60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

高齢者講習

2015年06月26日 08時49分11秒 | Weblog
 70歳を超えての運転免許更新には「高齢者講習終了証明書」が必要である。また75歳からの更新には「高齢者講習」と「講習予備検査」があり、予備検査で記憶力・判断力低くなっていると判定されると、専門医による適性検査を受け、ここで認知症と判断された場合は免除の取り消しになる。
 
 今年3月に運転免許証を紛失し、大宮の運転免許センターに再発行手続きで行った時、「貴方は7月が免許書き換えです。今は更新講習は3ヶ月待ちになっているから、直ぐに予約をしないと間に合わなくなりますよ」と言わた。それであわてて近くの自動車学校に予約を入れたが、やはり3ヶ月待ちで講習を受けたのは先週になってしまった。
 
 さて当日の講習の受講者は9人である。受講者は3人単位に分けられ、私の組は最初に運転診断を受けた。講師が自動車の助手席に乗り、我々は3人は交代で運転し教習コースを回った。S字カーブやクランクの運転など、訓練コースを回ったのは免許取得いらい50年振りである。私の診断結果は、「交差点の手前での徐行や減速のタイミングが遅い。カーブ手前での減速が遅いから少し大回りになる。ハンドルの握りが、内がけになる場合が多い」、という指摘である。
 
 次が視力検査である。まずは前を向いたままでの左右の視野角度、これは165°で50代平均と同じで問題なし。次が通常視力、これも裸眼で1.0は維持しているから問題なし。しかし動体視力と夜間視力は低い数値であった。動体視力は、遠くから近づくように見えるランドルト環(円形の一部が切れている輪)を、どの時点で判別できるかのテスト、夜間視力は明るい画面を見て瞳孔が開いた状態から、一気に暗くしてランドルト環を何秒で識別できるかで検査する。特に夜間視力は劣っていて、平均は24秒で見えるよになるそうだが、私は60秒経過しても識別できなかった。これは明暗に対しての順応が鈍くなっているから、トンネル内走行には注意が必要だと言われた。
 
 最後が運転適正検査で、反応動作、緊張の維持、注意配分などを見る。ゲームセンターにある運転ゲームのような機械で、赤信号や左右に曲がれの標識が出て、その都度ブレーキとハンドルを操作するものである。これは最初の音声説明だけでは操作手順が理解しずらく、戸惑う人が多かった。私はとりあえず「同年代との比較は普通」との判定であったが、これはあくまでもゲームであって、実地運転とは異質で無意味な検査のように思う。
 
 3時間の講習の合間の受講者同士の会話の中から、我々年代の共通する問題が見えてくる。その最大のものが視力である。車に同乗した一人は緑内障で視野が狭くなっていて、来月手術をするという。もう一人は白内障で視野の下半分は霧がかかったように見えるという。他にも動体視力や夜間視力は全員が低い数値だったようである。
 
 次が判断力や適応性が鈍くなっていることである。私と一緒の組で運転した人は、講師が、「次ぎのA1の標識を右に」、「次の交差点を左に」という指示に戸惑い、途中で停止することもあった。これは自分の意思ではなく、人の指示を理解し行動に繋げることが鈍くなっているのであろう。ある女性は、「自分の乗っている車と勝手が違うから、3回縁石に乗り上げてしまった」と言う。これも環境の変化への対応が鈍くなっているのであろう。
 
 NHKの報道で言っていたが、交通事故の総件数が減少する中、65歳以上の高齢ドライバーが起こす事故はここ15年で倍増と、増え続けているという。大きな要因が「実際の運転能力と自己認識のズレ」、加齢とともに視野や動体視力などの認知機能は衰え、標識の見落としや対向車のスピード読み間違えに繋がりやすくなる。と言っていた。
 
 今回の受講で私を含め9人全員に認知機能の多少の衰えは認めざるを得ないだろう。私は今はなるべく車は使わず公共の交通機関を使い、歩くことを心がけている。しかし郊外に住んでいる以上、やはり車がないと不便である。クリーニング屋へ行く時、遠くのホームセンターで買い物をする時、重い荷物は車が楽である。しかし事故を起こした時は自分のことだけでは済まず、人を巻き込んでしまう。人生の晩年で禍根は残したくない。だから「何時まで運転を続けるか?」これが問題である。自分自身に厳格な基準をも置け、ある時点でスッパリやめるしかないだろうと思っている。 

            

                 
 
 

 

横浜マラソン

2015年03月20日 08時29分32秒 | Weblog

 3月15日(日)、フルマラソンに衣替えして初の横浜マラソンが行われた。このフルマラソンに長女の連れ合い(娘婿)と次女の2人がエントリーしていた。娘婿は何度か市民マラソンに参加していて、青梅マラソンの30kmで3時間を切ったのが最高だそうである。今回は初のフルマラソンで4時間を切ることが目標だと言っていた。次女の方は過去に20kmの実績しかなく、今回は42.195kmを制限時間の6時間以内で完走することが目標だと言っている。

