龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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裁断&スキャンした本のPDF化が1000冊を超えた。

2013年01月13日 13時30分14秒 | インポート
といっても、本の冊数を数えるほど暇ではないし、きちんとした個人データベースをつくるほどの根気もない。

裁断した本の画像データを一冊の本としてまとめ直すソフトから、

「検索指定の準備書籍件数が1000件を超えました」

と警告されたのだ。

ちょっとした一区切りである。
当初と比較して考えが少し変わってきたので、それをメモしておきたい。


そもそもの始まりは、段ボール箱の塊と化した本をどうするか、だった。
本というモノは、いつまた読み返したくなるか分からない。
改めて読みたい本、味わいたい作品の一部、引用しなければならない論文の一部など、場所があればおいておきたいものである。

そして本好きなら(本ではなくても何か好きなモノを手に入れて手元に多数おいている人なら)共感してもらえるだろうけれど、生まれてからこの方読んだ本は、全部手元においておきたいものである。

目的と手段が転倒する、いわゆるフェチ、ですね(笑)

最初から住む場所にも不自由する手狭な生活なのに、本を全部とっておくなんていう欲望はもとより贅沢というか妄想に近い。

それでもまだ本は、収集癖を根源とするあの「ガラクタ」よばわりとは一線を画す。
書画骨董のような価値ではないが(古本の中には目玉の飛び出るような本がないでばありませんが、それは別席で)、本は何か知識や、光をもたらしてくれるものとして、なにがしかの尊敬を払われてきた。

かつてはね。

「こんなもの、置いておいたってどうせ死ぬまでには読めっこないでしょ」

などと言われるようになるまでは。

いわれてみればその通り。
すでにして死ぬまでには到底読めっこない分量だ。


そこであえて「本は読めばいいってモノじゃないんだ!」と強弁してみてもよいが、まあ止めておいた方が無難だ。

というわけで「なんとかしてよ」攻撃を「そのうちな」防御でかわす日々が続いていた。

そこに福音として登場したのが

書籍の裁断&スキャン取り込みによる電子化のシステムである。
だから、そもそも「断捨離」系の強いられた動機からはじまったわけです。

従って最初は当然古い本から裁断を始めました。
ダンボール箱が一つ一つ消えて、裁断されたゴミとして出されていくのはある種快感でもありました。

「こういう趣味なら歓迎だ」
と大家族からも好評。

ところが、500冊を超えたあたりから様相がかわってきました。
古い本を裁断していても、実際には読まない。
もちろん死ぬまでに読みきれないほどの量があるんだから、読んでもいいわけだし、当然中には読みたい本もある。
でも、最初は比較的どうでも良い本を中心に裁断する傾向があった。
全集本とか、未読の高価本、古書で入手したものはどうしても切るに忍びない。

「おまえだけは次世代に生き延びてくれ」

みたいなことになっていくわけですよ。

そしてまた気がつくと本末転倒の始まりである。

捨ててもいいものなら最初からなにも裁断するには及ばなかった。

とはいえ、裁断せずに捨てられるぐらいなら、苦労はしない。

むう。

これでは本の鎮魂儀式としての「自炊」(裁断して本をデータ化することをそういいます。あんまりいい響きじゃないね)ではないか!

といういうわけで、それをもう一度ひっくり返すことになります。
(続く)