経済について考える(3)
ちょっと横道にそれて、公務員給与水準の引き下げについて妄想してみる。
たとえば、今は公務員バッシングが盛んだ。
これは公務員以外の人はほぼ全員賛成する話題で、その図式自体はルサンチマンのはけ口みたいな道具になっている側面もあって、そのフレーム自体はいただけない、と思う。
私も末端の現場作業員とはいえ公務員の端くれだから、公務員の給与水準は民間より平均年ベースで200万円高い、という報道などを見ると、ああ明日から公務員の給与を200万円下げればいいのに、って、公務員以外のほとんどの人は思うんだろうなあ、とちょっと想像し、正直げんなりする。
資格のある専門職として30年やってきた経験からいって、とりあえず平均が違うんだから給与を200万円下げておけ、と言われて黙って引き下がるわけにも行かないしね。
しかし、そう突きつけられなければ、仕事をしてもしなくてもその平均水準の差はそのまま維持されていくこともまた、確かだ。
以前なら、人事院勧告は労働権の制限があったから、ほぼ「聖域」に近かった。しかし、今は労働組合が正規雇用の既得権益を守る硬直した団体、という文脈で捉えられているとするなら、その権利制限などという裏書きは、あってないも同然である。
ではいったい、公務員の正当な労働の評価は、どんな形でなされるべきなのだろうか。
池波正太郎は、「公務員なんてものは給料をたくさんもらったらダメなんだよ」と鬼平がらみのことでコメントしていた。
私も、自分の給与水準が下がるのは本当に困るけれど、公務員の給与を一斉に今の7割ぐらいにしてみるのは意外に面白いと思う。
そうなったら、仕事が好きじゃない奴はあきらかにあぶりだされてくるはずだ。
やっていられない、となって、有為な人材の半分は転職していくかもしれない。
残りは、圧倒的に力のない公務員のカスと、圧倒的に仕事が好きな公務員ヲタクが共存する、戦後すぐのデモシカ時代が擬似的に再現されるかもしれない。そしてそれは、必ずしも悪いことだけじゃない。
もしかすると、「給料も安いし、文句があるならいつでも辞めるよ」、っていうノリが、教育の「自由」の確保のためには大切かもしれない。
むしろ中途半端に安定した給料を取り払って、低いペイと高い志の方が、仕事は面白くなるのじゃないか。
その代わり、余計な仕事は一切なしで、勉強を教えることとか、生徒と遊ぶことに集中させてほしい。中途半端な100万200万を失う代わりに、好きな教育だけができるんだったら、安いものじゃないか……。
そんなことは、脳天気な無責任発言だろうか。
でもじゃあ、公務員たちは、自分の仕事がその給与水準で妥当だと、どうやったら証明できるだろう?
おそらく、それは無理な相談の部分が大きい。
公務員の仕事は、民間企業のようにはお金は稼げない。公共的な仕事はそろばんに乗らないことも多いからだ。
たぶんそれは現場の私たちによってではなく、きちんとした学問的裏付けのある公共事業学のシミュレーションによって判定されるべきことかもしれない。
だが、民間の企業とは違って、公務員は最初から「全体の奉仕者」という立場を職業として選んでいる。
公務員こそが、新しい「公共的なるもの」に対する敏感な精神を養って積極的に社会に向けて提案していくべきなのではないか?
たとえば教育にしても福祉にしても、手厚い市民サービスというのは、単なる一律のお仕着せでは本当に価値あるサービスにはならない。
といって、コストを上げては元も子もない。
アタマを使ってぎりぎり絞り出すように、他者が必要とするボールを投げることが公務員にどれだけできるか。
世迷い言も休み休み言え、と言われるだろうか。
ではだが、貧乏人の嫉妬を利用し、溜飲を下げるためだけの道具に公務員改革を利用するのでないならば、誰もが納得のいく公務員改革(霞ヶ関とかはどうでもいい。現場作業員の先端部分における公務員の硬直化をどうするのか)は、どんな形で行えばいいのか。
「シャドウワーク」(今時はそういう言い方ははやらないのかな?)を担うモノたちは、そんな「宗教的」ともいえる「公共的なるもの」を志向する他者への姿勢を持つべきだし、ポケットに入るお金の金額ではなく知恵を出していくことが快楽であっていいのだと思う。
公務員というのは本来、そういう「生き物」であっっていいのではないか?
