60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

ノルウェイの森

2010年12月28日 16時56分38秒 | 映画
12月になって映画を見に行こうと思ったが、「これはぜひ観てみたい」と言う映画が見当たらない。
あえて言えば,、村上春樹原作の小説を映画化した「ノルウエイの森」だろうか?

10年程前に、村上春樹の小説を読み始めた。その時最初に読んだのが「ノルウエイの森」である。
この作品、それ以降に読んだ「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」などとは少し傾向が異っていたような印象がある。
話しは、主人公の大学生(ワタナベ)の高校生時代、最も親しい友人(キズキ)が自殺してしまう。
失意から昔の誰とも接するのを避けて、郷里を離れ東京の大学へ入学した。そんなある日キスギの
恋人だった直子と偶然に再開する。やがて2人は関係を深めていくが、直子の精神的な病が発症し
てしまう。2人はお互いを気遣い苦悩し恋愛は泥沼に入ったような状態になる。そして直子が突然に
自殺を図ってしまった。そんなストーリーの恋愛小説であったよう記憶していた。

この映画を見ようと思った時、一つの小説をどんな風にとらえ、どのように映像化していくのだろうか、
自分が小説を読んで感じたこと、映画から感じることにどんな差異があるのだろうか?そんなことに
興味がでてきた。そのためには、もう一度小説を読み直してから観た方が面白いと思い、文庫本を
買って読み始める。読んでみると、記憶にある10年前の印象とは違い、そこに描かれているのは
人間の持つ「不可解さ」 「コントロール不能な精神」「一様ではない人の思考」「心の迷宮」そんな
人間の性(さが)のようなものを読みとることが出来た。読み終わって池袋の映画館に行ってみる。
客層はほとんどが若いカップルや女性同士の連れである。シルバー料金で入場しているのは私ぐ
らいで居心地の悪さを感じるほどである。やはり村上春樹は若い人に人気のある作家なのだろう。

この映画、監督はベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンという外国人である。主人公のワタナベ
役に松山ケンイチ、直子が菊地凛子、大学生になってからの奔放な性格の恋人役に女優初挑戦の
水原希子というキャストである。映画が進むうちに何となく違和感を感じ始める。それは小説を読んだ
時に感じたそれぞれの登場人物に対するイメージと、映画のキャスティングとが合わないことに起因
するのであろう。私のイメージは主人公のワタナベは少しとぼけた味があり、しかも内面の弱々しさを
感させるイメージである。だから私の少ない俳優のレパートリーの中から人選するであれば、それは
「瑛太」なのではないだろうかと思う。今回の松山ケンイチでは、そのとぼけた味も内面の弱々しさも
表現しずらいように思ってしまう。相手役の直子は、自殺してしまうほどだから、心に闇を抱えやはり
ひ弱でネガティブな影を色濃くだす必要がある。そんなことからすれば「蒼井優」の方が合っている。

そして大学の同級生で、ワタナベを好きになり、積極的にアプローチしてくる新たな恋人のミドリ役、
そこに監督の好みなのであろうが、水原希子という新人俳優を起用している。彼女はどちらかと言え
ばベトナム人かと思うほど東南アジア系の顔立ちである。しかも新人であるためか、演技が唐突で
たどたどしい。私にとって、この配役が最も違和感があった。彼女は直子との対極としてポジティブな
性格の恋人であり、結果としてはワタナベが彼女に引かれ、直子の自殺のダメージから抜け出すこと
ができる存在でもある。だからネガティブに対してのポジティブな性格の2人の女性で際立たせたい。
私であれば「宮 あおい」のかわいらしさと、奔放さのような性格を当ててみたいと思ってみた。

