60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

思い出の山口

2012年06月29日 08時33分53秒 | 散歩(3)
 親と離れ、初めて旅行したのが山口である。中学生の夏休み、3歳下の弟を連れて山口の叔母(母の妹)の家に遊びに行くことになった。下関から山陽線の汽車に乗って小郡(今は新山口駅)まで、さらに山口線に乗り換えて山口まで、下関からは3時間程度かかったと思う。当時の私には一大決心が要った旅行である。

 母が事前に手紙で連絡しておいてくれたので、従兄弟2人が山口駅まで迎えに来てくれていた。従兄弟は男2人の兄弟で、長男は私と同じ歳、次男は弟と同じ歳である。2人は叔母さんに言われていたのだろう、我々2人を市内観光させながら家まで案内してくれた。駅からバスに乗り、最初にザビエルの塔に案内してくれる。そこから歩いて山口県庁へ、県庁は叔父さんの勤め先である。県庁舎は昔の山口城の跡に建っている。従兄弟の後を付いて歩いた道に、その城跡の石垣を覚えている。県庁から瑠璃光寺の五重塔を見て、トウモロコシ畑の中を歩いて家に着いた。家に着く頃には従兄弟たちとすっかり打ち解けていた。それから一週間、朝起きて寝るが寝るまで、4人は一緒に遊んでいた。もぎたてのトウモロコシの味、スイカやブドウの従兄弟達との早く食い競争、川で泳ぐことの珍しさ、8月7日の七夕の日のちょうちん祭り、自分史の中に鮮明に記憶されているワンダーな夏休みであった。

 私が高校生になった頃、叔父さんは山口県庁の東京事務所に転勤になり、従兄弟達も東京に引っ越していった。叔母夫婦は何年かして山口に帰ってきたが、そのときは従兄弟は大学や就職ということで自宅を離れていた。私も下関を離れ東京に出てきたから、山口を訪れる機会は無くなってしまう。15年前に叔父さんが亡くなり、最後まで山口の家に一人で住み続けていた叔母さんも、昨年2月に亡くなった。今あの家には誰も住んでいない。

 今回、岡山に用事があり、「せっかくここまで来たのだから」と山口を訪れてみることにした。山口に行くのはたぶん55年ぶりだろう。岡山から新幹線で新山口まで、新山口駅に着いたとき、たまたま山口線の津和野行きSL列車の発車時刻が迫っていた。「昔を懐かしむならSLで行こう」、そう思って早速切符を買って飛び乗った。懐かしい汽笛の音、煙のにおい、時速40km程度のSLのスピードは、都会の高速になれた感覚には、反対に新鮮で心地がよい。沿線には植えたばかりの水田が広がり、線路に沿った道路を車が並走している。踏切でカンカンと警報音が鳴り、子供達が列車に向かって手を振っている。

 山口は「西の小京都」と言われている。足利尊氏の時代、周防長門の守護職として勢力を確たるものにした大内弘世は、京に強烈な憧れを抱き、都を模した街づくり始めた。以後約200年、歴代の当主も同じ夢を抱き、名実ともに「西の京」としての町づくりに励んだ。町は京都の何分の一かの規模であろうが、周りは山に囲まれて盆地の中にある。町並みは碁盤の目のようになって、見通しが利く。古い神社仏閣がいたるところに点在していて、歴史とともに街がある。しかも山口は瀬戸内海工業地帯の幹線から外れているため、その発展の波に飲み込まれることがなかった。それが幸いしたのか、街にはビルが少なく、民家も昔ながらの平屋が多く、町全体が緑に包まれている。だからなのか、歩いていても圧迫感がなく、開放的な気分になってくる。

 県庁所在地でありながら時代の流れから取り残された町、そういうことからすれば、山口は今の京都よりはるかに「昔の京」の雰囲気が残っているのではないだろうかと思う。あいにく梅雨の雨降りで一日中傘をさして歩いていたが、しかしその方がしっとりと落ち着いて風情がある。昔、従兄弟に案内されたザビエル聖堂から県庁へ、そして瑠璃光寺の五重塔をたどって懐かしい叔母さんの家へ、久々に都会の喧騒を離れ、SLに乗ってタイムスリップした感じである。

      
                             新山口駅
                新山口と島根県の津和野までを走るSL「やまぐち号」
                     基本的には土日祭日で一日一往復

      
      「C571」は1937年(昭和12年)に製造、女性的なスタイルは「貴婦人」と呼ばれ
      人気があった。全国で蒸気機関車が廃止のあと、1979年この山口線で復活する。

               

