60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

死ぬまでにしたい10のこと

2009年11月27日 09時07分42秒 | 映画
先週、同じ大学の1年先輩で、以前同じ会社にいた66歳になるY.Hさんと会った。
5年ぶりぐらいである。この年齢になると、やはり話題は退職後の過ごし方の話になる。
彼は退職2年前(58歳の時)「退職後の生活」というテーマで、会社の研修会に夫婦
2人で参加したそうだ。研修の中で月間、週間、1日の白紙のスケジュール表を渡され、
離職後に考えられる予定を記入するように言われた。その時自分には全く書くことがない
ことに愕然としたそうである。そして初めて退職後の時間を実感するようになったという。
それ以来、退職後何をするかを考え続けた。俳句教室で勉強をし俳句を作り始める。
毛筆を習い、般若心経の写経を始める。ハワイマラソンを目指しジョギングを始める。
思いつくことで自分が出来そうなものを、次から次へ始めていったという。
しかし実際に定年退職してからは「何のために??」という思いが強くなり、ほとんどが
長く続かず、反対にノイローゼ気味になって、憂鬱な日々が続いたという。

何年か経過するうち発想を変えることにしたそうである。(本からの啓示だろうと思うが)
「どう生きるか」ということから、「死ぬまでに自分は何をしたいか」という切り替えである。
自分が死ぬ日を90歳の誕生日に設定する。あと25年間、この間に何をしたいか?
こう考えると、いくつかやりたいことが出てきて、前向きなスタンスになり始めたという。
そんな中から、自分の考えを整理し書き出してみたそうだ。

A、今までやり残してきたと思えるもので、死ぬまでにやっておきたいこと、
  ① おしゃれをする。
  ② 韓国、中国、インドの3ケ国に行く。
  ③ 女房孝行する。
  ④ 今まで買いためた司馬遼太郎と塩野七生の本を読破する。
  ⑤ 般若心経の「空」について勉強する。
  ⑥ 若い女性と接触を保つ(変な意味ではなく話し相手ということ)
B、死ぬまでにやっておかなければいけないこと、
  ① 社会との接点を保っておくためとボケを防ぐために、何か物を作っていく、
    できれば日本の伝統的な手内職的なもので何かを作って行きたい。
  ② 遺言を書く、
  ③ 自分の身辺整理(捨てるものはすべて捨てておく) 
C、家族に迷惑をかけず、自分も苦痛なく死ぬためにやっておくこと、
  ① 1年1回の健康診断と不調の時は億劫がらず直ぐ病院に行く。
  ② 食事の管理(お酒を控え、バランスのある食事をする)
  ③ 運動をする。(今は週に3回は10kmは歩くようにしている)

酒の席で、聞き逃したところはあるが、だいたいこのようなことを言っていたと思う。
これを実行するには年金だけではなかなか難しい。今は千葉市内の大きな駐車場で
パートタイムで働いている。時給900円で週3回、1回12時間、月約12万である。
当面70歳までは働けるということで、これを資金に活動して行くそうである

視点を変えたことで、見方が変わる。例えばA①の「おしゃれうをする」、
サラリーマン時代はお金もなく、背広が主で普段着もオシャレなものは持っていない。
やはり年相応のオシャレがしてみたい。そう考えると、日々すれ違う人の服装が気になり、
雑誌を見たり、百貨店へ行った時も丹念に見て回るようになる。1足良い靴を買ったし
良いコートも買った。今日は西武で目につけておいたお洒落なバックを思い切って買った。
視点を変えると、なにか世の中の見方が変わり、楽しくなって前向きになってくるという。


そんな話を聞いているうちに、5~6年前に観たある映画を思い出した。その映画は
「死ぬまでにした10のこと」というもの、私には結構インパクトがあって今でも覚えている。
映画はカナダのバンクーバーが舞台、幼い娘2人と失業中の夫と共に暮らす若いアン、
彼女はある日腹痛のために倒れ、病院に運ばれ検査を受ける。その診断結果は
「余命2、3ヶ月」という残酷なものであった。若さのせいで癌の進行が早くもう手遅れだと
言われ言葉をなくし絶望する。 病院から戻ったアンは家族には「だたの貧血」と嘘をつく。
悩んだ末、この事実を誰にも言わないと決めたアンは、「死ぬまでにしたい10のこと」を
ノートに書き出し、一つずつ実行してゆき死を迎える。そんな映画であった。