 8時30分、横浜みなとみらいをスタートするマラソンコースは、赤レンガ倉庫や山下公園、中華街を通り横浜卸売り市場を折り返す。折り返してから一部首都高速をも走ってパシフィコ横浜がゴール、横浜の見どころを一周するようなコース設定である。最近は東京マラソンなど大型の市民参加マラソンが人気で、応募してもなかなか走れないようである。今回も2万3000人もの人が走り、市民以外は抽選で外れた人も多かったと聞いている。なぜこんなに市民マラソンが盛んになったのか?、主催者側はどんな管理をしていくのか?、個人の記録はどのように計測されるのか?、私はそんなことに興味があった。
 
 娘に聞いて見ると、当日配布されるナンバーカードの裏にICチップが埋め込まれたタグがついて、これで管理するようである。選手それぞれが付けたタグから発信される電波により、今何処を走っていて、それぞれの記録がどうなっているかが分かるようになるという。そしてそのデーターは外部からでもインターネットで見ることができる。応援者はパソコンやスマホから、お目当ての選手が今何処を走っているかが検索できる。だから沿道に出て大勢が走ってくる中で見つけるのも以外にたやすいのかもしれない。競技者は走ることを楽しみ、応援者は選手が来るまでは横浜の観光を楽しむ。さすがにインターネット社会でのマラソン大会だと感心する。
 
 私は自宅からスマホで2人を検索することにした。スマホで横浜マラソンのホームページを開け、ここに2人の名前を打ち込んで検索すると、彼らが今どんな状態なのかが分かる。それぞれが何時にスタートしたかが分かり、5kmごとのラップが表示され、1km当たりのタイムや20km地点や30km地点の到着予測時間も計算されている。又コース地図を開けるとグーグルの地図上で何処を走っているかがプロットされている。その地図を少し拡大してみると、マークが徐々に動いて行くのがわかり、リアルタイムで2人の動きを知ることができるのである。そして地図を航空写真に切り替えると、どんな景色を見ながら走っているかも分かる。自宅に居ながらして応援する。これもインターネット時代の新しい楽しみ方なのかもしれない。

           

         娘は8時52分6秒、娘婿は8時44分44秒にスタートしたことが分かる。

        大勢だから一斉スタートとはいかず、娘は号砲から20分遅れでスタート。

 

             

       グーグルマップのコースの上に今何処を走っているかが一目瞭然で分かる

 

              

         マップを航空写真に切り替えると、今どんな景色を見ているかが分かる

 

                    

            途中ラップと、5kmごとの到着予想時刻が表示されている

 

          

         フィニッシュ時間と40kmまでの順位。スタート時間から計算すると

           娘は5時間42分57秒 娘婿は3時間50分36秒である。

 次女は20520位/23000名とビリの方に近い。しかし良く頑張ったと誉めてやりたい。走り始めて2年弱、休みの日などに時々練習していたのであろう。自分で目標を決め、フルマラソンにチャレンジしようとする心意気、私が知らない娘を見たように思う。娘婿も4時間切って自己目標を達成した。長女に聞くと娘婿も地道に練習を繰り返していたようである。目標を決め、それにチャレンジしていく。そしてその結果は今の自分の実力である。マラソンは自分の努力が素直に表れていく個人競技である。そのことが不公平で閉塞感の強い現代社会において、多くの人を引き付ける要因なのかと思ってしまう。

 
※追伸
 先週書いた財布の紛失、早速秋葉原のヨドバシカメラに行き、離れるとアラームが鳴るグッツを買ってきた。送信機の方を財布に、受信機をキーホルダーにつけスイッチを入れると、2つが3~5m(長距離に切り替えると7~12m)離れると受信機がピッピッと鳴り始める。これで財布を落としたり、置き忘れたりしても、5mも離れればアラームで知らせてくれる。反対にキーホルダーを置き忘れたらキーホルダー自身が鳴るから、これも直ぐに分かる。何時もペアで持ち歩くこと、ポケットががさばる煩わしさはあるが、紛失するリスクを考えれば有用のように思える。

         

 

 

  

 

 

 


古いレコード

2015年02月27日 08時06分43秒 | Weblog
 平成7年今から20年前の5月、両親は下関から新潟へ引っ越した。年老いていく両親にとって、石段と坂ばかりの環境では早晩暮らすことができなくなるだろうことは、親も息子達も分かっていた。親族会議の結果、両親は弟夫婦達と一緒に2所帯住宅を建てて新潟に住むことにした。両親にとって生まれ故郷でもあり、住みなれた地を離れることは一大決心が要ったであろう。私は引越しに際して家財道具の片付けと、荷物の運び出しの手伝いで、2度ほど実家に帰ったように覚えている。新潟の家は2所帯住宅といえども、今までの何分の1かの居住スペースである。両親は今まで維持管理してきた家財道具や古い持ち物を、この際一気に処分して行くと決めていた。
 
