60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

大往生

2017年05月26日 08時45分25秒 | 読書
 私の義母は大正10年生まれの現在95歳。14年前、脳出血で倒れ半身不随の状態になった。それ以来、病院と老人ホームのお世話になっている。今まで2度ほど誤嚥から危篤状態になった。しかし家族の強い要望で最善の医療を施され、命を永らえ今に至っている。しかし歳とともに体力は衰え意識ははっきりせず、今は胃瘻で直接胃に流動食を流され、先日は緊急の入院時に大たい骨を骨折し、血圧は異常に上がり38度台の熱が続いている。
 
 もはや回復する見込みはない。人の最期とはこんなにも辛く苦しいものだろうか。歳を重ね、来年には後期高齢者になる身としては、「自分はこうはなりたくない」、そんな思いが日増しに強くなる。先日たまたま本屋で、長生きはつらい。〈大往生したければ医療とはかかわるな[看護遍]〉という本が目に留まって、読んでみることにした。
 
 著者は1940年生まれの78歳、京都大学医学部を卒業し、医者を経て今は老人ホームの所長をされている。老人ホームで500例以上の自然死を見てきた経験から、医療や介護の邪魔が入りさえしなければ、「死」は穏やかなものであると知る。自ら市民グループ「自分の死を考える集い」を主催し、自然死を推奨している。本を読んでみてポイントだけを抜粋してみた。

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  医療は何のために利用するのか。「人生を豊かに、人を幸せにするため、また人間らしく死ぬため」ですが、それには明確なゴールが必要です。それには二つあります。一つは治療の可能性です。もちろん、やってみないとわからない「不確実性」がありますから、可能性が高い場合ということです。このように、治療回復が高い場合は、当然医療を利用すべきでしょう。もう一つは、生活の質(いわゆるQOL)が改善する見込みが、高い確率で望める場合です。症状の軽減や苦痛の緩和も、医療の大事な役割ですから、これらが大きく望める場合も積極的に利用すべきでしょう。

 ただものごとには、利益もあれば、必ず不利益もあります。ですから、利益と不利益を天秤にかけて、利益が不利益を大幅に上回るかどうか確かめましょう。また回復の可能性もなく、QOLの改善もなく、ただズルズルと死ぬのを先送りするだけの医療措置であれば利用すべきではありません。それは本人の幸せに繋がらないだけではなく、限りある貴重な医療資源のムダ使遣いであることを肝に銘じておきましょう。
 
 食欲は本能です。生きるために食べるのは、あたりまえです。両腕に麻痺がないにもかかわらず、自力でものを食べない、あるいは食べられなくなれば、それは「お迎えが近づいた」と受け取ることを、年寄りの間の合意事項にしようではありませんか。なぜなら、自力で飲み食いができなくなれば「寿命」というものは、あらゆる生き物に共通の自然な最期の姿です。

 しかし現在の日本では、「寿命」ということが理解できなくなっています。生きるために、飲んで食べるのは当たり前です。逆に死んでいくのに、飲み食いする必要はありません。つまり、もはや身体が要求しないのです。ですから、「腹も減らない」し、「のども渇かない」のです。ところが日本人は、「死に時」がきたから食べないということが理解できず、「食べないから死ぬ」と思い込んでいます。「食べないから死ぬ」のではなく「死ぬから食べない」のです。
 
 そのような時、医療的には、鼻チューブや胃瘻をつくって強制的に流動物をいれたり、点滴注射の登場となるわけです。また介護の場面では、長時間かけて、口からムリヤリ食べ物や飲み物を押し込むという仕儀になるわけです。しかしこれは、本人の身体が、もういらないと言っているのに、強いる行為ですから、本人の負担と苦痛は計り知れません。・・・・「最後は病院で手を尽くして」というのは「できる限り苦しめる」ということと、ほとんど同義語なわけですから、
 
 家族が、どんな姿でもいいから生きていてほしいという願いは、全く本人のことを考えていない家族のエゴです。・・ただ「どんな姿になっても生かしてほしいという本人の事前の意思」があれば別です。・・・・・自分たちは痛くも痒くもないわけですし、本人のためと思っているようで、実はまったく考えていない。ジコチュ-の鬼のような人達ですから。・・・・このようにわが国では、「がん」にかぎらず、家族全体で病気を考える傾向が強く、本人より前に出て、自分たちが後悔しないために「できる限りの治療を受けさせる」方向にムリヤリ引っ張ってしまいがちです。
 
