龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「山形ビエンナーレ」に行ってきた(1)

2014年09月29日 07時37分09秒 | 大震災の中で

いやぁ、面白かったです「山形ビエンナーレ」。
10月中旬までやっているので、近くの人はぜひ一度。遠くの人も遊びに行く価値はあると思うなあ。

いろいろ山形は美味しいし!

さて、最も重要な収穫の一つが、これ。
荒井良二の絵本「イノチダモン」

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4902943883/ref=mp_s_a_1_1?qid=1411944038&sr=8-1

この山形の芸術祭に配置されていることでかなり更にやられました。


三瀬夏之介、いしいしんじ各氏の作品との響き合いも含めて、素敵。

和合さんは週末の会津エンジン009にも参加していて今超売れっ子なんだけれど、私には「山形ビエンナーレ」との関係についていえば、今ひとつ腑に落ちないです。

和合さんの立ち位置は、梅佳代さんの作品内で変顔をする子供たちの「配置」かな、とふと思ったり。

三瀬さんは素材として学生の作品や表現を企画の中に取り込んでいる。いしいしんじさんも読んだ人はすぐ分かるように、そこで描かれている子供は実のところ超抽象画っぽくて、それが荒井良二さんとコラボしながら道の奥の「門」と響き合っている。

荒井良二さんの童話もそう。
梅佳代が撮った山形の中学生なんて、すぐにそこから飛び出しそうだし。

そこにいくと、和合亮一さんの詩はある意味で素材それ自体でもある?

これってある意味で凄いんだけど、ここまでくると場所はどこでも良くね?とも思うわけです。逆に今回は「布の上」にプリントされているんだけど、逆にそれも、ありでそこは面白い。

三瀬さんの作品には奈良や京都が確かに歴史として刻まれてる感触はあるけれど、同時に山形の「今ここ」も匂ってくる。

つまりね、「山形ビエンナーレ」ってのは「場」だよね。和合亮一さんの言葉の凄いところは個人的には「平面滑走感」だと思うわけ(あ、横だけじゃなくて縦も動くんだけど)。
震災以前も震災以後も。和合亮一さんのことばのツルツル感は不変だって受け止め方をしている。
すると、他の作品群との「場」における関係が見えにくくなるという話です。言葉の意味、じゃなくてパフォーマンスとしてね。

コトバ、とくに詩のコトバは面倒です。
つまり和合さんの「語る」東北と三瀬さんのいう東北はかなり緊張を孕んですれ違っているはずだし、それは実は和合さんがが語っていないところと響き合っているわけで、そこの勘所が掴めないでいるってことです。あとは個人的に詰めるべき課題かな。

さて、山形まで来れない人はこの荒井良二さんの絵本をひとつ、いかがですか?

スゴイよ(^_^)/

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