60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

老人の壁

2017年05月05日 05時40分40秒 | 読書
 先日今村復興大臣が、自民党会派のパーティーでの発言が問題になった。それは東北の震災被害の説明で、「・・・まだ東北で、あっちの方でよかっがよかったんですけど、これが本当に首都圏に近かったりすると莫大なんですね、甚大な被害があったというふうに思っております。・・・」という発言である。これが被災地の実情を考えない暴言だ、ということで大問題になり、即刻更迭になってしまった。
 
 この事件で、マスコミは被害者を深く傷つける発言、被害者感情を逆なでする他人事のような発言、大臣としての資質を欠き情けない、という報道が大半であったように思う。しかしニュースで記者会見の様子を見ていても、当の本人は、「俺、何か悪いことを言ったのだろうか???」と言う表情で、自分の中では納得はしていなかったように見えた。
 
 最近読んだ本に「老人の壁」というのがある。その中で養老孟司が・・・「この年になるとやっていることに対して距離感がでてきますね。若い人が一生懸命やると必死になるでしょう。もう、必死になるもの、ないんですよ。だって、いくら必死になったっても、もうすぐ寿命が来るんだから、・・・」と言っている。今回の今村議員は70歳、復興大臣という職責に対して必死でやるには無理な歳である。当然被災者に対しても距離感があり、評論家的な発言になってしまう。だから本人の認識と世間の認識とにズレが生じてくる。基本的には大臣などの重責には若い人を起用すべきで、ゆめゆめ70歳を超えた老人を起用してはいけないように思うのである。
 
 「老人の壁」の中で養老孟司はこんなことも言っている。・・・・至れり尽くせりの介護ってどこまで必要なのかって思うことがありますよ。体が丈夫で、うろうろ出歩いてっていうのはこまるけど。・・・・・・ 「ちゃんとやらせりゃ、できるじゃねえか」っていう気もします。あんまり介護をちゃんとやると、本人がそれ、やらなくなっちゃうでしょ。当たり前ですよ、つまり「いつ車いすを使うか」と同じ問題。車いすを使った人は一方では、「こんな楽なら早く使えばよかった」とも言うし。だけど、車いすを使い出したら、もう自分で歩くことはできないんだから。・・・
 
 私は老人の壁の最大なものは「楽をしたい」という意識だろうと思う。街中でよく見る老人の自転車、歩くのが億劫だから自転車に乗る。当然歩くより行動半径は広がり、しかも全体重をサドルに乗せ、手を使ってハンドルでバランスをとれば良いから楽である。歩けば体重や荷物の重さは腰や両足にかかり、何かに躓けば転倒につながる。歩くことが健康維持につながることは自明である。しかし「楽をしたい」という壁を越えられず、しだいに歩くことを億劫がり、自転車に頼ってしまうことになる。
 
 歩く時に使う筋肉と自転車を漕ぐ時の主体になる筋肉は違う。したがって自転車に頻繁に乗る老人は足腰が弱ってきて、歩くことが億劫になる。だから歩けば足首や膝が痛くなり、ますます歩く頻度が少なくなる。当然運動不足になり、肥満など生活習慣病を発症しやすくなる。

 足が痛めば湿布を貼り痛み止めを飲む。痛み止めを飲めば胃が荒れるから胃薬をもらう。運動不足で生活リズムが狂えば不眠症や便秘症などになりやすい。その都度医者に通い薬を出してもらう。薬の種類は増え続け、調剤薬局からレジ袋いっぱいの薬をもらってくることが当たり前になる。多い人は20種類の薬を飲む人もいると聞く。まさしく医者と製薬会社の戦略に取り込まれることになる。
 
 なぜこうなるのか?生活習慣病は生活習慣を改める事で改善する。しかしそれが面倒だから、手っ取り早く薬で解決しようとする。「楽をする」という壁は次第に高くなり、やがて自分に迫ってきて越えようが無くなってくる。こんな「壁」も別に老人達ばかりではないであろう。人の意識の中には「安全」「安心」「便利」「楽」「快適」・・・など様々な欲求がある。例えば「食の安全」に対する強い意識は、買った牛乳の消費期限が1日過ぎたからと捨て、消費時間を1時間過ぎたコンビニのおにぎりを食べないなどの行為になってくる。これも自分を守る意識の壁なのだろうが、品質管理を勉強したり、よく考えればこんな極端なことにはならないはずである。
 
 「壁」があればリスクは軽減し安心が増すように思う。しかし反対に融通が利かなくなり、広がりを失い不自由になってくる。昔読んだ養老孟司の「バカの壁」でこんな提案をしていたように記憶している。都会の会社は社員を1年間僻地に転勤させ、農業をやらせた方が良い。生活の環境を変え、仕事を変えてみることで、壁が低くなったり取り払われることもある。そのことで柔軟な生き方や発想が生まれてくる。そんな内容だったように思う。我々老人も若い人もあまり守りに入らず、環境の変化を恐れず、新しいことへのチャレンジが必要になってきたようにも思うのである。


 
 
 
 
 

マスクダイエット

2017年02月10日 08時33分27秒 | 読書

 本屋の中を見て回っていて、《マスクつけるだけダイエット》という本が目に止った。「ハテ、どういうことだろう?」と思いパラパラと本をめくってみた。要旨はこうである。米国規格のN95に準じた素材を使用し、0.1μmの粒子を98.9%以上カットできるマスクを使う。当然メッシュが細かいから呼吸するのに負荷がかかる。この呼吸抵抗は一般のマスクの4倍、それに伴い肋骨にある筋肉や横隔膜などの呼吸筋を鍛えることになり、それが呼吸機能を向上させ基礎代謝をあげることになる。・・・・・そういう理屈である。本の右下に「2週間で-3.1kg!インフルエンザ、花粉、PM2.5もブロック!」、左下に「高級マスク付き(2枚)」と書いてあった。定価1000円

 もともと面白い発想や道理に適っていると思われるものには興味が向く方である。元来マスクはうっとおしいので使う習慣がない。しかしマスクで本当に効果があるのか?、興味を持ったものは自分で実践してみなければ気がすまないタイプでもある。今の時期インフルエンザや花粉症でマスクの人は大勢いる。マスクを付ける目的は違うが、その中に紛れれば目立つことはないだろう。早速試してみることにした。

 付け始めてみると確かに息苦しい。特に歩いているときなど常に自分の呼吸を意識している感じになる。普通1回の呼吸で350ml、1分間に16回を呼吸するとして1日2000回以上、1日約7000リットルの空気を出し入れしていることになる。本では就寝時などを除いて1日8時間程度マスクをかけることを推奨している。それでも7000回の呼吸に負荷がかかれば、それだけ余分なエネルギーは使うし、それだけ呼吸筋は鍛えられるであろう。しかし自分に花粉症があればマスクのうっとおしさも我慢できるなろうが、ダイエット目的だけでそのうっとおしさに耐えて継続できるかどうか、ここがこのマスクダイエット法のポイントである。
 
 
※ 著者は呼吸器内科のスペシャリストということで、呼吸に関するうんちくが書いてある。その中からいくつか抜粋してみる。
 
 肺は、自分でふくらんだり縮んだりすくことは出来ない。呼吸を行うための筋肉が伸縮して、肺をふくらませたり縮んだりする。呼吸を行うために使う筋肉のことを総称して「呼吸筋」と言う。主な筋肉として「横隔膜」と「外肋間筋」、補助的なものとして「腹直筋」や「胸鎖乳突筋」などがある。呼吸筋は20代をピークに、だんだんと衰えてくる。
 
