今週は映画「おくりびと」がアカデミー賞外国語賞受賞のニュースが大きな話題になっていた。
話題になる映画は大体に見ている私である、この映画も昨年(9月)に観ている。
映画は
所属するオーケストラが解散し、職を失ったチェロ奏者の大悟が演奏家を続けることを諦め、
妻を連れて故郷の山形に戻ってくる。早速、求人広告で見つけた会社に面接に行きその場で
採用されるが、それは遺体を棺に納める納棺師という仕事であった。
戸惑いながらも社長に指導を受け、新人納棺師として働き始める。
初めて目にする遺体に、最初は戸惑うばかり、しかし新人の納棺師としてさまざまな人々の
別れに立ち会ううちに、しだいに納棺師の意義や自らの生き方にも目覚めていく。
納棺師の仕事は単に死体の処理ではなく、亡き人を送り出す、日本の伝統に乗っ取った儀式。
納棺師の所作に職人芸を感じ、「死」というテーマを扱いながら品格の高さを感じた。
山形の自然を遠景に遭遇していくさまざまな人の死、その死者の尊厳をどう守るかというテーマを
ユーモアも交え妥協なく描いている作品であろうか。
配役は主人公の大悟に本木雅弘、妻の美香に広末涼子、仕事先の社長に山崎努らである。
私は、妻役は広末涼子よりは宮沢りえ、山崎努よりは緒方拳の方が適役な気がする。
広末は自分が目立とう目立とうとし、大悟役の本木雅弘とはバランスが悪い感じがする。
山崎努はあまりにも「あく」が強すぎ、死者を送り出す納棺師にはそぐわないイメージを持つ、
納棺師のなんたるかを教える役割としては孤独で淡々とした演技をする俳優の方が良いように思う。
「死」、誰でもが避けては通れないこと、周りの人の死、家族の死、自分の死。
自分の死はまだ現実的ではないが、家族の死ということになると、死というものが現実のものになる。
祖母の死、弟の死、母の死、父の死、何人もの家族の死を見てきて、死に対しての思いがある。
それは「納得」ということ。死と向き合うとき人の気持ちの前提になっているように思うのである。
弟は交通事故で突然に亡くなった。27歳とという若さで、世の中に出てこれからという時期に。
当時、弟の無念さを自分のことのように感じ、悔しくて悔しくて、葬儀の時は涙が止まらなかった。
弟の死は自分の中で、受け入れがたいことであって、とうてい納得いくものではなかったのである。
母は大腸がんが見つかったときはすでに肝臓に転移しいて、手の施しようがなかった。
9ヶ月の闘病の後に亡くなったが、その間、何度も新潟へ見舞いに行き、母とは沢山の話をした。
危篤の知らせを受けた時、あえて死に目に逢いたいとは思わないほど死を受け入れていたと思う。
父は94歳で肺がんで亡くなった。入院してから3週間、その間2度しか話すことができなかった。
3度目に見舞いに行って、私がベットの傍についていた時、容態は急変し危篤となり死を迎えた。
誰にも頼らずひたすら自己研鑽を続けて生きてきた父、私の生き方の目標であり尊敬に値する。
母が死んで6年、94歳という年でもあり、「良く生きていてくれた」という納得の死でもあった。
結局、人の死とは残された者、送る側の気持ちの問題であろうと思う。
どんな形にせよ近親者が死を迎えた時、その別れを納得いくものにしたい、それが人なのであろう。
体を拭き、装束を整え、髪をすき、化粧を施し口紅を入れ、綺麗にして冥土の道に旅立たせる。
焼き場にいけば全てが灰に消え、三途の川を渡れば脱衣婆に、身ぐるみ剥がされて裸にされる。
そんなことはわかっていても、送りだす者は死者を綺麗に整えてやりたい。これが納得だろうと思う。
国や文化により様々なやり方がある。チベットの鳥葬などは自然に返すことで納得するのであろう。
世界の人々の普遍的なテーマである「死」、日本人がどうとらえているか、わかりやすく伝えた映画。
死者との別れ、日本の納棺師による儀式がある種のすがすがしさを世界に伝えたのかもしれない。
映画の後半で、ある日、大悟の自宅に電報が届く。
それは父の死を知らせるものであった。父は子供の時に女を作って母と自分を捨てて出て行った。
その後父は女とも別れ漁港の片隅で、ひっそりと暮らし誰にもみとられずに死んでいったようである。
数年前に母親を亡くしていた大悟は父に対する思慕と憎悪の相反する気持ちを持ち続けていた。
しかし父の遺体を前にし、体を洗い髭をそり衣服を整え納棺師としての仕事を淡々とこなしていく。
そんな所作を経ることで気持は落ち着き、父への存念が消え、さわやかに死者を送り出していく。
人が人であるということの温かさと、清らかさのようなものを素直に感じることができた映画であった。