      
                          客車は昭和スタイル

               
                          窓の止め具が懐かしい

      
                          JR山口線 山口駅
                    県庁所在地駅としてはさびしい駅である。


               
                         消失した旧ザビエルの塔
       フランスコ・ザビエルの来日(山口での布教活動)400年記念として1952年に
       建てられた。市民にも広く親しまれていたが、1991年9月に失火により全焼した。

      
                      新たに再建されたザビエル記念聖堂
      種々の協会関係機関、山口県の信徒と山口市民、全国から寄せられた募金により
      1998年(平成10年)に再建された。亀山の中腹に立つ50m超の2本の塔は遠く
      からでも眺めることが出来、山口市のランドマーク的な存在にもなっている。

               
     フランシスコ・ザビエルは1506年、6人兄弟の末っ子としてスペインのナバラ王国の
     ザビエル城で誕生する。1549年(天文17年)43歳の時に今の鹿児島に着いた。

      
             礼拝堂は前衛的な雰囲気で、後ろにパイプオルガンがある。

               
                            大聖年の鐘

      
                        井戸端で説教するザビエル


                      亀山公園から山口市内を眺める。
     山口は四方を山に囲まれた盆地の町、樹木が多くしっとりと落ち着いた雰囲気である。

      
                         左の建物が山口県庁
                  写真の右の山裾あたりが叔母の家がある場所

      
                           静かな住宅地

      
                 山に囲まれているから、あちらこちらに川が流れる。

                 
                           山口大神宮

      
                   山口大神宮 手前が外宮、奥が内宮

               
                           山口大神宮

      
                            山口県庁
      この地には元々山口城があり、その後旧山口藩庁が置かれていた。その後旧県庁舎、
     県会議事堂ができる。しかし、手狭になったことから敷地の隣に現山口県庁が整備された。

      
                           旧山口藩庁門
     長州藩主毛利敬親が幕末の有事に備え政事堂建設を着工し、この門は政事堂の門
     として建設された。その後山口藩庁の門として使用されていた。

      
                            旧県庁舎

               
                           旧県庁舎内部

      
                           旧県会議事堂

      
                           旧県会議事堂

      
                            城跡の石垣

      
                      洞春寺 大内持盛の菩提寺

               
                  本堂を使って中学生が合唱の練習をしていた。

      

               

      
                         瑠璃光寺(るりこうじ)

      
                            瑠璃光寺

      
                        国宝・瑠璃光寺五重塔

         
      日本三名塔の一番に数えられ、室町中期における最も秀でた建築物と評される。

               
                           そば寿司で昼食

      
                             木町橋
     子供の頃、従兄弟に宛てた年賀状の住所は山口市木町橋上○軒目、と書いていた。

      
                      木町橋の下を流れる「一の坂川」
                 この川の上流の小さな浅瀬で泳ぐのが楽しみだった。

      
                         叔母の家の前の道、
          昔は舗装されていず、この道を行けば次第に細くなりやがて山道になった。

               
              昨年2月に亡くなった叔母の家、今は誰も住んでいない。

      
                            野田神社

      
                            豊栄神社

      
                             菜香亭
          明治10年ごろ創業し、平成8年までの間、山口の迎賓館として井上馨、
              伊藤博文、佐藤栄作ら時代を担った人々が集まった料亭。

      
                 100畳の大広間には歴代の首相の扁額が並ぶ

               
                            佐藤栄作

               
                            伊藤博文

               
                            安部晋三

               
                            田中角栄

               
                            竹下 登

               
                            山縣有朋

             安部晋三、竹下登の書は線が細い。やはり書は性格を現すのか?

      
                         龍福寺 大内氏館跡

      
                          昔ながらの住宅地

      
                        市街中心を流れる一の坂川

      
                            中心商店街

               
                             かやくうどん
        このあたりのうどんは細い丸麺、「かやくうどん」は最もポピュラーなうどんの名称、
        「かやく」とは「火薬」ではなく「加薬」で漢方の用語、「かやくご飯」など具材が
        加わるときに使う関西地方の方言か?
           

