60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

曼珠沙華

2009年09月25日 09時34分14秒 | Weblog
巾着田の曼珠沙華を見に行った。これでここに曼珠沙華を見に行くのは3度目である。
最初に行ったのは5年前、人も少なく、ちょうど雨が降って来て、雨に濡れた曼珠沙華の
圧倒的な数の群生の様は幻想的で感動した。3回目となると当初感じた感激はなくなり、
この曼珠沙華の群生の様子をどう写真に収めようか、そんなことに興味が向かってしまう。
西武秩父線の高麗駅の前の広場には臨時の売店が建ち並び、人でにぎわっていた。
駅を出て県道を渡り農道を10分程歩くと高麗川に出る。その高麗川にぐるりを囲まれた
一帯が巾着田である。その地形が巾着のような形からこの名がついたと言われる。
昭和40年代後半に、巾着田の用地を当時の日高町が取得した。その利用について
議論される中、河川敷地の草刈りをし始めると、そこに自生した曼珠沙華の姿が見られた。
その群生の規模が予想外に大きく、その美しさを報道機関等が紹介するようになると、
多くの人が来るようになる。それが日本一の群生地「巾着田の曼珠沙華」の始めである。

この地に曼珠沙華群生地が形成されたのは、河川の増水時等に上流から流れてきた
物の中に混じっていた球根が漂着し、ここに根付いたとものと考えられているようである。
現在は、地元の人たちにより、曼珠沙華の塊根を掘り起こし、これをほぐし10~15球を
1株として移植することで、年々その群生地の拡大を図り、観光客を呼べるようになった。
この時期には「100万本の曼珠沙華」としてニュースに取り上げられるまでになっている。

曼珠沙華の発芽率が10~15球当り1~2本と低いため、100万本以上の曼珠沙華が
咲く巾着田の群生地には、その10倍以上の1000万超の球根が息を潜めていると言われる。 
また、日本に存在する曼珠沙華はソメイ吉野と同様に全て遺伝的に同一であるようである。
そのため雄株と雌株の区別が無く、種子で増えることができない。(遺伝子的には雌株)
だから中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられている。
したがって曼珠沙華が咲いているところは必ず人の手が入っていることになる。

曼珠沙華は正式には彼岸花(ヒガンバナ科)。「暑さ寒さも彼岸まで」秋のお彼岸の時期に
花をつけることから、彼岸花とも呼ばるようになったようだ。
ちょっと涼しくなってきた9月中旬頃、突然茎だけが伸びてきて、真っ赤な色の花を咲かせる。
そして数日で花が終わって茎だけになる。花のあとで葉が伸びるが、冬と春を越し夏近くなると
彼岸花は地上から全く消えてしまう。したがって花と葉を同時に見ることはできないのである。
葉のある時に花はなく、花のときに葉がない。このことから「花は葉を思い、葉は花を思う」
という意味から、韓国では「サンチョ(相思華)」と呼ぶらしい。
曼珠沙華の球根にリコリンという毒がある。昔から田んぼのあぜ道や土手に多くみかけるが、
これはノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、この毒性のある球根で防ぐという説と、
曼珠沙華の根茎は強いため、あぜや土手の作りを強くするため、などの説があるらしい。

さて、私は曼珠沙華を見ると必ず思い出すことがある。それは父の鼻歌である。
私がまだ小学校の頃だろうか、よく父が口ずさんでいたのを子供ながらに覚えていた。
♪ 赤い花なら 曼珠沙華 オランダ屋敷に 雨が降~る、濡れて泣いてる じゃがたらお春~、
未練な出船の あ~あ、鐘が鳴る ララ鐘が鳴~る。♪ というものである。
子供当時、曼珠沙華がどういう花かも知らず、オランダ屋敷とはどこにあるかも知らない。
「じゃがたらお春」とは人の名であるとも分らず、曼珠沙華は春咲く花だろうと思っていた。
そして東京に出てきて幾年かし、初めてカンザシのような赤い花が曼珠沙華であると知った。
「まんじゅしゃげ」その名を聞いて、突然に父の口ずさんでいたこの歌を思い出したのである。
今、ネットで調べてみると、この歌は「長崎物語」という題で昭和13年の発表であるらしい。
昭和13年、その時父はまだ独身の23歳、青春真っただ中にあった流行歌であろう。
巾着田を歩きながら、口の中で歌を思い出しながら歌ってみる。しかしこの群生した景色に
この歌は似合わない。この歌は野道に雨に濡れてぽつんと咲く曼珠沙華のイメージである。

