龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

こんなものを買った。

2013年04月27日 23時30分38秒 | 大震災の中で
IMG_3379.jpg
こんなものを買った。
サンワサプライのiPadアーム
100-M068
という代物。

これが抜群に便利。

本棚に固定してベッド側に伸ばすと、どんな角度でもピタリ止まるのである。

寝ながら読書三昧環境の完成だ。

こういうニッチな小道具というのは、耳かきとかタマゴかき混ぜ棒とかと同様、使った人にしかわからない種類の感動がある。

そして、本当に便利なのかどうかは感動したにも関わらず必ずしも自明ではない(笑)

でも、このしっかりした固定感は、特筆すべきです。

ただ、問題もあります。
本を読むのについついベッドに入ってしまう、ということになりそうなのですよ……。

読むべし水道橋、フォローすべし茂木健一郎

2013年04月27日 23時14分02秒 | 大震災の中で
茂木健一郎が水道橋博士の本を書評した日記がTwitterでヒット。
おもしろい。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2013/04/post-f528.html
最後の必殺技を捨てるというエピソードに痺れた茂木健一郎に、痺れた。

私も50歳を過ぎて「必殺技」を封印した経験があったからだ。

茂木健一郎の「弱さ」をも含めて、改めてキュートだと思った瞬間だった。
茂木健一郎の本は、さいきんどうなの?と正直思っていた。

でも、今日久しぶりに彼のツイッターのタイムラインをずーっとさかのぼっていたら、彼自身が「最近の本はどうなの?」ということを書いていた。

それをふらっと書いちゃう彼を、私はあらためて、好きだ(笑)。
自己言及すればいいってものじゃない。
人が自己言及を技にできるためには、もっと別の「必殺技」を捨てねばならない。

そのことも含めて、いろいろシンクロした夜だった。

水道橋博士の『藝人春秋』、読まねばなるまい。


いわき市民と双葉からの避難者との軋轢

2013年04月27日 22時19分05秒 | インポート
いわき市民と、避難している双葉郡の方々との摩擦が昨日NHKの朝のニュースで報じられたと聞く。

大震災、そして原発事故から二年。
分割線はむしろ至る所、無数に生起しているように思われる。
スピノザが主著『エチカ』の第3部で最も分量を裂いて論じていた感情の一つが、「ねたみ」だった。

ねたみは他人の不幸を喜び、他人の幸せを悲しむことであり、そしてこれは自分と同等のものにしか感じない、とスピノザはいう。

別にスピノザじゃなくてもそのぐらいは分かるよね。
でも、繰り返し言及しているという意味で、スピノザにとって「ねたみ」は大きな課題だったに違いない。

東日本大震災以後の、そして東京電力福島第一原子力発電所事故以後の私たちにとって、この分割線が無数に生起し、それが露わになっている現象は、非常に重要なことだと私には思われてならない。

つまり、「自分と同等のもの」「自分と近しいもの」という感覚が、単に「想像力」によって広げられていくと、至る所にその分断線が、自分と他者との間に繰り返し巻き返し引かれてしまうのではないか。

私たちはすでにもう十分に傷ついている。むしろ「裂け目」は内側にこそある。どうしてそれを外側にまで保持して、異なるものたちとつながることができようか……。

「傷は一つでたくさんだ」

そう直感して自分たちを「守ろう」とすれば、私たちは「ねたみ」のために分割線を無数に引いていくことになるだろう。

無論だからと言って私は、私たちはそれをスピノザのように

「永遠の相の下に」考えればすべては自然の秩序そのものであり、個人の意志が入り込む余地がない

というハードな結論にたどり着くわけにはいかない。

分割線は分断線となり、無数の差異を自分の周りに煽り立てて境界線のバリアを張り、なんとか自分を保持しようとしてしまうだろう。それはある意味で自己保存のために必須の振る舞いでさえあるのかもしれない。

私はニュースを見ていないからそれこそ憶測でものをいってしまうが、「よそ者は出て行け」という信号はたやすく人の心をとらえるであろうことは、想像に難くない。
私たちはむしろ「想像力」がもたらす偏見の発動を、いやというほど見続けてきた。

こういう分断を「想像力の欠如」と捉え、「もっと想像力があれば」と考えてしまうと、たぶん問題を解決する方向には向かわないのではないか。

「理性」を伴わない「想像力」はむしろ人を隔てさえする。

むしろ、身近なことをリアルに感じるのは、理性を働かせつつ具体的なことの手触りを共有することの方が重要ではないか。

そして、私たちはその「理性」をきちんと育ててきただろうか、と自省せずにはいられない。

さてでは、その分割線を引かずに「絆」とかとぼけたかけ声をかけて済ませられるか、といえば、そうもいくまい。
擬似制度的な「共同体」の再編という物語につきあっていくことはもはや中期的には不可能だろう。

それは分割線の隠蔽と忘却を招くばかりだ。


分割線を無数に自分の周りに生起させようとする力を隠蔽するのではなく、そこから「間」にある人間の力、自然の膂力に触れる方法はないのか?

