龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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なんだろうね、内田樹に抱く違和感

2010年06月01日 23時50分16秒 | インポート
友人に送った内田樹への違和感メール。

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例えば、村上春樹を論じない、ってのが私自身のお作法だったし、身体論はあくまで「変態」の側から論じる、というのが基本的スタンスだったわけです。

村上春樹の作品が抱える明度の奇妙に高い
空虚=闇
の強度は、「個」の発する声では十分にはなぞれないと思うから。

内田樹がそうでないやり方で語るのはむろん構わないんだけどね。

語り出す前のもののほうが共有できている気がしてくる、とゆうのかな。


また、正直、彼が武道で語っていることとかは、私が軽量オープンスポーツカーを運転するときの快楽なんかとすごく近いものを感じるのです。
ただし、私にとって垂直性、硬直性を持った領域の話になると、内田の武道の語りは、「うまい話」、身体の利く人の話にすぎないような気がして、ふっと離れます。


たぶん、不自由さの領域への入り方と出方が違うのかもしれない。

貴方が集会で生徒にいったようなことを、最近私は授業で臆面もなくいってます(笑)。
役割としてフィクション化してるから平気。

たぶん私は身体論的には固まって足が止まり、内田せんせに「生殺与奪」の権利を持たれる側だと思うのよ。

そして、その場所から神様を求めている。
東洋の「武道」的立場じゃなくて、切られる大根の側から。
大根にアイデンティファイしていては、武道には近づけない。

しかしもちろん、単に「切られる側=大根の狂気」のままではなくて、その「通じない狂気的表現」を通じて、こちら側=「世界」に戻ってくる。

内田とは単独者として共通しながらも「世界」に帰還するやり方(世界との和解の仕方)が違う、ということかな。

志賀直哉とか三島由紀夫とかも、身体感覚が違ってて、ダメぽです。

むろん内田は単なる「表現者」ではなく、単なる「哲学者」でもなく、哲学的批評表現を操る人でしょう。


貴方も私も、割とその辺りは共通している。
その操り方の方法意識というか、スタイルというか。
そこの違いがどうもね。
たぶんやっぱり、近いから苛々するのかなあ。

身体関係はわかるけど、師弟関係あたりがわからない。
「父なるもの」(垂直軸)
のあり方にもかかわるね、たぶん。
社会的=人間的=日本人的秩序のテイストが、かなりずれていて、合わないんだなあ。

たぶん私はそのあたりになるとむしろ、永井均の路線に近いのかもしれません。

人間(もとい、中年男子)を
1、中島義道
2、内田樹
3、永井均
の三つに分類すると(どうゆう分類だ?やだね、自分で書いてても)、私は明らかに3の配分が大。
みんなかつての「困った子供」なんだけど、遊び方(適応の仕方)が違うよね。
1はあんまり配分比が高くないと思います。
2もかなり入ってはいるけれど、それだけにズレが気になる。

そのズレの中身は、ウ゛ィトゲンシュタイン的自閉と、メルロ=ポンティ的お坊ちゃん風マザコン、かな。落ち着くところはフーコー(ホモセクシュアル)なんだけどさ。

だから、どれをとってみても、師弟とか道とか作法とか共同体とか、とってもダメなの。

貴方は身体の性能が「いい」んだと思う。だからその辺りにはぐだぐだせずともよいのかも。

オレにとっては「身体」と自分は不調和なまま。
齟齬や差異というより、そこの動かないダメさ、へたれさ、から自分を始めてるかんじがあるのです。

自閉的閉塞と逸脱的固化を抱えた身体、かな。
ただし、口は人並み以上に動くけどね(笑)。



ちなみに、レウ゛ィナスコレクション、最近持ち歩いているけど、読むのはなかなかカント関係と中世スコラ哲学ばかりで、そっちにいきません。

というわけで、とりとめない返信でした。

ああ、そうか。
主題は「身体と権力」の問題だね。
それはたぶん、教育の問題でもある。

また酒飲みのときにでも。


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