ここでは、デリダはとても率直に語っている。口ごもり、躊躇い、 「少し間を置」きつつ、さまざまなことを肉声で語っている、という印象を受ける。
肉声で、というのは何か難解なテキストの平易な種明かしがある、というのではもちろんない。分かりやすい、というのでもない。この対談を読んだからといって、デリダのテキストが読めるようになりするわけではない。東裕紀でも読んだ方がよほどすっきりする。
ちょっと違った話だが、ある意味では、もはやデリダのテキストが 「難解」だったことなど、懐かしい思い出のようなものになりつつある、とも言える。それはまた、デリダが 「読めてしまった」ということではもちろんないけれど。
肉声で、というのはデリダが身体を伴ってそこで思考し、語っている 「感じ」、いわゆる 「息遣い」を感じる、ということだ。
哲学のテクストは一般にその主著になればなるほど難しい。個人的な感想だが、ほぼ解説抜きでは読めないといっていいだろう。もし、その主著が読めるようになりたい、と本気で思ったら、遠い遠い旅(迂回)に出ることを覚悟しなければならない。
なにせ書き手の 「主戦場」なわけだし。
だが、身体を伴った語りは違う。
ためらいや回避、言い直しや付け足し、間や繰り返しなど、私たちの身体から発生するリズムというか、動きと同時に彼らの観念が手渡されていくのに従って、その微妙なバランスを共に 「今」として生きることがしやすい。
知的に武装されたテキストは、あらかじめ 埋設された「地雷」の存在が分からないと、いつまでたっても 「読めない」感から脱出できない。お勉強が必要な所以である。その時代の、そのときの彼自身の向き合っている課題や共有している(もしくは共有を拒もうとしている)前提、そういったものが分からなければ歯が立たない。じっくり学ぶ楽しみ、繰り返し読みながらたった一つの(それは複数性を持っていたりもする)小径を発見する喜びはもちろんその先にあるのだけれど。
この対談を読むと、そういった学ぶべきものの手がかり、文字通りどこに 手をかけて山を登ればよいのか、という 「手がかり」のありかが学べる、ということがある。それは身体的なものと、観念的なことが、語り手の上に同時に存在する 「今」を目の当たりにできる、ということでもあるだろう。
もちろん、単に本人がしゃべっている、というだけでそういうことがいつも生じるわけではない。対談の相手との間合いあってのことなのだが。
とにかく、いろいろ面白かった。
肉声で、というのは何か難解なテキストの平易な種明かしがある、というのではもちろんない。分かりやすい、というのでもない。この対談を読んだからといって、デリダのテキストが読めるようになりするわけではない。東裕紀でも読んだ方がよほどすっきりする。
ちょっと違った話だが、ある意味では、もはやデリダのテキストが 「難解」だったことなど、懐かしい思い出のようなものになりつつある、とも言える。それはまた、デリダが 「読めてしまった」ということではもちろんないけれど。
肉声で、というのはデリダが身体を伴ってそこで思考し、語っている 「感じ」、いわゆる 「息遣い」を感じる、ということだ。
哲学のテクストは一般にその主著になればなるほど難しい。個人的な感想だが、ほぼ解説抜きでは読めないといっていいだろう。もし、その主著が読めるようになりたい、と本気で思ったら、遠い遠い旅(迂回)に出ることを覚悟しなければならない。
なにせ書き手の 「主戦場」なわけだし。
だが、身体を伴った語りは違う。
ためらいや回避、言い直しや付け足し、間や繰り返しなど、私たちの身体から発生するリズムというか、動きと同時に彼らの観念が手渡されていくのに従って、その微妙なバランスを共に 「今」として生きることがしやすい。
知的に武装されたテキストは、あらかじめ 埋設された「地雷」の存在が分からないと、いつまでたっても 「読めない」感から脱出できない。お勉強が必要な所以である。その時代の、そのときの彼自身の向き合っている課題や共有している(もしくは共有を拒もうとしている)前提、そういったものが分からなければ歯が立たない。じっくり学ぶ楽しみ、繰り返し読みながらたった一つの(それは複数性を持っていたりもする)小径を発見する喜びはもちろんその先にあるのだけれど。
この対談を読むと、そういった学ぶべきものの手がかり、文字通りどこに 手をかけて山を登ればよいのか、という 「手がかり」のありかが学べる、ということがある。それは身体的なものと、観念的なことが、語り手の上に同時に存在する 「今」を目の当たりにできる、ということでもあるだろう。
もちろん、単に本人がしゃべっている、というだけでそういうことがいつも生じるわけではない。対談の相手との間合いあってのことなのだが。
とにかく、いろいろ面白かった。