      
                        山陽新幹線 新山口駅





ビジネスマナー

2012年06月22日 09時38分28秒 | Weblog
 先日親会社でこんなことがあった。
お昼過ぎ、お客様が1人来社される。営業担当者は早速4階の応接室に案内し、社長も同席して応対することになった。お客様が席に着いたところで営業は内線電話をかけ、お茶を出してくれるように依頼する。しかしあいにく女性社員2人は席を外していて、電話を受けたのが入社1年半の事務職の新人男子であった。営業は彼に、「女性社員が戻ったら、お茶を持ってくるように云ってほしい」と伝言する。しばらくして、彼は遅くなるのはまずいと思い、自らお茶を運ぶことにした。2階の給湯室でお茶を3つ入れ、お盆に乗せて4階まで運ぶ。親しい仕入先にお茶を出すことはあっても、お客様にお茶を出すことは初めてだった彼は、自社の営業の前からお茶を置いていった。あわてた営業が、「お客様が先だろう!」と注意する。そこであわてて置き直した。しかしさらに悪いことに、お茶は湯のみに注いであるだけで、茶托も持ってきていなかった。
 そのことで事後女性社員を中心に新人に非難が集中する。「家庭で何も教えられていないのか」、「少なくてもビジネスマンを目指すなら、最低のマナーは勉強しておくべきだろう」、「恥をかいたのなら、本でも買ってすぐにでも勉強するべきなのに、彼には何の反省もない」、「その状況を見ていた社長は事後に注意もしない。それで良いのか」、そんな非難である。

 ビジネスマナー、これは社会で仕事をする上で心得ておかなければいけないマナーである。電話の応対、接客時のマナー、席次など知っておかなければ恥をかくことは意外と多いものである。例えばお客さんとタクシーに乗るとき、運転席の後ろの右側が一等席、次に左側、そして助手席、もう一人乗る場合は後部座席の真ん中の順である。しかし自家用車の場合は助手席が最上席になるようである。身だしなみに始まって、名刺の受け取り方、置き方、しまい方、敬語の使い方、エレベーターの乗り方まで、それは洋食のナイフとホークの使い方のように、厳格にすれば我々の言動のほとんどにマナーは付いてくるようである。

 さて、その新人は先輩社員から激しい叱責を受けるほどの大失敗だったのだろうかと思ってみる。彼は地方に育って地方の大学を出て半年後に東京に出てきた。特に何をやりたいという希望があったわけでもなく、就職難民として、とりあえず東京に出てきて中小企業に職を決めたわけである。彼の性格から営業向きでないから、必然的に事務職に回される。彼が営業職であれば先輩に付いて回り、曲がりなりにも接客のマナーを学ぶことになるだろう。しかし男性事務ということから、誰も接客マナーを教えることはしなかった。では、お客様には茶托を使うもの、出すときは上位順に配るものというということを、彼はどこで学んでいればよかったのだろうか?
 それを今の一般的な家庭のしつけでは期待できそうにない。学校にはそんなカリキュラムはないであろうし、中小企業は研修してまでマナーを教える余裕はない(中途採用の多い中小企業は最低限のマナーは持ち合わせているという前提で採用する)。だからこれは起こるべきして起こった事象のようにも思うのである。

 私も彼と同じように地方からのぽっと出である。マナーなど何も身についてはいなかった。就職したのが小売業だから、まずはじめに、「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の接客の仕方を教わる。そして店に出て即実践である。後は経験の中から接客を学んでいった。マニュアルだけでは通用しないことを知り、お客様とため口で喋ることも接客の技術だと学ぶことになる。それから3年半で本部に上がり、今度は仕入れの仕事になる。商談、会社訪問、会議、宴席等、相手企業との取引の最前線での業務である。大手企業の営業と相対するとき、自分が自社の看板を背負っているのだと自覚するようになり、おのずと自分の言動に意識が働いてくる。特に相手企業のトップと自社の上司や役員との会食などには神経を使う。日時の調整から場所と交通手段の案内、会場での席次の扱い、話し合いの筆記から翌日のお礼の電話まで、その対応には胃がきりきりと痛むほど神経を使ったものであった。

 お茶のお手前ではないが、どの世界にもそれぞれのマナーがある。それをはじめから心得ているのは難しいから、基本的には経験の中から自らが身に着けようと心がける必要があるのだろう。そしてその動機付けは、「恥を掻きたくない」ということではないだろうか。「あいつはマナーも知らない」、「常識が無い」、そう言われることほどビジネスマンにとってマイナスなことはない。それとマナーの良し悪しは、その人の人格や仕事の力量を計るバロメーターの役割をすることにもなる。だから、マナーというものは、そっと人に聞くか、本を買って密かに読んで身に着けておくか、そんな心構えが必要なのであろう。

 今回の新人クンは25歳である。今よく言われている「ゆとり世代」である。「ゆとり教育」で学んできた子供達の特徴は、「言われたことしかやらない」、「マニュアル型人間」、「打たれ弱く、すぐめげる」、などの特徴があるようである。だからなのか、彼はものを頼んでも、頼んだ事しかやらないし、その先を見ていない。自分からは動き出さないし、仕事で疑問に感じたことを聞いてくれといっても、「大丈夫です」というだけで、どこまで理解が深まっているのか分からない、と同僚は言う。もし彼の性格がそうだとすれば、お茶だし事件も「むべなるかな」である。彼にしてみれば、教えてもらっていないことが出来ないことは当たり前、それで恥を掻いたとは思わない。だから自分から本を買って勉強しようとも思わない。という理屈になるのだろう。さて彼はこれから先、この会社で、この職種でやっていけるのだろうか、と心配になる。そしてこういう世代が多くなるとき、企業は彼らにどういう教育をしていくのかが、大きな課題になるようにも思ってしまう。