話題になる映画は大体に見ている私である、この映画も昨年(9月)に観ている。
映画は
所属するオーケストラが解散し、職を失ったチェロ奏者の大悟が演奏家を続けることを諦め、
妻を連れて故郷の山形に戻ってくる。早速、求人広告で見つけた会社に面接に行きその場で
採用されるが、それは遺体を棺に納める納棺師という仕事であった。
戸惑いながらも社長に指導を受け、新人納棺師として働き始める。
初めて目にする遺体に、最初は戸惑うばかり、しかし新人の納棺師としてさまざまな人々の
別れに立ち会ううちに、しだいに納棺師の意義や自らの生き方にも目覚めていく。
納棺師の仕事は単に死体の処理ではなく、亡き人を送り出す、日本の伝統に乗っ取った儀式。
納棺師の所作に職人芸を感じ、「死」というテーマを扱いながら品格の高さを感じた。
山形の自然を遠景に遭遇していくさまざまな人の死、その死者の尊厳をどう守るかというテーマを
ユーモアも交え妥協なく描いている作品であろうか。
配役は主人公の大悟に本木雅弘、妻の美香に広末涼子、仕事先の社長に山崎努らである。
私は、妻役は広末涼子よりは宮沢りえ、山崎努よりは緒方拳の方が適役な気がする。
広末は自分が目立とう目立とうとし、大悟役の本木雅弘とはバランスが悪い感じがする。
山崎努はあまりにも「あく」が強すぎ、死者を送り出す納棺師にはそぐわないイメージを持つ、
納棺師のなんたるかを教える役割としては孤独で淡々とした演技をする俳優の方が良いように思う。
「死」、誰でもが避けては通れないこと、周りの人の死、家族の死、自分の死。
自分の死はまだ現実的ではないが、家族の死ということになると、死というものが現実のものになる。
祖母の死、弟の死、母の死、父の死、何人もの家族の死を見てきて、死に対しての思いがある。
それは「納得」ということ。死と向き合うとき人の気持ちの前提になっているように思うのである。
弟は交通事故で突然に亡くなった。27歳とという若さで、世の中に出てこれからという時期に。
当時、弟の無念さを自分のことのように感じ、悔しくて悔しくて、葬儀の時は涙が止まらなかった。
弟の死は自分の中で、受け入れがたいことであって、とうてい納得いくものではなかったのである。
母は大腸がんが見つかったときはすでに肝臓に転移しいて、手の施しようがなかった。
9ヶ月の闘病の後に亡くなったが、その間、何度も新潟へ見舞いに行き、母とは沢山の話をした。
危篤の知らせを受けた時、あえて死に目に逢いたいとは思わないほど死を受け入れていたと思う。
父は94歳で肺がんで亡くなった。入院してから3週間、その間2度しか話すことができなかった。
3度目に見舞いに行って、私がベットの傍についていた時、容態は急変し危篤となり死を迎えた。
誰にも頼らずひたすら自己研鑽を続けて生きてきた父、私の生き方の目標であり尊敬に値する。
母が死んで6年、94歳という年でもあり、「良く生きていてくれた」という納得の死でもあった。
結局、人の死とは残された者、送る側の気持ちの問題であろうと思う。
どんな形にせよ近親者が死を迎えた時、その別れを納得いくものにしたい、それが人なのであろう。
体を拭き、装束を整え、髪をすき、化粧を施し口紅を入れ、綺麗にして冥土の道に旅立たせる。
焼き場にいけば全てが灰に消え、三途の川を渡れば脱衣婆に、身ぐるみ剥がされて裸にされる。
そんなことはわかっていても、送りだす者は死者を綺麗に整えてやりたい。これが納得だろうと思う。
国や文化により様々なやり方がある。チベットの鳥葬などは自然に返すことで納得するのであろう。
世界の人々の普遍的なテーマである「死」、日本人がどうとらえているか、わかりやすく伝えた映画。
死者との別れ、日本の納棺師による儀式がある種のすがすがしさを世界に伝えたのかもしれない。
映画の後半で、ある日、大悟の自宅に電報が届く。
それは父の死を知らせるものであった。父は子供の時に女を作って母と自分を捨てて出て行った。
その後父は女とも別れ漁港の片隅で、ひっそりと暮らし誰にもみとられずに死んでいったようである。
数年前に母親を亡くしていた大悟は父に対する思慕と憎悪の相反する気持ちを持ち続けていた。
しかし父の遺体を前にし、体を洗い髭をそり衣服を整え納棺師としての仕事を淡々とこなしていく。
そんな所作を経ることで気持は落ち着き、父への存念が消え、さわやかに死者を送り出していく。
人が人であるということの温かさと、清らかさのようなものを素直に感じることができた映画であった。