親と離れ、初めて旅行したのが山口である。中学生の夏休み、3歳下の弟を連れて山口の叔母(母の妹)の家に遊びに行くことになった。下関から山陽線の汽車に乗って小郡(今は新山口駅)まで、さらに山口線に乗り換えて山口まで、下関からは3時間程度かかったと思う。当時の私には一大決心が要った旅行である。
母が事前に手紙で連絡しておいてくれたので、従兄弟2人が山口駅まで迎えに来てくれていた。従兄弟は男2人の兄弟で、長男は私と同じ歳、次男は弟と同じ歳である。2人は叔母さんに言われていたのだろう、我々2人を市内観光させながら家まで案内してくれた。駅からバスに乗り、最初にザビエルの塔に案内してくれる。そこから歩いて山口県庁へ、県庁は叔父さんの勤め先である。県庁舎は昔の山口城の跡に建っている。従兄弟の後を付いて歩いた道に、その城跡の石垣を覚えている。県庁から瑠璃光寺の五重塔を見て、トウモロコシ畑の中を歩いて家に着いた。家に着く頃には従兄弟たちとすっかり打ち解けていた。それから一週間、朝起きて寝るが寝るまで、4人は一緒に遊んでいた。もぎたてのトウモロコシの味、スイカやブドウの従兄弟達との早く食い競争、川で泳ぐことの珍しさ、8月7日の七夕の日のちょうちん祭り、自分史の中に鮮明に記憶されているワンダーな夏休みであった。
私が高校生になった頃、叔父さんは山口県庁の東京事務所に転勤になり、従兄弟達も東京に引っ越していった。叔母夫婦は何年かして山口に帰ってきたが、そのときは従兄弟は大学や就職ということで自宅を離れていた。私も下関を離れ東京に出てきたから、山口を訪れる機会は無くなってしまう。15年前に叔父さんが亡くなり、最後まで山口の家に一人で住み続けていた叔母さんも、昨年2月に亡くなった。今あの家には誰も住んでいない。
今回、岡山に用事があり、「せっかくここまで来たのだから」と山口を訪れてみることにした。山口に行くのはたぶん55年ぶりだろう。岡山から新幹線で新山口まで、新山口駅に着いたとき、たまたま山口線の津和野行きSL列車の発車時刻が迫っていた。「昔を懐かしむならSLで行こう」、そう思って早速切符を買って飛び乗った。懐かしい汽笛の音、煙のにおい、時速40km程度のSLのスピードは、都会の高速になれた感覚には、反対に新鮮で心地がよい。沿線には植えたばかりの水田が広がり、線路に沿った道路を車が並走している。踏切でカンカンと警報音が鳴り、子供達が列車に向かって手を振っている。
山口は「西の小京都」と言われている。足利尊氏の時代、周防長門の守護職として勢力を確たるものにした大内弘世は、京に強烈な憧れを抱き、都を模した街づくり始めた。以後約200年、歴代の当主も同じ夢を抱き、名実ともに「西の京」としての町づくりに励んだ。町は京都の何分の一かの規模であろうが、周りは山に囲まれて盆地の中にある。町並みは碁盤の目のようになって、見通しが利く。古い神社仏閣がいたるところに点在していて、歴史とともに街がある。しかも山口は瀬戸内海工業地帯の幹線から外れているため、その発展の波に飲み込まれることがなかった。それが幸いしたのか、街にはビルが少なく、民家も昔ながらの平屋が多く、町全体が緑に包まれている。だからなのか、歩いていても圧迫感がなく、開放的な気分になってくる。
県庁所在地でありながら時代の流れから取り残された町、そういうことからすれば、山口は今の京都よりはるかに「昔の京」の雰囲気が残っているのではないだろうかと思う。あいにく梅雨の雨降りで一日中傘をさして歩いていたが、しかしその方がしっとりと落ち着いて風情がある。昔、従兄弟に案内されたザビエル聖堂から県庁へ、そして瑠璃光寺の五重塔をたどって懐かしい叔母さんの家へ、久々に都会の喧騒を離れ、SLに乗ってタイムスリップした感じである。