散歩(東船橋~船橋)

2012年06月19日 17時01分55秒 | 散歩(2)
駅からの散歩

No.342    東船橋~船橋     6月17日

 船橋は人口60万人で県で千葉市に次ぐ大都市である。しかし船橋と聞いてもどんな街なのかイメージが湧かない。それは東京湾に面しての漁業があり、東京に近いことから首都圏のベットタウンであり、北部は梨やニンジンの農家と、さまざまな業態が入り混じっているからだろうか。今日はそんな船橋の南部の海岸沿いを歩いてみた。船橋の歴史は古く、日本武尊が東国平定の成就を祈願して創建したと言われる船橋大神宮が1900年前の創建と書かれてあった。古くからの町だからのだろう、神社仏閣が多く、中心部は細く曲がりくねった道が入り組み、新旧の家が混在していて、雑然としてまとまりのない街のように感じてしまう。

      
                         JR総武線 東船橋駅

                
                             道祖神
           道祖神社の祠を覆う大イチョウは昔からの道標になっていたようだ。

      
                             了源寺

                
                             了源寺

      
                             西福寺
     四国四十八箇所霊場より御霊験石を拝領して鉄柱の上に置いてある。この石をさわり
    「南無大師遍照金剛」と唱えて回れば四国八十八箇所を回ったのと同じ功徳があるらしい。

      
                           船橋大神宮

      
                           船橋大神宮
    景行天皇40年(110年)に日本武尊が東国を平定の成就を祈願して創建したと云う古社

      
                      境内は苔むしていて歴史を感じる

                

      
                            浜町橋

      

      

      
                              鵜

      
                           海老川水門

                
                           海老川水門

      

      

      

      
             船橋沿岸はゼロメートル地帯が広がり、わずかな高潮でも浸水被害が
               出てしまうため、船橋港付近はぐるりと堤防に囲まれている。

                
                  旧運河沿いの道 廃屋が多く立ち並んでいる

                
                  廃屋の後方には真新しい高層マンションが立つ

      
                          古い町並みの本町

                

      
                            西向き地蔵

      
                         いくつもの寺が建つ寺町

      
                             行法寺

                   
                          新しい感覚のお寺

      
                        ときわ湯 昨年9月に閉店

                

      
                             海老川

      
                            海老川橋
           橋から突き出た廻船のモニュメント、ここは船橋という地名の発祥の地
        川に小舟を並べて橋の代わりをしたという逸話から、船橋の地名の由来になった。

      
                           御蔵稲荷神社

      
                     東照宮(左)と御殿稲荷神社(右)
      ここは家康が秀忠と佐倉方面に狩に出かけたときに宿泊した船橋御殿があった場所
              各地に東照宮はあるが、ここの社殿は小さく質素である。

      
              このあたりは車も入れないくらい道は細く入り組んでいる。

      
                             御殿通り

      
                              船橋駅

被害者意識

2012年06月15日 08時44分26秒 | Weblog
 先週、朝日新聞に《原発避難者5名死亡》、《医院送迎ワゴン衝突》、《仮設から2時間、原発事故さえなければ・・・・》という見出しで、大きく交通事故がとり上げられていた。事故に巻き込まれた双方8名がいづれも原発の非難住民ということで、記事の扱いが大きくなったのであろう。この記事を読んでいて少し違和感を感じてしまった。それは「原発事故さえなかったら・・」という遺族のコメントを、意図的に取り上げることへの違和感である。事故の直接の原因は運転者どちらかの不注意であり、原発とは直接関係ないはずである。あえて関係があるとすれば福島県南相馬市の眼科医が72歳の運転手を雇って送迎ワゴンを仕立て、わざわざ2時間かけて患者を連れてくるリスクにあるように思う。それなのに原発事故と関連付け、被害者がさらに被害に合ってしまったと書くことで、読者の情に訴えようとする。何でも彼でも原発の所為にする、そんな新聞社のスタンスに疑問を感じてしまう。
 