 呼吸筋が衰えると、少しの運動で息苦しくなったり、ウイルスを吐き出す力が弱まり病気のリスクが高まってくる。呼吸筋を鍛えることは可能で、その状態は肺活量を検査することで「肺年齢」として把握できる。
 
 胸式呼吸は主に肋間筋の収縮によって行う呼吸のことで、胸を広げる呼吸法のため、背骨た肋骨、胸骨の関節を柔らかくする。また胸式呼吸にかかわる筋肉の収縮は交感神経を活性化させるため、身体を目覚めさせるなどの効果がある。しかし過剰に行うと全身を緊張させ、肩こりや首のこりにつながる。一方腹式呼吸はおもに横隔膜の収縮によって行う呼吸。この呼吸法だと横隔膜の動きによって静脈やリンパ管が圧迫されたり解除されたりする。このことで血液やリンパの流れがよくなり、むくみが解消されたり内臓が刺激され副交感神経が活性化して全身がリラックスする。
 
 鼻呼吸と口呼吸では、身体のために良いのは鼻呼吸です。なぜなら鼻呼吸は、鼻毛や鼻孔の粘膜がフィルターとなって、不衛生な外気や異物の侵入をブロックしてくれる。また冷たく乾いた外気を適度に温めたり、湿らせる役割も果たす。一方口呼吸は外気や異物が直接体内に入るだけではなく、口の中が乾くことで口臭を招き虫歯の原因にもなる。
 
 インフルエンザウイルスの大きさは0.1μm(10000分の1mm)である。咳やくしゃみに伴い飛散するウイルスは水分に覆われ5μm程度になる。一般のマスクは、約5μmの粒子をブロックできるから、くしゃみや咳に伴い飛散するウイルスはブロックできる。またスギ花粉の粒子は20~40μmでこれもブロックできる。しかし空気中に浮遊するウイルスやPM2.5(2.5μm)はブロックできない。煙草の煙(副流煙)もPM2.5の仲間、粒子の大きさは1μmとさらに小さく、当然ながら一般のマスクでは侵入を防ぐことはできない。

 米国規格のN95マスクは0.1μmの粒子を95%以上カットできる規格のマスクである。






薬の功罪

2017年01月20日 09時07分00秒 | 読書
 通勤途中、いつも本を一冊持っていないと手持ち無沙汰である。だから一冊読み終えれば、直ぐに本屋へ行くことになる。最近は小説をあまり読まないから、どちらかといえば生活に密着した新書が多くなる。今回は薬に関してのもの。《その一錠が脳をダメにする》著者宇田川久美子、タイトルはセンセーショナルであるが、めくり読みすると共感できることもある。早速読んでみることにした。
 
 著者は薬剤師である。その著者が自分の経験からこんなことを書いている。
 
 若かりし日の私も、頭痛薬を手放せませんでした。薬の量も1錠から2錠、3錠と増え薬学部の友人から心配されたほどです。それでも私は飲み続けました。痛みを抑えなければ勉強することもリラックスした時間を楽しむことも出来なかったからです。そして薬剤師になると、様々な薬に囲まれて働くようになります。そんな薬に恵まれた環境は、薬への依存をいっそう高めさせました。
 薬の知識があるだけに、痛みを消すにはどんな薬がよいのか分かります。つらい痛みを薬で抑え込み、それがうまくいかなければ薬の量を増やしたり、より作用の強い薬を飲んだりする。そんな薬漬けの生活が30年近くも続きました。頭痛薬、ビタミン剤、胃腸薬、筋弛緩剤・・・・7種もの薬を毎日17錠も飲んでいたことがあります。しかしどれほど薬を飲んでも、痛みから解放されることはない。痛み止めに含まれる鎮痛成分には、痛みを軽くする作用があるだけで、痛みのもとを除く働きはありません。それだけではなく、常用していると、頭痛の起こる頻度は増え、痛みは強くなっていく。頭痛を取るために薬を飲み、一時的に痛みを抑えたところで、再び強い痛みがやってくるのだとしたら、何のための薬かわかりません。悪循環にはまり込むだけです。薬を大量に飲み続けてきた私は、薬と決別する覚悟を決めました。
 
 著者は医療のあり方を視点を変えて見ることで、今の薬の扱われ方を警告し、健全な薬のあり方について書いている。以下ポイントになる所だけを抜粋してみた。
 
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 実は、薬とは「病気を治す」ものではありません。ほとんどの薬は、心身に生じる症状を抑えるためのものです。本当の意味での健康な心身を築くには、まずは薬に対する認識を改め、できる限り薬に頼らずにすむ身体づくりを始める事です。
 
 薬剤師は薬学部に入学した時から薬の勉強を続けることになりますが、真っ先に教わるのは「薬は身体にとって異物であり、毒である」と言うことです。異物が身体に起こす反応の力を借りて、不快な症状を感じにくくしたり、症状を抑え込んだり、病原菌の力を削いだりするのが薬です。つまり薬とは、病気の力を抑えて、自然治癒力が働きやすくなるようサポートするのが本来の目的。そのために薬は存在するのです。つまり、病気を治す主体はあくまでも身体に備わった自然治癒力。薬はそれを支えるもの。ところが多くの人は、「薬が病気を治す」と勘違いしています。
 
 「くしゃみ3回○○3錠」「効いたよね、早めの○○○○」などといったキャッチフレーズは、症状の出始めに薬を飲んでおけば、翌朝にはスッキリ爽快、風邪を吹き飛ばせることを視聴者に連想させます。しかしCMはイメージを植えつけるためのの映像で、どこにも「風邪が治る」とは言っていません。薬に風邪を治す力がないことを知っている人達が、ウソを語らずに薬の力を信じさせるためにつくった巧妙なしかけです。
 
 風邪薬の多くは、回復に向けて欠かせない免疫反応を抑え込んでしまうものです。これによって、つらく不快な症状が一時的に軽減されます。本人は「風邪がよくなった」と思うかも知れません。しかしウイルスは体内でくすぶり続けます。風邪薬に頼っている人ほど、症状がすっきりとれにくいのはこうした理由があるからです。
 
 しかし、抗生物質だけは少し話が異なります。抗生物質は20世紀最大の発見と呼ばれた名薬です。「神の薬」「救世主」とたたえられたほど、世界中で多くの命を救ってきました。世界最初の抗生物質はペニシリン、その後、数々の抗生物質が製造され、細菌による感染症の治癒に絶大な力を発揮しました。ところが人類は、残念なことにこの大切な薬の使い方を誤りました。効力の高さゆえ、乱用するようになったのです。抗生物質は、細菌による感染症を抑えるうえですばらしい威力を発揮します。ただし効くのは細菌感染においてのみです。風邪も感染症の一種ですが、原因のほとんどがウイルス。ウイルス感染において抗生物質は無力です。ところが、先進諸国では、抗生物質の威力を過信し、風邪にも抗生物質を処方する時代を長く続けてしまったのです。その結果抗生物質の効かない耐性菌の出現です。
 
 欧米では、一度の受診で処方されるのは1剤のみの「1剤処方」が基本です。ひるがえって日本では、5剤以上の処方も珍しくありません。名著「ドクターズルール425 医者の心得集」には、「4剤以上飲まされている患者は、医者の知識が及ばない危険な状態にある」「薬の数が増えれば増えるほど、副作用のリスクは加速度的に増す」という提言が記載されています。薬の乱用は、人の健康を脅かし、国全体を不幸な状態に導く大問題であると、先ずは知って欲しいと願います。
 