新山口駅
新山口と島根県の津和野までを走るSL「やまぐち号」
基本的には土日祭日で一日一往復
「C571」は1937年(昭和12年)に製造、女性的なスタイルは「貴婦人」と呼ばれ
人気があった。全国で蒸気機関車が廃止のあと、1979年この山口線で復活する。
客車は昭和スタイル
窓の止め具が懐かしい
JR山口線 山口駅
県庁所在地駅としてはさびしい駅である。
消失した旧ザビエルの塔
フランスコ・ザビエルの来日(山口での布教活動)400年記念として1952年に
建てられた。市民にも広く親しまれていたが、1991年9月に失火により全焼した。
新たに再建されたザビエル記念聖堂
種々の協会関係機関、山口県の信徒と山口市民、全国から寄せられた募金により
1998年(平成10年)に再建された。亀山の中腹に立つ50m超の2本の塔は遠く
からでも眺めることが出来、山口市のランドマーク的な存在にもなっている。
フランシスコ・ザビエルは1506年、6人兄弟の末っ子としてスペインのナバラ王国の
ザビエル城で誕生する。1549年(天文17年)43歳の時に今の鹿児島に着いた。
礼拝堂は前衛的な雰囲気で、後ろにパイプオルガンがある。
大聖年の鐘
井戸端で説教するザビエル
亀山公園から山口市内を眺める。
山口は四方を山に囲まれた盆地の町、樹木が多くしっとりと落ち着いた雰囲気である。
左の建物が山口県庁
写真の右の山裾あたりが叔母の家がある場所
静かな住宅地
山に囲まれているから、あちらこちらに川が流れる。
山口大神宮
山口大神宮 手前が外宮、奥が内宮
山口大神宮
山口県庁
この地には元々山口城があり、その後旧山口藩庁が置かれていた。その後旧県庁舎、
県会議事堂ができる。しかし、手狭になったことから敷地の隣に現山口県庁が整備された。
旧山口藩庁門
長州藩主毛利敬親が幕末の有事に備え政事堂建設を着工し、この門は政事堂の門
として建設された。その後山口藩庁の門として使用されていた。
旧県庁舎
旧県庁舎内部
旧県会議事堂
旧県会議事堂
城跡の石垣
洞春寺 大内持盛の菩提寺
本堂を使って中学生が合唱の練習をしていた。
瑠璃光寺(るりこうじ)
瑠璃光寺
国宝・瑠璃光寺五重塔
日本三名塔の一番に数えられ、室町中期における最も秀でた建築物と評される。
そば寿司で昼食
木町橋
子供の頃、従兄弟に宛てた年賀状の住所は山口市木町橋上○軒目、と書いていた。
木町橋の下を流れる「一の坂川」
この川の上流の小さな浅瀬で泳ぐのが楽しみだった。
叔母の家の前の道、
昔は舗装されていず、この道を行けば次第に細くなりやがて山道になった。
昨年2月に亡くなった叔母の家、今は誰も住んでいない。
野田神社
豊栄神社
菜香亭
明治10年ごろ創業し、平成8年までの間、山口の迎賓館として井上馨、
伊藤博文、佐藤栄作ら時代を担った人々が集まった料亭。
100畳の大広間には歴代の首相の扁額が並ぶ
佐藤栄作
伊藤博文
安部晋三
田中角栄
竹下 登
山縣有朋
安部晋三、竹下登の書は線が細い。やはり書は性格を現すのか?
龍福寺 大内氏館跡
昔ながらの住宅地
市街中心を流れる一の坂川
中心商店街
かやくうどん
このあたりのうどんは細い丸麺、「かやくうどん」は最もポピュラーなうどんの名称、
「かやく」とは「火薬」ではなく「加薬」で漢方の用語、「かやくご飯」など具材が
加わるときに使う関西地方の方言か?