 今のマスコミはあえて「加害者」を作り上げ、それに対して「被害者」の味方を装うという報道スタンスが多すぎるように思う。それはその方が記事になりやすく、大衆への受けが良くなると思っているからであろう。そういうマスコミの影響もあるのか、最近は「自分は被害者」という立場をとる風潮があるように思う。「私は被害者だ」と言っていたほうが、周りの同情を買い、自分の立場が有利になると考えるからではないだろうか。サラリーマンやOLの会話の中にも、「経営者や上司の傲慢さは・・・」「誰々のやり方は・・・」「あの客の理不尽さは・・・・」「政治の体たらくは・・・・」と、相手の悪口を言い募っているのをよく聞くことがある。周りを悪く言うことで、「自分は被害者」という立場を装っていた方が、被害者同盟の仲間を募りやすく、コミュニケーションもとりやすくなり、居心地がいいのではないかと思ってしまうのである。

 以前読んだ本に、人の関係には「被害者」「加害者」「傍観者」という立場が成立すると書いてあった。学校でも会社でも社会の中でも、その人間関係の中で「被害者」がいれば必ず「加害者」がいることになる。そしてそれを冷ややかに見る「傍観者」という3つの立場がある。その立場は時によって場所によって変わりうるものである。職場の中では「被害者」であるが、家庭の中では「加害者」であり、友人達の中では「傍観者」という風にである。人はそれを無意識に使い分けているように思われる。学校などでのイジメでの「被害者」にはだれもなりたくはない。だからあえて「加害者」か「傍観者」の立場をとることになる。しかし一般的な環境では「加害者」の立場は風当たりが強く、孤立する可能性がある。だから被害者として振舞っていた方が社会に適応しやすいように思うのである。
 就職がうまくいかないのも、将来に希望が託せないのも、生活が苦しいのも、今の世の中が悪い。我々はそんな社会の被害者である。そんな風なマスコミの論調が次第に被害者意識を蔓延させることになったようにも思うのである。「旦那が悪い」「女房が悪い」「あいつが悪い」「会社が悪い」「世の中が悪い」そう言っていれば、自分は被害者として守ってもらうべき立場にいるように錯覚してしまうのではないだろうか。

 私はどちらかといえば今までも(今でも)「傍観者」の立場をとることが多かった。人に対して「加害者」にもなりたくない、かといって「被害者」の立場も嫌である。だから、物事から一歩身を引き距離を置くことで騒ぎの中から離れ、「傍観者」の立場をとっていたのである。これはこれで安全地帯のように思えるが、しかし物事に本気で関わろうとするスタンスに欠けるように捉えられ、「覇気のない奴」という烙印を押されることにもなる。そして加害者としての地位や権力も持てず、一方の被害者同盟にも入れず、どこの派閥にも属さない孤立無援の一匹狼的な立場になっていく。そういう傍観者は周りから非難を受けることも少ないが、反対にリーダーシップも持てず、結果、出世もおぼつかなくなるのである。

 被害者、加害者、傍観者、どの立場も基本的にはその人の性格に起因するのであろう。だから加害者はいつの場合も相手のストレスの対象になりやすく、被害者意識の強い人はいつの場面でも被害者の側に立つことが多くなるのだろう。私の場合も傍観者癖が習い性になって、なかなかそのスタンスから抜け出せないでいる。それは自分の意思でそうしているわけではなく、自然にそういうスタンスになってしまうのである。では、被害者にも加害者にも傍観者にもならないために、どうすればよいのだろうと考えてみる。やはりそれは、ゆるぎない自分のスタンスを確立するしかないのだろう。どんな場面場面でも人の所為にすることなく、当事者意識をもち評論家にはならない。そのために確固たる意思と人に対する優しさを持つ、そんな風に自分を鍛えていくしかないように思うのである。

散歩(両国~品川)

2012年06月12日 11時03分50秒 | 散歩(2)
駅からの散歩

No.341    両国~品川     6月10日

 今日は「赤穂浪士の道」ということで、両国の吉良邸から高輪の泉岳寺までを歩いてみる。元禄15年(1703)12月14日(現在の暦では1月30日)、赤穂浪士四十七士は吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げ吉良上野介の首をあげ、主君が眠る泉岳寺に捧げるべく運んだわけである。
 当時がどんな道になっていたかイメージはつかないが、実際に歩いてみると、その距離は思った以上に遠く、休み休みといえ5時間以上を要した。前日から一睡もせず討ち入って死闘をくりひろげ、寒い冬の中を手傷を負っての行進である。さぞ疲れと寒さで大変だったろう、やはり昔の武士は根性が違う、これが私の歩き終えての感想である。


      
                                両国駅

      
                                両国駅

                