 効き目のよい薬や即効性の高い薬ほど、身体のどこかで副作用が生じています。なぜなら飲み下された薬は腸から吸収されると、血流にのって体中をまんべんなくめぐっていくからです。当然のことながら、薬には意思はありません。薬を必要としている個所にピンポイントで届くわけではなく、随所で作用を及ぼします。例えば咳止めを飲めば、のど粘膜の炎症を柔らげるだけではなく、脳や胃腸などの内臓諸器官から手足などの末端にいたる粘膜に、作用が働くことになるのです。
 
 薬の作用には、必ずプラス(効果)とマイナス(毒性)があります。患部に働きかけるプラスの作用を主作用といい、意図した作用以外のマイナスの作用を副作用といいます。副作用には眠くなる、蕁麻疹がでるなど自覚できるものもあれば、自覚はないけれど体内でなんらかの作用をもたらしていることもあります。プラスとマイナスはワンセットであり、薬の効果を感じれば、身体のどこかで副作用も起こっています。軽い気持ちで飲んだ一錠が、思わぬ結果をまねくこともあります。
 
 「薬は命と健康を守ってくれるもの」と思い込んできた方には衝撃かもしれませんが、医師がつくる多くの学会は、製薬会社と表裏一体の関係にあるのです。メディアが報道する情報も、資金の豊富な製薬会社や影響力の大きな広告代理店が背景に絡んでいれば、鵜呑みにできないものとなります。近年の健康ブームにのり、テレビでは毎日のように健康情報が流されます。名医と呼ばれる医師たちが登場し、視聴者の不安をあおる形で病気を説明します。テレビ局は製薬会社をスポンサーとし、名医と呼ばれる医者は「早期発見、早期治療」を呼びかけて大勢の人を病院に集め、製薬会社は医師達に薬を売ってもらう、・・・・。テレビの健康番組には、こうした連携が見え隠れしています。
 
 たとえば高血圧の降圧剤治療、「130超えたら血圧高め」とイメージ宣伝が効いているのか、医者は過剰に降圧剤治療を進めます。現在、降圧剤ビジネスの市場は1兆円規模になっています。日本では約4000万人が高血圧症と推定されており、3000万人以上が降圧剤を毎日服用しています。具体的には、50歳以上の約4割近くが降圧剤の常用者です。これは異常な状況です。降圧剤は血管を拡張して血圧を抑える作用はありますが、血管壁をピチピチに若返らせる働きはありません。血管を拡張するので一度飲み始めると「一生のおつきあい」というのが医者の常套句になります。大勢の患者さんが降圧剤を飲んでくれていれば、医療も製薬会社も安泰です。
 
 ではどうすればよいか。そのために重要なのは、「身体の声を聞く」ことです。痛みやだるさ、疲れなどの不快感は、身体から送られてくるSOSのサインです。サインを受け取ったら、薬で症状を抑える前に、身体のためにできることを実践してあげて下さい。たとえばひたすら眠る。食欲がないときは食事をする必要はありません。発熱時、味がしない、何を食べても苦く感じるというのは、身体が「食べないで」とサインを送っている証です。私たちの身体は2~3日は食べなくても大丈夫です。脱水症状を起こさないよう、こまめに水分補給をし、身体の声に従って休んでいれば、風邪は治っていきます。風邪をひいたら薬に頼らず、自らの免疫力だけで治すという体験を積んで見ましょう。成功体験が、薬を遠ざける第一歩となるはずです。
 
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 糖尿病にしても高血圧症にしても高脂血症や脳卒中、心臓病、はたまたガンまで生活習慣病といわれている。本来なら生活習慣を改めれば病気になりにくいし、改善できるはずである。しかし、多忙な生活に追われていると、どうしても薬に頼りがちになる。しかしこれでは根本的な解決にはならないばかりか、身体を痛めることになる。著者が言うようにまずは身体の声を聞く、そしてそれが風邪など、今までの経験の範囲であれば自己免疫で自力で治す。症状が重いものだったり今まで経験したことのない異変であれば、医者に行って検査を受ける。それでもだだ医者の処方を鵜のみにするのではなく、自分でも調べ対応を考えてみる。自分の身体だから、医者任せにせず自分が把握し管理する。そんなスタンスが必要なように思うのである。













芥川賞と直木賞

2016年09月02日 09時03分01秒 | 読書
 お盆休みに芥川賞受賞の「コンビニ人間」と、直木賞受賞の「海の見える理髪店」を読んだ。最近はなかなか小説を読むのが億劫になってきた。それは歳をとるに連れて映画でもTVでも小説でも、込み入ったストーリーや複雑な人間模様、それにサスペンスなどでおどろおどろしい情景描写などは敬遠するようになった。それは残り少ない人生、あまり心を乱さず、穏やかに生きていたいという願望があるからかもしれない。そんなことから読んで見たい作品を選ぶのが面倒なのだろう。今回受賞の2作品の書評を読んで、それほどハードでもなく、人の持つ性格や感情を推し量るようなソフトな作品のように思えたからである
 
 芥川賞作品 「コンビニ人間」 村田 沙耶香 著
 
 主人公は36歳未婚女性。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトをして18年、これまでに彼氏と言うべき相手もいない。彼女の性癖は幼少期から人とは少し変わっていた。公園で死んでいた小鳥を見て「お父さんは焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」と言い出したり、ある時は小学校で同級生の喧嘩を止めるために、スコップで男の子の頭を何の躊躇もせず殴ったり、・・・・こんな一連の行為も彼女に悪気はないし、何が間違いなのかも分からない。しかしそのことで両親が悲しんだり、友達から不思議がられる。やがて彼女は自分で判断すること避け、妹のアドバイスにそって生活するようになる。
 
 そんな彼女だから大学を卒業しても就職できず、唯一コンビニだけが働ける場所であった。それはコンビニがマニュアル世界で、店員の行動は挨拶から作業内容まで全てマニュアル化されている。そんな環境で働くことは、彼女自身が判断することを要求されることなく、普通の人間として振舞える場所だったからである。彼女はコンビニが唯一、社会と関わっていける接点のように感じていた。
 
 
 昔読んだ心理学の本にこんなことが書いてあった。相手を理解する手段として、自分をベースにし、そこに相手の特性や性格を色づけしたモデルを作る。そしてそのモデルを通して相手の内面を推し測っていこうとする。しかしそれは相手も自分と同じような思考方法を取るという前提が生じることになる。一般的な人の場合は同じような思考方法をとることが多く、特に大きな支障はない。しかし稀に大きく異なった性癖の人もいる。今回の主人公はどちらかと言えば世の中に少ない性癖を持った1人である。だから普通の人から見れば彼女の行動が理解できないし、彼女から見れば、なぜ自分が理解されないのかが分からない。自分が理解されない世の中をどのように暮らしていったらよいのか、その手段として有効だったのがコンビニエンスストアーであった。
 
 この小説に出てくる主人公は極端なように見えるが、大なり小なり通常の社会の中に存在するのではないかと思う。昔と異なり個人主義で個性を重んじるのが当たり前の今日、普通の人という概念がなくなってきた。したがって相手を理解しコミュニュケーションしていくことが次第に難しくなってきたのも確かである。自分を理解してもらえないから自分の中に閉じこもる人、お互いを理解し合えないために起こるトラブル、ニュースで報じられる不可解な動機の事件、次第に複雑になって行く世の中で、人もまた多様さの中で生きていく覚悟を求められる。そんなことを感じさせてくれた小説である。


               
 