母が亡くなり、父だけになった時、毎年この時期には新潟へ行き、父と一緒に墓参りをした。
今は父も4年前に亡くなり、お墓参りだけに車が混む連休にわざわざ行く気はしない。
今度墓参りに行く時は曼珠沙華の球根を持って行き墓のそばに植えてみようと思いついた。
昨日近所の畑に咲く曼珠沙華を見つけ、その場所に石を置いて印を付けておいた。
球根を掘り起こすことができれば、両親の眠るお墓の傍に曼珠沙華が咲く日がくるだろう。

中学生時代

2009年09月18日 08時34分19秒 | Weblog
会社帰り、いつもは鴬谷駅の南口から山手線に乗る。しかし時々は言問通りをさらに
歩き、駅の北口に回ることがある。言問通りの西を通って駅の北口まで、その一帯は
時代の変化から取り残されたような戦後間もない昭和の雰囲気を残している。
表通りに面した閑散としたビジネスホテル、そこから一歩奥に入るとラブホテルが細い
路地を挟んで密集し、一旦入り込んでしまうと出てこれなくなるような迷路のようである。
間口が狭く奥に細長い商店、薄暗い店内は寒々しく、時代遅れの商品が並んでいる。
けばけばしい下着が並ぶ衣料品店、無秩序にせり出したネオンサインや道を塞ぐ立看板、
細長いマンションの一階には出入りに差し支えるほど自転車が詰め込まれている。
このあたりの雑然とした雰囲気は昭和30年代の故郷下関の遊興地区を思い出す。

故郷下関は漁港の街、駅の傍には西日本一の漁港があり、いつも魚の臭いがしていた。
漁港の傍には遠洋漁業の船員相手の遊興地区があり、夜ともなるとネオンがまたたき、
派手な化粧をした女たちが店の前にたむろして客引きをしている。
私の通っていた中学校はまだ赤線が残るこの遊興街の中を通るのが一番の近道だった。
その界隈だけが怪しげな雰囲気が漂い、子供心に近づいてはいけないように思っていた。
時に客引きの女は「兄さんは良い男だね、遊んで行かない?」と中学生の私をからかう。
気恥かしさから足早に通り過ぎると、後ろで女達の笑い声が聞こえた。
あれから50年、鴬谷のその一帯を通るときに、ふとその当時のことを思い出すのである。

私の中学時代は昭和30年代前半、戦後の復興がやっと緒に就いたばかりの頃である。
あらゆるものが不足し、ただただ人が多く、ざわざわと落ち着きのない世の中であった。
しかし、あくまでもそれは今との比較であって、終戦生まれの私には何と比較しようもなく
それが当たり前の世の中だと受け入れ、何の不満もなく暮らしていたように思う。

私は校区の関係で小学校の大半の友達とは別の中学校に通わなければならなかった。
その中学は古い木造校舎、60人編成で1学年が15クラスもあるマンモス中学である。
知らない生徒でぎっしり詰め込まれた教室、教科別に先生が変わる流れ作業の授業、
小学生からの変化に馴染むことができないままに、友達もできずに孤立していった。
昼休みも一人で過ごすことが多く、内向的な性格がもろに出ていった時期でもある。
家でも部屋に閉じこもりがちで、勉強にも身が入らず、成績も徐々に落ちていった。

高校受験で3つ上の兄は市内の一番校へ進学した。しかし成績の落ちた私は安全を
取った方が良いと担任の勧めもあって、郊外にある県立の二番校を受験することになる。
その高校へは同じ中学校の受験生中のトップの成績でもあったこともあり、高校受験は
この一校だけしか受けなかった。そして試験はまずまずの手ごたえはあったと思っていた。
合格発表の日、通学時間の確認もあって高校まで一人で発表を見に行くことにする。

高校は市街地のはずれにあり、国鉄の下関駅前から路面電車に乗って30分かかる。
一つ手前の停留所で降り、学校周辺をを大きく一周して、付近の様子を見て回った。
校門をくぐり、職員室の前を通って合格発表の貼りだしてある中庭の掲示板に向かう。
20~30人の生徒が掲示板の前に集まっている。同じ中学校の生徒の笑顔が見える。
掲示版の前にたむろする人の間を縫って、割り込むように前に出て自分の名を探す。
あいうえお順に並んだ合格者の名前。同じ姓だが名が違う名前が一人あるだけである。

