龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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出口×池田「論理力」についての対談。

2013年04月28日 10時35分37秒 | 大震災の中で
いかにも国語の先生らしいお話。

でも、とても大切だと思う。

池田×出口対談。
http://www.youtube.com/watch?v=Ni-BsktjVTg&feature=youtu.be

ことばの問題でもあるけれど、それがすべてではない。
外部性というか、発生の問題でもある。

「はじめにことばありき。」
「ことばは神なりき。」

そう、かつてはわたしもそこで思考していました。
今もそこから外に出たわけではない。
ことばの中で生きる、という意味の内在性(人間の中に言葉があるのではなく、人間が言葉の中にあるっていうほどの意味ですが)についていえば、それはその通り。

でも、それだけだとやっぱり世界を半分で生きることには変わりがない、とも思うようになった。

ことばの「外」があるんじゃないんですがね。

つまり、世界とのつきあい方が変わったってことかな。

「語りえぬものを語る」っていうのは、対象の問題ではなく、他者の問題で「も」ある。


人為と自然の関係の変化を肌で感じたということでもあるし、そこで「裂け目」にさらされているその現場の恐怖を感じたということ、でもあります。

たとえば原発事故の時に、どんな論理が求められるのか?受験の解答を出すようにはいくまい。
たとえばヘイトスピーチを続ける「異質な他者」に、どんな論理だったら向き合えるのか、は簡単ではあるまい。

「論理語」を身につければすむ、というものではない。

言語論から、もう一度「哲学」へ。

ことばからもう一度「実践」へ。

人間から、もう一度「動物」へ。

二度目の哲学であり、二度目の実践であり、二度目の動物であり、そういう反復の中で立ち上がる「痕跡」としての「リアル」を手のひらでつかむのではなく、手の甲でふっと触れる。
そういう「思考」の現場は、単なる「論理語」では測れないんじゃないかな、と思うということでもあります。


むろん、とりあえず私も今現代文の授業でやっているのは、まさにこれ。

テキストから、論理の筋をきちんと受け取ること。
まずはそれに尽きます。
その「理性1」の道具は携えた上で、次に行きたいんだ。




小さい「嘘」が世界と出会うとき

2013年04月28日 08時18分41秒 | インポート
どこかにお出かけの方、多いんでしょうねえ。

いいなあ。

今日は籠もって原稿を書きます。

でも、これがなかなか書けないんだよ。

プロフェッショナルな書き手は別として、文章には書けるときと書けないときがある。

特に、まだ存在していないものやことについて書くことは、難しい。

存在しない事象を想像すること自体は、さして困難ではない。

嘘をつけばいいのだから。

嘘をつくためには自分が追い込まれればいい。
ギリギリになれは、リアリティのある嘘の一つぐらい、誰でもそれなりにひねりだせる。

あるいは、既にそこにあるものや既知の手順で料理するのであれば、練習すればなんとかなるものだ。
とにかく食材やレシピが用意された料理、入試問題などががそれに当たるだろう。


本当に難しいのは間の裂け目を見つめ続けること、そしてその瞳を閉じずに「可能」を書ききることだ。
追い詰められた瞬間のリアリティをその場しのぎで終わらせずいかに持続していくか。そしてそれを「世界」といかに出会わせていくか。

それは新しいレシピを一から創造していくことにちかいのかもしれない。

やれるものならやってみろ。

もちろん、「一から」というのは比喩にすぎないのであって、ベタで全く一から世界を立ち上げる行為は、無人島で他者と対話する、ぐらいの狂気をはらむ。

いつかどこかこの世界と出会っていくようなものだからこそ、それは「可能」と呼び得るわけだし。

6月の「エチカ福島」で、地域とアートの出会いを組織しておられる丹治先生をお招きするのもそこがポイントだからだ。

緩くていい。小さくていい。

むしろ芥子粒のような小さな「皺」や「裂け目」から始めるからこそその営為は、単なる想像とは決別して「可能的相貌」を現すだろう。

世界と出会う、とはきっとそういうことだ。

そう言うことが書きたいんだけど。
そういう風に書きたいんだけれど。