5月2日(水)雨【宗教の風光(九)二途にわたらぬこと】
本師余語翠巖老師の『宗教の風光』(中山書房仏書林刊)より、宗教の風光という表現を使われて、道を説かれている箇所を、時々ご紹介していますが、この頃はご無沙汰していました。それで、何回目のご紹介かも忘れていましたが、今回で九回目でした。
私の解説を付けずにご紹介させて頂きます。お読みくださいます皆さまの心の世界にお任せしたいと存じます。
「人はせっかくこの世に生まれたからには、意義ある人生を送らねばならぬと考えるのが当然であるように思っているが、どのようなことが意義あることなのか、定かにはわかりはしない。
一人一人の絵模様を、意義あるものと意義なきものとに分けるのは、人間の妄想のはなはだしきものである。つまらぬことに精を出すことをやめて、もっと意義あることに精を出すと考えることが、分別の所産というべきである。
二途にわたらぬ、とういことが安楽の法門と言われる所以である。それが至極の道理というものであり、「菩提(ぼだい)を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり」と示される。宗教の風光とはそういうものである。」(『宗教の風光』第二章「普勧坐禅儀のこころ」より)
*妄想(もうぞう、と仏教的には読みます):とらわれの心によっって、真実でないものを真実であると誤って考えること。またその考え。(『大辞泉』の訳)
*絵模様:老師はよく絵模様とか綾模様とかの言葉を使われましたが、その意味は老師自身の言葉から「坐するすがたが目当て自身だとする信は、人間の生涯が何かの手段でないと同じように、何十年かの人生のカンバスの上に描き出す一人一人の絵模様は、それがどのようなすがたであっても、そういうすがたをした天地のかざりである」
*二途:二つの道、二つの方法。
*菩提:さとり
*解説はしないつもりでしたが、少し解説をつけますと、この文章は、道元禅師の〈普勧坐禅儀〉という、坐禅についての教えを、老師が説いてくださっている箇所です。ですから、安楽の法門も、至極の道理も、「菩提を究尽するの修証なり」も、つまりは坐禅のことを言っているわけです。十分にお分かりの方には、不要の解説で恐縮ですが、仏教の学びにはあまり縁のない方も、お読みくださっていますので老婆心ご容赦。
*お互いに他と比較することなく絶対の安心に生きることを、老師は常にお説きでした。