 高齢者の「ガンは老化」ですから、ここまで生きてきて賞味期限がきているので、「がん」になったと言っても何の不思議もないでしょう。「がん」は放置すれば、穏やかな最期がむかえられます。私はこれまで老人ホームで発見された「手遅れ」の100例に近い「がん」に巡り合い、今や確信に至っています。
 
  健診で万一、少し異常があるなど言われたら、どうでしょう。途端に、酒は不味くなる、食欲は落ちる、夜はよく眠れないなどということでもなければ、何のための健診を受けたのか分らなくなってしまいます。それに、基準値とのズレが僅かであったとしても、異常といわれれば、そのまま放っておくには、かなりの勇気がいります。普通は、病院へ行って精密検査というコースに乗ることになります。検査の結果を踏まえて、治療して完治するものなら良いのですが、「3ヶ月後にもう一度どうなっているか調べましょう」と医療機関に繋がれてしまいます。安心を得るためのものが、裏目に出てしまいました。もう充分に生きたわけですし、自覚症状がないなら、むやみに健診など近づかない方が賢明というものです。
 
 がん「放置」の効用は2つあると思います。一つは、人生の締め括りができる、けじめがきちんとつけられることです。・・・・もう一つは、周囲にお礼とお別れが言える、つまり「最後のエチケット」が果たせることです。・・・こう考えると、存外、「がん死」は人生の幕を下ろす手段としては悪くないなという気がするのですが、・・・ですから、人間ドックやがん検診をうけて、むやみにがんを探しまくらないことだと思います。がんが見つかってしまったら、放置するのは至難の業です。世の中、知らないほうがいい事も沢山ありますし、「手遅れの幸せ」ということもあります。
 
 自然死(老衰死)は、飲み食いしなくなった「飢餓・脱水状態」では、脳内に麻薬様の化学物質である、βーエンドルフィンが分泌されていい気持ちになり、また、「脱水」により意識レベルが低下して、ウトウトして傾眠がちになります。またこの頃になると、息遣いがおかしくなります。例えば何十秒か息が止ったり、息の仕方が大きくなったり、小さくなったり、喘ぐような息の仕方になります。
 
 呼吸の仕方が悪くなると、酸素が充分に体内に入らなくなるので「酸欠状態」になり、また炭酸ガスがきちんと排出されないため、炭酸ガスが溜まることになります。「酸欠状態」でも、βーエンドルフィンが分泌されますし、「炭酸ガス」には麻酔作用があります。つまり、死の際の「飢餓」や「脱水」、「酸欠」や「炭酸ガスの貯留」すべてが、穏やかに死ねる手助けをしてくれるというわけです。
 
  今、医療や介護の現場では、患者や利用者がいのちの最終局面を迎えたとき、家族にどうするかの決断をせまります。しかし大多数の日本人は、「死」を縁起でもないと嫌っていますから、前もって、どうするかを家族と話し合っていることは、まずありません。その時点で本人に聞こうにも、意識レベルが低下していたり、ぼけて正常な判断力が失せていたりで、尋ねようがないのが実情です。

 ・・・・そこで、結局、家族がどうしてやりたいかという、自分達の思いを表明することになってしまいます。そこには本当の本人の希望なのかどうかということについては、全く考慮されていません。こういう状況下での決断ですから、亡くなったあともずっと、本当にあれでよかったかという思いが、つきまとうことになります。これを回避するためには、本人がまともな状態の時に、最終局面で、「どんな医療措置を受けたいか、あるいは受けたくないか」とか、「どこで、誰に、どんな介護を望むか」の意思表示をし、それについて、よく家族と話し合っておく必要があります。このことは、医療の「虐待」や介護の「拷問」からわが身を守るだけでなく、家族の無用な悩みから救うことにもなるのです。
 
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 男の健康寿命を経過し、何時何が起こっても不思議はない。そんな年代に入って、がんを含む重篤な病気になった場合、最期をどう迎えたいか。これはまず自分自身が決めておかなければいけない問題だろう。今までの読書や周囲の人々の死を観て来て、今は下記のように思っている。
 
① 安易に医者や薬に頼らず、常に自分自身で健康をモニターすることを心掛ける。
② 今までの経験から、明らかに異常だと感じたら病院で検査し、原因を究明する。
③ 病気が判っても、治療は医者の意見だけに委ねず、どうするかは自分で決める。
④ がん検診はしない。(すでに4年間受けていない)
⑤ 自覚症状から、がんと分っても、基本的にはがん治療はしない。
  ただし、腸閉塞など明らかに手術をすれば当面はしのげる場合は治療を受ける。
  しかしは抗がん剤は絶対に使用しない。
⑥ 自分が判断できる場合はすべて自分で判断する。
⑦ 自己判断できなくなった場合は延命の為の治療はしないよう家族に言っておく。
⑧ 胃瘻や点滴、酸素吸入などの延命介護もしないよう家族に言っておく。




