若い頃は、体が動かなくなることなど想像もしなかった。いや、怪我をしたり病気になったりしたことはある。そうではなく、なんでもないのに動かなくなっていく、ということが想像できなかった。
つまりは「老い」に対する想像力が働かなかったのだ。
最近、病院にいっても年相応ですから、といわれて少々ムッとする経験が増えてきた。
50代前半だからまだ冗談半分で話題にしているが、次第にこれは冗談ごとでなくなっていくんだろうな、とこれは目の前のことの地続きとして想像できる。そして終いに命を終えるとき、「十分年相応の最後」だったと言われるのは、普通に考えれば満足な老後、ということになるのだろうか。
しかし、そのストーリーはやっぱりいささか他人事の匂いがする。本人にとっては「年相応のさいご」なんてそうそうその辺にころがっている「当たり前」じゃないだろう。
強欲にもっともっと長生きしたい、という我欲について書いているのではない。今日と違う明日があって、しかもその今日と明日をつなぐのはこの「私」の中の「連続性」をもった自意識以外にない以上、その連続を断ち切るような一見客観的な言説は、ちっとも「当たり前」ではない、ということがいいたいだけだ。
そんな「自意識」の装われた連続など、ふっとある日突然終ってしまうものだし、それを嫌がる積極的な理由があるわけではない。ヒトの精神的な死というものはきっとその「私」の連続性の終焉であるのだろう。わからないけど。
ただ、じゃあ、それを「私」自身がどこで見切りをつけるというのか、っていうことである。そんな見切りや諦めは早とちりして自分でお墓のじゅんびをするようにするものじゃあないだろう。
死ぬまで生きる。
いまを超えて明日までは生きる。この一瞬を超えて、その次もまたこの「私」は時を超えていく。
その決して当たり前ではない不連続の連続ジャンプを、私たちは物心ついたころから続けてきたはずだ。
たしかにそのズレだけにこだわるのもどうかとは思う。私たちが幸せを感じるのは、その今の自分と過去の自分とのズレ、今の自分と未来の自分ととのズレを意識の表面から押しやってしまうような「持続」の充実感なのだから。
映画に飽きて腕時計ばかり見るような人生はそりゃあたしかにつまらないものね(笑)。
とはいっても、夢中な持続ばかりを並べてすませようというのは、日常をお祭りの屋台で埋め尽くそうという無茶にも似ている。
コンビニエンスストアやレンタルストア、いやTVの高輝度画面の無意味な明るさだって、お祭りの光の成れの果ての一種なのかもしれない。
お墓のカビ臭い静けさに少しづつ慣れていくことも必要な身振りではあるのだろうか。
身体を伴って生きるココロが、この世界像の中ので開かれたものであり続けるためには、どんなことが必要なのだろうか。
とりあえずこの年になってなおも小説を読むことに意味があるとしたら、そういうことについて考えを巡らし、自分のココロと身体を泳がせてみる場所を探すことにおいて、なのかもしれない。
高橋源一郎の『「悪」と戦う』河出書房新社を読み始めて、そんなことを感じた。
高橋源一郎というのは、読むモノを上手に不安に陥れる名人みたいなヒトですねぇ。
今日中に読み終われるかしら……。なんだかぞわぞわする小説です。
つまりは「老い」に対する想像力が働かなかったのだ。
最近、病院にいっても年相応ですから、といわれて少々ムッとする経験が増えてきた。
50代前半だからまだ冗談半分で話題にしているが、次第にこれは冗談ごとでなくなっていくんだろうな、とこれは目の前のことの地続きとして想像できる。そして終いに命を終えるとき、「十分年相応の最後」だったと言われるのは、普通に考えれば満足な老後、ということになるのだろうか。
しかし、そのストーリーはやっぱりいささか他人事の匂いがする。本人にとっては「年相応のさいご」なんてそうそうその辺にころがっている「当たり前」じゃないだろう。
強欲にもっともっと長生きしたい、という我欲について書いているのではない。今日と違う明日があって、しかもその今日と明日をつなぐのはこの「私」の中の「連続性」をもった自意識以外にない以上、その連続を断ち切るような一見客観的な言説は、ちっとも「当たり前」ではない、ということがいいたいだけだ。
そんな「自意識」の装われた連続など、ふっとある日突然終ってしまうものだし、それを嫌がる積極的な理由があるわけではない。ヒトの精神的な死というものはきっとその「私」の連続性の終焉であるのだろう。わからないけど。
ただ、じゃあ、それを「私」自身がどこで見切りをつけるというのか、っていうことである。そんな見切りや諦めは早とちりして自分でお墓のじゅんびをするようにするものじゃあないだろう。
死ぬまで生きる。
いまを超えて明日までは生きる。この一瞬を超えて、その次もまたこの「私」は時を超えていく。
その決して当たり前ではない不連続の連続ジャンプを、私たちは物心ついたころから続けてきたはずだ。
たしかにそのズレだけにこだわるのもどうかとは思う。私たちが幸せを感じるのは、その今の自分と過去の自分とのズレ、今の自分と未来の自分ととのズレを意識の表面から押しやってしまうような「持続」の充実感なのだから。
映画に飽きて腕時計ばかり見るような人生はそりゃあたしかにつまらないものね(笑)。
とはいっても、夢中な持続ばかりを並べてすませようというのは、日常をお祭りの屋台で埋め尽くそうという無茶にも似ている。
コンビニエンスストアやレンタルストア、いやTVの高輝度画面の無意味な明るさだって、お祭りの光の成れの果ての一種なのかもしれない。
お墓のカビ臭い静けさに少しづつ慣れていくことも必要な身振りではあるのだろうか。
身体を伴って生きるココロが、この世界像の中ので開かれたものであり続けるためには、どんなことが必要なのだろうか。
とりあえずこの年になってなおも小説を読むことに意味があるとしたら、そういうことについて考えを巡らし、自分のココロと身体を泳がせてみる場所を探すことにおいて、なのかもしれない。
高橋源一郎の『「悪」と戦う』河出書房新社を読み始めて、そんなことを感じた。
高橋源一郎というのは、読むモノを上手に不安に陥れる名人みたいなヒトですねぇ。
今日中に読み終われるかしら……。なんだかぞわぞわする小説です。