山陽新幹線 新山口駅
母が事前に手紙で連絡しておいてくれたので、従兄弟2人が山口駅まで迎えに来てくれていた。従兄弟は男2人の兄弟で、長男は私と同じ歳、次男は弟と同じ歳である。2人は叔母さんに言われていたのだろう、我々2人を市内観光させながら家まで案内してくれた。駅からバスに乗り、最初にザビエルの塔に案内してくれる。そこから歩いて山口県庁へ、県庁は叔父さんの勤め先である。県庁舎は昔の山口城の跡に建っている。従兄弟の後を付いて歩いた道に、その城跡の石垣を覚えている。県庁から瑠璃光寺の五重塔を見て、トウモロコシ畑の中を歩いて家に着いた。家に着く頃には従兄弟たちとすっかり打ち解けていた。それから一週間、朝起きて寝るが寝るまで、4人は一緒に遊んでいた。もぎたてのトウモロコシの味、スイカやブドウの従兄弟達との早く食い競争、川で泳ぐことの珍しさ、8月7日の七夕の日のちょうちん祭り、自分史の中に鮮明に記憶されているワンダーな夏休みであった。
私が高校生になった頃、叔父さんは山口県庁の東京事務所に転勤になり、従兄弟達も東京に引っ越していった。叔母夫婦は何年かして山口に帰ってきたが、そのときは従兄弟は大学や就職ということで自宅を離れていた。私も下関を離れ東京に出てきたから、山口を訪れる機会は無くなってしまう。15年前に叔父さんが亡くなり、最後まで山口の家に一人で住み続けていた叔母さんも、昨年2月に亡くなった。今あの家には誰も住んでいない。
今回、岡山に用事があり、「せっかくここまで来たのだから」と山口を訪れてみることにした。山口に行くのはたぶん55年ぶりだろう。岡山から新幹線で新山口まで、新山口駅に着いたとき、たまたま山口線の津和野行きSL列車の発車時刻が迫っていた。「昔を懐かしむならSLで行こう」、そう思って早速切符を買って飛び乗った。懐かしい汽笛の音、煙のにおい、時速40km程度のSLのスピードは、都会の高速になれた感覚には、反対に新鮮で心地がよい。沿線には植えたばかりの水田が広がり、線路に沿った道路を車が並走している。踏切でカンカンと警報音が鳴り、子供達が列車に向かって手を振っている。
山口は「西の小京都」と言われている。足利尊氏の時代、周防長門の守護職として勢力を確たるものにした大内弘世は、京に強烈な憧れを抱き、都を模した街づくり始めた。以後約200年、歴代の当主も同じ夢を抱き、名実ともに「西の京」としての町づくりに励んだ。町は京都の何分の一かの規模であろうが、周りは山に囲まれて盆地の中にある。町並みは碁盤の目のようになって、見通しが利く。古い神社仏閣がいたるところに点在していて、歴史とともに街がある。しかも山口は瀬戸内海工業地帯の幹線から外れているため、その発展の波に飲み込まれることがなかった。それが幸いしたのか、街にはビルが少なく、民家も昔ながらの平屋が多く、町全体が緑に包まれている。だからなのか、歩いていても圧迫感がなく、開放的な気分になってくる。
県庁所在地でありながら時代の流れから取り残された町、そういうことからすれば、山口は今の京都よりはるかに「昔の京」の雰囲気が残っているのではないだろうかと思う。あいにく梅雨の雨降りで一日中傘をさして歩いていたが、しかしその方がしっとりと落ち着いて風情がある。昔、従兄弟に案内されたザビエル聖堂から県庁へ、そして瑠璃光寺の五重塔をたどって懐かしい叔母さんの家へ、久々に都会の喧騒を離れ、SLに乗ってタイムスリップした感じである。
