龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』明石書店は、スピノザの練習問題。

2020年05月18日 12時50分32秒 | メディア日記
浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』明石書店
を読了。
この本は、スピノザを現代の中で考えるときに必要な練習問題を解いてくれている、という感じがする。

ニーチェ、レオ・シュトラウス、アドルノ、ネグリ、シュミット、三木清など(バーリンはよく知らないので……)におけるスピノザ受容やスピノザ理解、スピノザ批判を取り上げ、それらの思想家との距離を測定しなおす作業をしながら、筆者と一緒に現代におけるスピノザの「可能性」を考えるという本、という風に理解して読んだ。

「スピノザの思想は、そこに姿を映した者が、自らのゆがみや偏り、あるいは秘してきたものを大写しで見させられる、精巧に磨き上げられた水晶玉のようなものかもしれない……。/思想史を反転させ「もう一つのあり得る思考」の水脈を明るみに出す」

と表紙にある通り。

「スピノザが批判するのは、むしろ、「他者」という位相を特権化することによってそれを自己の「外部」と規定し、自他の間に乗り越えることの不可能な壁を構築するような、ある種の思考だった(かれは「人間」や「存在」という表象すら非十全な観念として告発しつづけた)。スピノザはきたるべき全体性の一景気として他者性を揚棄するのではなく、様態としての世界にしかいきられない私たちに対し、他者をその不定型な多様性のまま感受し、互いに触発し合い、その無数の力の放射に応答していくという行動様式を提示している。」P41~P42

ざっくり早わかりしてしまうと、スピノザには普通の神様のごとき外在的人格神が存在しないため、その神様に対して良心に恥じないことをするとか神様に対して道徳を以て向き合うみたいな姿勢が全くなく、そこがニーチェによって「良心なき思考」みたいに言われたりする。
しかしその一方で、非十全な形でしか知り合えない限定された「様態」同士である人間が、互いに影響を与え合いつつ互いに「よりよき生」を目指して生きていくことを強く内在的な喜びとして捉えている、ということになる。
そしてここに明らかに存在する人格とか人間性とか他者に依拠しない「共同性」の「芽」から、multitude(マルチチュード)的な発想も生まれてくるというわけだ。

スピノザは、暴力がいけないのは「悲しみ」をもたらすからだ、という。その悲しみは、自らの力が非十全的な方向に向かうから「悲しい」ということであって、内面的な人間の感情としての悲しみではなく、身体を伴った「情動」としての悲しみなのだって話になる。

レオ・シュトラウスの項などは、そのあたりの事情がよく見えてきて面白かった。『自然権と歴史』を國分功一郎先生に勧められて読んでいたことも与って力になっていたか。カール・シュミットも、ワイマール時代の話から読んでいたし。

概ね、「そうか、なるほど、そういう風に考えるとスピノザもこの人たちもよく見えるようになるんだ」と納得の一冊だった。


その中で一つ気になったのは、正面から語られていないレヴィナスのことだ。
レヴィナスといえば、スピノザを徹底的に批判したユダヤ系の哲学者で、イスラエルが300年以上続いたスピノザのユダヤ教からの破門を解こうとしたときに、徹底的に反対の論陣を張ったという話も聞く。

レヴィナスとスピノザをがっちりこの著者に論じてほしいな、と思った。

そう思ったら自分でやれって?

ごもっともですが、そんな力は、ない(笑)。
ただゴシップ的な興味も湧くので、素人としては素人なりに今度考えてみようとは思っている。







読むべし!『ホハレ峠』もしくは辿り着かない大西暢夫論のために(その2)

2020年05月18日 12時45分36秒 | 大震災の中で
なかなか大西暢夫さんの『ホハレ峠』にたどり着かない。
そんな中、エチカ福島の仲間の一人が幻の第14回(イベント中止が決まった後の大西監督との飲み会)での監督の言葉をピックアップしていた。

大西監督曰く

「今の時代の価値観はたかだか100年程度、人間の歴史から見ると一瞬に過ぎない。
今の価値観が見直されるときがきっとくる、自分の仕事がその時の資料になればと思っている。」

100年、か。なるほど。

というわけでたどり着かない大西暢夫論の第2回は、最近読んだばかりの『100年の孤独』との関わりについて書く。

100年といえば、その1で書いた母親の聞き書きの範囲もまた、おおよそその程度の長さになる。

30年一世代とよくいうが、当時は10代で子供を産むこともめずらしくなかったし、100年程度のうちに5世代が重なりながら広がっていて、二つ上の世代(祖父母)までは直接話が聞けることも多いということもあり、ざっと100年程度が私たちの生きた言葉の語りが届く範囲、と考えても良さそうだ。

