12月になって映画を見に行こうと思ったが、「これはぜひ観てみたい」と言う映画が見当たらない。
あえて言えば,、村上春樹原作の小説を映画化した「ノルウエイの森」だろうか?
10年程前に、村上春樹の小説を読み始めた。その時最初に読んだのが「ノルウエイの森」である。
この作品、それ以降に読んだ「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」などとは少し傾向が異っていたような印象がある。
話しは、主人公の大学生(ワタナベ)の高校生時代、最も親しい友人(キズキ)が自殺してしまう。
失意から昔の誰とも接するのを避けて、郷里を離れ東京の大学へ入学した。そんなある日キスギの
恋人だった直子と偶然に再開する。やがて2人は関係を深めていくが、直子の精神的な病が発症し
てしまう。2人はお互いを気遣い苦悩し恋愛は泥沼に入ったような状態になる。そして直子が突然に
自殺を図ってしまった。そんなストーリーの恋愛小説であったよう記憶していた。
この映画を見ようと思った時、一つの小説をどんな風にとらえ、どのように映像化していくのだろうか、
自分が小説を読んで感じたこと、映画から感じることにどんな差異があるのだろうか?そんなことに
興味がでてきた。そのためには、もう一度小説を読み直してから観た方が面白いと思い、文庫本を
買って読み始める。読んでみると、記憶にある10年前の印象とは違い、そこに描かれているのは
人間の持つ「不可解さ」 「コントロール不能な精神」「一様ではない人の思考」「心の迷宮」そんな
人間の性(さが)のようなものを読みとることが出来た。読み終わって池袋の映画館に行ってみる。
客層はほとんどが若いカップルや女性同士の連れである。シルバー料金で入場しているのは私ぐ
らいで居心地の悪さを感じるほどである。やはり村上春樹は若い人に人気のある作家なのだろう。
この映画、監督はベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンという外国人である。主人公のワタナベ
役に松山ケンイチ、直子が菊地凛子、大学生になってからの奔放な性格の恋人役に女優初挑戦の
水原希子というキャストである。映画が進むうちに何となく違和感を感じ始める。それは小説を読んだ
時に感じたそれぞれの登場人物に対するイメージと、映画のキャスティングとが合わないことに起因
するのであろう。私のイメージは主人公のワタナベは少しとぼけた味があり、しかも内面の弱々しさを
感させるイメージである。だから私の少ない俳優のレパートリーの中から人選するであれば、それは
「瑛太」なのではないだろうかと思う。今回の松山ケンイチでは、そのとぼけた味も内面の弱々しさも
表現しずらいように思ってしまう。相手役の直子は、自殺してしまうほどだから、心に闇を抱えやはり
ひ弱でネガティブな影を色濃くだす必要がある。そんなことからすれば「蒼井優」の方が合っている。
そして大学の同級生で、ワタナベを好きになり、積極的にアプローチしてくる新たな恋人のミドリ役、
そこに監督の好みなのであろうが、水原希子という新人俳優を起用している。彼女はどちらかと言え
ばベトナム人かと思うほど東南アジア系の顔立ちである。しかも新人であるためか、演技が唐突で
たどたどしい。私にとって、この配役が最も違和感があった。彼女は直子との対極としてポジティブな
性格の恋人であり、結果としてはワタナベが彼女に引かれ、直子の自殺のダメージから抜け出すこと
ができる存在でもある。だからネガティブに対してのポジティブな性格の2人の女性で際立たせたい。
私であれば「宮 あおい」のかわいらしさと、奔放さのような性格を当ててみたいと思ってみた。
映画の流れは小説のストーリーに忠実に従っている。しかし2時間と言う限られた中で作られるので
小説の中にある様々なエピソードは大幅に省略され、その根幹部分に関わるものをピックアップした
ようである。小説の中では主人公のワタナベと関る様々な性格の人物が登場してくる。その人物との
エピソードは物語を構成していく上での一つ一つの布石であり、小説全体の奥行きや厚みを増す為
には必要な条件のように思ってしまう。そんの要素を省略して行くから、主体がワタナベと直子2人の
恋愛の葛藤に終始してしまったように思うのである。
小説を映像化してしまうと、見る方はその映像に縛られてしまい、小説の持つ自由なイメージの構築
の妨げになってしまうように思う。私が2度目に読んだ「ノルウエイの森」は、人に光と闇と言うのか、
ポジティブな面とネガティブな面が混在している。ネガティブな闇が勝てば、人はその闇に押しつぶ
され、時に自殺という引き金を引いてしまう。しかし回りの人にはその暗さゆえに、詳細は判らない。
そのため人の行動が唐突で突然に感じてしまうのであろう。直子の自殺で主人公のワタナベも闇の
世界にひっぱられ、その淵をさまよう。そんな時のワタナベの心の中を書いた箇所がある。
《ぼくはまるで海の底を歩いているような奇妙な日々をおくった。誰かが僕に話しかけても、僕には
うまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても彼らはそれが聞きとれなかった。まるで自分
の回りにぴたりとした膜が張ってしまったような感じだ。その膜のせいで僕はうまく外界と接触でき
ないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に触れることは出来ないのだ。僕自身は無力だが
こういうふうにしている限り、彼らもまた僕に対して無力なのだ。》
こういう人の内面については映像でなかなか表現することは困難であろう。やはり小説は小説で読む
ほうが良い。映画は映画の為に書かれた脚本の方が適していると思ってしまう。
小説の中では直子の自殺後、彼女の介護役である女性(レイコ)がワタナベに忠告する手紙がある。
《正常な人と正常ならざる人とひっくるめて、私達は不完全な世界に住んでいる不完全な人間です。
定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして、銀行貯金みたいにコチコチと生きているわけ
ではないのです。ミドリさんという女性に心を魅かれ、そして直子に同時に心を魅かれるということは
罪でも、なんでもありません。このだだっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖に
ボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいというのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。
ほっておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つく時は傷つく
ものです。人生とはそいうものなのです。あなたは時々人生を自分のやりたい方向に、ひっぱっり
こもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったら、もう少し心を開いて人生の流れに身をゆだね
なさい。結局のところ何が良かったなんて、誰に判るのでもないのです。だからあたたは誰に遠慮
なんかしないで幸せになれると思ったらその機会をつかまえるべきです。そういう機会は人生に
ニ回か三回しかないし、それを逃がすと一生恨みますよ》
村上春樹は小説の中で、こんなことが言いたかったのではないのだろうか。
左から監督(トラン・アン・ユン) ワタナベ(松山ケンイチ) 直子(菊地凛子) ミドリ(水原希子)
あえて言えば,、村上春樹原作の小説を映画化した「ノルウエイの森」だろうか?
10年程前に、村上春樹の小説を読み始めた。その時最初に読んだのが「ノルウエイの森」である。
この作品、それ以降に読んだ「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」などとは少し傾向が異っていたような印象がある。
話しは、主人公の大学生(ワタナベ)の高校生時代、最も親しい友人(キズキ)が自殺してしまう。
失意から昔の誰とも接するのを避けて、郷里を離れ東京の大学へ入学した。そんなある日キスギの
恋人だった直子と偶然に再開する。やがて2人は関係を深めていくが、直子の精神的な病が発症し
てしまう。2人はお互いを気遣い苦悩し恋愛は泥沼に入ったような状態になる。そして直子が突然に
自殺を図ってしまった。そんなストーリーの恋愛小説であったよう記憶していた。
この映画を見ようと思った時、一つの小説をどんな風にとらえ、どのように映像化していくのだろうか、
自分が小説を読んで感じたこと、映画から感じることにどんな差異があるのだろうか?そんなことに
興味がでてきた。そのためには、もう一度小説を読み直してから観た方が面白いと思い、文庫本を
買って読み始める。読んでみると、記憶にある10年前の印象とは違い、そこに描かれているのは
人間の持つ「不可解さ」 「コントロール不能な精神」「一様ではない人の思考」「心の迷宮」そんな
人間の性(さが)のようなものを読みとることが出来た。読み終わって池袋の映画館に行ってみる。
客層はほとんどが若いカップルや女性同士の連れである。シルバー料金で入場しているのは私ぐ
らいで居心地の悪さを感じるほどである。やはり村上春樹は若い人に人気のある作家なのだろう。
この映画、監督はベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンという外国人である。主人公のワタナベ
役に松山ケンイチ、直子が菊地凛子、大学生になってからの奔放な性格の恋人役に女優初挑戦の
水原希子というキャストである。映画が進むうちに何となく違和感を感じ始める。それは小説を読んだ
時に感じたそれぞれの登場人物に対するイメージと、映画のキャスティングとが合わないことに起因
するのであろう。私のイメージは主人公のワタナベは少しとぼけた味があり、しかも内面の弱々しさを
感させるイメージである。だから私の少ない俳優のレパートリーの中から人選するであれば、それは