私たちはようやく、「近代」という舞台装置をその機能不全まで含めて生きるという体験をし始めたところである。
理性(1)の限界を嘆くのではなく、その分割線の生起する大きな一つの世界の動きと秩序に反応できる瞳を鍛えていこうではないか。
それが理性(2)を目指すことだし、その努力を重ねていく意味はあるだろう。

スピノザならそれを「直観」と呼ぶのだろうか。
よく分からない。
しかし、理性(1)のロジックの限界を自分の世界の限界としない、というメッセージだけは、確かにスピノザから受け取ったような気がしている。

「私の言葉の限界が世界の限界だ」(たぶんヴィトゲンシュタイン、かな)

という言葉は、逆説的に、ということは手のひらではなく手の甲で、世界の輪郭に触れていることの報告だろう。
それは、決して、「外部」との接点ではないのだ、とスピノザなら語るかもしれない。
いや、そんな「想像力」に頼るのではなく、身近なところから始めよう。

この連休は、とりあえず、その分割線が単なる分断に終わらないために、どんな言葉を組織しえるのかをもがいてみる時間にしたい。

もちろんそれはそう簡単なことではあるまい。
自分にできることだとも思わない。

しかし、それをせずに福島以後を生きる意味は、全くない、と私は、私たちは考えている。
何をどうすればいいのかさえ分からないけれど、始めてみる。そういうことだ。


一ヶ月ご無沙汰してしまいました。

2013年04月27日 21時47分23秒 | 大震災の中で
ブログ更新が滞ってしまった。

4月当初からの1ヶ月、忙しかったわけではない。


ところが、4月から7年ぶりに担任を離れてみると、定型的な目の前の仕事をこなすのが精一杯の日々が続いて、とてもブログを更新する余裕がなくなってしまったのだ。

いや、その言い方はちょっと不正確かな。
この程度のブログではあっても、暇があるからかける、というものでもない。

正直言うと、ちょっと虚脱状態になっていた。

そう、自分の「周波数」をどこに合わせたらいいかがよく分からなくなっていた、とでもいえばいいだろうか。

こうしてブログを書いていても、以前のようにことばがスムーズに出てこない。
人は、その与えられたステージによって「ことば」も変わっていくのかもしれない。

今は、久しぶりに高校三年生相手の現代文の授業を心底楽しんでいる。

うむむ、これも違うなあ。今までも楽しんで授業はしていたのです。

遊郭の用語に「裏を返す」という言葉がある。
初回は遊女のところに上がっても、まだ「なじみ」にはならない。二回目同じ遊女と遊んで初めて関係が成り立つ、との意だろうか。

高校に限ったことなのかどうか分からないが、(そしてそれを遊女と一緒にしていいのかどうか分からないが-まあ、いいわけはないだろうが)、いつも二度目が本当の出会いだと、この4月のような時に感じるのだ。

最初の出会いがもたらすのは「直感」に過ぎない。

その時は、たとえ深いところから響いていたとしても、相手の持っているものを簡単には受け止めきれない。

最初から、修正をかけつつ、関係を豊かにしている「種類」の人もいるのだろうが、私は残念ながらそういう風にはできていなかった。
この年まで生きてきて、つくづくそう思う。

私にとってはいつも二度目こそが、本当の出会いなのだ。

善し悪しは知らず、勤めたばかりの新しい勤務校では、物事は本当にはうまくいった気がしない。
いや、うまくいくかどうか、ではなく、本当に出会った気がしない。

ある種の反復の中にある差異こそが、出会いを組織し、そしてそれは「直感」を超えた「直観」に通じていく。

そんな風に思う。

ブログを一ヶ月お休みしたのはいろいろな意味で、とくに発信を心がける意味では「痛手」だった。
せっかく訪問してくださっているかたにも申し訳ない、とも感じてはいたが、どうしても必要な1ヶ月だったような気がする。

新しさは何度でもやってくる。
そして人は何度でも出会い直していくのだろう。
二度目、とはその反復が生み出す豊かさの始まりに過ぎない。

そんな気がしている。
また、今度は(たぶん)継続して、書いていきます。

(こうやって書いていても、ブログ的文体のスタンスがが戻ってこないのがまたおもしろいんですが)

あとは、原稿が3つぐらい溜まってきていて、けっこう連休をつぶして仕事しなければならないのでした。
さて、やるぞっ!