先日今村復興大臣が、自民党会派のパーティーでの発言が問題になった。それは東北の震災被害の説明で、「・・・まだ東北で、あっちの方でよかっがよかったんですけど、これが本当に首都圏に近かったりすると莫大なんですね、甚大な被害があったというふうに思っております。・・・」という発言である。これが被災地の実情を考えない暴言だ、ということで大問題になり、即刻更迭になってしまった。
この事件で、マスコミは被害者を深く傷つける発言、被害者感情を逆なでする他人事のような発言、大臣としての資質を欠き情けない、という報道が大半であったように思う。しかしニュースで記者会見の様子を見ていても、当の本人は、「俺、何か悪いことを言ったのだろうか???」と言う表情で、自分の中では納得はしていなかったように見えた。
最近読んだ本に「老人の壁」というのがある。その中で養老孟司が・・・「この年になるとやっていることに対して距離感がでてきますね。若い人が一生懸命やると必死になるでしょう。もう、必死になるもの、ないんですよ。だって、いくら必死になったっても、もうすぐ寿命が来るんだから、・・・」と言っている。今回の今村議員は70歳、復興大臣という職責に対して必死でやるには無理な歳である。当然被災者に対しても距離感があり、評論家的な発言になってしまう。だから本人の認識と世間の認識とにズレが生じてくる。基本的には大臣などの重責には若い人を起用すべきで、ゆめゆめ70歳を超えた老人を起用してはいけないように思うのである。
「老人の壁」の中で養老孟司はこんなことも言っている。・・・・至れり尽くせりの介護ってどこまで必要なのかって思うことがありますよ。体が丈夫で、うろうろ出歩いてっていうのはこまるけど。・・・・・・ 「ちゃんとやらせりゃ、できるじゃねえか」っていう気もします。あんまり介護をちゃんとやると、本人がそれ、やらなくなっちゃうでしょ。当たり前ですよ、つまり「いつ車いすを使うか」と同じ問題。車いすを使った人は一方では、「こんな楽なら早く使えばよかった」とも言うし。だけど、車いすを使い出したら、もう自分で歩くことはできないんだから。・・・
私は老人の壁の最大なものは「楽をしたい」という意識だろうと思う。街中でよく見る老人の自転車、歩くのが億劫だから自転車に乗る。当然歩くより行動半径は広がり、しかも全体重をサドルに乗せ、手を使ってハンドルでバランスをとれば良いから楽である。歩けば体重や荷物の重さは腰や両足にかかり、何かに躓けば転倒につながる。歩くことが健康維持につながることは自明である。しかし「楽をしたい」という壁を越えられず、しだいに歩くことを億劫がり、自転車に頼ってしまうことになる。
歩く時に使う筋肉と自転車を漕ぐ時の主体になる筋肉は違う。したがって自転車に頻繁に乗る老人は足腰が弱ってきて、歩くことが億劫になる。だから歩けば足首や膝が痛くなり、ますます歩く頻度が少なくなる。当然運動不足になり、肥満など生活習慣病を発症しやすくなる。
足が痛めば湿布を貼り痛み止めを飲む。痛み止めを飲めば胃が荒れるから胃薬をもらう。運動不足で生活リズムが狂えば不眠症や便秘症などになりやすい。その都度医者に通い薬を出してもらう。薬の種類は増え続け、調剤薬局からレジ袋いっぱいの薬をもらってくることが当たり前になる。多い人は20種類の薬を飲む人もいると聞く。まさしく医者と製薬会社の戦略に取り込まれることになる。
なぜこうなるのか?生活習慣病は生活習慣を改める事で改善する。しかしそれが面倒だから、手っ取り早く薬で解決しようとする。「楽をする」という壁は次第に高くなり、やがて自分に迫ってきて越えようが無くなってくる。こんな「壁」も別に老人達ばかりではないであろう。人の意識の中には「安全」「安心」「便利」「楽」「快適」・・・など様々な欲求がある。例えば「食の安全」に対する強い意識は、買った牛乳の消費期限が1日過ぎたからと捨て、消費時間を1時間過ぎたコンビニのおにぎりを食べないなどの行為になってくる。これも自分を守る意識の壁なのだろうが、品質管理を勉強したり、よく考えればこんな極端なことにはならないはずである。
「壁」があればリスクは軽減し安心が増すように思う。しかし反対に融通が利かなくなり、広がりを失い不自由になってくる。昔読んだ養老孟司の「バカの壁」でこんな提案をしていたように記憶している。都会の会社は社員を1年間僻地に転勤させ、農業をやらせた方が良い。生活の環境を変え、仕事を変えてみることで、壁が低くなったり取り払われることもある。そのことで柔軟な生き方や発想が生まれてくる。そんな内容だったように思う。我々老人も若い人もあまり守りに入らず、環境の変化を恐れず、新しいことへのチャレンジが必要になってきたようにも思うのである。