お笑いコンビの「ピース」で目立たない存在だった又吉直樹が、文芸雑誌「文学界」に純文学の「火花」という小説を掲載した。その作品が話題を集め、文芸雑誌としては異例の重版となった。そんなニュースをNHKの9時からのニュースセンターで取り上げていた。その放送の中で又吉直樹がインタビューに答えてこんなことを言っていた。
中学生の頃、昼休みの時間はみんな校庭に出てサッカーをやって遊んでいた。そんな中、自分はいつも校庭の周りを全速力で走ってすごしていた。自分ではその行為が一番カッコ良いことだと思えたからである。しかし自分のそのような感覚が回りの仲間とはズレていることに気づき、次第に違和感が生まれてくるようになる。そしてそのことに悩むようになったとき、たまたま太宰治の「人間失格」と言う本を読んで救われたように思った。それはこの本が多くの人に読まれた名著だということは、多くの人達もまた自分と同じような悩みを共有しているのだろうと思ったからである。
私はその話を聞いて又吉直樹に興味を持ち、この「火花」という小説を読んでみようと思った。さっそく本屋に行って「文芸界」という月刊誌を探したが、掲載されたのは2月号ですでに売り切れとなっていた。そんなことがあってしばらくして本屋をのぞくと、この「火花」が単行本で売られていた。後で知ったのだが、この本は初版15万部の予定だったが、発売前に2刷(3万部)、3刷(7万部)が決まり、計25万部と言うことでスタートしたようである。これにより著者又吉氏には少なくても3000万円の印税が入り、お笑い芸人から小説家として生きていく道も開けたのである。
さてこの小説、主人公の僕(徳永)は相方の山下と漫才をやっているお笑い芸人である。ある時知り合った同業の先輩芸人(神谷)の芸に対する考え方に共感し、それぞれに漫才をやりながらも師弟関係を結ぶことになる。お互いがお笑いという芸を追求していく中で、この2人の交友関係の変遷が描かれた作品である。主人公の僕と先輩芸人の神谷、それぞれに認め合う部分もあるが、濃密な付き合いの中でも次第に相容れない部分も見えてくる。そんなズレが次第に顕著になリ初め、やがて主人公の僕の方は生活が安定する一方、先輩の神谷は自分の考える芸にこだわり続け次第に出る場を失っていく。そして生活が乱れ借金が加算んで、取立てから逃げるためか行方をくらましてしまった。
又吉氏がNHKのインタビューで語っていたように、この小説は「ズレ」をテーマに書いているように思う。「人」が生きていく上での世間とのズレ、個々の人間関係でのズレ、そんなズレをどう調整していくのか?どう妥協していくのか?ということは常に付きまとう問題である。妥協しすぎてしまうと自分を見失ってしまう。自分を貫いていけば世間からも相手からも受け入れてもらえなくなる可能性がある。本の中にこんな文章があった、「僕は徹底的な異端にはなれない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることもできない。嘘を吐くことは男児としてみっともないからだ。・・・」と、
人はそれぞれに個性があり、考え方も違っている。その個性や考え方が尊重されて生きていければ良いのだが、世間に出れば当然そこに大きなズレを感じることになる。会社に勤めれば組織で動くから、組織人としての自覚を求められる。偏差値のベルカーブではないが、頂点にくる部分が標準になり、それから外れるほど異端になってくる。芸人や職人、農業などを生業としていれば、ズレはズレとして許容してもらえることもあるのだろうが、企業に勤めていればそのズレを自らが矯正していく必要がる。それがストレスになり、それができなければ脱落することにもなりかねない。
我々の子供時代は兄弟も多く自分の部屋さえ与えられなかった。学校も1クラス60人で1学年10数クラスもあり、個人の尊重など程遠い環境であった。会社に入れば頻繁に転勤があり、大勢の中で自分の地位を保つのに汲々としていた時代でもあった。そんな中で組織とのズレが大きければ、歯車としては適正を欠くからスピンアウトしてしまう。だから知らず知らずのうちに矯正させられていったのだろう。我々の世代はそんな時代だったのかもしれない。
それに比べ今の子供達は自分の部屋を持ち、自分の時間やプライバシーを持つことは当然の権利のようになっている。嫌なことがあれば自分の部屋に逃げ込むこともできる。学校でもゆとり教育と言われ、個々の個性を育てて行こうという教育になっている。そんな子供達が世間に出たとき、当然そのズレは我々の時代以上に顕著であり大きなものなのであろう。ではそのズレをどう調整すれば良いのだろう?・・・・・・・
たぶんそれには著者が感じたように、自分と社会、自分と相手がどれほどズレているのか、自分自身で客観的に見つめることから始まるのかもしれないと思う。