      
                                国技館

      
                               旧安田庭園
                        左は今は閉館している両国公会堂

      
                             東京都慰霊塔
      1930年に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災祈念堂

                
                                三重の塔

      
                            築地本願寺 慈光院

                
                        歩道に関取の手形とブロンズ像

      
                                回向院
         明暦の大火をはじめ、多くの無縁仏を供養する。鼠小僧次郎吉の墓もある

      
                               吉良邸跡
                     討ち入り後は没収され、町屋になっていた

      
                      当時の86分の1の規模のミニ史跡公園

                
                  吉良上野介の像 穏やかで落ち着いた顔をしている

                
                            みしるし洗いの井戸

      
                                隅田川

      
                           芭蕉庵史跡展望庭園

      
                               満年橋

      
                              清澄公園

      
                 戦災を免れた昭和4年建築の旧村林商店の建物

      
                               永代橋

      
                         永代橋から東京スカイツリー

      
                             八丁堀付近

      
                             鉄砲洲稲荷神社
                          この前を赤穂浪士は通った

      
                             トスラー記念館
                昭和8年に聖路加国際病院の宣教師館として建築された

                
                             聖路加タワー

      

      


      
                             築地本願寺
                  古代インド様式の石造りの本堂は昭和9年の完成

      
              元は浅草に在ったが明暦の振袖火事で現在の位置に再建

      
                              本堂

                

      


      
                             築地場外

      
                        築地場外 こちらでも祭り

      
                              新橋駅

      
                             烏森神社
                駅付近の路地裏にあり、参道は飲み屋横丁になっている

      
                             塩釜神社

                
              塩釜神社はこの地にあった仙台藩の中屋敷地内に建っていた。

      
                             芝大神宮
                   関東のお伊勢さま、1005年創建という古社

      
                             芝大門

                
              芝大門に立ち、その先が増上寺、さらにその先が東京タワー

      
                将監橋から眺めると、小さな川は舟溜まりになっている

      
                             泉岳寺

      
                 吉良上野介の首を洗ったとされる首洗いの井戸
                   吉良邸の井戸と2ヶ所で洗ったことになる

      
                           浅野家墓所入り口

      
                            赤穂浪士墓所
                       左上の建屋の中が大石内蔵助の墓

      
              大石内蔵助以外はわずか六文字の戒名しか許されなかった

      
                             品川駅 西口

会社の倒産と人の死に思うこと

2012年06月08日 09時10分30秒 | Weblog
 先月末、7月から取引予定だった会社が倒産した。ニュースで知る内容は下記のようである。
 《5月25日に神戸地裁へ民事再生法の適用を申請したエスケー食品(株)(資本金1億4000万円、神戸市西区伊川谷町潤和1110、代表菅野時雄氏、従業員63名)は、5月29日開催の債権者説明会で、再生手続きを断念し、6月上旬にも自己破産を申請する見通しであることを表明した。 負債総額51億円》
 
 7月よりこの会社から海老の天ぷらと掻き揚げのプレフライの冷凍品を買うことになっていた。まだ取引が始まったわけでもなく、当方が買い手であるから倒産しても、金銭的な被害をこうむることはない。しかし商品の販売先も決まっていて、すでに注文数も出ていたから、今は代替品を探すのに四苦八苦している。取引を前にして、3月に浜松町にある東京支店に伺ったことがある。事務所は駅前のビルの9階にあって、6、7名の社員数にしては広く、見晴らしが利いて伸びやかな環境の職場であった。「仕事環境がすばらしいですね」、支店長にそんな話をしたことを思い出す。あの支店長は、あの営業担当者は今どんな心境なのだろう?彼らにしてみれば自分の会社が倒産するなどということは晴天の霹靂なのではないだろうか? 何度となく会った相手だけに、気になるところである。一般的には会社が倒産すればオーナーは自己破産に追い込まれ、社員は再就職先を探して散り散りになっていくことになる。

 話は変わって、 先週、会社がお世話になっている会計事務所の先生が亡くなられた。進行の遅い慢性白血病ということで80歳であった。同じく先週、親会社の某得意先の社長の奥さんが亡くなった。肝臓癌から脊椎に転移したそうで、まだ若く63歳だそうである。
 自分自身が年を重ねていくうちに身近なところで、人の死や会社の倒産にイヤというほど接してきた。だからなのか「当然ありうること」、「いつかはあること」、「やがて自分の身にも起こること」という風に考えて、他者のことで自身が動揺することほとんど無くなっている。命あるもの(会社も生きた組織と考えると)は必ず滅びることは自明のことである。しかしその滅びゆく命が自分自身であるとき、宗教心のない私には、その心の動揺と恐怖を、どう受け止めたらよいのかということがこれまでの最大の問題であった。しかし最近、分子生物学者の福岡伸一の著書を何冊か読んで、自分の死生観というものが定まったように思う。以下はそのあらましである。