祖父母の祖父母まで、自分を含めて5世代。
これはそのまま『百年の孤独』の世代とぴったり対応している。
ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』には、コロンビアとおぼしき未開の土地にマコンドという町を開拓し、その中心にあった一族とマコンドという町の盛衰記が描かれているのだが、ほぼ要約は不可能だし、大河ドラマのようなたった一人の主人公がいるわけでもない。語りの中心には一族のグレイトマザー的なその100年を見つめていく第一世代の長寿な女性と、その女性よりもさらに長生きする陰の語りの担い手であるもう一人の女性が二つの視点人物になっているとも見える。ふたりの女性は「語り手」ではないが、明らかな視点人物であり、日本の小説でいえば中上健次の「オリュウノオバ」(『千年の愉楽』)に比することもできそうだ。当然、中上健次が影響を受けている、というべきなのだろうが。

ここでは、千年ではなく百年、というところにこだわっておきたい。
千年は無時間的な語りの時間という喩えを感じるが、百年は、その一でも書いたように、顔の見える人の営みの広がりの限界とでもいえる長さだ。高祖父母も曾祖父母も見たことはないが、祖父母の話なら直接聞いたことがある。その祖父母が直接出会っていたのが私の祖父母にとっての祖父母、(つまり私にとっての曾祖父母)だ。

写真があったかなかったぐらいの世代、でもあろう。

その長さを大西暢夫監督は「一瞬」と語る。私の中ではその『ホハレ峠』における一瞬が『百年の孤独』の百年と重なって見えるのだ。

『百年の孤独』の「孤独」の意味、ということについて考えをめぐらす、ということにもなるだろう。
一読しただけの素人の管見だが、この「孤独」は、間違っても「近代的個人」の孤独ではない。
中南米の奥地に花開き、そこに川の治水がなされ鉄道が敷設され、バナナ農園が作られ、そして衰退していくマコンドに存在する「孤独」があるとするなら、それはそういう近代化とは全く別のものだろう。
『地球の長い午後』ブライアン・オールディス
に描かれている圧倒的な生命力に満ちあふれた植物やアリが全盛の世界にむしろ近い、といったらそれはそれでミスリードかもしれないが、少なくても、北アメリカ主導で展開され、中南米に押しつけられるインチキくさい「近代化」とは全く別の豊穣なエネルギーの充溢が抱える「孤独」として読まねばなるまい。

個人個人の「孤独」に苦悩する「近代」とかいうものとは対極の、オルタナティブとしての「孤独」。

大西監督の「百年は一瞬」という時間認識は、その「孤独」と通底している。

『ホハレ峠』のことばたちは、ダム工事が究極の無駄だということを声高に語ることをしない。
ひたすら廣瀨ゆきえさんの人生を丁寧に取材していくだけだ。
しかし、

「現金化したら、何もかもおしまいやな」
「国の話を聞いてやろうと思った瞬間に、国は金を持って村民の心の中に入り込んでくるのだ。……集団移転などというのはわるで筋違いのことで、そこには村や家族の形はない。すべてがそれに似せたもの」

というところにも、「似せたもの」ではない「村や家族の形」を生きてきた廣瀨ゆきえさんの傍らに立ち続ける大西監督の姿勢が見える。

近代的個人の孤独に対置された村や血や家族の物語の称揚、ということではない。
そんなものがあるとすれば近代個人のノスタルジーにすぎまい。
もう一つの姿が私たちに迫ってくるのは、その生きることそのものの峻厳さと向き合うという意味での「孤独」がそこに表現されているからだろう。たかだか100年は一瞬だということの意味は、そこにあるのではないか。




母親が語る私(たち)の上の世代の人々の栄枯盛衰の様子ともそれはズレながら重なりあう。
母親の父(私の祖父)は炭鉱の糧食(生協のようなものか?)の仕事から、無尽講の開拓(後の相互銀行)に身を転じた男だが炭鉱の盛衰と相互銀行の盛衰は、私の周辺における語りの広がりの限界に近いといっていいものだが、その百年とも重なる。生きるということそのものの姿が持つエネルギーの豊かさ。

そういうものを感じたということだ。

さて、まとまらないままだが、もう一回だけ大西暢夫監督のいる場所にもう少し近づいてから終わりたい。
もしもメモにもならないメモにもう少しつきあっていただけるなら、の話だが。