巾着田の曼珠沙華を見に行った。これでここに曼珠沙華を見に行くのは3度目である。
最初に行ったのは5年前、人も少なく、ちょうど雨が降って来て、雨に濡れた曼珠沙華の
圧倒的な数の群生の様は幻想的で感動した。3回目となると当初感じた感激はなくなり、
この曼珠沙華の群生の様子をどう写真に収めようか、そんなことに興味が向かってしまう。
西武秩父線の高麗駅の前の広場には臨時の売店が建ち並び、人でにぎわっていた。
駅を出て県道を渡り農道を10分程歩くと高麗川に出る。その高麗川にぐるりを囲まれた
一帯が巾着田である。その地形が巾着のような形からこの名がついたと言われる。
昭和40年代後半に、巾着田の用地を当時の日高町が取得した。その利用について
議論される中、河川敷地の草刈りをし始めると、そこに自生した曼珠沙華の姿が見られた。
その群生の規模が予想外に大きく、その美しさを報道機関等が紹介するようになると、
多くの人が来るようになる。それが日本一の群生地「巾着田の曼珠沙華」の始めである。
この地に曼珠沙華群生地が形成されたのは、河川の増水時等に上流から流れてきた
物の中に混じっていた球根が漂着し、ここに根付いたとものと考えられているようである。
現在は、地元の人たちにより、曼珠沙華の塊根を掘り起こし、これをほぐし10~15球を
1株として移植することで、年々その群生地の拡大を図り、観光客を呼べるようになった。
この時期には「100万本の曼珠沙華」としてニュースに取り上げられるまでになっている。
曼珠沙華の発芽率が10~15球当り1~2本と低いため、100万本以上の曼珠沙華が
咲く巾着田の群生地には、その10倍以上の1000万超の球根が息を潜めていると言われる。
また、日本に存在する曼珠沙華はソメイ吉野と同様に全て遺伝的に同一であるようである。
そのため雄株と雌株の区別が無く、種子で増えることができない。(遺伝子的には雌株)
だから中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられている。
したがって曼珠沙華が咲いているところは必ず人の手が入っていることになる。
曼珠沙華は正式には彼岸花(ヒガンバナ科)。「暑さ寒さも彼岸まで」秋のお彼岸の時期に
花をつけることから、彼岸花とも呼ばるようになったようだ。
ちょっと涼しくなってきた9月中旬頃、突然茎だけが伸びてきて、真っ赤な色の花を咲かせる。
そして数日で花が終わって茎だけになる。花のあとで葉が伸びるが、冬と春を越し夏近くなると
彼岸花は地上から全く消えてしまう。したがって花と葉を同時に見ることはできないのである。
葉のある時に花はなく、花のときに葉がない。このことから「花は葉を思い、葉は花を思う」
という意味から、韓国では「サンチョ(相思華)」と呼ぶらしい。
曼珠沙華の球根にリコリンという毒がある。昔から田んぼのあぜ道や土手に多くみかけるが、
これはノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、この毒性のある球根で防ぐという説と、
曼珠沙華の根茎は強いため、あぜや土手の作りを強くするため、などの説があるらしい。
さて、私は曼珠沙華を見ると必ず思い出すことがある。それは父の鼻歌である。
私がまだ小学校の頃だろうか、よく父が口ずさんでいたのを子供ながらに覚えていた。
♪ 赤い花なら 曼珠沙華 オランダ屋敷に 雨が降~る、濡れて泣いてる じゃがたらお春~、
未練な出船の あ~あ、鐘が鳴る ララ鐘が鳴~る。♪ というものである。
子供当時、曼珠沙華がどういう花かも知らず、オランダ屋敷とはどこにあるかも知らない。
「じゃがたらお春」とは人の名であるとも分らず、曼珠沙華は春咲く花だろうと思っていた。
そして東京に出てきて幾年かし、初めてカンザシのような赤い花が曼珠沙華であると知った。
「まんじゅしゃげ」その名を聞いて、突然に父の口ずさんでいたこの歌を思い出したのである。
今、ネットで調べてみると、この歌は「長崎物語」という題で昭和13年の発表であるらしい。
昭和13年、その時父はまだ独身の23歳、青春真っただ中にあった流行歌であろう。
巾着田を歩きながら、口の中で歌を思い出しながら歌ってみる。しかしこの群生した景色に
この歌は似合わない。この歌は野道に雨に濡れてぽつんと咲く曼珠沙華のイメージである。
母が亡くなり、父だけになった時、毎年この時期には新潟へ行き、父と一緒に墓参りをした。
今は父も4年前に亡くなり、お墓参りだけに車が混む連休にわざわざ行く気はしない。
今度墓参りに行く時は曼珠沙華の球根を持って行き墓のそばに植えてみようと思いついた。
昨日近所の畑に咲く曼珠沙華を見つけ、その場所に石を置いて印を付けておいた。
球根を掘り起こすことができれば、両親の眠るお墓の傍に曼珠沙華が咲く日がくるだろう。