それをやったら公務員も開き直れるし、市民もサービスの精選・厳選に納得がいくと思うなあ。
実は教育の現場なんかでは、超非正規雇用化(正採用の減少と講師採用の一般化)が進行していて、早晩それが現実になるんだけどね。
30人学級の実現ってことは、正規採用を止めて多くを非正規雇用にするってことだから。
スーパーは店長以外はパートかバイト、だけれど、学校も主任以外は基本講師っていう風になっていくのだろうね。
それでいい、とは言わないけれど、そういう形で時代の変化においついていく以外にないのだろうと思う。
地方の予算も今までのように教師の正採用ですべての学校をカバーするようなことは不可能だし。
仕事に希望が持てるなら、ペイの額なんて多少低くてもデフレ時代、しょうがないよ。
そう考えていくと、公務員なんて仕事をしている者は、民間の好景気なんかとは無縁な、書生っぽの貧乏暮らしがいいのかもしれない。金儲けがしたければ、企業に行くなり起業するなりすればいいわけで。
いやそんなものじゃあまだ甘い。
公務員なんて概念そのものをもっと小さく見積もって、ほぼ民間でやっていけばいい、という考え方もあるだろう。次回はそこをさらに妄想してみますか……。
ちょっと横道にそれて、公務員給与水準の引き下げについて妄想してみる。
たとえば、今は公務員バッシングが盛んだ。
これは公務員以外の人はほぼ全員賛成する話題で、その図式自体はルサンチマンのはけ口みたいな道具になっている側面もあって、そのフレーム自体はいただけない、と思う。
私も末端の現場作業員とはいえ公務員の端くれだから、公務員の給与水準は民間より平均年ベースで200万円高い、という報道などを見ると、ああ明日から公務員の給与を200万円下げればいいのに、って、公務員以外のほとんどの人は思うんだろうなあ、とちょっと想像し、正直げんなりする。
資格のある専門職として30年やってきた経験からいって、とりあえず平均が違うんだから給与を200万円下げておけ、と言われて黙って引き下がるわけにも行かないしね。
しかし、そう突きつけられなければ、仕事をしてもしなくてもその平均水準の差はそのまま維持されていくこともまた、確かだ。
以前なら、人事院勧告は労働権の制限があったから、ほぼ「聖域」に近かった。しかし、今は労働組合が正規雇用の既得権益を守る硬直した団体、という文脈で捉えられているとするなら、その権利制限などという裏書きは、あってないも同然である。
ではいったい、公務員の正当な労働の評価は、どんな形でなされるべきなのだろうか。
池波正太郎は、「公務員なんてものは給料をたくさんもらったらダメなんだよ」と鬼平がらみのことでコメントしていた。
私も、自分の給与水準が下がるのは本当に困るけれど、公務員の給与を一斉に今の7割ぐらいにしてみるのは意外に面白いと思う。
そうなったら、仕事が好きじゃない奴はあきらかにあぶりだされてくるはずだ。
やっていられない、となって、有為な人材の半分は転職していくかもしれない。
残りは、圧倒的に力のない公務員のカスと、圧倒的に仕事が好きな公務員ヲタクが共存する、戦後すぐのデモシカ時代が擬似的に再現されるかもしれない。そしてそれは、必ずしも悪いことだけじゃない。
もしかすると、「給料も安いし、文句があるならいつでも辞めるよ」、っていうノリが、教育の「自由」の確保のためには大切かもしれない。
むしろ中途半端に安定した給料を取り払って、低いペイと高い志の方が、仕事は面白くなるのじゃないか。
その代わり、余計な仕事は一切なしで、勉強を教えることとか、生徒と遊ぶことに集中させてほしい。中途半端な100万200万を失う代わりに、好きな教育だけができるんだったら、安いものじゃないか……。
そんなことは、脳天気な無責任発言だろうか。
でもじゃあ、公務員たちは、自分の仕事がその給与水準で妥当だと、どうやったら証明できるだろう?
おそらく、それは無理な相談の部分が大きい。
公務員の仕事は、民間企業のようにはお金は稼げない。公共的な仕事はそろばんに乗らないことも多いからだ。
たぶんそれは現場の私たちによってではなく、きちんとした学問的裏付けのある公共事業学のシミュレーションによって判定されるべきことかもしれない。
だが、民間の企業とは違って、公務員は最初から「全体の奉仕者」という立場を職業として選んでいる。
公務員こそが、新しい「公共的なるもの」に対する敏感な精神を養って積極的に社会に向けて提案していくべきなのではないか?
たとえば教育にしても福祉にしても、手厚い市民サービスというのは、単なる一律のお仕着せでは本当に価値あるサービスにはならない。
といって、コストを上げては元も子もない。
アタマを使ってぎりぎり絞り出すように、他者が必要とするボールを投げることが公務員にどれだけできるか。
世迷い言も休み休み言え、と言われるだろうか。
ではだが、貧乏人の嫉妬を利用し、溜飲を下げるためだけの道具に公務員改革を利用するのでないならば、誰もが納得のいく公務員改革(霞ヶ関とかはどうでもいい。現場作業員の先端部分における公務員の硬直化をどうするのか)は、どんな形で行えばいいのか。
「シャドウワーク」(今時はそういう言い方ははやらないのかな?)を担うモノたちは、そんな「宗教的」ともいえる「公共的なるもの」を志向する他者への姿勢を持つべきだし、ポケットに入るお金の金額ではなく知恵を出していくことが快楽であっていいのだと思う。
公務員というのは本来、そういう「生き物」であっっていいのではないか?
それをやったら公務員も開き直れるし、市民もサービスの精選・厳選に納得がいくと思うなあ。
実は教育の現場なんかでは、超非正規雇用化(正採用の減少と講師採用の一般化)が進行していて、早晩それが現実になるんだけどね。
30人学級の実現ってことは、正規採用を止めて多くを非正規雇用にするってことだから。
スーパーは店長以外はパートかバイト、だけれど、学校も主任以外は基本講師っていう風になっていくのだろうね。
それでいい、とは言わないけれど、そういう形で時代の変化においついていく以外にないのだろうと思う。
地方の予算も今までのように教師の正採用ですべての学校をカバーするようなことは不可能だし。
仕事に希望が持てるなら、ペイの額なんて多少低くてもデフレ時代、しょうがないよ。
そう考えていくと、公務員なんて仕事をしている者は、民間の好景気なんかとは無縁な、書生っぽの貧乏暮らしがいいのかもしれない。金儲けがしたければ、企業に行くなり起業するなりすればいいわけで。
いやそんなものじゃあまだ甘い。
公務員なんて概念そのものをもっと小さく見積もって、ほぼ民間でやっていけばいい、という考え方もあるだろう。次回はそこをさらに妄想してみますか……。