ドゥルーズのスピノザ論は、平凡社の文庫で
『スピノザ 実践の哲学』を10年ぐらい前に読んでいた。
その後、國分功一郎氏の『スピノザの方法論』を読み、さらにスピノザ講座(朝日カルチャー新宿校 全12回)を受講して、おおよその 「当たり」はついてきたのだけれど、なかなか
『スピノザと表現の問題』
は読めなかった。
ある種のテキスト(特に哲学哲学の本)は、文字を追っていくことは出来るのに、小気味良いほど意味が分からないという経験を強いてくることがある。
私にとってはこの本もそうだった。とにかくなにがいいたいのか分からないのだからしょうがない。
だが、ようやくここでドゥルーズがいう 「スピノザの表現」の意味が少し分かってきた。たとえば次のような文章。
P88 「神の本質を構成するこれらの諸属性を内含する諸様態は神的な力を 『説明したり』あるいは 『表現する』といわれる。諸事物を唯一の実体の諸様態に還元することは、ライプニッツが信じ、あるいは信じるようなふりをしたように、これらを仮象あるいは幻影とする手段ではない。むしろ逆にスピノザによればそれらを能力あるいは力を与えられた 『自然的な』存在者とする唯一の手段である。」
ここには、具体的に生命を持って生きている生物たちのリアルを、 「環境世界=自然」の中に生きる 「十全な存在」として受け止めるという、 「存在が力を持って変化し続ける様相」を、スピノザの哲学が肯定しているのだ、という 「具体的な」ジル・ドゥルーズの主張が明確に示されている。
それをようや受け止められるようになってきた。
スピノザ→ドゥルーズ→國分功一郎
という 「連鎖」の中で、適切にスピノザの哲学における 「真理に触れている」と感じられるようになった。
理解する、というのはある面ではこういうことなのだろう。
もちろんそれは幾分かは 私自身における、スピノザの 「スピノザ的=私的」理解なのであって、その内観的な理解は、
「しょせん 『私』の内面のさじ加減に過ぎない」
という批判をとりあえずば免れない。だが、おそらくもはや私はその懐疑にたじろぐことはないだろう。
きっと、スピノザ的世界像について論じきるためにドゥルーズは(ここではライプニッツと比較しつつ) 「表現」という言葉を立てたわけだし、國分功一郎は 「方法」という切り口を示したのだろう、と腑に落ちてきた(『スピノザの方法』ではデカルトと比較して論じている)、ということでもあるのかな。
結局その哲学は、その叙述においてはじめて示される、という 「当たり前」のことになるのだが。
私は60歳を目前にしてなお、哲学テキストを さえ「文学」として読むことしかできなかった、ということになるのだろうか。そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。
その答えを出すためには、おそらくこうやってブログやSNSに書いているだけでは足りない。
今の私と今の世界とに同時に響き合うテキスト=運動が、どうしても必要だ。
無論極めて私的な話だが、かなり面倒な、つまりはおもしろいことになってきたということか。
『スピノザ 実践の哲学』を10年ぐらい前に読んでいた。
その後、國分功一郎氏の『スピノザの方法論』を読み、さらにスピノザ講座(朝日カルチャー新宿校 全12回)を受講して、おおよその 「当たり」はついてきたのだけれど、なかなか
『スピノザと表現の問題』
は読めなかった。
ある種のテキスト(特に哲学哲学の本)は、文字を追っていくことは出来るのに、小気味良いほど意味が分からないという経験を強いてくることがある。
私にとってはこの本もそうだった。とにかくなにがいいたいのか分からないのだからしょうがない。
だが、ようやくここでドゥルーズがいう 「スピノザの表現」の意味が少し分かってきた。たとえば次のような文章。
P88 「神の本質を構成するこれらの諸属性を内含する諸様態は神的な力を 『説明したり』あるいは 『表現する』といわれる。諸事物を唯一の実体の諸様態に還元することは、ライプニッツが信じ、あるいは信じるようなふりをしたように、これらを仮象あるいは幻影とする手段ではない。むしろ逆にスピノザによればそれらを能力あるいは力を与えられた 『自然的な』存在者とする唯一の手段である。」
ここには、具体的に生命を持って生きている生物たちのリアルを、 「環境世界=自然」の中に生きる 「十全な存在」として受け止めるという、 「存在が力を持って変化し続ける様相」を、スピノザの哲学が肯定しているのだ、という 「具体的な」ジル・ドゥルーズの主張が明確に示されている。
それをようや受け止められるようになってきた。
スピノザ→ドゥルーズ→國分功一郎
という 「連鎖」の中で、適切にスピノザの哲学における 「真理に触れている」と感じられるようになった。
理解する、というのはある面ではこういうことなのだろう。
もちろんそれは幾分かは 私自身における、スピノザの 「スピノザ的=私的」理解なのであって、その内観的な理解は、
「しょせん 『私』の内面のさじ加減に過ぎない」
という批判をとりあえずば免れない。だが、おそらくもはや私はその懐疑にたじろぐことはないだろう。
きっと、スピノザ的世界像について論じきるためにドゥルーズは(ここではライプニッツと比較しつつ) 「表現」という言葉を立てたわけだし、國分功一郎は 「方法」という切り口を示したのだろう、と腑に落ちてきた(『スピノザの方法』ではデカルトと比較して論じている)、ということでもあるのかな。
結局その哲学は、その叙述においてはじめて示される、という 「当たり前」のことになるのだが。
私は60歳を目前にしてなお、哲学テキストを さえ「文学」として読むことしかできなかった、ということになるのだろうか。そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。
その答えを出すためには、おそらくこうやってブログやSNSに書いているだけでは足りない。
今の私と今の世界とに同時に響き合うテキスト=運動が、どうしても必要だ。
無論極めて私的な話だが、かなり面倒な、つまりはおもしろいことになってきたということか。