 直木賞の「海の見える理髪店」 萩原浩 著
 
 題名の短編を含め6編の短編集である。
 
 ①「海の見える理髪店」・・・離婚して出て行った父親は理髪店を営んでいる。そこに別れた息子が散髪に訪れる。
 ②「いつか来た道」・・・母親を嫌って出て行った娘が久しぶりに帰郷した。ギクシャクした会話から母の認知症が進んでいることを知り戸惑う娘
 ③「遠くから来た手紙」・・・夫婦喧嘩で実家に帰って、そこで見つけた恋人時代の夫との手紙の束。それを読み返し当時のことを回想する妻
 ④「空は今日もスカイ」・・・家出した少女、途中で知り合った親に虐待を受けている男の子、連れ立っての逃避行の結末は
 ⑤「時のない時計」・・・父親の形見の腕時計を修理に行った娘、時計から思い起こす父親のこと、店内の止った時計に刻まれた時計屋の老人の記憶
 ⑥「成人式」・・・15歳の一人娘を交通事故で失った夫婦の喪失感、生きていれば成人式を迎える娘宛てに、着物販売のパンフレットが送られてきた。
 
 小さいがガッシリした体格の時計屋の老人を表現するのに、「骨格がしっかりしていて、焼いた骨が骨壷に入りきらない世代」と書いてある。小説はそのストーリー性も大切であるが、一方その表現力も重要な要素だと思う。表現の仕方でその小説の品位が決まり、味わいが増してくる。この短編集はそんな表現を味わいながら淡々と読み進めていける。そこに展開しているのは父と息子、母と娘、夫と妻、親と子・・・・近くて遠く、永遠のようで果敢ない家族と言う関係性を静かに語っている。
 
 こんな小説を読むと、「自分もこんな小説が書ければ良いなぁ~」と思う。自分の生きてきた人生の中で、小説のテーマになるような出来事は数多くある。しかし私にはそれを表現する能力がない。10年前、朝日カルチャーセンターの小説教室に通ったことがある。しかし半年で挫折してしまった。だから余計にそう思うのだろう。著者の略歴を読むと数多くの賞をもらったプロである。もう少し作者の表現力を味わってみたい。既に文庫本も多く出ているようだから、他の作品も読んでみようという気になった。






宗教に思う

2016年01月29日 08時23分54秒 | 読書
 イスラム過激派(IS)による攻撃が世界各地で激しくなり、直近の3か月に1000回を超える攻撃で3000人近くが死亡したというニュースもある。欧米諸国への不満に端を発し、貧困や格差社会への不満が要因なのであろうが、根っこには歴史的な宗教対立があるのだろう。十字軍(キリスト教)による聖地エルサレムのイスラム教諸国からの奪還に始まり、ユダヤ教とイスラム教、イスラム教の中でのスンニ派とシーア派、その中で派生したISと世界全体と言う風に・・・、そんなことから宗教を少し知ってみようと思い、「世界の宗教」がわかる本を数冊買って読んでみた。以下読んでみて私が宗教に思うことを書いてみる。
 
 本来宗教は人を苦悩から救うものだったはずである。しかしその宗教が存在するがために、争いがより根深いものになっているように思える。それは自分の信じる神が絶対的もので、他の神を信じる者は異教徒として排除の対象になるからである。そのもっとも先鋭的な宗教がイスラム教なのかもしれない。イスラム教では神への帰依として1日5度の礼拝が義務づけられている。毎週金曜日と、年2回ある祝祭日の礼拝は集団で礼拝を行う事が決まりで、さらにラマダン月には日の出から日没まで断食が命じられている。そして一生に一度はメッカの巡礼が求められる。ここまで厳しい戒律のある宗教に属していれば、帰属意識も団結力も強くなり、一旦もめごとが起これば集団としての行動につながり、大きな争いにも発展しやすいのかもしれない。
 
  宗教には一神教と多神教がある。唯一の神という概念を持つのが一神教でキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ゾロアスター教などで、多神教はヒンドゥー教、仏教などがある。また宗教の信者数を人口比に換算すると、おおむね3人に一人がキリスト教、4人に一人がイスラム教、6人に一人がヒンドゥー教、14人に一人が仏教徒の割合になる。ということで世界人口の6割程度が一神教のキリスト教(+ユダヤ教)とイスラム教が占めている。したがって当然この2強による衝突は必然のことかもしれない。
 
 日本古来の宗教は神道で「八百万の神」という言葉通り、草、木、山などさまざまな神が存在する。6世紀に伝来した仏教も阿弥陀如来、薬師如来などさまざまな信仰の対象が存在する。そんな多神教的な要因から受け入れやすかったのか、今まで共存してきた。そして現在では生活の中で、あまり意識されないかたちで溶け込んでいる。現代の日本人は無宗教と言われるが、戒律が緩やかなため宗教に対して無意識あるいは無自覚なお国柄なのであろう。そんな歴史が幸いしたのか、我々は世界的な宗教対立には巻き込まれずに済んでいる。
 
 私のように宗教に無自覚な日本人は口には出さないが、神なぞ存在しないと思っている。神を作り上げたのは人であり、それは人の弱さからであろう。生きとし生けるものは死を避けることができず、誰しもが直面しなければならない恐怖である。人は死んだ後、意識はどうなるのだろうかと、誰もが一度は疑問を抱いたはずである。出来ることならもう一度人間に生まれたい。そのためにはこの世で何をすべきか・・・・、天国や地獄のある死後の世界や生まれ変わりという概念は、人間の素朴な感情から生み出されたものであろう。一人で考えているだけでは宗教は体をなさない。同じ考えを持ち、それに同調し実践する集団になって、宗教が成立したのである。
 
 人は死ねば意識は無くなる。死後の世界なぞ無いし、自分が再び自分として生まれ変わることも無い。これが科学的に考えての真実であろう。宗教は死後の世界にもストーリーがある。だから人は受け入れやすかったのかもしれない。死によって今までのつながりは途絶え無になる世界、それはなかなか受け入れがたい。ではどう考えれば良いか、自分の中でどう折り合いをつけるのかが問題なのである。
 
 今私はこう考える。死ねば意識は無くなり、火葬によって僅かなお骨以外は空中に煙となって飛散していく。しかし物理的に言えば今まで自分を構成していた分子や原子はこの地球上から無くなることはない。またどこかで取り込まれて形を変えて存在していくことになる。空中に霧散した分子は雨になったり土くれになったりして、また草や木に動物に取り込まれるかもしれない。要は地球上に分散されて、また何かに活用されるのである。そういうことからすれば全てに神を見る多神教に通じるのかもしれない。
 
 宗教は死に対する備えだけではなく、生きていくうえでの行動規範になり、人の精神的なよりどころであり、文化芸術を担う役割も果たしている。従ってただ単に宗教を否定するのは問題がある。人は社会的な生き物であるから、なにか「頼るべき正しい考え方」という概念の体系が必要なのである。権力者の思惑で解釈を変え分派を繰り返してきた今の宗教は、すでに制度疲労を起こしている。これに取って代わり、神という架空のものを前提にしない新たな概念を持たない限り、この世の中から争いはなくならないのだろう。





103歳になってわかったこと

2015年07月03日 08時11分06秒 | 読書
 友人に紹介されて「103歳になってわかったこと」という本を読んだ。著者は篠田桃紅という100歳を過ぎても現役の美術家である。ウィキぺディアによると、「和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けている」とある。画像検索で作品を見ても、私には「???」と、作品の価値は分からない。しかし本を読んでみると、100歳を越えて人生の高みに立って見えるだろうことが、素直に書いてあった。私はこの先あと30年、果たして彼女のような景色が見えるのか?、到達できるのか?、人生の先輩の言葉として指針になるように思えた。