 会社組織には色々の人が集まる。新入社員が入り、定年退職者が辞めていく、中途採用者がいれば途中退職者もいる。そんな人の流れの中で企業活動が行われている。たまたま企業が倒産してしまった時、そこに集っていた人までもが消えてしまうわけではない。倒産した企業を離れて、また別な仕事を求めてそれぞれの方向へ霧散していくわけである。企業生命は途絶えても、企業の構成要員としての人は生き続けているわけである。これは人という生命体も同様なのではないだろうか。食べ物や酸素を体内に取り入れることで、体を構成しているたんぱく質などの分子は常時入れ替わりつつ、細胞は活動し生命は維持されている。その生命体が死んでしまったとき、その構成されていた無数の分子や原子はどれ一つ失われるわけではなく、形を変えて離散していくわけである。水分は雨粒になって地球をめぐるかもしれない。炭素は木々に取り込まれて幹になるるかもしれない。私を構成していた分子は世界中に分散してまた別な用途につながっていく。したがって生命体とは地球全体を取り巻いて流れている分子の一時期の淀み(渦)なのではないだろうか。その淀みが保たれているうちが生命で、その淀みが消えてなくなるときが死になるのである。淀みができればそこに生命が生まれ意識が芽生える。淀みがなくなれば意識も消える。そしてその淀みは出来ては消え、出来ては消えと連綿と続いていく。それが生命なのであろう。

 地球が46億年前に生まれてから今まで、地球を構成してきたものはその形こそ違ってきているが、基本的には増えもせず減りもしていないことになる。それがある時期(38億年前)分子の流れが淀んで生命が誕生したわけである。それからはその淀みは消えることなく絶えることなく、増え続け、今は生命は地球上に満ち満ちている。こう考えると、自分の命も、うたかた(泡沫)のようなものではあるが、しかし私を構成していたものは無になるわけわけでなく、やがてまた別の淀みに流れ込んで別の生命体に使われるかもしれないわけである。
 子供の頃、親族の葬儀で焼き場に行き、人は最後は燃やされて無になってしまうと思い、死に対して恐怖したものである。今は焼き場の高い煙突を通って、私を構成したものは再び地球上に撒かれて行く。そのように思うことが出来るようになった。

 ※今日の話は自分で書いていても、まとまりがなく分かりづらいだろうと思ってしまう。詳しくは福岡伸一著「動的平衡(1)」「動的平衡(2)」を読んで見たら理解してもらえるかも知れない。

散歩(祖師谷~喜多見)

2012年06月05日 10時48分20秒 | 散歩(2)
駅からの散歩

No.340 祖師谷~喜多見        6月2日

 先日池袋のジュンク堂書店に立ち寄ったら、雑誌の「東京散歩」のバックナンバーに「むかしまちむかしみち」というのがあった。 《どの時代を歩こう? だれの道をあるこう? はるかに続く散歩道、全25コース歴史道》 こんなキャッチフレーズが気にいって買って見た。どのコースも部分部分はほとんど歩いたことがあるが、コースの切り口が面白いので、当面これを頼りに散歩することにした。
 今日のコースは祖師谷大蔵から喜多見まで、新宿から小田急線で祖師谷大蔵、成城学園、喜多見の順である。祖師谷大蔵駅を降りて、高級住宅地で有名な成城学園をぐるっと遠廻りに回って喜多見駅までである。都心に近いこの世田谷区と狛江市、まだまだ昔がたっぷり残っている静かな散歩道であった。
     
      
                     小田急線 祖師谷大蔵駅 ウルトラマン像
           ウルトラマンを生んだ円谷プロがダクションがここ砧にあり、誕生の地

      
                      ウルトラマン商店街(祖師谷通り)

      
          商店街を抜けると竹林のある邸宅が現れる。静かで雰囲気のあるよい道

      
                         静かな住宅地が続く

      
                             仙川

      
                            妙法寺

                
                            妙法寺

      
                    妙法寺の本堂で「さつき展」をやっていた

      
                       昔の田舎道の名残がある

      
                            永安寺

      
                  永安寺 三界万霊(さんかいばんれい)供養塔
          子孫が途絶えて、お参りする人がいなくなった仏像と無縁墓碑を合祀したもの

                
                          野川 きしべの路

      
                           次太夫堀公園

      
                           次太夫堀公園

      

                

      

      

      
                         次太夫堀民家園 こびき

                

      
                           旧加藤家 蚕だな

      
                  左の四角の中に自分で入って糸を吐いて繭をつくる

                