映画の流れは小説のストーリーに忠実に従っている。しかし2時間と言う限られた中で作られるので
小説の中にある様々なエピソードは大幅に省略され、その根幹部分に関わるものをピックアップした
ようである。小説の中では主人公のワタナベと関る様々な性格の人物が登場してくる。その人物との
エピソードは物語を構成していく上での一つ一つの布石であり、小説全体の奥行きや厚みを増す為
には必要な条件のように思ってしまう。そんの要素を省略して行くから、主体がワタナベと直子2人の
恋愛の葛藤に終始してしまったように思うのである。

小説を映像化してしまうと、見る方はその映像に縛られてしまい、小説の持つ自由なイメージの構築
の妨げになってしまうように思う。私が2度目に読んだ「ノルウエイの森」は、人に光と闇と言うのか、
ポジティブな面とネガティブな面が混在している。ネガティブな闇が勝てば、人はその闇に押しつぶ
され、時に自殺という引き金を引いてしまう。しかし回りの人にはその暗さゆえに、詳細は判らない。
そのため人の行動が唐突で突然に感じてしまうのであろう。直子の自殺で主人公のワタナベも闇の
世界にひっぱられ、その淵をさまよう。そんな時のワタナベの心の中を書いた箇所がある。

《ぼくはまるで海の底を歩いているような奇妙な日々をおくった。誰かが僕に話しかけても、僕には
うまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても彼らはそれが聞きとれなかった。まるで自分
の回りにぴたりとした膜が張ってしまったような感じだ。その膜のせいで僕はうまく外界と接触でき
ないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に触れることは出来ないのだ。僕自身は無力だが
こういうふうにしている限り、彼らもまた僕に対して無力なのだ。》
こういう人の内面については映像でなかなか表現することは困難であろう。やはり小説は小説で読む
ほうが良い。映画は映画の為に書かれた脚本の方が適していると思ってしまう。

小説の中では直子の自殺後、彼女の介護役である女性(レイコ)がワタナベに忠告する手紙がある。
《正常な人と正常ならざる人とひっくるめて、私達は不完全な世界に住んでいる不完全な人間です。
定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして、銀行貯金みたいにコチコチと生きているわけ
ではないのです。ミドリさんという女性に心を魅かれ、そして直子に同時に心を魅かれるということは
罪でも、なんでもありません。このだだっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖に
ボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいというのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。
ほっておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つく時は傷つく
ものです。人生とはそいうものなのです。あなたは時々人生を自分のやりたい方向に、ひっぱっり
こもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったら、もう少し心を開いて人生の流れに身をゆだね
なさい。結局のところ何が良かったなんて、誰に判るのでもないのです。だからあたたは誰に遠慮
なんかしないで幸せになれると思ったらその機会をつかまえるべきです。そういう機会は人生に
ニ回か三回しかないし、それを逃がすと一生恨みますよ》

村上春樹は小説の中で、こんなことが言いたかったのではないのだろうか。

           
  左から監督(トラン・アン・ユン) ワタナベ(松山ケンイチ) 直子(菊地凛子)  ミドリ(水原希子)



羽子板市

2010年12月24日 09時09分40秒 | Weblog
台東区の今の会社に通い始めて、もう20年近くになる。この地域は以前通っていた池袋と違い、
古い時代の東京の伝統文化が色濃く残しているように思う。それは浅草寺を中心にした浅草地区、
上野の周辺で「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、下町の情緒が残る谷中・根津・千駄木地区など、
そこには昔からの神社仏閣が数多く残り、戦後の開発から取り残されてしまったからなのでもあろう。

ここにいると自然に、四季折々に催される、この地に根づく伝統の行事に触れる機会が多くなる。
浅草寺の初詣に始まり、上野公園の桜まつり、隅田公園の桜まつり、5月の三社(さんじゃ)祭り、
7月の入谷鬼子母神の朝顔市や浅草寺のほおづき市、8月の隅田川の花火大会や灯籠流し、
浅草寺の境内で行われる薪能(たきぎのう)、11月の鷲(おおとり)神社の酉の市、等々である。
先週会社のそばにある町内掲示板に浅草寺の羽子板市のポスターが貼ってあった。この行事は
まだ行ったことはない。「思いたったら即行動」、そう思って休みの土曜日に行ってみることにした。