「瑛太」なのではないだろうかと思う。今回の松山ケンイチでは、そのとぼけた味も内面の弱々しさも
表現しずらいように思ってしまう。相手役の直子は、自殺してしまうほどだから、心に闇を抱えやはり
ひ弱でネガティブな影を色濃くだす必要がある。そんなことからすれば「蒼井優」の方が合っている。
そして大学の同級生で、ワタナベを好きになり、積極的にアプローチしてくる新たな恋人のミドリ役、
そこに監督の好みなのであろうが、水原希子という新人俳優を起用している。彼女はどちらかと言え
ばベトナム人かと思うほど東南アジア系の顔立ちである。しかも新人であるためか、演技が唐突で
たどたどしい。私にとって、この配役が最も違和感があった。彼女は直子との対極としてポジティブな
性格の恋人であり、結果としてはワタナベが彼女に引かれ、直子の自殺のダメージから抜け出すこと
ができる存在でもある。だからネガティブに対してのポジティブな性格の2人の女性で際立たせたい。
私であれば「宮 あおい」のかわいらしさと、奔放さのような性格を当ててみたいと思ってみた。
映画の流れは小説のストーリーに忠実に従っている。しかし2時間と言う限られた中で作られるので
小説の中にある様々なエピソードは大幅に省略され、その根幹部分に関わるものをピックアップした
ようである。小説の中では主人公のワタナベと関る様々な性格の人物が登場してくる。その人物との
エピソードは物語を構成していく上での一つ一つの布石であり、小説全体の奥行きや厚みを増す為
には必要な条件のように思ってしまう。そんの要素を省略して行くから、主体がワタナベと直子2人の
恋愛の葛藤に終始してしまったように思うのである。
小説を映像化してしまうと、見る方はその映像に縛られてしまい、小説の持つ自由なイメージの構築
の妨げになってしまうように思う。私が2度目に読んだ「ノルウエイの森」は、人に光と闇と言うのか、
ポジティブな面とネガティブな面が混在している。ネガティブな闇が勝てば、人はその闇に押しつぶ
され、時に自殺という引き金を引いてしまう。しかし回りの人にはその暗さゆえに、詳細は判らない。
そのため人の行動が唐突で突然に感じてしまうのであろう。直子の自殺で主人公のワタナベも闇の
世界にひっぱられ、その淵をさまよう。そんな時のワタナベの心の中を書いた箇所がある。
《ぼくはまるで海の底を歩いているような奇妙な日々をおくった。誰かが僕に話しかけても、僕には
うまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても彼らはそれが聞きとれなかった。まるで自分
の回りにぴたりとした膜が張ってしまったような感じだ。その膜のせいで僕はうまく外界と接触でき
ないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に触れることは出来ないのだ。僕自身は無力だが
こういうふうにしている限り、彼らもまた僕に対して無力なのだ。》
こういう人の内面については映像でなかなか表現することは困難であろう。やはり小説は小説で読む
ほうが良い。映画は映画の為に書かれた脚本の方が適していると思ってしまう。
小説の中では直子の自殺後、彼女の介護役である女性(レイコ)がワタナベに忠告する手紙がある。
《正常な人と正常ならざる人とひっくるめて、私達は不完全な世界に住んでいる不完全な人間です。
定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして、銀行貯金みたいにコチコチと生きているわけ
ではないのです。ミドリさんという女性に心を魅かれ、そして直子に同時に心を魅かれるということは
罪でも、なんでもありません。このだだっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖に
ボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいというのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。
ほっておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つく時は傷つく
ものです。人生とはそいうものなのです。あなたは時々人生を自分のやりたい方向に、ひっぱっり
こもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったら、もう少し心を開いて人生の流れに身をゆだね
なさい。結局のところ何が良かったなんて、誰に判るのでもないのです。だからあたたは誰に遠慮
なんかしないで幸せになれると思ったらその機会をつかまえるべきです。そういう機会は人生に
ニ回か三回しかないし、それを逃がすと一生恨みますよ》
村上春樹は小説の中で、こんなことが言いたかったのではないのだろうか。
左から監督(トラン・アン・ユン) ワタナベ(松山ケンイチ) 直子(菊地凛子) ミドリ(水原希子)