新山口駅
新山口と島根県の津和野までを走るSL「やまぐち号」
基本的には土日祭日で一日一往復
「C571」は1937年(昭和12年)に製造、女性的なスタイルは「貴婦人」と呼ばれ
人気があった。全国で蒸気機関車が廃止のあと、1979年この山口線で復活する。
客車は昭和スタイル
窓の止め具が懐かしい
JR山口線 山口駅
県庁所在地駅としてはさびしい駅である。
消失した旧ザビエルの塔
フランスコ・ザビエルの来日(山口での布教活動)400年記念として1952年に
建てられた。市民にも広く親しまれていたが、1991年9月に失火により全焼した。
新たに再建されたザビエル記念聖堂
種々の協会関係機関、山口県の信徒と山口市民、全国から寄せられた募金により
1998年(平成10年)に再建された。亀山の中腹に立つ50m超の2本の塔は遠く
からでも眺めることが出来、山口市のランドマーク的な存在にもなっている。
フランシスコ・ザビエルは1506年、6人兄弟の末っ子としてスペインのナバラ王国の
ザビエル城で誕生する。1549年(天文17年)43歳の時に今の鹿児島に着いた。
礼拝堂は前衛的な雰囲気で、後ろにパイプオルガンがある。
大聖年の鐘
井戸端で説教するザビエル
亀山公園から山口市内を眺める。
山口は四方を山に囲まれた盆地の町、樹木が多くしっとりと落ち着いた雰囲気である。
左の建物が山口県庁
写真の右の山裾あたりが叔母の家がある場所
静かな住宅地
山に囲まれているから、あちらこちらに川が流れる。
山口大神宮
山口大神宮 手前が外宮、奥が内宮
山口大神宮
山口県庁
この地には元々山口城があり、その後旧山口藩庁が置かれていた。その後旧県庁舎、
県会議事堂ができる。しかし、手狭になったことから敷地の隣に現山口県庁が整備された。
旧山口藩庁門
長州藩主毛利敬親が幕末の有事に備え政事堂建設を着工し、この門は政事堂の門
として建設された。その後山口藩庁の門として使用されていた。
旧県庁舎
旧県庁舎内部
旧県会議事堂
旧県会議事堂
城跡の石垣
洞春寺 大内持盛の菩提寺
本堂を使って中学生が合唱の練習をしていた。
瑠璃光寺(るりこうじ)
瑠璃光寺
国宝・瑠璃光寺五重塔
日本三名塔の一番に数えられ、室町中期における最も秀でた建築物と評される。
そば寿司で昼食
木町橋
子供の頃、従兄弟に宛てた年賀状の住所は山口市木町橋上○軒目、と書いていた。
木町橋の下を流れる「一の坂川」
この川の上流の小さな浅瀬で泳ぐのが楽しみだった。
叔母の家の前の道、
昔は舗装されていず、この道を行けば次第に細くなりやがて山道になった。
昨年2月に亡くなった叔母の家、今は誰も住んでいない。
野田神社
豊栄神社
菜香亭
明治10年ごろ創業し、平成8年までの間、山口の迎賓館として井上馨、
伊藤博文、佐藤栄作ら時代を担った人々が集まった料亭。
100畳の大広間には歴代の首相の扁額が並ぶ
佐藤栄作
伊藤博文
安部晋三
田中角栄
竹下 登
山縣有朋
安部晋三、竹下登の書は線が細い。やはり書は性格を現すのか?
龍福寺 大内氏館跡
昔ながらの住宅地
市街中心を流れる一の坂川
中心商店街
かやくうどん
このあたりのうどんは細い丸麺、「かやくうどん」は最もポピュラーなうどんの名称、
「かやく」とは「火薬」ではなく「加薬」で漢方の用語、「かやくご飯」など具材が
加わるときに使う関西地方の方言か?
山陽新幹線 新山口駅