 以下、本の中の一部を抜粋してみる。
 
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 私も数えで103歳になりました。この歳まで生きていると、いろんなところで少しずつ機能が衰えます。老朽化していて、よく動いているものだと思います。私は生涯、一人身で家庭を持ちませんでした。比較的自由に仕事をしてきましたが、歳をとるにつれ、自由の範囲は無限に広がったように思います。自由と言うのはどういうものかと考えると、今の私かもしれません。なにかへの責任や義理はなく、ただ気楽に生きている。そんな感じがします。今の私は自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。・・・・自由という熟語は、自らに由(よ)ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。
 
 私には死生観がない。考えたところでしょうがないし、どうにもならない。どうにかなるものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら考えてもわかることではありません。現に、私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。
 
 歳をとったことで初めて得られたもの、歳をとったらもう得られないもの、それを達観して見ることができるようになりました。若いうちはいくら客観視していたつもりでも、自らがその渦中にいますから、ものごとを客観的にみることに限度があります。しかし歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がってきます。今までこうだと思って見ていたものが、少し違って見えてきます。同じことが違うのです。それは自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いていた友人のこと、社会一般、すべてにおいてです。
 
 老いるということは、天へと続く、悟りの階段を上がっていくことなのかもしれません。そしてそれができるのは、歳をとって目の高さを得るようになるからだと思います。自分というものを,自分から離れて別の場所から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じています。
 
 なにかに夢中になるものがないと、人は生きていて、なんだか頼りない。なにかに夢中になっていたいのです。なにかに夢中になっているときは、ほかのことを忘れられますし、言い換えれば、一つなにか自分が夢中になれるものを持つと、生きていて、人は救われるのだろうと思います。仕事に夢中になったり、趣味に夢中になったり、宗教などに夢中になるのもそうだろうと思います。
 
 人は用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかしどこかにあります。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。用を足している時は、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。無駄はとても大事です。無駄が多くなければ、だめです。・・・・・どの時間が無駄で、どの時間が無駄でなかったのか、分けることはできません。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれんません。
 
 今の人は、自分の感覚よりも、知識を頼りにしています。知識は信じやすいし、人と共有しやすい。誰しも、学ぶことで、知識を蓄えることが出来ます。たとえば、美術館で絵画を鑑賞するときも、こういう時代背景で、こういうことが描かれていると、解説を頭に入れます。そして、解説のとおりであるかを確認しながら鑑賞しています。しかし、それは鑑賞ではなく、頭の学習です。鑑賞を心から楽しむためには、感覚も必要です。感覚を磨いている人は非常に少ないように思います。感覚は自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。
 
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 一番最後に挙げた文章など、まさに私のことを言い当てられているように思ってしまった。美術館に行っても、作品に共感することは少なく、世間で言われる評価や解説を読んで、「なるほど」と理解する。これは鑑賞ではなく、著者が言う知識の共有に過ぎないのである。自分の最終のステップは、私がもっとも苦手な感性を開拓することかもしれない。そのためには著者が言うように、感覚を磨き、自分の感覚で包み込み受け止める訓練が必要なのであろう。私にはまだまだ人生の高みがそびえているのである。

    

      

    












家族という病

2015年05月29日 09時03分12秒 | 読書
 
 新聞に「家族という病」という本の広告があった。以前読んだ「母という病」、その後同じ著者が書いた「父という病」が出版され、その三番煎じの本だろうと思っていた。先日本屋に立ち寄ったらこの本が積まれていた。帯封の「家族ほど、しんどいものはない」という文言に引かれて本を取り上げて見る。以前の2冊と違って著者は下重暁子(あきこ)となっている。大昔NHKのアナウンサー時代にTVで見覚えがある。以前の2冊は精神科医が書いた新書である。今回はキャリアウーマン、その著者が家族について何を書くのだろう、そう思って読んでみることにした。以下著書の中の一部を抜粋してみた。
 
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 振り込め詐欺の盲点は、家族からの頼みだと疑いもせず聞いてしまうことにある。家族を信頼していて家族の危機は自分の危機と考えて、救わなければと思ってしまうからなのだろう。欧米ではこうした犯罪は成立しにくいのではないだろうか。欧米と決定的に違うのは、個人主義と家族主義の違いであり、どちらが良いとは単純にいえないが、家族と言う甘い意識の空間にはいくらでも犯罪は入り込んでくるのではないだろうかと思っている。
 
 よく家族間の事件(殺人事件)が新聞を賑やかす。そのとき私はいつも明日はわが身だと思う。家族といえど違う個人なのだ。個と個の間に摩擦が生じれば、なにが起きても不思議は無い。大事に至らなくても、親子間の確執や兄弟げんかなどは日常茶飯事である。誰かが我慢をするか、ごまかしてその場はなにもなかったかのようにやり過ごしているが、積もり積もれば大きなしこりになる。どんな家族の間にも同様の事件は起きる。身近な間柄だけに、一旦憎しみが湧くと人一倍憎悪は大きくなり、許すことが出来ずに、極端な形をとってしまう。自分の家族だけはそんなことは起こらないと信じることは大きな思い上がりであり、どの家にでも起こるという想像力を持つべきだ。
 
 子供のいる友人知人に聞くと、女性はある年齢になると家を離れ、一人住まいをし、自分で仕事を見つけ、恋人を見つける。しかしダメなのはどちらかといえば男の方で、いくつになっても家を離れず親と一緒にいる。気楽で、家事もしてもらえるからなのだろう。成人したらよほどの事情がなければ、独立するのが自然である。動物だって子供に餌を与えて大切に育て外敵から保護するが、成長したらある日を境にもう面倒を見なくなり、子供は自分で餌を求めて違う縄張りで生きていかなければならない。獅子は成長した子を崖から突き落とすという。そうやって心を鬼にして親離れ子離れしていくのに、人間はそれをしなくなった。世の中が厳しいせいではない。お互いがもたれ合い、甘えあい独り立ちできない親や子が増えているのだ。原因は子供にあるのではなく、親にある場合が多い。子は親の姿を見て育つと言う。親の本心を見抜き、そこに甘えて何時までも独りだちできない。幼い頃はいくら愛情を注いでもいいが、ある年代になったら別人格を認める必要がある。家族は時間を共有したあとは離別して、遠くから見つめる存在になるべきであろう。
 
 私は、子は親の価値観に反発することで成長すると信じている。親の権威や大人の価値観に支配されたまま、言いなりになっていることは、人として成長の無い証拠である。仲の良い家庭よりも、仲の悪い家庭の方が偽りがない。正直に向き合えば、いやでも親子は対立せざるをえない。どちらを選ぶかと聞かれれば、私は見栄でつくろった家族よりも、バラバラで仲の悪い家族を選ぶだろう。
 
 失敗や挫折こそが人を強くする。人はそこで悩んだり考えたりと、自分で出口を模索するからだ。順風満帆できた人ほど、社会に出てきた後、組織の中で上手くいかない人を大勢知っている。両親がエリートの場合は始末が悪い。自分達と同じように成績が良いのが当たり前で、小さい時から塾だ家庭教師だと遊ぶ閑も無い。
 親や家族の期待は子供をスポイルしている。だから親といえども自分以外の個に期待してはならない。他の個への期待は落胆や愚痴と裏腹なのだ。期待は自分にこそすべきなのだ。自分にならいくら期待してもかまわない。上手くいかなくても自分のせいであり、自分にもどってくる。だから次ぎは別の方法で挑む。挫折も落胆も次へのエネルギーになる。親が子に期待するから、子もまた親に期待する。一番顕著なのが親の遺産だ。親の財産は親一代で使い切るのが一番いい。子に余分な期待を持たせてはいけない。
 