 

ヤセないのは脳のせい

2017年05月19日 08時38分44秒 | 読書
 「意識は感覚や行動の後に来るらしい」ということが、アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットによる研究により明らかになってきました。私たちは自らの行動について次のように捉えがちです。まず脳が何らかの指令を出して、それで身体が動いたり、感情が生まれたりするのだ、と。ところがリベットの研究で逆のことがわかりました。意識が何よりまず先に生じて、その後に感覚や行動が起きるのではなく、むしろ意識は後付けのものではないか、というものです。
 
 例えば熱した鉄板を触って「アチッ!」と手を引っ込める時、①手が鉄板に触れる。②「熱い」と感じる。③脳が「危ないから手を引っ込めよ」と指令をだす。④手が動く。これは脳が私達を完全に支配している、と考えるならばこのとおりでしょう。ところがリベットの実験ではその順序が違ったたのです。①手が鉄板に触れる。②手を引っ込める。③「熱いから手を引っ込めなくては」と脳が意識する。こういう流れなのだ、というものです。
 
 ・・・意識より先に行動があれば、なかなか自分をコントロールするのが難しくなる。だからダイエットはなかなか進まないし、リバウンドが起こる。そんなことから脳学者 茂木健一郎が脳に視点を置いてダイエットを解説した本である。一部ポイントだけを抜書きしてみた。・・・・・・
 
  自分が自分自身を保ち、貫く・・・、私が私を完全に支配しているのであれば、ダイエットが必要なほど太ることはないでしょう。常にバランスの良い食事をこころがけ、ベストな体重をキープしているはずです。しかし現実は違います。これだけダイエットを必要としている人が多いということは、自分で自分を支配できていない人が多くいることの証拠です。ダイエットをする時、「支配する私」は「間食をしない」「夜食のラーメンをたべない」「お酒を飲みすぎない」と命令する私です。その私が命令するのも私に対してであり、これは「支配される私」でもあります。
 
 このように「支配する私」と「支配される私」に分かれる。「食べちゃダメ」と命令する私がいて、それに従う私がいる一方で、食欲に負けてその命令に反する私もいる。ダイエットに限らず、そのようなせめぎ合いが常に脳内で行われているのですが、特にダイエット中はそれが分りやすい形で表れます。こうした「私」という不思議は、脳科学研究においても重要なテーマです。

 書店に並ぶダイエット本のタイトルを見ているだけで、現代の人がどれだけダイエットを欲しているか、あるいはどのようにヤセたいか、ということがはっきりと見えてきます。それは分るのですが、やはりダイエットの要諦は次ぎの言葉で言い切れると思います。「食べない」以上です。もう少し詳しく言えば、食事を減らす。ダイエットの奥義は、これに尽きるのです。
 
 いかにダイエットの真理が「食べない」ことだとしても「辛い」だけではつまらない。空腹を我慢するのは、食事を美味しくいただくため。ヤセるために食べる楽しみをあきらめる、ということは本末転倒のように思います。むしろ食べる楽しみを追求するために、あえて空腹状態にする、そのように発想を転換してみてはどうでしょうか、
 ダイエットブームの背景には現代の飽食があるように思います。「楽してヤセたい!」と思う人が多いということは、苦痛に向き合えないということか、「苦痛の先には快楽がある」ということを知らない人が増えている証拠かもしれません。
 
 ダイエットにおいては、身体を鏡に映してみたり、食事の内容を記録してみたり、毎日体重計に乗ってそれを記録しつづけたり、増えたならば増えたなりに、ヤセたならばヤセたなりにそれを記録する。さらには、グラフにするなどして視覚化し、必要に応じて解析するのです。そのようにして、自分の体重の状態をメタ認知(モニターする)ことです。すべてはメタ認知から始まります。・・・・・これはダイエットだけのことではなく、人生のすべてに当てはまります。
 ・・・・とにかく現状を受け入れること。その過程で、「このままじゃダメだ」「ちくしょう、絶対ヤセてやる!」とか、さまざまな感情が喚起されててくるはずです。またそれこそが生きるエネルギーにもなるのです。もちろん、ダイエットをするモチベーションにもなるはずです。
 
