いかにも国語の先生らしいお話。
でも、とても大切だと思う。
池田×出口対談。
http://www.youtube.com/watch?v=Ni-BsktjVTg&feature=youtu.be
ことばの問題でもあるけれど、それがすべてではない。
外部性というか、発生の問題でもある。
「はじめにことばありき。」
「ことばは神なりき。」
そう、かつてはわたしもそこで思考していました。
今もそこから外に出たわけではない。
ことばの中で生きる、という意味の内在性(人間の中に言葉があるのではなく、人間が言葉の中にあるっていうほどの意味ですが)についていえば、それはその通り。
でも、それだけだとやっぱり世界を半分で生きることには変わりがない、とも思うようになった。
ことばの「外」があるんじゃないんですがね。
つまり、世界とのつきあい方が変わったってことかな。
「語りえぬものを語る」っていうのは、対象の問題ではなく、他者の問題で「も」ある。
人為と自然の関係の変化を肌で感じたということでもあるし、そこで「裂け目」にさらされているその現場の恐怖を感じたということ、でもあります。
たとえば原発事故の時に、どんな論理が求められるのか?受験の解答を出すようにはいくまい。
たとえばヘイトスピーチを続ける「異質な他者」に、どんな論理だったら向き合えるのか、は簡単ではあるまい。
「論理語」を身につければすむ、というものではない。
言語論から、もう一度「哲学」へ。
ことばからもう一度「実践」へ。
人間から、もう一度「動物」へ。
二度目の哲学であり、二度目の実践であり、二度目の動物であり、そういう反復の中で立ち上がる「痕跡」としての「リアル」を手のひらでつかむのではなく、手の甲でふっと触れる。
そういう「思考」の現場は、単なる「論理語」では測れないんじゃないかな、と思うということでもあります。
むろん、とりあえず私も今現代文の授業でやっているのは、まさにこれ。
テキストから、論理の筋をきちんと受け取ること。
まずはそれに尽きます。
その「理性1」の道具は携えた上で、次に行きたいんだ。
でも、とても大切だと思う。
池田×出口対談。
http://www.youtube.com/watch?v=Ni-BsktjVTg&feature=youtu.be
ことばの問題でもあるけれど、それがすべてではない。
外部性というか、発生の問題でもある。
「はじめにことばありき。」
「ことばは神なりき。」
そう、かつてはわたしもそこで思考していました。
今もそこから外に出たわけではない。
ことばの中で生きる、という意味の内在性(人間の中に言葉があるのではなく、人間が言葉の中にあるっていうほどの意味ですが)についていえば、それはその通り。
でも、それだけだとやっぱり世界を半分で生きることには変わりがない、とも思うようになった。
ことばの「外」があるんじゃないんですがね。
つまり、世界とのつきあい方が変わったってことかな。
「語りえぬものを語る」っていうのは、対象の問題ではなく、他者の問題で「も」ある。
人為と自然の関係の変化を肌で感じたということでもあるし、そこで「裂け目」にさらされているその現場の恐怖を感じたということ、でもあります。
たとえば原発事故の時に、どんな論理が求められるのか?受験の解答を出すようにはいくまい。
たとえばヘイトスピーチを続ける「異質な他者」に、どんな論理だったら向き合えるのか、は簡単ではあるまい。
「論理語」を身につければすむ、というものではない。
言語論から、もう一度「哲学」へ。
ことばからもう一度「実践」へ。
人間から、もう一度「動物」へ。
二度目の哲学であり、二度目の実践であり、二度目の動物であり、そういう反復の中で立ち上がる「痕跡」としての「リアル」を手のひらでつかむのではなく、手の甲でふっと触れる。
そういう「思考」の現場は、単なる「論理語」では測れないんじゃないかな、と思うということでもあります。
むろん、とりあえず私も今現代文の授業でやっているのは、まさにこれ。
テキストから、論理の筋をきちんと受け取ること。
まずはそれに尽きます。
その「理性1」の道具は携えた上で、次に行きたいんだ。