龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ついに『百年の孤独』を読み切った(飲み切った、ではありませぬ)。

2020年05月11日 12時35分00秒 | 大震災の中で
ガルシア・マルケスの長編小説『百年の孤独』をようやく読み切った。
中身を忘れないうちに感想メモを書いておく。

hontoのサイトにはこうある。
https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html

[「一般的なファンタジー小説とは一線を画す「マジックリアリズム」をご存じですか?ラテンアメリカの文学で隆盛をきわめたその技法は、ただ怪奇を描くだけでなく、それがその世界での常識として表現されることで、よりいっそう数奇な味わいを感じることができます。さあ、新しい不思議の扉を叩いて、異常な日常をご堪能ください。」
また、『百年の孤独』の紹介文には
「「蜃気楼の村」であるマコンドが、勃興し、隆盛をきわめ、やがて廃墟となるまでの百年間を描いた小説です。開拓者たちの絶望と希望、生と死、そして孤独。明らかに非現実の世界であるのに、圧倒的な現実感を伴う物語は、マジックリアリズムを冠するにふさわしい説得力に充ちています。」https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html
とる。

いずれもhontoのサイト

私も読む前は、その「マジックリアリズム」を体現した、たいそうイメージ豊かな、そしてそれゆえにリーダビリティに難ありの、本格的南米小説という印象を抱いていた。

今回、コロナ禍による自粛GWを奇貨としてプライベートな読書会の課題図書に友人が挙げたこの本を、だからたまたま読んだわけだが……

とにかくめっちゃクチャ面白かった。マジックリアリズムとか、読んだことがないひとの戯れ言か、と思った。


何が「マジック」なものか。
ある意味、これこそ小説ではないか、という思いがわき上がってくる。
確かに、不思議なことはいくつか起こる。
気がついたことは二つあって、一つは不眠症の解決方法であり、もう一つは小町娘の行く末だ。
だが、それは別に「マジック」とかいうほどの話でもない。まさか幽霊が出てくるから「マジック」とか言っているわけではあるまい。そんな物語なら星の数ほどある。
むしろ「誰に幽霊が見えないのか」というのがポイントかもしれないが、それは今は措く。

少佐の一代記であるかのように始まる話が、それで終わらず、むしろ次第に実は軸となる登場人物はウルスラ(イグアラン)<町を開拓した第一世代、ブエンディア家の「グレイトマザー」>であり、ピラル(ネルネラ)<作品の最初から最後まで生き続ける占い師であり売春宿の主>であると気づかされていく。しかしもちろん、男の物語から女の物語へ、とズレていくだけの話でもない。

「マジックリアリズム」という言葉の裏には、北側に「マジックでないリアリズム」があるという前提にたった視線があるだろう。その視線が「読み手=私」の中で解体しはじめてから、作品が本当に楽しくなっていったのだ。
これは個人的な体験なのだろうと思うけれど、そのまた陰には、北(アメリカ)が中・南(アメリカ)に当時強いていた政治的な圧力を考えれば、のんきに「マジック」とか言っている場合じゃないだろう。個人的読書体験で終わらせてはなるまい。

いったいリアルはどちらの側にあるのか、と考えてしまう。

男は女を求め、女は男を求め(あるいは拒み)る当たり前の多様な豊穣さが、そこにはあるではないか。あるときには近親相姦のタブーを拒み、あるときにはその線を越えようとする。あるときには革命に燃え、暴力を行使しあるいは怯え、あるときには内に籠もって夢想する男達に対し、様々なものに縛られつつ支えられ、それから解き放たれようとし、それらさまざまな営みを成就させていこうとする執着を生きる女たちの姿は、本当にここに「生ー性」がある、との手応えを与えてくれるのではないか。

また、『百年の孤独』という題名にも惹かれる。
ネットで検索すると、そのほとんどが焼酎の名前としてヒットするのだが(笑)、そのネーミングはこの小説を多分に意識したものではないかと推測(根拠はないが)してみたくなる。