 ダイエットというのは行動主義だと思います。本当に結果を出したいのであれば、とにかく行動すべきです。「やる気メーター」をフルゲージにして、「さあやるぞ!」ということで向かうのではなく、むしろ淡々と、アップもダウンもなくフラットな気持ちで、続けた方がいいのです。「やる気」というのは、それがあるから行動できるのではなくて、むしろ行動しないことへの言い訳として使われがちです。一時の「熱意」や「やる気」ではなく「習慣」こそが必要なのです。
 もちろん夢でも目標でも何かを選択するその瞬間には、「熱意」や「やる気」は必要でしょう。それが無い夢も目標もつまらないものです。しかし、一度方向を決めたら、あとは淡々と続ける。それだけです。必要なのは「やる気」よりも習慣とそれを裏付ける行動だけなのです。
 
 「ヤセたい」と思う、その人の心理の裡には「変わりたい」と思う気持ちがどんな人にもきっとある。それが根源的な欲望としてあるはずです。「自分自身を変えることは、創造的なことである」ならば、「ヤセたい」という気持ちは「創造的でありたい」という気持ちとつながっていくはずです。「ダイエットをして5キロヤセたい」というだけでは、いかにも俗で浅い欲望かもしれませんが、突き詰めて考えれば、その先に「クリエイティブでありたい」という欲望を根底に見出すことができるのではないでしょうか。「5キロヤセたい」のではなく、「新しい自分になりたい」と考えてみるべきなのです。

  ※ これだけでは内容が分りづらいでしょう。興味のある人は、
    茂木健一郎「ヤセないのは脳のせい」 新潮新書760円
 



盆栽展

2017年05月12日 05時35分35秒 | 散歩(6)

 ゴールデンウイークの前半に開催されていた大宮の「世界盆栽展」へ行って見た。特に盆栽に興味があるわけではないが、我が家の隣のご主人が盆栽をやっていて、自宅の庭や近くにある工場の屋上に何十鉢という盆栽を持っている。時々庭越しに会話するのだが、盆栽のことを聞くと、原木を北海道まで取りに行くとか、盆栽博物館建設中に盆栽を預かっていた業者が枯らしてしまい何億円かを弁償したとか、面白い話を聞かせてくれる。近年海外でも人気が高まっていると聞く盆栽、少しは知識を得ておこうと思って行くことにした。

 盆栽の原型になる「盆景(ぼんけい)」発祥の地は中国。中国では「唐(618~907年)」の時代から盆景が行われていた。その盆景が平安時代に日本に入ってきた。そして盆景は公家や武士を中心に高尚な趣味として親しまれ、江戸時代には「盆栽」と呼ばれるようになる。その後、盆栽は日本独自の文化として進化を遂げ、今では世界中から「日本の素晴らしい伝統文化」として高い評価を得ている。
 
 「盆栽」とは小さな鉢の中に、壮大な自然の景色を創り出す芸術作品。静的な絵画・彫刻などとは違い、盆栽は四季を通して、自然が織り成す美しい変化や生命の鼓動を感じることができる。また、世界的に見ても「BONSAI」の評価はたいへん高く、アメリカ・スペイン・フランスには数万部を発行する専門誌があり、イタリアには盆栽の大学や美術館まである。盆栽は「育てるのが難しい」「金持ち・年寄りの趣味」というイメージがあるようだが、近年では小品盆栽(20cm程度)やミニ盆栽(10cm)を趣味にする若者が急増しているそうである。
 
  
 
                  大宮駅 東口
 
  
 
  
 
                 氷川神社 参道
 
  
 
  
 
   この参道はケヤキを中心に約700本の樹木が南北に2kmにわたって続いている
 
  
 
       
 
  
 
  
 
                    氷川神社
 
  
 
  
 
  
 
  
 
  
 
  
  
  
 
  
 
          
 
  
 
  
 
  
 
  
 
  
 
                   大宮公園
 
  

                      シャガ 
 
  
 
                  大宮公園ボート池
 
  
 
                    盆栽町
 
  
 
  
 
  
 
  
 
           
 
                   外人も多い
 
       
 
           手前の鉢が55000円、後ろの鉢が8000円
               この価値の差は何だろう?
 
