浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』明石書店
を読了。
この本は、スピノザを現代の中で考えるときに必要な練習問題を解いてくれている、という感じがする。
ニーチェ、レオ・シュトラウス、アドルノ、ネグリ、シュミット、三木清など(バーリンはよく知らないので……)におけるスピノザ受容やスピノザ理解、スピノザ批判を取り上げ、それらの思想家との距離を測定しなおす作業をしながら、筆者と一緒に現代におけるスピノザの「可能性」を考えるという本、という風に理解して読んだ。
「スピノザの思想は、そこに姿を映した者が、自らのゆがみや偏り、あるいは秘してきたものを大写しで見させられる、精巧に磨き上げられた水晶玉のようなものかもしれない……。/思想史を反転させ「もう一つのあり得る思考」の水脈を明るみに出す」
と表紙にある通り。
「スピノザが批判するのは、むしろ、「他者」という位相を特権化することによってそれを自己の「外部」と規定し、自他の間に乗り越えることの不可能な壁を構築するような、ある種の思考だった(かれは「人間」や「存在」という表象すら非十全な観念として告発しつづけた)。スピノザはきたるべき全体性の一景気として他者性を揚棄するのではなく、様態としての世界にしかいきられない私たちに対し、他者をその不定型な多様性のまま感受し、互いに触発し合い、その無数の力の放射に応答していくという行動様式を提示している。」P41~P42
ざっくり早わかりしてしまうと、スピノザには普通の神様のごとき外在的人格神が存在しないため、その神様に対して良心に恥じないことをするとか神様に対して道徳を以て向き合うみたいな姿勢が全くなく、そこがニーチェによって「良心なき思考」みたいに言われたりする。
しかしその一方で、非十全な形でしか知り合えない限定された「様態」同士である人間が、互いに影響を与え合いつつ互いに「よりよき生」を目指して生きていくことを強く内在的な喜びとして捉えている、ということになる。
そしてここに明らかに存在する人格とか人間性とか他者に依拠しない「共同性」の「芽」から、multitude(マルチチュード)的な発想も生まれてくるというわけだ。
スピノザは、暴力がいけないのは「悲しみ」をもたらすからだ、という。その悲しみは、自らの力が非十全的な方向に向かうから「悲しい」ということであって、内面的な人間の感情としての悲しみではなく、身体を伴った「情動」としての悲しみなのだって話になる。
レオ・シュトラウスの項などは、そのあたりの事情がよく見えてきて面白かった。『自然権と歴史』を國分功一郎先生に勧められて読んでいたことも与って力になっていたか。カール・シュミットも、ワイマール時代の話から読んでいたし。
概ね、「そうか、なるほど、そういう風に考えるとスピノザもこの人たちもよく見えるようになるんだ」と納得の一冊だった。
その中で一つ気になったのは、正面から語られていないレヴィナスのことだ。
レヴィナスといえば、スピノザを徹底的に批判したユダヤ系の哲学者で、イスラエルが300年以上続いたスピノザのユダヤ教からの破門を解こうとしたときに、徹底的に反対の論陣を張ったという話も聞く。
レヴィナスとスピノザをがっちりこの著者に論じてほしいな、と思った。
そう思ったら自分でやれって?
ごもっともですが、そんな力は、ない(笑)。
ただゴシップ的な興味も湧くので、素人としては素人なりに今度考えてみようとは思っている。
を読了。
この本は、スピノザを現代の中で考えるときに必要な練習問題を解いてくれている、という感じがする。
ニーチェ、レオ・シュトラウス、アドルノ、ネグリ、シュミット、三木清など(バーリンはよく知らないので……)におけるスピノザ受容やスピノザ理解、スピノザ批判を取り上げ、それらの思想家との距離を測定しなおす作業をしながら、筆者と一緒に現代におけるスピノザの「可能性」を考えるという本、という風に理解して読んだ。
「スピノザの思想は、そこに姿を映した者が、自らのゆがみや偏り、あるいは秘してきたものを大写しで見させられる、精巧に磨き上げられた水晶玉のようなものかもしれない……。/思想史を反転させ「もう一つのあり得る思考」の水脈を明るみに出す」
と表紙にある通り。
「スピノザが批判するのは、むしろ、「他者」という位相を特権化することによってそれを自己の「外部」と規定し、自他の間に乗り越えることの不可能な壁を構築するような、ある種の思考だった(かれは「人間」や「存在」という表象すら非十全な観念として告発しつづけた)。スピノザはきたるべき全体性の一景気として他者性を揚棄するのではなく、様態としての世界にしかいきられない私たちに対し、他者をその不定型な多様性のまま感受し、互いに触発し合い、その無数の力の放射に応答していくという行動様式を提示している。」P41~P42
ざっくり早わかりしてしまうと、スピノザには普通の神様のごとき外在的人格神が存在しないため、その神様に対して良心に恥じないことをするとか神様に対して道徳を以て向き合うみたいな姿勢が全くなく、そこがニーチェによって「良心なき思考」みたいに言われたりする。
しかしその一方で、非十全な形でしか知り合えない限定された「様態」同士である人間が、互いに影響を与え合いつつ互いに「よりよき生」を目指して生きていくことを強く内在的な喜びとして捉えている、ということになる。
そしてここに明らかに存在する人格とか人間性とか他者に依拠しない「共同性」の「芽」から、multitude(マルチチュード)的な発想も生まれてくるというわけだ。
スピノザは、暴力がいけないのは「悲しみ」をもたらすからだ、という。その悲しみは、自らの力が非十全的な方向に向かうから「悲しい」ということであって、内面的な人間の感情としての悲しみではなく、身体を伴った「情動」としての悲しみなのだって話になる。
レオ・シュトラウスの項などは、そのあたりの事情がよく見えてきて面白かった。『自然権と歴史』を國分功一郎先生に勧められて読んでいたことも与って力になっていたか。カール・シュミットも、ワイマール時代の話から読んでいたし。
概ね、「そうか、なるほど、そういう風に考えるとスピノザもこの人たちもよく見えるようになるんだ」と納得の一冊だった。
その中で一つ気になったのは、正面から語られていないレヴィナスのことだ。
レヴィナスといえば、スピノザを徹底的に批判したユダヤ系の哲学者で、イスラエルが300年以上続いたスピノザのユダヤ教からの破門を解こうとしたときに、徹底的に反対の論陣を張ったという話も聞く。
レヴィナスとスピノザをがっちりこの著者に論じてほしいな、と思った。
そう思ったら自分でやれって?
ごもっともですが、そんな力は、ない(笑)。
ただゴシップ的な興味も湧くので、素人としては素人なりに今度考えてみようとは思っている。