三崎公園まで散歩をしに来た。
改めて考えてみると、浜辺に座り込んで潮の香りと波の音をゆっくり味わったのは、震災後初めてのことだ。
自分ではそんなことを考えてもいなかったけれど、海辺で座り込んで波の音を聴くともなく聴くということを、この3年、してこなかったのだ、と改めてその意味をかみしめた。
海辺の出身ではない自分は、どちらかというと浜辺に行きたがる。田舎出身のの人間の方が都会生まれの人より流行のお店を熱心に調べるみたいな感じに少し似ているかもしれない。
海辺は不思議に心が安らぐものだった。
身近に海難事故を経験したり、自分でも危ない目にあってからは、そう能天気ではいられなくなっだものの、それでも波の穏やかな日は、昼夜問わずよくちかくの浜におりていっものだのだった。
でも、震災以後、そういうことをしなくなっていた。そしてしなくなっていたことも気にせずに生活していた。
今年はたぶん私にとって、もう一度拾い直すことも始める時間なのかもしれない。
改めて考えてみると、浜辺に座り込んで潮の香りと波の音をゆっくり味わったのは、震災後初めてのことだ。
自分ではそんなことを考えてもいなかったけれど、海辺で座り込んで波の音を聴くともなく聴くということを、この3年、してこなかったのだ、と改めてその意味をかみしめた。
海辺の出身ではない自分は、どちらかというと浜辺に行きたがる。田舎出身のの人間の方が都会生まれの人より流行のお店を熱心に調べるみたいな感じに少し似ているかもしれない。
海辺は不思議に心が安らぐものだった。
身近に海難事故を経験したり、自分でも危ない目にあってからは、そう能天気ではいられなくなっだものの、それでも波の穏やかな日は、昼夜問わずよくちかくの浜におりていっものだのだった。
でも、震災以後、そういうことをしなくなっていた。そしてしなくなっていたことも気にせずに生活していた。
今年はたぶん私にとって、もう一度拾い直すことも始める時間なのかもしれない。