「おかしいな」と思い、再び丹念に見て行く。「ない」始めて自分の置かれた現実に気づく。
「ない」「ない」不安と恐れが、自分の気持ちの中をぐるぐるとかけ回っているように感じる。
「ひょっとして試験の答案に自分の名前は書き忘れたのかもしれない」。心を落ち着かせ
試験の当日の状況を思いだそうとする、しかし混乱した頭では何も思い浮かばない。
途方に暮れている自分を遠くのもう一人の自分が落ち着くように促している。しばらくして
「自分はこの場に留まっていてはいけないんだ」と気づく。恥ずかしさが込みあげ、人だかりを
抜けて校門の方へ歩き出した。その時、学友の憐みの視線を背中に感じたように思った。

そのあと、電車に乗って帰ったのか、歩いて帰ったのか、その後の記憶はぷつりと消える。
思い出せるのは家の玄関を開けた時、たぶん自分の顔面は血の気が失せていたのだろう、
玄関に迎えに出てきた母は一瞬で結果を読み取って、その顔は見る間に曇っていった。
母は学校の担任へ連絡を取り、急ぎ中学校へ向う。何日かして学校から連絡があった。
「試験の成績は悪くはなかったが、遅刻が多く内申点が悪いため保留扱いになっていた」と、
しばらくして高等学校から「補欠入学」の通知が来た。
本当に内申点が悪く、入学は不適と判定されていたのを、中学校側が押し込んだのか,
それとも高校のミスで、それを内申点云々ということにし補欠入学させることで収めたのか、
今考えても、生徒にとって大切な入試の合否に、「保留」の処置などありえないと思う。
どちらにしても親も自分にも甘さがあったと反省はある。しかし当時は入試に落ちるとは
夢にも思わなかったのも確かである。
「これから1年間、学校にも行けず、家に居るのか?」「中学を終えて就職するのか?」
「自分はこれからどうなるのだろう?」さまざまな不安が自分を押しつぶして行った。
その時の不安と恐怖、そして絶望感は今でも忘れることができないほど強烈であった。

入学してからは成績順に1~4クラスに編成される。私は成績の良い1組に編成になった。
「補欠入学の自分がなぜ1組なのか?」学校に対する不信はつのっても、心は癒えない。
「あいつ落ちたのに、なぜ学校に来ているんだ」、誰も表立っては私には言わないものの、
そんな陰口を感じてしまうのである。結局「補欠入学」という烙印は卒業まで付いて回った。
それ以来、私は自分の中の喜怒哀楽を隠すようになったように思う、この衝撃を忘れ、
この屈辱を耐えていくには心を閉ざしているよりほかに方法がなかったのであろう。
高校の同じクラスの仲間とも必要最低限のつきあいだけで、深く接することはなかった。

その後友達ができ、打ち解けるようになったのは浪人を経てから大学に入って以降である。
14歳の私にとってはこの衝撃はあまりにも重く、その回復に4年の時間を要したことになる。
人生の中で幾度も挫折を味わってきたが、この時が最初の大きな挫折だったように思う。
振り返ってみたとき、中学高校の6年間は私にとって長いトンネルのような時期であった。
中学・高校の先生のこと生徒のこと、楽しい思い出でなぞ何一つ思い出すことはできないが、
この高校入試に落ちた時のことだけは今でも鮮明に覚えている。

鴬谷のうらぶれた商店街を通る時、客引きの女に冷やかされた昔のことを思い出し、
暗く憂鬱な日々のことを思い出し、そして心に付いた古傷のことを思い出すのである。

味覚音痴

2009年09月11日 08時55分14秒 | Weblog
私は喫茶店に行くと、ほとんどの場合「アメリカン」と頼む。濃い味は苦手だからである。
先日スターバックスに行って「アメリカン」と言ったら「アメリカーノですね」と訂正された。
スタバにも何度も行くが、メニューを見てもほとんどの商品がどんな味か想像がつかない。
味に対して興味が薄いから、エスプレッソとは何かもあまりよく理解はしていないのである。
友人には「何を飲ませても一緒だね」「味覚音痴じゃないの?」と言ってからかわれる。
確かに私にとって「味」ということについては敏感ではないし、こだわりも薄いように思う。