 人はつれ合った配偶者のことを本当に理解することはない。死という形で終止符が打たれて初めてそのことに気づき、もっと話をすればよかったとか、聞いておけばよかったと後悔する。家族は暮らしを共にするする他人と考えた方が気が楽である。
 
 年をとると話題が限られてくる。病気や健康についての話、次が家族の話と相場が決まっている。家族の話のどこが問題かと言えば、自分の家族にしか目が向かないことである。それ以外のことには興味が無い、家族エゴ、自分達さえよければいい。事件が起こるとまっ先に、自分と関係があるかどうかを気にかける。どんな事故でもまず自分の家族にふりかかってこなければ安心だ。それ以外はよそ事なのだ。それぞれが家族と言う殻のなかに閉じこもって、小さな幸せを守ろうとする病にかかっているようだ。「他人の不幸は蜜の味」というけれど、他人の家族と自分の家族を比べて幸福度を測る。他人との比較は、諸悪の根源なのだ。自分なりの価値基準がないから、キョリョキョロ当たりを見渡し友人・知人と比較する。家族エゴはどうして起きるのか、家族が個人である前に家族の構成員としての役割を演じているからではなかろうか。
 
 親子きょうだい仲良く平和でけんかすることもなく、お互いを理解し助け合って生きている。そんな家族がいたらそっちのほうが気持ち悪い。家族は近くにいるから常に気になる存在で、言い合ったり、けんかしたり、価値観も違うし性格も違う。衝突することも多いし、一度確執が生じたら解決することはなかなかむずかしい。そこでお互い譲り合って、許容できるかかが大事である。常に危うい橋を渡りながら、たいていの家族はかろうじて均衡を保っている。自分が孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。独りを楽しむことが出来なければ、家族がいても、孤独を楽しむことは出来ないだろう。独りを知り、孤独感を味わうことで初めて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じだ。なぜなら家族は社会の縮図だからである。
 
 
 著者は本の中で、「自立しなければいけない」ということを強調していた。それは著者の育ってきた環境に大きく影響しているように思う。著者の父親は陸軍の将校で、感情が激しく家族の中では絶対的な権威を示し、母親にも暴力を振るう人であった。そんな父親も終戦後の公職追放をうけてからは卑屈になっていき、ますます感情を露わにするようになる。著者はそんな父親を嫌悪し、部屋に閉じこもり、やがて家を出て行くことになる。一方母親は暴力的な父親に付き従い、娘である私を溺愛する。著者はそんな母親をもうっとうしく思い幻滅していくようになったという。そんな環境から自分を保つ為には、親子といえども距離を置くこと、そして自立していくことが著者には大きな課題であったのだろうと思う。読んで見て、そんな経験から書けることも多く、一方で自分の意思で子供を持たないなど、幼い頃のトラウマを引きずっているようにも思ってしまう。
  
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 まだ私の母親が健在の頃、時々手紙をくれていた。その手紙で今でも覚えているものがある。それは実家の庭の樫の木にキジバトが巣を作った。最初は巣を取り払おうと思ったが、かわいそうに思いそのままにして観察する。やがてハトは卵を産み抱卵して雛がかえる。親バトは入れ替り立ち替り何度も何度も餌を持って帰り雛に与えてやる。やがて雛も成長して巣から離れて枝に止まり、羽を広げて羽ばたいてみせる。そしてある日、親バトは巣に帰ってこなかった。雛達は腹を空かせて叫び続ける。しかし親バトは遠くの屋根から見守るだけで帰ってこようとはしない。やがて雛は諦めたのか、意を決して一羽一羽飛び立っていった。屋根に残る親バトの姿の中に安堵と寂しさを感じた。自分の4人の息子達も皆巣立っていって今は老夫婦2人だけである。「これで良いのだ!」・・・・、そんなことが書いてあったように覚えている。
 
 人も動物である。ある時点で親離れ子離れができればそれで良いのだろう。後どうするか、どうなるか、それは子供の問題である。親は心配でもそれを見つめているしかないのであろう。そこで過干渉してしまうと、それがアダになって病にまでなってしまうのかもしれない。
 



 

小説「火花」

2015年03月27日 08時14分39秒 | 読書
 お笑いコンビの「ピース」で目立たない存在だった又吉直樹が、文芸雑誌「文学界」に純文学の「火花」という小説を掲載した。その作品が話題を集め、文芸雑誌としては異例の重版となった。そんなニュースをNHKの9時からのニュースセンターで取り上げていた。その放送の中で又吉直樹がインタビューに答えてこんなことを言っていた。
 
 中学生の頃、昼休みの時間はみんな校庭に出てサッカーをやって遊んでいた。そんな中、自分はいつも校庭の周りを全速力で走ってすごしていた。自分ではその行為が一番カッコ良いことだと思えたからである。しかし自分のそのような感覚が回りの仲間とはズレていることに気づき、次第に違和感が生まれてくるようになる。そしてそのことに悩むようになったとき、たまたま太宰治の「人間失格」と言う本を読んで救われたように思った。それはこの本が多くの人に読まれた名著だということは、多くの人達もまた自分と同じような悩みを共有しているのだろうと思ったからである。
 
 私はその話を聞いて又吉直樹に興味を持ち、この「火花」という小説を読んでみようと思った。さっそく本屋に行って「文芸界」という月刊誌を探したが、掲載されたのは2月号ですでに売り切れとなっていた。そんなことがあってしばらくして本屋をのぞくと、この「火花」が単行本で売られていた。後で知ったのだが、この本は初版15万部の予定だったが、発売前に2刷(3万部)、3刷(7万部)が決まり、計25万部と言うことでスタートしたようである。これにより著者又吉氏には少なくても3000万円の印税が入り、お笑い芸人から小説家として生きていく道も開けたのである。
 
 さてこの小説、主人公の僕(徳永)は相方の山下と漫才をやっているお笑い芸人である。ある時知り合った同業の先輩芸人(神谷)の芸に対する考え方に共感し、それぞれに漫才をやりながらも師弟関係を結ぶことになる。お互いがお笑いという芸を追求していく中で、この2人の交友関係の変遷が描かれた作品である。主人公の僕と先輩芸人の神谷、それぞれに認め合う部分もあるが、濃密な付き合いの中でも次第に相容れない部分も見えてくる。そんなズレが次第に顕著になリ初め、やがて主人公の僕の方は生活が安定する一方、先輩の神谷は自分の考える芸にこだわり続け次第に出る場を失っていく。そして生活が乱れ借金が加算んで、取立てから逃げるためか行方をくらましてしまった。
 
 又吉氏がNHKのインタビューで語っていたように、この小説は「ズレ」をテーマに書いているように思う。「人」が生きていく上での世間とのズレ、個々の人間関係でのズレ、そんなズレをどう調整していくのか?どう妥協していくのか?ということは常に付きまとう問題である。妥協しすぎてしまうと自分を見失ってしまう。自分を貫いていけば世間からも相手からも受け入れてもらえなくなる可能性がある。本の中にこんな文章があった、「僕は徹底的な異端にはなれない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることもできない。嘘を吐くことは男児としてみっともないからだ。・・・」と、
 
