リブロ池袋本店9月3日「ドイツ1918~1933から考える日本の今」國分功一郎さん
幻冬舎から音声データが発売になっているそうなので、詳しく書くわけにはいきません。
ざっくり自分の感想とメモを書く程度で。
國分功一郎さんは、
「ドイツの専門家でもないし、歴史の専門家でもないので、この特別講義、を引き受けるのにはためらいがあった。しかし、いろいろなところでイマノニホンノ状況について話をしてきて、やはりやるべきかな、と思った。」
と前置きし、
「哲学はテキストを読む行為だから、テキストを読みながら注釈を加えていく形で進めていこう」
と、3つのテキストを挙げました。
1,フランツ・ノイマン『ビヒモス』1942年
2,大竹弘二「民主的立憲国家は生き残れるのか
?」『atプラス21』2014年8月号
3,レオ・シュトラウス「ドイツのニヒリズムについて」
(話の展開の前提として
林健太郎『ワイマル共和国』中公新書
は必須アイテムです。)
1の本は1942年、ワイマール期にドイツにいて、現場でその推移を見ていた著者が、アメリカに渡ってから第二次大戦中に書いたもので、ナチスを批判的に検討した古典的な本。古い時期に書かれたので、今は批判されているところもあるが、研究は最新だからいいというものではない。古典を読むことが大切、というお話。この本と『ワイマル共和国』を中心に講座前半は展開していきます。
この部分の中身は、二冊を読めば大丈夫です。
2は今年書かれた論文です。
國分さんの指摘は次のようなこと。
今、立憲主義は注目されている。なぜなら危機に直面しているから。
安倍首相が予算委員会で「私が最高責任者だ」と言った。もちろんメチャクチャだが、一抹の真理がそこにはある。
「選挙で民主主義的に選ばれた私がなぜ決めていけないのか」
気持ち的には、ね。
長谷部さん
→飲む時クルマの鍵を人に預けるようにするのが立憲主義
これは民主主義の上に立憲主義がある感じ。
木村草太さん
→民主主義が憲法を選ぶんですよ。
これは憲法の上に民主主義がある感じ。
大竹弘二さん
→民主主義と立憲主義は緊張関係にある。
國分さんは大竹さんの考えに近い、と。
つまり、
「ルールなんてしらねえよ、おれは選ばれてんだよ、オラオラ」という反知性主義的な反発・ルサンチマンに対して(つまり安倍首相に対して)、上から目線でエリートが立憲主義を言ってもだめ。
ルサンチマンに民主主義を語らせてはいけない!
どっちが上か、ではなく、二つを同時に緊張関係を持って考えていく必要あり、というお話でした。
3は、レオ・シュトラウスの講演。この人はアメリカに移住したが、ワイマール期のドイツを生きて見ていた人。そこをよく知っているドイツ生まれのユダヤ人。アーレントと同世代。よく保守的と言われる。それはそうだが、それだから批判する、というのは、よく分からない。
きわめて重要な指摘をしている。
レオ・シュトラウスは、ワイマール期の若者が抱えていたニヒリズムをよく掴んでいる。
近代文明は開かれた社会を作る、という進歩的な考え方があった。自由と平等が実現される、という(それに対して文化は閉じる)。
しかし、ドイツは第一次大戦で負けてひどくなった。
開かれた社会?平和?ウソだ!こんなのは人間らしい生ではない!
↓
緊急事態のために生きることこそ、人間らしい生=道徳的生
そういう気分が醸成されたのではないか。開かれた社会、と進歩派がいうのはむしろ「悪夢」だ。
しかし、「ノー」はいえるが、何かを作っていくというビジョンがなかった。レオ・シュトラウスはそのニヒリズムを正確に指摘した。
自由・平和・平等が大事、と進歩派は言うが、実際は戦争で惨めだった。
そこでの若者は「師匠」を求めていた。19世紀からの自由主義者とは違う、自分たちの価値を内面化した「師」を。
そこでよく分かるよ、といってくれたのは、
ユンガー、ハイデガー、シュミット
だった。
若者は彼らの中に師を見いだした。
自分たちを理解してくれたからだ。
進歩的教育者は自由・平和が重要だ、という信仰はあっても、説明できなかった。
そして進歩派は、敵対する勢力を、
「あいつらはバカだ」
としか言えなかった。
この上から目線は実は防御の姿勢に過ぎない。防御は進歩主義の敗北だった。若者の間には権威主義に対する反発だけがある。
Noだけがある=反知性主義
今の日本と重なるのではないか。
そういう視点で話が展開していきます。
もちろんハイデガーはそういう情念を理解していた。たが、ナチスに迎合することしかできなかった。
このルサンチマン、この反知性主義がどこからきたのか、とうして生じたのか、どうしていけばいいのか、なぜ破壊したいのか、それを理解しなければ、解決はできない。
民主主義と立憲主義、両方を守っていかねばならないというお話です。
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他にも印象に残った話はたくさんあるのですが、詳しくは幻冬舎のサイトからダウンロードいて聞いてみてください。
私が印象深く感じたところをあえて取り上げれば二点。
一点目は、実はマックス・ウェーバーがワイマール憲法制定のプロセスに参加していて、しかも悪名高き48条大統領令に賛成しているという事実です。ドイツ人は上からの支配に慣れてしまっていてまだ、民主主義の運営には不安がある、とウェーバーは考え、緊急時には大統領令によって適切な対応ができるようにしておく、という意味で48条大統領令を推したのだそうです。
つまり、かなり進歩的な学者でも、民主主義の主体者である国民を根本において信用していなかった。それが結果として行政=政府側による立法権の実質的行使→独裁へとつながっていく。
國分さんはそこに大きな問題のひとつをみています。行政が立法権を持っちゃったら、やりたい放題ですから。それはある種官僚の理想ではあるけれど。この指摘が印象深かったです。
そういえば、ドコカノクニデモ似たようなことがありますね。
二点目は、レオ・シュトラウスのアリストテレス論「政治哲学の危機」にあるアリストテレスの貴族政治を肯定する言葉
「正気の者なら誰一人として政治共同体は無学の者によって支配されるべきとはいわないだろう」
です。
國分さんは、
我々はこれにどんな議論を対抗し得るだろうか?
と問いかけます。
皆が富めるようにはならないけれど、知ったり考えたりすることはできる。だとするなら、貴族政ではなく、自分たちが自分たちを支配するためには、何を知らなければならないか?
これはワイマールの時期のドイツだけの問題ではありませんね。
以上カンタンなメモと感想でした。
レオ・シュトラウスが言うところの「進歩的な知識人」の末端であった高校教師の一人としては、きわめて厳しい指摘だと感じます。
さてではどうするか。
声高に、あたかも学校の先生のように上から目線で自由と平等の「信仰告白」をしてもはじまらないってことですよね(苦笑)
とりあえずエチカ福島のいわき編を始めることかな。
あとは図書館の活動ですかね。