浅草に着くと、普段に倍して大勢の人が出ている。大提灯で有名な雷門から仲見世通りを通って
本堂まで、空いていれば5分で着く距離を、人の波にもまれもまれて15分程度もかかってしまう。
仲見世でお土産を買っている人、数人で固まって歩く観光客、そんな人々の会話を聞いていると、
意外に中国語や韓国語が多いのにおどろく。日本の地を訪れ、東京を見て回る外国人観光客
にとって、この浅草は日本の伝統文化や情緒が残っている場所として知名度が高いのであろう。

羽子板市は本堂の左手の境内に、約50の露店が軒を並べる形で展開されていた。それぞれの
店にはその店の特色を出した羽子板を並べている。羽根つきという遊びは、すでにすたれて久しい
のであろう。店に並んでいる羽子板は実際に遊べるものはほとんど無く、一つが何万円もする伝統
工芸品としての高価な品が多い。売り手と客の会話を聞いていると、これは押絵羽子板といって、
ひとつひとつ手仕事で正絹を貼り合わせ役者絵などを描いていくそうである。そしてそこに使われて
いる生地によって値段も大きく違うということであった。

羽子板市の中をひと廻りし、境内の五重の塔を見上げたら、塔の傍に東京スカイツリーが見えた。
「ここから歩いてもそんなに遠くないはず」そう思って、スカイツリーの工事現場を見に行くことにする。
隅田川に架かる吾妻橋を渡り、アサヒビールの本社を左手に見て浅草通りを業平の方へ向かう。
見上げればどこからでもスカイツリーが見えるから迷うことはない。思ったより近く20分程度で工事
現場に到着した。タワーの上にも、下のビルの工事現場にも何本ものクレーンが林立しいている。
今日は土曜日で工事は休みなのであろう。柵で囲われた現場の中には、何台ものダンプカーが
停められていた。動きが止まり静かな工事現場を大勢の見物人が取り巻いている。そしてそれぞれ
にカメラや携帯を持ち、ツリーの上から下までを収めようと苦労している。「只今514m」、完成まで
あと1年と少しである。完成すれば古い伝統文化が残る浅草と、最新で世界一のタワーが建つ
この地区とが一つになって、東京最大の人気スポットになるのは間違いないように思える。

  

                お正月の飾り付けも終わった仲見世通り

          

          

          

  

  

  

                    今話題の市川海老蔵

  

         高額の羽子板(10万円?)が売れると三三七拍子の手締めをする

          
  
         
          

              五重の塔の向こうに東京スカイツリーが見える

          
                 
                     アサヒビール本社

  

                    東京スカイツリー工事現場

          


                 

 

            

       十間橋 テレビでおなじみ、逆さツリーが撮影できる人気スポット




お知らせ

2010年12月24日 09時01分49秒 | Weblog
         このブログ、以前操作ミスで編集画面にログインできなくなり、
         平成22年3月より12月17日まで下記の方へ移していました。

               http://blog.goo.ne.jp/hiro-fujii_1944/

         しかし、今回又同じようなミスで、再びこちらに舞い戻ってまいりました。
         以前、こちらで読んでもらっていた方がございましたら、
         上記のURLにもアクセスしてみてください。



老いの才覚

2010年12月17日 08時33分35秒 | 読書
先日本屋で曽野綾子の「老いの才覚」という新書が目に留まった。 「曽野綾子」、クリスチャンの
女流作家である。略歴に1931年生まれと書いてあるから79歳である。 79歳なら充分に年寄り
である。「老いの才覚」とは何か?彼女の経験知からのものであろうと思う。今後自分が年を重ね
て行く上で何を心がけておかなければいけないのか?、そんなことを思い、読んでみることにした。
以下、本の抜粋である。

