然のことがなら次の首相を決めるイベントだから、私も人並みには関心を持っている。ところが、この二人の経済政策について、国民の一人である素人の私には、ほとんど判断がつかないのだ。

当然といえば当然だろうか。素人のなんだからね。
しかし、自分たちの国の将来、しかも大きな岐路に立っているその時に、その首相候補の経済政策が今ひとつはっきりせず、他方、いちおう国民の端くれである私はそれが全く判断できない、というのは、ちょっとどうだろう……と思う。

第一なにもわからない自分が少々情けなくもある。

なんとか少し理解したいじゃないか、経済!

というわけで、ここからしばらく経済のお話をばしていきたいと思います。誰もそんなことは期待しないと思いますが、何か明確な答えにたどり着く可能性はほぼ皆無です。しかし、いまうろうろしておかないでいつうろうろするのだ、ということで、それでは開始!