      
                          旧秋山家 土蔵

      
                            旧安藤家

      
                   旧安藤家は、庄屋の家だったようで玄関も立派

                

      
                             旧安藤家

      
                             旧安藤家

      

                
                     消壷 こどもの頃使っていた記憶がある

      
                             須賀神社

      
                              慶元寺

      
                              慶元寺

                
                                慶元寺

      
                             氷川神社
      参道の先に見える小さな石造りの鳥居は承応3年(1654)の建立で 世田谷区内最古

      
                             氷川神社

      
                            喜多見不動尊

      
                          小田急線 喜多見駅
                     


水彩画教室(3)

2012年06月01日 08時39分55秒 | 美術
 水彩画教室に通い始めて7ヶ月が過ぎた。今まで散歩で撮ってきた写真をA4にプリントアウトし、教室に持って行く。2時間の授業時間内で1枚仕上げるペースでひたすらスケッチの練習である。鉛筆でデッサンして先生に見てもらい、指摘を受けて手直してから水彩色鉛筆で色をつける。要所要所でどんな風に色を使えばいいかを先生に教えてもらう。塗り終わったら筆に水を付け部分的に色を溶かして仕上げていく。そんな作業の繰り返しである。下の絵は今年になって5ヶ月間の作品を製作順に並べたものである。これを見比べても進歩の跡が見えてこない。なかなか中学生の絵から脱しきれない自分に、絵のセンスのなさを思うのである。

 先日先生に、「やはり水彩の方が良かったですかね?」と聞いてみた。すると、「いやいや、これで押し通していけば良いんじゃないですか」との返事、「そろそろ野外にスケッチに出かけたらどうですか」とも言われた。「とんでもない。スケッチしていて後ろに人が来たら、その都度絵を隠さなければならない。それではみっともないから、野外デビューは来年の春からですよ」と、とりあえず答えておいた。果たして後1年で、自分でも納得できる絵がかけるのだろうか?当面の目標は中学生レベルから高校生レベルにステップアップすることである。

 今自分には何点かの課題がある。一つはデッサンはどこまで書き込めばいいのか?ということである。あまり大雑把だと色を付けるときに迷ってしまい、色数が少なく単調な絵になり勝ちである。かといって精密に描いていけば鉛筆の線が強く出て、塗り絵のようになって絵が硬くなる。私の目指すものは散歩に行って、せいぜい1時間くらいでさらさらと描いて、それなりに様になる絵が描けるようにすることである。実物の風景のどこを描いてどこを省略するのか、これは何度も描いて自分のスタイルを決めるしかないのだろう。

 次が色の問題である。今使っている色鉛筆は24色、これだけの色を使って表現しなければいけない。木々の緑にしても多様な色を持っている。しかし色鉛筆の緑系はせいぜい3色である。灰色にしても白に近いものから黒に近いものまで多種多様である。しかし色鉛筆は白と黒の2色しかない。絵の具であれば混ぜ合わせて色を作くってから塗ればいいのだが、水彩色鉛筆は色を重ねておいて画用紙の上で水で溶く感じである。どの色とどの色を重ねて水を垂らせば、どんな感じの色になるのかが難しい。24色でどこまで多彩な色が出せるのか?これも大きな課題である。

 次が色鉛筆の風合いと水彩画の風合いをどう出していくのか、そのバランスの問題である。色鉛筆だけだと絵に柔らかさや深みがないように思ってしまう。だからといって水をつけて全体を水彩画風にするのであれば、はじめから水彩絵の具を使えば良い。「どの部分に筆跡を付ければ絵が生きてくるか?そんなことを気にかけて水をつけてみてください」と、先生は言う。強調するところに筆を使うのか?ぼかすことところを水彩画風にするのか?これもまた一様ではないから面白いのかもしれないが。

 先月から、20代後半だろう若い男性が教室にきた。これでやっと女性専科のようだった教室から開放され、私は一息つける感じである。彼は4年間独学で絵を勉強していて、色付けを勉強しようと思って習いにきたそうである。隣で描く彼の絵はデッサンも緻密で美大生の描いた絵を見ているようである。普段も練習しているようで復習した絵を教室に持ってきて先生に見てもらったりしている。授業中だけしか練習しない我々他の生徒とは意気込みが違っている。やはり何事も一生懸命さが上達を決めるのだろうと、反省してしまうのである。

      
                              富士山

      
                              城ヶ島

      
                               佐原

      
                             牛久シャトー

      
                               長瀞

      
                               箱根

      
                           秩父 羊山丘陵 芝桜

      
                           川越 喜多院 五百羅漢

      
                               川越市

      
                             草加市 綾瀬川

      
                            行田市 古代蓮の里