「百年」は5世代にわたる「ブエンディア家」とマコンドの町の栄枯盛衰を示す言葉だとみてよいだろう。
では「孤独」はどうか。

作品中の「グレイトマザー」ウルスラは、作品の中で、一族の者が抱えるさびしさというか憂鬱のようなものに繰り返し言及している。その一方の極に、この作品の登場人物中おそらくたった一人だけ(読み過ぎかな?)幽霊を見ることがない大佐が位置しているとはいえるだろう。
たとえば三人の次世代についてウルスラが考える次の部分を見てみるとよい。
ウルスラの、次男アウレリャノ大佐に「愛の能力の欠如の明白なしるし」を見いだし、男を拒み続ける三女アラマンタにその拒否の身振りの中に「底知れぬ愛情と自分ではどうにもならぬ恐れの葛藤」見いだし、そして子供同様に育てたレベーカにこそ「自分が息子や孫たちに望んだ奔放で大胆な心の持ち主」を見いだしている(ガルシアマルケス全小説版P292~P293)。
だがおそらく、ここにあるのは、少佐=孤独、アラマンタ=逆説的な愛、レベーカ=自由、が内面化されているという話ではら、全くない。
ここに描かれているのは、(北)アメリカ(と私たちパクスアメリカ-ナの中で生きてきた現代人たち)がそうであるような近代的個人の孤独や愛、そして自由ではおそらくない。

そうは書かれていない。

むしろ奔放に豊かに生ききる登場人物達が、同じような名前を次々に引き継ぎつつ、同じことを繰り返していく、その繰り返しの中で町が生まれ、繁栄し、衰微し、終焉を迎える……その時空が「孤独」で満たされている、ということであり、「愛」にも満ちているということでもあるのではないか。

あえて言うなら「孤独」(1)ではなく、「孤独」(2)をそこに見る必要がある。
5世代に渡り、血を濃く受け継ぎ、名前も受け継ぎながら模倣し繰り返されるような多層化された一族の人生の「孤独」は、町が広がり、さまざまなシーンを経巡りながらその寿命を閉じていく町の100年の「孤独」と正確に響き合っている。
そこでは「愛」も「孤独」も「自由」も、拒む身振りや革命の流血や、土を食べる奇癖とともにある。それらの人物達に、「愛」なり「孤独」なりの言葉がもたらす原因を尋ねてみても、しょうがないんじゃないだろうか。

人間の諸様態が丁寧に描かれている「幾何学」が見えてくるような気すらする、といえば、スピノザかぶれのおじいちゃんの妄言、ということになるのだろうね(笑)。

だが、この作品は徹頭徹尾丁寧な記述に支えられた律儀な物語だということは言っておきたい。
だから、丁寧に読めば人物を混同するのではなく、むしろ正確に描き分けて豊穣な枝葉が絡み合っている様子が浮き上がってくる仕掛けになっている。マジックはむしろ、単純化してしか物語を読めない私たちの側の「瞳の中」に装着されていた装置の別名ではないのか?そんな風にも思えてくる。

前評判にとらわれず、挫折した何人もの愚痴をとりあえず横において、ゆっくりじっくり、人物の名前と世代のメモぐらいを軽くとりながら読み進めさえすれば十分なんじゃないかな。

コロナ禍の自粛騒ぎに終始したGWも、そうでなければ絶対に読まないまま終わっただろうこの小説を読ませてくれたという意味では、ありがたいものだったのかもしれない。

ぜひ、お勧めです。

だいいち、なにかスポーツをやり遂げたような達成感も得られますし(笑)。







#百年の孤独

観るべし、大西暢夫監督作品『オキナワへいこう』

2020年05月11日 12時30分26秒 | 大震災の中で
大西暢夫監督に初めて会ったのは、今年の春(2020年3月14日)のことだった。

昨年の夏からずっと、大西監督に福島へ来ていただき、『水になった村』<2007年8月4日(土)公開>という映画の

上映会&監督を囲んでの対話の時間&その後じっくりお酒を酌み交わす……

という計画を立てていた。自分たちの仲間でやっているエチカ福島というイベントの第14回になるはずだった。フォーラム福島の阿部さんにサポートいただき、映画館で上映していただけることにもなっていた。特に計画を発案した友人のAは、大西暢夫監督に惚れ込んでおり、この日を心待ちにしていた。