小さい頃は朝食はパン食であった。飲み物は最初の頃は脱脂粉乳、そして牛乳、紅茶、
インスタント珈琲と変遷していくが、しかし共通することは砂糖3杯が定量であったことだ。
学生になり喫茶店に行くようになってからは角砂糖2個(グラニュー糖2杯)が定量になる。
今はダイエットの為、会社の珈琲は3gのスティックシュガー1本、喫茶店は無糖にしている。

私が育った頃は食糧難時代、「これはイヤだ、これは嫌い」と言えば「何を贅沢な!」と
叱られたものである。「何でも出された物を食べる」それ以外の選択肢はなかったのである。
遊び盛り、育ち盛りの子供にとっては糖質は不可欠だったのだろう、甘い物に餓えていた。
今考えれば砂糖水のような紅茶や珈琲を飲んでいたことになるが、それは紅茶の味、
珈琲の味を楽しむより、甘さが美味しさのバロメーターのようになっていたからかもしれない。

会社に入り食品の仕入れを担当するようになってから試食という事を経験するようになる。
商品を「旨い、不味いと、自分の味覚で選んではいけない」これが仕事の鉄則であった。
多くの消費者の味覚は千差万別である。商品を選ぶ本人の味覚は一モニターでしかない。
したがって味覚はあくまでも客観的に評価し大多数の好みに合わせて選ぶ。そう教わった。
私も商品を選ぶ時は味の酸味、辛味、甘味、塩味、渋味等に加え歯ごたえ、腰、色に
価格を加味した総合評価で商品選定するようになった。そこに自分の嗜好は入らない。
そんなことを長年やっていたから、自分の「好み」というものが薄くなったのではないかと思う。
自分の「好し」とするものは大衆の味、自分のオリジナルな嗜好というものは育たなかった。

私が今のところ、一番自分に合うと思う珈琲は「EXCELSIOR CAFFE」の珈琲である。
特に何が美味しいというわけではないのだが、バランスのとれた味で飲みやすいのである。
「EXCELSIOR CAFFE」はドトールの別ブランドである。それだけに時間を掛けて試飲を
繰り返して作り上げた豆の選定と配合に焙煎なのだろう。そういう風に考えると、やはり
私の味覚は個性的な味覚ではなく、大衆的な味覚を「好し」とするのかもしれない。

最近よく行く喫茶店の女店主の人に、珈琲についてのことを教わることが多い。 彼女曰く
珈琲の味は豆によっても違うが基本的には焙煎によって異なる。浅く焙煎すれば酸味が強く
深く焙煎すれば苦味が強くなる。珈琲の味は基本的に酸味と苦味のバランスによって決まる。
人それぞれの好みで「美味しさ」の感じ方は違うし「好み」は人によってまちまちだが、しかし
結局珈琲の美味しさは微かな苦味とほのかな酸味、そして飲んだ後に残る甘味ですね。と。
彼女によれば味覚の発達には「味の記憶」が不可欠だという。味の記憶が味覚を育てる。
彼女に「今日の珈琲は何処の豆で、こんな風に入れました」そう言われて出された珈琲も、
昨日飲んだ珈琲の味も、私にはあまりにも微妙過ぎて、その違いは全く感じることができない。
私は「味の記憶」ということが不得意なのだろうし、味に対して興味が少ないのであろうか。
そしてまた知覚した「味」を「これが好き」といいうように、好き嫌いに結びつけないようである。
これが味覚音痴と言われるゆえんなのであろう。

考えてみれば、「味」の知覚と同じようなことは私のいろんなことに現われているように思う。
例えば美術鑑賞、絵を見て「好き」「嫌い」の感情ではなく、知識として分析を試みようとする。
音楽鑑賞も同じようなもので、旋律として馴染めるか否か、心地良いかどうかは知覚しても
その曲が、この演奏が自分にとって好きか嫌いかという風に感じたことはなかったように思う。
人間関係も同じなのであろう。人それぞれの性格や特徴は丹念に観察しながら分析していく。
しかしその分析に基づいて人を「好き」「嫌い」という風には分類しないように思うのである。

