思えば、何十年も読書会をやってきた。単発のこともあるし、20年近く続いた会もあるが、間違いなく読書会が今の私を育ててくれた。
国語教師として、頭の中に複数の「声」を持っていることは必須条件だ。
そのポリフォニックな「声」たちは、まちがいなく読書会によってしか出会えなかった。
ある時期には私がそうしていることを知らずに「今時読書会なんて妙ちきりんなともをやってる人がいるのね」と知人が嘲笑しているのにであったこともある。
自分でも、酔狂な話だと思わなかったわけでもない。
だが、ただ読書するだけでは「対話」として十分ではない。
複数の読みがあり、それは説得されるべきものではない、響きあうものなのだ、ということを知るために、読書会というツールはなかなかに得難いものだと改めて思う。
そこにテキストがあることの意味を感じる。まことにテキストは、閉じつつ、かつ開かれ続けているものなのだ。
今もたった3人で毎月読み書きをしている。
「2人ではいけない。でも3人いれば読書会は続けられるよ」
今は亡き師匠が、22才の私に言ってくれた言葉が思い出される。