 人はそれぞれに個性があり、考え方も違っている。その個性や考え方が尊重されて生きていければ良いのだが、世間に出れば当然そこに大きなズレを感じることになる。会社に勤めれば組織で動くから、組織人としての自覚を求められる。偏差値のベルカーブではないが、頂点にくる部分が標準になり、それから外れるほど異端になってくる。芸人や職人、農業などを生業としていれば、ズレはズレとして許容してもらえることもあるのだろうが、企業に勤めていればそのズレを自らが矯正していく必要がる。それがストレスになり、それができなければ脱落することにもなりかねない。
 
 我々の子供時代は兄弟も多く自分の部屋さえ与えられなかった。学校も1クラス60人で1学年10数クラスもあり、個人の尊重など程遠い環境であった。会社に入れば頻繁に転勤があり、大勢の中で自分の地位を保つのに汲々としていた時代でもあった。そんな中で組織とのズレが大きければ、歯車としては適正を欠くからスピンアウトしてしまう。だから知らず知らずのうちに矯正させられていったのだろう。我々の世代はそんな時代だったのかもしれない。
 
 それに比べ今の子供達は自分の部屋を持ち、自分の時間やプライバシーを持つことは当然の権利のようになっている。嫌なことがあれば自分の部屋に逃げ込むこともできる。学校でもゆとり教育と言われ、個々の個性を育てて行こうという教育になっている。そんな子供達が世間に出たとき、当然そのズレは我々の時代以上に顕著であり大きなものなのであろう。ではそのズレをどう調整すれば良いのだろう?・・・・・・・
 たぶんそれには著者が感じたように、自分と社会、自分と相手がどれほどズレているのか、自分自身で客観的に見つめることから始まるのかもしれないと思う。




私にとっての名著

2014年12月26日 09時39分24秒 | 読書
 先日、日経新聞の最終面の「芸術と科学のあいだ」福岡伸一(生物学者)のコラムに免疫のことが書いてあった。
 
 免疫系には、襲い掛かってくる外敵(ウイルスや細菌、毒素など)に結合し、効果的に無力化する武器が準備されている。抗体である。免疫系は、どんな敵が来襲してくるか、予想することはできない。そのかわりどんな敵がやってきても対応できるよう、ランダムに100万通りもの抗体を用意しておく。そのうちどれかが、侵入者にフィットすればいいのである。そのランダムさが私たちを守ってくれる。風邪のウイルスが毎年どのように変異しようとも、あるいは未知の病原体が襲ってきても、私たちはなんとか戦い、人類は生き延びてきた。予想や目標をもたずランダムであること。これが最良の戦略だった。が、同時に困難をももたらした。抗体はランダムに作り出されるゆえに、中には外敵ではなく自分自身を攻撃してしまう抗体も存在しうる、とういう問題だった。
 免疫システムはこの問題を回避するため、巧妙なしくみを編み出した。まだ外敵と出会うことのない胎児のある一時期、抗体を産生する細胞群は血液やリンパ液にのって身体の中をぐるぐるまわる。ぐるぐるまわりながら、もし自分自身のパーツと反応してしまう抗体を作る細胞があれば、そのまま自殺プログラム(アポトーシス)が発動して自ら消え去ってしまうのである。
 この選別が進行した結果、生き残った細胞が、非自己(自分ではない外敵)と将来戦うために保存される。逆に消え去ったものが自己なのだ。つまり免疫系にとって自己とは空虚な欠落(ヴォイド)に過ぎない。生物学を学ぶものは、このあまりにも逆説的な生命の実相にまず驚愕し、次いで感嘆する。
 故多田富雄は彼の代表作『免疫の意味論』の表紙に風変わりな絵を置いた(写真)。自己とは、今いるあなたから切り抜かれたもの。世界の中心にいるつもりの自分は、実はなにもないヴォイドなんだよ。だからさ、自分を探しに旅に出ても、自分などどこにも存在しない。彼の声はそうこだまして聞こえる。
 
 ここで取り上げている『免疫の意味論』という本は私も20年前に読んだ本である。この本を読んだ時、人体の不思議、免疫系の仕組みに圧倒されたように感じた。人体はウイルスや細菌をどう識別するのか、生体間移植した後なぜ免疫力を弱めていなければいけないのか、リュウマチは免疫系に異常を生じ、免疫が自己を攻撃する病気であるなど、免疫の仕組みが論理的に理解できるようになったように思えた。私にとっては久々の名著だったように記憶している。
 
 人生70年を過ぎ、振り返ってみたとき、私にとって意識改革をさせてくれたと思う本が何冊かある。それを思い出して書き出してみた。
 
『物理学入門』、カッパブックス、1963年。
 私が高校生の時に読んだ本である。アインシュタイン以後の自然科学について、数式を使わずわかりやすく解説してあった。例えばアインシュタインの相対性理論とは?宇宙の果てはどうなっているのか?など、高校生の私には興味津々で面白く、砂に水が染み込むように自然科学が理解できたように思えたものである。たぶんこの本によって、「自分は理系に向いている」と確信をもったように思う。
 
『蛍川』、宮本輝、1978年芥川賞受賞
 小説らしい小説を読んだことがなかった私に最初に小説の面白さを教えてくれたのは、会社の女の子に借りた三浦綾子の「積み木の箱」である。それから自分で本を買うようになった。本屋で多くの書籍のなかから何を選ぶかに迷った時、とりあえず賞を貰った本と思い買った一冊である。なんとなくノスタルジックで少年から青年へと変化する多感な時期の男の子の心のありよう。そこに友情があり初恋があり、誰しもが時代を問わず経験した甘酸っぱい感覚を呼び起こされてくれる。そして圧倒的なラスト、小説を読んで感動したのは後にも先にもこの一冊が最高であった。これ以降宮本輝の本は全て読破した。
 
『唯脳論』、養老孟司  1990年
 『バカの壁」など多くの著書を書いている養老孟司の初期のころの代表作である。内容は文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応しているという考え方。ただし、脳が世界を創っているなどとしてすべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない。「脳が心を作り出す」というよりは「脳という構造が心という機能と対応」しているとする。そして構造と機能を分けて見ているのは脳である。すべての人工物の仕組みは脳の仕組みを投影したものである。人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会である。というよう風になかなか難解な部分もある本だったが、人間社会の基本的な有りようを理解していく上で、「まさしく」と感じた著書である。
 
『利己的な遺伝子』、リチャード・ドーキンス、1991年
 ダーウインの自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位と考えたりするのではなく、リチャード・ドーキンスはその単位を「遺伝子」においた。固体は「死」ということで滅びても、遺伝子だけは代々繋がって生きていく。この「遺伝子」があたかも意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように解説したものである。 これを読んだ時、この説で自然界の生命の営みが全て解き明かせるように思えた。その後この利己的遺伝子論には色々と反論が出てきて、今ではあまり注目されてはいないが、当時はまさしく「目からウロコ」を感じたほど面白い本であった。
 
『人は変われる』、高橋和巳 1992年
 地方から東京に出て働き始め色んな人間関係に遭遇し、戸惑いや不信感や不思議を感じていた。そんなときに本格的な心理学に接した最初の本である。著者は精神科医として臨床経験から、人の心の変遷をリアルに書いている。そして人が主観性を獲得するためには、苦悩や悲しみや絶望を経験することで、その悲観している自分や、絶望している自分を、自分自身が客観視する能力をもってるようになる。そのことで人は変わっていくことができると解説していたように思う。この本を読んで以降、人の心理に興味を持つようになり、専門家の書いた心理学の本をよく読むようになった。
 
