ゲット。
これから読む。
國分さんが博士論文『スピノザの方法』を書いたときから「読む人」としてのスピノザを意識していた、とあとがきで触れている。
私にとって、個人的な意味でこのあとがきの言葉の意味は大きい。
『スピノザの方法』の刊行記念トークが行われたのが2011年、震災の直前だったと記憶している。あれから10年。
國分さんがこの本を完成されるまでの10年間について、感慨深く書いているその同じ時間、私もまた極めて個人的に、ひとりの読者として、この本を待ちこがれていた。
それとこれとは特に関係ない話と言えば関係ない話だ。
震災後の福島にとってスピノザのどこが関係あるのか、といえばまあそれほど。
少なくても「社会」の中で起こっている出来事それ自体とは直接関わりはない。
極めて個人的に自分自身の中で関係づけられているだけだ、ともいえる。
それでも。
自分にとっては50才近くになって初めて出会ったスピノザを國分さんの手ほどきによって読み得るようになったことは、物事を一から考えようとするときに大きな意義があった。
自分の思考がどこかで繰り返し惹かれていくのに、読めないテキスト。
スピノザの本との付き合い方はそんな感じだった。
端的にスピノザが読めないのに気になるという状態だった自分が、ジル・ドゥルーズのスピノザ(平凡社文庫)と國分さんのスピノザに出会ったことは(そしてその直後に東日本大震災と核災害に直面したことも)大きな意味があった、と改めて思う。
スピノザの著作は、超空中戦みたいなもので、それだけ読んでも歯が立たない。
自分は別に学問的なスピノザ読解がしたいわけではなく、そんな能力も意図もない。
自分の「思考の癖」が、気づくとスピノザを求めている、そんな感じなのだ。
藤高和輝の『ジュディス・バトラー』を読んでいて、惹かれたのもそこだ。
バトラーのスピノザ理解のことなどまったくわからない。
ただ自分の「思考の癖」が、読めもしなないのにスピノザのテキストを求めている、そういう傾向性を藤高バトラーの中に映してみているだけのことなのだろう。だが、ひとりの哲学者を読み続けることは、地べたから物事を考え直す時には役に立つ力を与えてくれる、ということも分かってきた。
これから帰宅してこの本を読む。
10年間國分ウォッチャーをし、15年ぐらいスピノザのテキストを握りしめてきたからには、書いてあることの意味ぐらいは概ね分かるだろうと思う。
『スピノザの方法』
朝日カルチャーの通年講座
100分de名著のテキスト
『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)
とフォローしてきて、ようやく到達した『エチカ』論。
有り難い限りだ。
ゆっくり味わいながら読みたい。