彼女が書き出した10のことが下のようなものである。

1.娘たちに毎日「愛してる」と言う。
2.娘たちの気に入る新しいママを見つける。
3.娘たちが18歳になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する。 
4.家族でビーチに行く。
5.好きなだけお酒とタバコを楽しむ。
6.思っていることを話す。
7.夫以外の人とつきあってみる。
8.誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する。
9.刑務所にいるパパに会いに行く。(長い間会っていない)
10.爪とヘアスタイルを変える。

「死ぬまでにどう生きるか?」を考えるより、「死ぬまでに何をしたいか?」を考える方が
実行性があり、わずか3ケ月の中で彼女は最後の力を振り絞って精一杯生きていく。
10の中にあった⑦夫以外の人とつきあってみる。⑧誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する。
これも実践し、夫以外の男性と恋に落ち、最後は切ない別れになっていく。

映画の主人公のように3ケ月という短い余命ではないものの、1年先輩の彼にしても、
私にしても余命はどんなに長く見ても1/3を切っており、何時どうなってもおかしくない。
そんな時に前途洋々の若者のように「いかに生きるか?」ということを考えても、なかなか
納得いく答えは見いだせないのであろう。だから「何をやり残したか?」「何をしたいか?」
という具体的なものを列記した方が分かりやすくなり、明快な目標ができるように思う。

と、言うことで、私の「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出してみた。

① 自分史を書いて3人の子供に渡す。
② この世に残していく小説を1編でいいから書いてみる。
③ スケッチブックを持ち歩き、鉛筆画でうまく写生できるようになる。
④ タクラマカン砂漠へ行き、360度の砂漠の中に自分の身を置いてみる。
⑤ 四国八十八ケ所を徒歩で回る。
⑥ 身の回りや服装は何時までも身ぎれいにしておく(おしゃれはセンスがないから無理)
⑦ 住宅ローンの完済、お墓の購入 自分の気に入った遺影写真を用意しておく。
⑧ 死ぬまでには数着の洋服と肌着、パソコンと携帯電話以外はすべて処理しておく。
⑨ 死期を感じた時、故郷の下関を数日かけてゆっくりと歩いてまわる。
  (昔の実家、学校、親戚の家、遊んでいた場所、家族との旅行先、等々)
⑩ 死ぬまで一緒にいるかどうか別にして、最後には女房に「ありがとう」を言って別れる。

思いつくことを列記してみた。まだ離職するまでに数年の時間はあるだろう。その間に見直し、
それを自分の「死ぬまでにしたい○○のこと」として実行してみようと思うようになった。

糖質制限(2)

2009年11月20日 09時02分05秒 | Weblog
上の図は三大栄養素が血糖を上昇させる時の相関図である。
この図をみると糖質は摂取後15分~90分で100%血糖に変わる。蛋白質は3時間
前後で約50%、脂質は数時間~12時間で10%未満が血糖に変わることになる。
三大栄養素のうち糖質のみが100%糖になり血糖を上昇させる主たる要因である。
したがって血糖値を抑えるにはカロリーよりもむしろ摂取食物の質の方が重要である。
現在の食生活はエネルギー総量の60%以上を糖質に依存しており、これが循環器
系のさまざまな障害を起こす要因になっていると考えられる。「糖質依存からの脱却」
これが糖質制限食の考え方である。

私が糖質制限を初めて今日でちょうど1ケ月になった。そこで今日はその中間報告である。

尾籠な話で恐縮であるが、まずは便量と便質が変わった。
便量は今までの半分程度、時々自分が便秘になったのではないかと心配になるほどである。
便質は水分量が減った感じである。食べる内容が違ってくるわけであるから当然でだろうが、
雑穀がメインの馬や牛の糞から、肉食系動物の犬や猫の糞のように質が変化してきた。
どちらかと言えばコロコロ形のため、今までよりトイレットペーパーの使用量も減ってくる。
また、食物の変化で100種以上120兆存在するといわれる腸内細菌の生存分布も
変化が生じるのであろう。スタート当初、便秘になったり下痢をしたりと調子が良くなかった。
しかし時間が経つに従って落ち着いてきたのだろう、今は下痢を起こすことはない。

次に体重、1ヶ月前に71kgだった体重は昨日現在69.8kg、マイナス1.2kgである。
ご飯、パンや麺類を抜くとどうしても食事量が少なくなる。そのためおかずをたくさん食べる。
今までのおかず量の1.5倍くらいは食べるようになったであろう。とくにカロリーを制限する
わけでないから、いくら食べても良い、したがってカロリー制限のように空腹感は起こらない。
メタボが騒がれ始めた頃、カロリー制限して体重を落とそうとしたことがある。その時は常に
食事量を抑え、しかもカロリーの低いもの低いものと意識しながら食べていた。そのため、
いつも空腹感を感じていた。そのストレスは結構強く、その反動で時々食べ過ぎてしまい、
後悔することもあった。しかし今回の糖質制限は量的な制限がないから楽である。
人により、ご飯を食べないことがストレスになる人がいるという。私にはそのストレスはない。