こう考えると私の性格は感覚優先ではなく、分析とバランスとを重要視するなのかもしれない。
味にしても人の性格にしても、それを細かく分解してみて、組立のバランスを考えるのだろう。
一つの標準的なモデルを設定し、そこからの距離を測ることで、そのものを理解しようとする。
だから自分の好き嫌いの感覚は物事を理解する上で何の判定材料にならないのである。
どんなに辛い味であっても、自分に食べられるかどうかであって、好きか嫌いかは関係ない。
人もそうで、どんなに異端な性格の人でも自分が受け入れ入れられるか否かが問題である。
だから人の好き嫌いには敏感でなく、興味の対象になりうるかどうかが問題になるようだ。

こんな理屈っぽいブログを書いていること自身が「感覚派」ではないことの証明であろう。
振り返ってみると、今まで私は「好き」「嫌い」、「旨い」「不味い」、「きれい」「かわいい」など
感情を表現する言葉をほとんど使ったことがないように思う。しかしそのことは「男性」一般の
特徴だろうと思っていた。しかし最近の若い男性を見ると、旨いまずいとうるさいことを言う。
「男は黙って、黙々と食べる」という父に教えられた男性像はもう何処にも残っていない。
結局私の味覚音痴は「三つ子の魂・・」ではないが、子供の頃の3杯の砂糖と、何にでも
「味の素」を振りかけて食べた食習慣に原因があるように思うのだが、

Oさん

2009年09月04日 09時11分28秒 | Weblog
昨年6月に会社を辞めたOさん、特に約束したわけではないが月に一度は逢うことにしている。
先週も声をかけ、いつもの新宿歌舞伎町の青梅街道に面したレストランで逢うことになった。
彼は会社を辞めてすでに14ヶ月で今だに無職、親の年金と今までの蓄えとで生活している。
3ヶ月前頃から78歳になる母親が足を痛めてしまい、日常生活が不自由になってきたようだ。
トイレは自分で行けるが帰りは痛みがひどく、彼が負ぶって戻さなければいけないようである。
85歳の父親には看病は無理で、結局は彼が面倒をみなければならない状況のようである。
今は掃除、洗濯、食事の用意、家事一切は彼が仕切り専業主婦をやっているとのことである。
「俺が面倒を見てやらなければ」彼にとって就職できない最高の言い訳ができたことになる。

彼は今になって思うと、自分がこうなることは必然のようで、ある程度予測できたことだと言う。
勤めて始めてしばらくして社長の言動に対し「恥ずかしいさ」を覚えるようになったそうである。
自分のような若造が見ても常識のない人のように見え、やがて軽蔑するようになったと言う。
しかし、どうあがいても会社の経営者である。「いやなら辞める」彼の選択肢はそれしかない。
社内に同じように思う人間が3人いて、その3人が集まりオーナー批判をし溜飲を下げていた。
自分には仕事に対する「意欲」や「向上心」というものが欠落している、彼はそう自覚している。
それに加えオーナーへの反発心があるから、仕事に対して前向きになれるわけがなかった。

彼は会社の為に働くと言うよりもっぱら得意先のため、仕入れ先のためという意識が強くなる。
会社から見れば「働かない社員」+「従順ならざる社員」=「ダメ社員」ということになるのだが、
彼は得意先を人質に取る形で、そんなオーナーの意識に対して抵抗をしていた。
その得意先の売上が維持出来て、会社としても仕方なしに営業させている間はよかった。
しかしその売上も時代とともに落ちて行き、それを補完する成績がないと形勢は逆転してくる。
経費節約と言うことで、使っていた営業車も廃車にされ、営業活動は全て歩きになる。

「この売上の体たらく、どうするんだよ!」「お前は営業だろう、新規開拓しなくてどうするんだ」
毎週の営業会議でじりじりと責められる。それをじっと耐えてやり過ごすしかなくなって行った。
「俺には新規開拓なぞ出来るスキルも意欲もない」そう自分で認識しているから逃げ続ける。
自分で自分の置かれている状況は充分に解っていた。既存の売上も落ち続け、新規開拓も
できず、かと言ってオーナーに頭を下げることも、相談することもできず苦悩の日が続く。
自分の心情、自分の性格、今までの経緯、全てのことから「辞めざるを得ない」そう覚悟した。

10年以上も前から「いずれこの会社では勤めることはできなくなり、辞めることになるだろう」
それは自分の能力から考え、避けることにできない一つの大きな流れのように思っていた。
やがて抗戦3人組の中の最年長の人が定年で辞めてしまう。もう一人の仲間があと2年で
定年になる。その時に自分も一緒に辞表を出して辞めていく。それが彼の予定であった。
しかし、もう一人の仲間が辞める前に耐えられなくなり先に腰を割ることになってしまった。