老齢になって身につける「老人性」に大きく二つある。一つは利己的になること、もう一つは忍耐が
なくなってくることである。自分を若々しく保ちたいなら、まず利己心を改め忍耐力を養うことである。
若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人である。
最近の年寄りは「老人だから、○○してもらって当たり前」と思っている人が多い。「高齢である」と
いうことは「若年である」ということと同じ一つの状態を示しているだけにすぎない。それは善でも無く、
悪でも無く、資格でも功績でも無い。

老いの基本は「自立」と「自律」である。自立とは、ともかく他人に依存しないで生きること、自分の
才覚で生きることである。そして少なくても生きようと希 (こいねが)うことである。老人といえども
強く生きなくてはならない。歯を食いしばってでも、自分のことは自分でする。それは別にみじめな
ことでははなく、誰にも与えられた人間共通の運命なのである。
愛情というのは、手を出すことよりむしろ見守ること、「してもらう」という立場は意外と当人に幸せを
与えないものである。してもらうことを期待していると、ついつい不満が募ってつい愚痴がでてくる。
老人の愚痴は他人も自分もみじめにするだけで、いいことは一つもない。
どんなに大変だろうと「自分でやる」、自分でやるという自己の誇りほど快いものはない。それから
できるだけ若い世代に負担を掛けさせないようにしようと思うのが当然のスタンスである。そして、
仕方なしに人に何かやってもらう時は、対価を払う心構えが必要である。

老年は一つ一つできないことを諦め、捨てて行く時代なのである。執着や俗念と闘って人間の運命
を静かに受容することは、理性とも勇気とも密接な関係があるはずである。諦めとか、禁欲とかいう
行為は晩年を迎えた人間にとって素晴らしく高度な精神の課題だと私は思うのである。
人間は別離でも、病気でも、死でも一人で耐えるほかないのである。一口でいえば老年の仕事は
孤独に耐えること。そして孤独だけがもたらす時間の中で自分はどういう人間で、どういうふうに生
きて来て、それにどういう意味があったのか?それを発見し死ぬのが人生の目的のような気がする。
孤独は決して人にとって本質的に慰められるものではないのであろう。たしかに友人や家族は心を
かなり賑やかにはしてくれるが、本当の孤独というものは友にも親にも配偶者にも救ってもらえない。

歳をとると、一緒に遊べる友達がだんだん減ってくる。だからちょっと喫茶店へ入って本を読んだり、
一人で映画を見に行ったり、と一人で遊ぶ癖をつけていた方がいい。人生は旅だから、一人旅が
できないのは象徴的な意味で困ったことになる。一人で計画を立て、一人で時刻表をみて切符を
買って、自分で確認しながら実行に移す、そして刻々と変わる景色を楽しみ、出会いを楽しむ。
一人で考え、一人で行動し、一人でも楽しめる、そんなことに慣れてくれば老年も楽しくなる。

その人の生涯が豊かであったかどうかは、その人がどれだけこの世で「会ったか」によって図られる。
人にだけではなく、自然や出来事やもっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのである。
何も見ず、誰にも会わず、何事にも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きて
いなかったのではないか、という気さえするのである。
だから老年にも「こんなに面白いことがあるのか」と思うような体験をしてほしいし、いくつになっても
「出会い」を求め続けて欲しいと思うのである。 どんなことにも意味を見いだし、人生をおもしがる。
人間というものは、どんな状況も足場にしなくてはならない。孤独なら孤独でそれをスタンドポイント
にして、自分がおもしろいと思うことをやって 行くしかないのである。