次は体調、これから変化が出てくるのであろうが、今のところ以前と全く変わりはない。
いわゆる血糖値とは血液内のグルコース(ブドウ糖)の濃度である。血糖値が高い
ということは血液が砂糖水のように粘度を帯びてくる、いわゆるドロドロ血液である。
中性脂肪が高い人や肥満や糖尿病の人がドロドロ血液になっていると言われる所以は
血糖値が高くなることに起因しているようである。糖質制限を続けることで、私の血液も
多少はサラサラ血液に変わり血流が良くなるであろう。そうなれば私の体調にも変化が
出てくるかもしれない。このあたりが今後の楽しみである。


糖質制限を始めたことは何人かの友人に話してみた。「そんなことして、大丈夫なの?」
「糖尿病でないのなら、何を好き好んで、そんなことを・・」と言うような意見が大半である。
当然であろう、生まれてこの方、ご飯やパンや麺類を主食として60年間を生活をしてきた。
それでここまで無事に生きてきたのである。それを否定するわけだから、体に変調が起きる
ことを疑うのは当然であろう。私自身でも思う、私がもし糖尿病や境界型であれば病気の
改善のため糖質制限にチャレンジするであろう。しかし今は糖尿病でもないし健康的にも
特に問題をj抱えているわけでもない。「ではなぜ?」と自分に問うてみる。
自分でも明確なものはないが、多分自分の中の「何か」を変えてみたかったのであろう。

先日、私の糖質制限を話し、それを薦めていたメタボな友人から電話があった。
「新聞にオーストラリアのニュースで糖質制限すると怒りっぽくなり、腎臓に負担がかかる。
そんなニュースが載っていたぞ、だからやめた方がいいんじゃないのか」と言うのである。
私も日経新聞に載っていたその記事は読んでいた。 内容は以下のようである。

【パンなど炭水化物を減らす「低炭水化物ダイエット」を 続けると、気分が憂うつになったり、
怒りっぽくなったりする。 オーストラリアの研究チームが、このほど米医学誌「アーカイブズ・
オブ・インターナル・メディシン」に こんな研究結果を発表した。
炭水化物を減らすダイエットは腎臓障害をもたらすなどの 問題点が指摘されてきたが、
精神面にも影響を及ぼすことが分かった。 研究は24~64歳の肥満の人106人を対象に、
(1)肉、乳製品など蛋白質や脂質を中心に パンなど炭水化物を抑える「低炭水化物」組
(2)炭水化物を多く取る 「高炭水化物」組の二つの減量グループに分け、1年間にわたり
体重や精神状態を調べた(両組のカロリー摂取量は同じにした)。
その結果両グループとも1年後の体重減少は平均で13.7キロでほとんど変わりなかったが、
精神状態では「高」組にダイエット前と比べて改善がみられたのに対し、 「低」組は気分の
落ち込みや不安を示すようになった】というものである。

私の意見は以下のようになる。
現代人は糖質メインの食生活をしてきたから、基本的には糖質中毒気味なところがある。
糖質制限を提唱した著者の江部医師のいる高雄病院でも過去1200名の糖尿病患者
が実施したのに対し約2割の人が脱落したそうである。それは「どうしてもご飯が抜けない」
という理由からのようである。今まで慣れ親しんでいたご飯やパンを抜くことに強いストレスを
感じる人も多いはずである。
今回のオーストラリアの実験は(I)組はカロリー制限と糖質制限の2重の負担があり、対して
(2)の組はカロリー制限だけである。当然(1)の方がストレスはたまる。したがって(1)の方が
「気分の落ち込みや不安を示す」というのは当たり前のことのように思う。しかもサンプル数は
わずか106人、この程度の実験をオーストラリア発で掲載するのはオーストラリアが穀物の
大生産地で最大の輸出産品であるのも無縁ではないように思われる。
腎臓障害というのは良く分からないが、オーストラリアで取り上げられているのは平均13kg
減量という超肥満の人達であろう。したがって肥満による腎臓への影響ではないだろか。