  
 
                  左が盆栽四季の家
 
  
 
                大宮盆栽美術館 入り口






老人の壁

2017年05月05日 05時40分40秒 | 読書
 先日今村復興大臣が、自民党会派のパーティーでの発言が問題になった。それは東北の震災被害の説明で、「・・・まだ東北で、あっちの方でよかっがよかったんですけど、これが本当に首都圏に近かったりすると莫大なんですね、甚大な被害があったというふうに思っております。・・・」という発言である。これが被災地の実情を考えない暴言だ、ということで大問題になり、即刻更迭になってしまった。
 
 この事件で、マスコミは被害者を深く傷つける発言、被害者感情を逆なでする他人事のような発言、大臣としての資質を欠き情けない、という報道が大半であったように思う。しかしニュースで記者会見の様子を見ていても、当の本人は、「俺、何か悪いことを言ったのだろうか???」と言う表情で、自分の中では納得はしていなかったように見えた。
 
 最近読んだ本に「老人の壁」というのがある。その中で養老孟司が・・・「この年になるとやっていることに対して距離感がでてきますね。若い人が一生懸命やると必死になるでしょう。もう、必死になるもの、ないんですよ。だって、いくら必死になったっても、もうすぐ寿命が来るんだから、・・・」と言っている。今回の今村議員は70歳、復興大臣という職責に対して必死でやるには無理な歳である。当然被災者に対しても距離感があり、評論家的な発言になってしまう。だから本人の認識と世間の認識とにズレが生じてくる。基本的には大臣などの重責には若い人を起用すべきで、ゆめゆめ70歳を超えた老人を起用してはいけないように思うのである。
 
 「老人の壁」の中で養老孟司はこんなことも言っている。・・・・至れり尽くせりの介護ってどこまで必要なのかって思うことがありますよ。体が丈夫で、うろうろ出歩いてっていうのはこまるけど。・・・・・・ 「ちゃんとやらせりゃ、できるじゃねえか」っていう気もします。あんまり介護をちゃんとやると、本人がそれ、やらなくなっちゃうでしょ。当たり前ですよ、つまり「いつ車いすを使うか」と同じ問題。車いすを使った人は一方では、「こんな楽なら早く使えばよかった」とも言うし。だけど、車いすを使い出したら、もう自分で歩くことはできないんだから。・・・
 
 私は老人の壁の最大なものは「楽をしたい」という意識だろうと思う。街中でよく見る老人の自転車、歩くのが億劫だから自転車に乗る。当然歩くより行動半径は広がり、しかも全体重をサドルに乗せ、手を使ってハンドルでバランスをとれば良いから楽である。歩けば体重や荷物の重さは腰や両足にかかり、何かに躓けば転倒につながる。歩くことが健康維持につながることは自明である。しかし「楽をしたい」という壁を越えられず、しだいに歩くことを億劫がり、自転車に頼ってしまうことになる。
 
 歩く時に使う筋肉と自転車を漕ぐ時の主体になる筋肉は違う。したがって自転車に頻繁に乗る老人は足腰が弱ってきて、歩くことが億劫になる。だから歩けば足首や膝が痛くなり、ますます歩く頻度が少なくなる。当然運動不足になり、肥満など生活習慣病を発症しやすくなる。

 足が痛めば湿布を貼り痛み止めを飲む。痛み止めを飲めば胃が荒れるから胃薬をもらう。運動不足で生活リズムが狂えば不眠症や便秘症などになりやすい。その都度医者に通い薬を出してもらう。薬の種類は増え続け、調剤薬局からレジ袋いっぱいの薬をもらってくることが当たり前になる。多い人は20種類の薬を飲む人もいると聞く。まさしく医者と製薬会社の戦略に取り込まれることになる。
 
 なぜこうなるのか?生活習慣病は生活習慣を改める事で改善する。しかしそれが面倒だから、手っ取り早く薬で解決しようとする。「楽をする」という壁は次第に高くなり、やがて自分に迫ってきて越えようが無くなってくる。こんな「壁」も別に老人達ばかりではないであろう。人の意識の中には「安全」「安心」「便利」「楽」「快適」・・・など様々な欲求がある。例えば「食の安全」に対する強い意識は、買った牛乳の消費期限が1日過ぎたからと捨て、消費時間を1時間過ぎたコンビニのおにぎりを食べないなどの行為になってくる。これも自分を守る意識の壁なのだろうが、品質管理を勉強したり、よく考えればこんな極端なことにはならないはずである。
 
 「壁」があればリスクは軽減し安心が増すように思う。しかし反対に融通が利かなくなり、広がりを失い不自由になってくる。昔読んだ養老孟司の「バカの壁」でこんな提案をしていたように記憶している。都会の会社は社員を1年間僻地に転勤させ、農業をやらせた方が良い。生活の環境を変え、仕事を変えてみることで、壁が低くなったり取り払われることもある。そのことで柔軟な生き方や発想が生まれてくる。そんな内容だったように思う。我々老人も若い人もあまり守りに入らず、環境の変化を恐れず、新しいことへのチャレンジが必要になってきたようにも思うのである。