『免疫の意味論』、多田富雄、青土社、1993年
 NHKの番組で取り上げていた一冊、内容は上に書いたようなものである。
 
『動的平衡』、福岡伸一 2009年
 生物を俯瞰してみる時、一番納得がいった解説書である。動的平衡を一概に語ることはできないが、内容は、生命は絶え間なく動きながらバランスをとっている。動きとは、生命内部の分解と合成、摂取と排出の流れである。これによって生命はいつも要素が更新されつつ、関係性が維持されている。ちょうどジグソーパズル全体の絵柄は変えず、しかしピースを少しずつ入れ替えるように。我々を構成している物質(分子)は1年もすればほとんど全て入れ替わっている。骨もしかりである。しかし人はほとんど変わったようには見えない。これが動的平衡である。生命が動的平衡であるがゆえに、生命は環境に対して適応的で、また変化に対して柔軟でいられるのである。というものである。
 
 私はここに上げた本以外にも多くの本に影響を受けたはずである。「本は成長の糧」、「本は心の糧」と言われる。今の若者はどちらかといえば、目先の娯楽や安易なツールに頼り、あまり本を読まないといわれている。私が自分の人生を振り返ったとき、やはり「良書は成長の糧」になっていたことは、紛れもないように思うのである。








アドラー心理学

2014年12月05日 08時38分10秒 | 読書
 最近本屋で「アドラー心理学」関連の本が目についていた。心理学の本も今までは「フロイト」や「ユング」が主で「アドラー」は馴染みがない。心理学も時代の変化の中で考え方の方向性も変わってくるのかも知れない。そう思ってここ2ヶ月で3冊ほど入門書を買って読んでみた。当然人の心の問題であるから内容も広範囲に及んでいるが、私としてこれがポイントだろうと思える箇所をまとめてみることにする。
 
 人は一人で生きているのではなく、〈人の間〉に生きている社会的動物である。従って人が生きていく上で重要なテーマの一つが、「仲間」を作るということである。アドラーは、人が成長の過程において「仲間」に出会うことの重要性を繰り返し述べている。しかし現実には人の悩みやストレスの多くは周囲の人達との対人関係に起因するものが多い。親と子、兄弟、夫婦、上司と部下、仕事での取引関係、友人知人、自分を取り巻く人間関係において程度の差はあれ悩みは尽きることはない。今から世に出ていく若者、今実際に人間関係の難しさに悩んでいる現役世代、我々シニアーのように人生を振り返って思い出す人間関係の葛藤、我々は人との関係を上手にこなすことができていれば、もう少し楽しく暮らせる(暮らせた)ように思うのである。
 
 アドラー心理学ははっきりとした目標を揚げ、絶えずその目標を達成する方向で人(特に子供)にアドバイスしています。先ず行動目標として、1・自立する。2・社会と調和して暮らせるということ。そしてこれを支える心理面の目標として、1・私は能力がある。2・人々は私の仲間であるという目標を提示します。アドラー心理学では行動は信念から出てくると考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動ができるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。ここで言う信念は、自己や世界についての意味づけの相対であり、アドラー心理学ではこれを「ライフスタイル」と呼んでいます。この信念を人は比較的早い時期に形成します。(現代アドラー心理学では10歳前後と言われている)、そしてこのスタイルはあくまでもスタイル(型)であるから、他のものに置き換えることはそれほど困難なものではないと考えるのです。では今の自分が持っている「ライフスタイル」に反省があるとすれば、どんなスタイルに変えれば良いのだろうか。
 
 アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、対等な横の対人関係を築くことを提唱します。階段は狭くて2人が同時に同じ段にいることはできません。上の段に登ろうとすれば、そこにいる人を押しのけなければならないのです。ここには協力ということはなく上に登って行こう、トップになろうとする人は他の人を段から落とそうとしたりします(芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のように)。アドラー心理学では人はそれぞれ自分自身の出発点、道、目標を持っており、自分で望むように、あるいはできる形で、早くあるいはゆっくり進んでいくのです。大人も子供も、教師も生徒も、役割は異なるけれども、優劣の関係ではないのです。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです。人は「進化」(進むべき道筋)をめざして「前」へ進むのであって、「上」へと進むわけではないのです。狭い階段を上がるのではなく、広い道路を並んで歩いているのですから、別に誰が先に行こうと、後を歩こうとかまわないわけです。
 
 アドラーは人を(特に子供の教育において)罰したり叱ったりすることを否定します。罰すること、説教することでは何も得るものがない、といっています。また「ほめる」こともよくないと言います。そもそもほめることができるということは、その人の対人関係が基本的に「縦関係」であることをあらわしています。ほめるということは、能力がある人が能力の無い人に、あなたは「良い」と上から下へと相手を判断し、評価する言葉であるわけですが、そのときの対人関係の構えは縦関係なのです。罰したり叱ったりすること、またほめることは、自分に能力が無い、また(叱った場合は)人々は私の仲間ではないということになり、望ましいことでないと言います。このように言えるということは言葉じりの問題ではなく、対人関係の構え(基本)の問題であると考えることができます。
 
 たとえば親子の関係で、親は子供に「勉強しろ!勉強しろ!」と言います。勉強しない子を叱ったり、説教したり、勉強させるために褒美をあげたり、誉めそやしたりします。しかし勉強は誰の課題かと言えば子供の課題です。勉強が子供の課題であるとすれば、いきなり「勉強しなさい」と親が言うことは、子供の課題に踏み込んだことになり、子供との衝突は避けることができません。他方、子供が勉強をしないことが気になるとすれば、それは親の課題です。原則的にいえば人の課題を引き受けることはできません。イライラするからといって子供に宿題をしなさいとはいえないということです。ところが誰の課題かわからないほど課題が混同されているのが現状ですから、もつれた糸をほぐすように、これは誰の課題と言うふうにきちんと分けていかなければなりません。これを「課題の分離」といいます。頼まれもしないのにこちらが勝手に判断して、相手は助けを必要としているだろうと考えて手出しをしないということです。
 
 課題は克服できない障害ではなく、それに立ち向かい征服するものです。たしかに忍耐も地道な努力もいるかもしれませんが、自分には課題を達成できる能力があるという自信を持つように援助することができれば、勇気づけができたということができます。ではどうすれば、どう言えば勇気づけになるかは、人によってあるいは状況によって違いますが、原則的にいえば、ほめるとか評価するのではなく、喜びを共有すること自分の気持ちを伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか「うれしい」とか「助かった」とかいうような言葉をかけることから始めるようにすると良いでしょう。叱るとかほめることに対して、勇気づけは「横の関係」を前提とするものであり、横の関係のときだけ勇気づけることができる、ということができます。人と人とは対等の横の関係にあるのですから、
 
 多くの人との対人関係が横の関係でいられるとすれば、自分をよく見せようという努力をしなくていいようになるでしょう。横の関係であれば、自分が優れていることを誇示することで、よく思われようと背伸びをすることは必要なくなります。世界は本当はシンプルであるにもかかわらず、そう思えないのはなぜか・・・・・・。それは私達が世界は複雑であるという意味づけをしているからです。そのような神経症的な意味づけを止めれば、この人生は意外と快適なものになるように思うのです。
 
 上の内容は主に、「アドラー心理学入門」岸見一郎著から抜粋してまとめたものです。しかしここに書いたものはアドラー心理学の一部で基本的な考え方のように思えます。さらに別な本を読んでみて、私として面白いというものがあればまた書いて見たいと思います。