私に電話してきた友人は165㎝で78kgのメタボな体型である。本人もそのあたり気にして
常にカロリーコントロールして減量に心がけているが、しかし一向に体重は減っていかない。
そんな状況を何年も見ているから、彼に薦めたわけである。しかし、彼はやらない方が良い
理由を引っ張り出してやろうとはしない。カロリーコントロールも自分の意思が弱く不調で、
他に策がないのだから、彼のメタボはいつまでも解消しないだろう。
世の中、何が正しく何が間違っているかの定説や常識は往々にしてひっくり返るものである。
だから、なにかを実行しようとするなら自分が判断して自分が決断するしかないように思う。
今まで何十年の不摂生が原因でメタボになった体、ある程度の自己犠牲は必要であろう。

先ほど書いた動機の「何か」とは、
どちらかと言えば単調な暮らしになりがちな昨今、私に当面の具体的な目標がなかった。
歳とともに怠惰になりがちなを日々の生活に、緊張と変化を求めようとしたのかも知れない。
自分に糖質制限というノルマをかけることで、精神的な鍛錬にしたかったのかも知れない。
又この不自由な生活を耐えることで、新たなステージに立てると思っているのかもしれない。
それとも歳とともに衰えていく気力体力を少しでも延命させられると思ったのかもしれない。
自分でも明快な理由は分からない。「じっとしているのは嫌だ。だから何かにチャレンジする」
これは残り少なくなった来た自分の人生に対しての一種の焦りなのかも知れないと思う。

定年後

2009年11月06日 09時47分40秒 | Weblog
                   新潟を散歩する88歳の父

以前勤めていた会社の同僚が、来年1月の60歳誕生日で定年を迎える。
今年の1月に逢った時、「あと1年、とうとうカウントダウンが始まったよ。この1年は1日1日を
大事にし残り少ないサラリーマン人生を噛みしめて過ごして行きたい」そんな風に語っていた。
そんな彼と先週末、池袋で飲んだ。「どお、あと3ヶ月、覚悟はできた?」と聞いてみる。
「う~ん、仕事は今までの流れでそれなりにやれるが、気力が失せてしまい力が入らない。
自分がウツ症状になったかと思うほど、憂鬱な日々が続いているんだ」そんな風に言う。
「自分は気力も体力も残っていて、まだ50代前半という意識がある。今からもまだ働けると
思うのに、リタイヤしなければいけない。そんな自分が愛おしく、無念で仕方がない」とも言う。

彼は私より6歳後輩で、ある時期私の部下であったこともあり、これが縁で今は友人である。
鹿児島出身、大学を出て会社に入り、転籍はあるものの、このグループで勤め上げてきた。
仕事は前向きでそれが表に出るタイプ、部下を叱咤激励する意味で叱ることも多かった。
定年後は嘱託で残る可能性もあるものの、この不況下で、今はどうなるか未定である。
残れば今の部下の配下になる可能性もあり、地位逆転で、このあたりが辛いところである。

彼の2人の子供はすでに就職している。退職金で住宅ローンを完済させ、年金支給までに
必要なお金も確保してあり、老後の生活設計は万端怠りなくやっているようである。
あとは「退職後何をするか?」である。彼は老後対策として、3年前から向こうが丘遊園
にある日本民家園という施設へ隔週の土曜日にボランティアとして通っている。
何十棟と立つ古民家の来歴や特徴など訪れる人への説明役である。そしてそれに加え、
最近はろうあ者への説明に役立てばと、夫婦で手話の教室に通っているという。
そんな準備をしていても、やはり働く場を失い、大きく環境が変わることへの不安は日増しに
大きくなって、彼を息苦しくさせているようである。
人により定年のとらえ方は様々であるが、このことはサラリーマンには最大の試練であろう。

すでに退職した友人が言っていた。自分の予定をカレンダーや手帳に書き込んでも、
せいぜい埋まって月に2、3日だけ、後はどうあがいても予定がない。そのわびしさ、虚しさは
経験した者でなければ解らないという。時間は有り余るほどある。しかしやることがない。
毎日をどう過ごしていくか、目標が定まっていれば活き活きとして楽しい人生になるだろう。
しかしそれが見いだせなければ、ただただお迎えを待つだけのさびしい人生になってしまう。
定年前までの「働く」という目標はなくなり、あとは各々に自由に生きていって良いわけで、
そこに決まった形はない。それが飼いならされてきたサラリーマンにとっては厄介なのである。