そこに折からのコロナ禍だ。
一時は感染症対策を呼びかけた上での開催も考えたが、最終的に諸事情を勘案して開催を断念することに決めた。

だが、イベントは中止したものの、大西監督のスケジュールもガラガラになっていると聞き、イベントとは別に大西監督を迎えてお酒のみをプライベートで企画することになった。
そこでうかがった話がメチャメチャ面白かったのだが、それは最新刊の『ホハレ峠』の内容だった。
翌日、監督と朝食をとりながら、「『オキナワへいこう』という映画ができたんだよ」という話をうかがう。
これがまた抜群に興味深い。20年間毎週『精神科看護』のグラビアを撮影しつづけていて、その結果としてできあがった映画だという。
『水になった村』という映画、『ホハレ峠』という書籍も、何十年もの時を跨いでできあがった作品で、その取材の重さを感じていたが、『オキナワへいこう』も粘り強いというか、日常との出会いを継続してきた大西監督ならでは、の作品になっている。

前置きが長くなった(コロナ禍で時間だけはあるので)。
連休中、5月2日から、vimeoというサイトで期間限定有料配信がなされていた(再延長がなければ現在は終了、のはず)ものを観た。

すてきな映画だった。
70歳を過ぎた長期入院者の女性が、「沖縄に行きたい」という願いをカードに書く。それは院内のイベントか何かで書いたのだろう。ただし書いた経緯は映画には出てこない。そこも、いい。「沖縄に行きたい」という初期衝動が設定されていて、しかし映画はその直後、その女性が「私いかない」とかたくなに「あきらめる」ところを映し出す。女性の発案で5人の患者さんが沖縄に行く計画に乗り、みんなその気になって看護師と旅行のバッグや荷物を準備始めている時に、である。

映画は、日本の精神科病院が、世界標準からは大きく逸脱した(超)長期入院患者を抱えている「文化」について声高に批判したりはしない。

監督は「明るい映画」にしたかった、とメイキングの自己インタビューで語っている。
そうなのだ。この映画はどこかその「明るさ」に支えられて進行していく。

沖縄行きを希望した人の全てがそれを断念したわけでもなく、全ての人がいけたわけではない。
そのイベントの成否だけが重要なのでもないだろう。
映画が、けっして「オキナワ」にいけるどうかのドラマを描こうとはしていない、ということでもある。

徹底して映画が重視しているのは、おそらく、(ブログ子の感覚でいえば)「出会いを待ち続ける」(by ジル・ドゥルーズ)姿勢だ。具体的で繊細な出会いが、大西監督の映画には溢れている。そしてその出会いは、一瞬一瞬の一期一会で終わるのではなく、「弱い」つながりが「持続する強度」に支えられている。

後半、「オキナワ」に行った患者さんの一人に恋人ができる。その「出会い」についても映画のカメラは丁寧に追っていく。ただ恋人に出会うことだけが重要なのでもない。オキナワに行くという「物語」が重要なのでもない。この映画の目は、そういうことを跨ぎ越して、「生活」をつないでいく。

この感じは、ぜひ映画を観て味わってほしいと思う。
映画が何か人生の一部のシーンや物語を切り取ったり物語ったりするだけの現場ではないことが、そこことこそがしみじみと「明るい」姿勢を肯定できるのだと、分かってくる(ような気がしている)。


映画『オキナワへいこう』も映画『水になった村』も、最新刊『ホハレ峠』も、そういう明るくて丁寧で、繊細で
出会いを大切にしつつそれを長い時間紡いでいく努力の持続を厭わない瞳に支えられている。

私たちが必要としているのは「新しい生活様式」ではけっしてなく、この映画の瞳の力なのだ、と実感した。

ぜひ、観てください。





♯大西暢夫 ♯オキナワへいこう