以前から考えていた「辞める時は平然と辞める」という心構えが、退職日が近ずいてくると、
自分でもビックリするほど平常心を失ってしまう。そしてあたふたしたまま退職日を迎えた。
会社への未練、絶望、疎外感、孤立感、焦燥感、ありとあらゆる感情が重なりパニックになる。
そんな退職時の混乱した気持ちも、時間が経過するに従って収まってきた。
当初「秋口から就活をしよう」と思ってはいたが、その時になったら心が萎えて全く動けない。
「こんな不況で50歳を超えた俺が就職できるわけがない。失業保険が切れてから考えよう」と
自分自身に言い訳をしながら先送りしていく。しかし3月に失業保険が切れてしまってからは、
今度は「ゴールデンウイークが終わってからにしよう」となかなかスイッチが入らないのである。
1年が過ぎても彼は自分の無気力さから脱却することができず、再就職は遠のいて行く。
そして母に看護が必要な状況になる。それも彼には予定されていた流れのように思われる。

例えれば「社会」という大きな川の流れがあるとする。ひねくれ者の彼は川の真ん中ではなく、
川の渕に暮らすことことを好んでいた。本流を嫌い、しだいに岸辺に近づき危険な状態になる。
ある時、逃げようとして川の渕の「淀み」に迷い込んでしまう。
淀みには流れもなく、競争もなく、何時までもじっとしていても暮らしていける環境であった。
彼は「淀みから出なくてはいけない」と思いつつもそのぬるま湯からは出ようとはしなかった。
やがてその淀みは川から分離し、小さな水たまりになる。その水たまりが「家族」であろう。
その水溜まりの中で彼の役割ができた。「この環境で暮らそう」彼はそう思うようになった。
やがて時が過ぎ、水たまりは干上がって行く。それは親の死による年金支給の終わりである。
彼の年金支給まではあと13年ある。85歳の父親が98歳まで生きているとは考えずらい。
いずれ水たまりは干上がることは覚悟しなければならない。

こんな風にOさんのことを書くと、「それは自業自得だよ!」「なんと情けない男なんだ!」
「逃げてばかりではダメなんだ」「つまらない人生だな」そんな声が聞こえてきそうな気がする。
果たしてそうであろうか?私はそうは思わない。彼は今、水溜りで心穏やかに暮らしている。
毎週月曜に配られる生協からの商品を冷蔵庫に詰め込み、賞味期限内に使い切るように
毎日の献立を工夫する。次週の生協の注文をし、時に近所のスーパーに買い出しに行く。
3度3度両親の食事を作り、母親を病院に連れて行き、掃除洗濯をし近所付き合いもする。
毎日一度コーヒーショップで自分の時間を持ち、土日は競馬の100円馬券を買って楽しむ。
彼はそのことに、ささやかな喜びを感じているのだろう。話す口調は穏やかでにこやかである。
以前会社勤めているとき接していた彼は2回転半も回っているようにひねくれた性格だった。
それが今は逢う度ににこやかになり、穏やかになり、素直になって行くように思うのである。

Oさんは自分が言っているように、もともとのポテンシャルのエネルギー量は少なように思う。
それは生まれ持ってのことなのか、教育のせいか、その後の辛い経験や挫折のせいなのか
この50数年の中で、彼の人格は形成されてきたはずである。それを今さら良いの悪いとのと
言っても詮無いことである。彼の人生の大きな流れは変えようがないように思うからである。
「人生とはこうあるべきである」「男はこうあらねばならない!」「仕事とは、家庭とは」
世の中、型にはめた考え方、マニュアル化される仕事の進め方、そんなものが横行する。
人は100人いれば100通りの性格があり、考え方があり、生き方があり、幸せがある。
今の時代、自由に考え、自由に生きていい時代なのであろう。その代り当然責任が伴う。

水溜まりは次第に小さくなり、やがて干からびてしまう。ある時Oさんが自宅で死んでいるのが
何日も発見されずにニュースになるかもしれない。それもまた自己責任であろう。
自分に合わない仕事を無理やりやって苦しんでいるOさんを見るより、その方がOさんらしいと
私は思ってしまうのである。こんなことを書いていると自分が平衡感覚を失って行くように思う。
もうこのへんでOさんについて書くことは止めにしよう。