私の父は国鉄を退職したあと国鉄の外郭団体へ天下った。その団体に7年勤めてから
後輩に後を譲り、完全に仕事からリタイヤした。当時両親は下関に住み、離れていたため、
父の様子はよくはわからなかったが、そばにいる母がときどき電話で父のことを話してくれた。
「走るために生まれてきたサラブレッドは走れなくなればその血が騒ぐ。あの人は働くために
生きて来たように思う。今はまだ働きたいという血が騒ぐのだろうね、その血が収まるまで
時間がかかりそうだよ」。朝ごはんを食べ、新聞にじっくりと目を通し、持ち株会社の株価を
ノートに記入し終わると、散歩に出かけて行く。どこをどう歩くのかはわからないが、2時間も
3時間も戻ってこない。帰ってきて植木を手入れし、読書をし、毎日の買い物に行ってくれる。
少しはのんびりしていれば良いと思うのだが、ちっともじっとしていないんだよ。と話していた。

父は典型的なサラリーマンである。毎朝定時に家を出て職場に通う。お酒は飲めなかったので
大体は定時に帰る。帰ってから一家団欒で過すことを大切にしていた。人事異動、単身赴任、
昇級試験、職場での人間関係、仕事での葛藤、挫折や栄誉もあっただろう、そんな数々の
試練を経験しながら40年以上を国鉄で勤め上げてきた。意志が強く、我慢強い性格で、
職場での不満を家族は聞いたことが無かった。そんな40年間で体にしみ込んだ習性を、
定年をきっかけにモデルチェンジせねばならない。それは並大抵でない努力がいるであろう。
父は自分が決めた日課を、飽きることなく諦めることなく、直向きに過ごしていたように思う。

両親はその後下関を離れ、3番目の息子(私の弟)と2世帯住宅での同居で新潟へ移った。
(3人の兄弟の連れ合いで弟の女房が同郷でもあり、両親とは相性が良かったからであろう)
探究心の強い父は、新天地ではあちらこちらと歩きまわり下関にいる時よりは活発になった。
しかし歳とともに足が悪くなり、行動半径は狭まって行く。やがて家からの散歩程度になる。
母が亡くなって父一人になるとゴミ捨てと近所の買い物など以外はほとんど外に出なくなった。
歴史の勉強や読書などを欠かしたことのなかった父も次第にその意欲を失って行ったようで、
テレビを見て過ごす時間が多くなり、やがて生活の中心がテレビになってしまった。
しかし93歳で亡くなるまで食事洗濯一切を子供たちに頼らず、自立した生活をしていた。

さあ、そろそろ自分の順番がやってくる。私は父ほどの意志の強さはなく、勉強家でもない。
父は私にとって最高の目標である。しかし真似は出来ないだろう。又友達がやろうとしている
ボランティアも私には不向きなように思う。やはり自分人生、自分仕様の日課を作るしかない。
今、自分は何に興味があり、何ができるか?何を目標にするか?そんなことを考えてみる。

父の時代と違って今はインターネットで世界と繋がる。歳の割にはパソコンは苦にならない、
デジカメも扱える、文章を書くことは楽しいし、父のように散歩も好きである。映画も好きだし、
読書も好きだ。人と接することも苦にならないし、どちらかと言えば友人も多い方であろう。
今はそんなことを生かし、老後の目標を作って行きたいと思っている。
一つは日経の「私の履歴書」のような「自分史」を書いて、死ぬ前に3人の子供に渡すこと、
二つ目は小品でよいから小説を書いてみたい。そしてお世話になった人にメールで配りたい。
三つ目は鉛筆画か色鉛筆を使って、簡単な絵を描けるようになりたい。これは夢である。
四つ目は健康管理を兼ねて、何時までも散歩は続けて行きたい。   等々、
今思う具体的な目標は何個かあるが、それは歳とともに状況により変わって行くのであろう。

しかし最後まで変わらないであろう目標は自分が死に向かい合った時、それをすんなりと
受け入れられる精神構造を作っておきたいということである。
すこし抽象的であるが、そう思うようになったのは父の死に立ちあい看取った時からである。
今まで元気だった父が、呼吸困難を訴えて入院してから亡くなるまで、わずか3週間であった。
病名は急性の肺がん、日に日に肺の機能が衰え、呼吸困難を起こして最後は窒息死である。
父は入院しても一言の恨みごとも泣き言も言わず、最後の最後まで耐え抜き息を引き取った。
私にそれができるのか?それ以来、私の最大のテーマになった。
退職後、たぶん有り余る時間があるであろう。その時間を使って自分の精神的な強さを作る。
そのための手段として思いつくことをなんでも迷わず、前向きにやって行きたいと思っている。