時には徳のある老人がいる。「徳性を有する」とはどういうことか、規定することは難しいのであるが、
一つの目安はどんなことにも意味を見出し、どれだけ人生をおもしろがれるかということだろうと思う。
通常、年を重ねた人は、世間の事柄を分析することと、その奥にあるひそかな理由を推測することに
長けてくるのである。だから簡単には怒れなくなる。しかし最近、分別盛りの中年や老年の中にも、
直ぐ怒る人が増えてきたような気がして仕方がない。そういう年寄りはたぶん自分の立場や見方だけ
に絶大な信用をおく幼児性が残っているのだろう。銘々が自分の生き方と好みをきちんと確立し、
人と同じではないことにたじろがず、自分と違う人を拒否せず、そしてどんな相手にも、どんな生き方
にも、どんな瞬間にも、どんな運命にも、意味を見つける。これはもう芸術家のようなものである。

死は願わしいことではないが必ずやってくる。願わしくないことを超えるには、それから目をそらさして
はいけない。死は確固としたその人の未来だから、死を考えるということは前向きな姿勢なのです。
明日、自分の身になにが起こるか判らない。今日は歩けて、ご飯が食べられたけれど、明日は口
がきけなくなるかもしれない、目が見えなくなるかもれない。明日の保証はないと覚悟する。これが
老年の身だしなみなのである。常に過去にあった、いいこと楽しかったことをよく記憶しておいて、
いつもその実感 とともに生きればいい。これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでも
良いということである。

老年は一日一日弱り、病気がちになるという絶対の運命を背負っている。いわば負け戦みたいなの
である。もうそろそろ死んでも良い年なのだから、自由に穏やかな気分でいよう。人生はどこで どう
なるかわからないから、そういう気持ちはいつも待ったほうがいいと思う。人間はいくつになっても
死の前日までも生き直すことができる。最後の一瞬まで、そのひとが生きて来た意味の答えは出な
いかもしれないのであるから。

一生の間に、ともかく雨露を凌ぐ家に住んで、毎日食べるものがあった、という生活をできたのなら、
そのひとの人生は基本的に「成功だった」と思う。もしその家に風呂やトイレがあり、健康を害する
ほどの暑さや寒さから守られ、毎日乾いた布団に寝られて、ボロでもない衣服を身につけて暮らす
ことができ、毎日美味しい食事をとり、戦乱に巻き込まれず、病気の時には医療をうけられるような
生活 ができたなら、その人の人生は地球レベルでも「かなり幸運」なのである。もしその人が、自分
の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、愛も知り人生の一部を選ぶことができ、自由に
旅行をし、 好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友達から信頼や尊敬、好意をうけたら、
もうそれだけで、その人の人生は文句なしに「大成功」だったと言えるのではないだろうか。

本を読み終わって感じることがある。

年を取ってくるとくると体も精神も柔軟性がなくなってくるように思う。昔の同僚に会って話すとそれが
よくわかる。「あの管ではだめだ!」「あの鳩山はとんでもない奴だ!」「海老蔵はへたくそなくせに、
自分を過信しすぎている。あんな奴は歌舞伎界から追放すべきだ」「今のテレビはくだらない番組が
多すぎる。どこもかしこも安いお笑いタレントを使って、」「今の連中は携帯やパソコンにたよりすぎる
から漢字も書けない、・・」「中国は・・・」「北朝鮮は・・・」「日本人は・・・」「今の若い奴は・・・」等々、
世の中や相手を批判することで、自分が上に立っているような優越感を得、自分の意見が際立ち
注目を集めると思うのであろう。しかしそれは錯覚で、往々にして思惑とは反対になる場合が多い。
聞いている方は聞き辛いし、それはただマスコミの論調に乗っているだけで、なんら生産的ではなく、
世の中の変化を理解しようともしないし、受け入れようともしない年寄りの特徴のように思うのである。

私自身も無自覚に年を重ねていけば、世間に対して不満タラタラの年寄りになって行くのであろう。
今は幸い現役で、社会の変化を肌で感じ、回りに若い人がいるから、そういうことから免れている。
しかしいずれリタイアして、本に書いてあるように「孤独」の世界に生きるようになるだろう。その時の
為の「自立」と「自律」、今から意識しておかねばならないように思っている。