最初に行ったのは5年前、人も少なく、ちょうど雨が降って来て、雨に濡れた曼珠沙華の
圧倒的な数の群生の様は幻想的で感動した。3回目となると当初感じた感激はなくなり、
この曼珠沙華の群生の様子をどう写真に収めようか、そんなことに興味が向かってしまう。
西武秩父線の高麗駅の前の広場には臨時の売店が建ち並び、人でにぎわっていた。
駅を出て県道を渡り農道を10分程歩くと高麗川に出る。その高麗川にぐるりを囲まれた
一帯が巾着田である。その地形が巾着のような形からこの名がついたと言われる。
昭和40年代後半に、巾着田の用地を当時の日高町が取得した。その利用について
議論される中、河川敷地の草刈りをし始めると、そこに自生した曼珠沙華の姿が見られた。
その群生の規模が予想外に大きく、その美しさを報道機関等が紹介するようになると、
多くの人が来るようになる。それが日本一の群生地「巾着田の曼珠沙華」の始めである。
この地に曼珠沙華群生地が形成されたのは、河川の増水時等に上流から流れてきた
物の中に混じっていた球根が漂着し、ここに根付いたとものと考えられているようである。
現在は、地元の人たちにより、曼珠沙華の塊根を掘り起こし、これをほぐし10~15球を
1株として移植することで、年々その群生地の拡大を図り、観光客を呼べるようになった。
この時期には「100万本の曼珠沙華」としてニュースに取り上げられるまでになっている。
曼珠沙華の発芽率が10~15球当り1~2本と低いため、100万本以上の曼珠沙華が
咲く巾着田の群生地には、その10倍以上の1000万超の球根が息を潜めていると言われる。
また、日本に存在する曼珠沙華はソメイ吉野と同様に全て遺伝的に同一であるようである。
そのため雄株と雌株の区別が無く、種子で増えることができない。(遺伝子的には雌株)
だから中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられている。
したがって曼珠沙華が咲いているところは必ず人の手が入っていることになる。
曼珠沙華は正式には彼岸花(ヒガンバナ科)。「暑さ寒さも彼岸まで」秋のお彼岸の時期に
花をつけることから、彼岸花とも呼ばるようになったようだ。
ちょっと涼しくなってきた9月中旬頃、突然茎だけが伸びてきて、真っ赤な色の花を咲かせる。
そして数日で花が終わって茎だけになる。花のあとで葉が伸びるが、冬と春を越し夏近くなると
彼岸花は地上から全く消えてしまう。したがって花と葉を同時に見ることはできないのである。
葉のある時に花はなく、花のときに葉がない。このことから「花は葉を思い、葉は花を思う」
という意味から、韓国では「サンチョ(相思華)」と呼ぶらしい。
曼珠沙華の球根にリコリンという毒がある。昔から田んぼのあぜ道や土手に多くみかけるが、
これはノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、この毒性のある球根で防ぐという説と、
曼珠沙華の根茎は強いため、あぜや土手の作りを強くするため、などの説があるらしい。
さて、私は曼珠沙華を見ると必ず思い出すことがある。それは父の鼻歌である。
私がまだ小学校の頃だろうか、よく父が口ずさんでいたのを子供ながらに覚えていた。
♪ 赤い花なら 曼珠沙華 オランダ屋敷に 雨が降~る、濡れて泣いてる じゃがたらお春~、
未練な出船の あ~あ、鐘が鳴る ララ鐘が鳴~る。♪ というものである。
子供当時、曼珠沙華がどういう花かも知らず、オランダ屋敷とはどこにあるかも知らない。
「じゃがたらお春」とは人の名であるとも分らず、曼珠沙華は春咲く花だろうと思っていた。
そして東京に出てきて幾年かし、初めてカンザシのような赤い花が曼珠沙華であると知った。
「まんじゅしゃげ」その名を聞いて、突然に父の口ずさんでいたこの歌を思い出したのである。
今、ネットで調べてみると、この歌は「長崎物語」という題で昭和13年の発表であるらしい。
昭和13年、その時父はまだ独身の23歳、青春真っただ中にあった流行歌であろう。
巾着田を歩きながら、口の中で歌を思い出しながら歌ってみる。しかしこの群生した景色に
この歌は似合わない。この歌は野道に雨に濡れてぽつんと咲く曼珠沙華のイメージである。
母が亡くなり、父だけになった時、毎年この時期には新潟へ行き、父と一緒に墓参りをした。
今は父も4年前に亡くなり、お墓参りだけに車が混む連休にわざわざ行く気はしない。
今度墓参りに行く時は曼珠沙華の球根を持って行き墓のそばに植えてみようと思いついた。
昨日近所の畑に咲く曼珠沙華を見つけ、その場所に石を置いて印を付けておいた。
球根を掘り起こすことができれば、両親の眠るお墓の傍に曼珠沙華が咲く日がくるだろう。