 実家は大正期に祖父が建てた家である。当時で築70有余年の家には玉石混合の骨董品から古い家財道具まで、ありとあらゆるものが詰まっていた。父は最低必要な家財道具と掛け軸の20~30本だけを選び出し、他は処分するように仕分けていた。その処分する中に古いレコード(SP盤)があった。たぶん祖父と祖母が集めたレコードで、昭和初期の義太夫、端唄、流行歌、浪花節、漫談、そして軍歌などである。私は陶器や掛け軸には興味は無かったが、この古いレコードを捨てることにわずかな抵抗を感じてしまった。幼児期、何の遊び道具も無かった時代にこのレコードをかけて、漫談に笑い軍歌を覚えたことが懐しかったからであろう。父に「これを捨ててしまうのはもったいないのでは?」と聞くと、「蓄音機もないのに、どうしようもないだろう。要るなら持って行け」と言う。ひょっとして価値があるかもしれない。そんなスケベ心も働いて、私は60枚以上あったレコードを宅急便で会社に送ることにした。(自宅より都内にある会社の方がさばきやすいと思ったからである)
 
 先週会社の私物を整理していた時、存在すら忘れたいたこの時のレコードが出てきた。ダンボールを開けると、茶色に変色した当時の新聞紙(平成7年)に包んだそのままである。昭和初期のレコードが、さらに20年タイムスリップして現れた感じである。「さてどうしたものか,、・・・」、「78回転のSPレコードを聴ける蓄音機などおいそれとはない。聴けないなら売しかないだろう」、そう思ってインターネットで《レーコード買取》で検索してみた。そこには何社かの買い取り業者があった。どこも宅配便で現物を届けるか、持ち込みや訪問によって相手が現物を確認し、その後査定し見積もりの段取りのようである。さらにインターネットの情報を繰っていくと、「古いレコードの販売について」と題してこんな記事があった。古いレコードは買取業者には売らないほうが良い。基本的に二束三文で10円から100円程度の買い取り価格である。それでは販売する意味がないから、手放すならインターネットのオークションンにかけるのが一番ベターであると、
 
 確かにそうかもしれないと思う。古い本をブックオフに持ち込んでも、1冊10円からせいぜい100円程度、100冊持ち込んでも2~3000円で、そのうち2割程度は「これは引き取れませんね」と突き返される。「そうですか、じゃあ捨ててください」と、置いて帰るのがせいぜいである。こちらが必要がなくなったものは、どうしても相手の言いなりの価格で買い叩かれてしまう。古いレコードでも同じことなのかもしれない。今は聴く手段も持たないのだから持っていても無用の長物である。10円といわれれば10円、1000円と言われれば1000円、捨てるのにお金がかかるといわれれば、そうなのであろう。
 
 今から80年以上も前の音源、価値があると認めてくれる人たちにとっては価値があるのかもしれない。しかも義太夫、浪曲、浪速節、端唄とマニアックなものもある。これが本当に貴重なものなら、NHKのアーカイブスに寄贈でもするのが一番良いのかもしれない。しかし当時は一般的なものだったのだろうから、そこまでの価値はないだろう。ではどうする、「う~ん、う~~ん」と考えてしまう。とりあえずは浅草にあるというレコード販売店に行って実情を聞いて見ることから始めるとしよう。父が捨てようとしたように、あのままゴミとして捨てられていれば、こんなことに気を使わなくて済んだものをとも思う。あの時の判断が20年経って、今自分に降りかかってきた。

 ※以下レコードの一部を仕分けしてみた。基本的にはレコードのジャケットは中の歌い手と関係なく、発売元の専属歌手等の宣伝に使われているようである。


          義太夫「野崎村」 太夫 豊竹古靭太夫 10枚(1~20巻)

     

           浪曲「五郎とその母」 天中軒雲月 4枚(1~8巻)

     

         浪花節「杉野兵曹長のこと」 天中軒雲月 4枚(1~8枚)

     

            浪花節「赤城源蔵」 天中軒雲月 2枚(1~4巻)

     

          浪花節「曽我兄弟討入」 浪速亭綾太郎 2枚(1~4巻)


                 端唄特選集 藤本ニ三吉 12枚
     「御所車、梅は咲いたか、秋の夜、秋桔梗、潮来出島、夕暮れ、縁かいな、大津絵、槍さび、
     鬢ほつ、青柳、宇治茶、夜桜、惚れて通う、桜みよとて、初日みよとて、からかさ、我がもの、
             留めても帰る、せがれせかれて、時鳥(三下り)、蝙蝠、」
 
     
 
         端唄「かっぽれ、奴さん、えんかいな、我がもの」 壽才三  2枚
 
            
 
                端唄「ニ上がり新内、木津川」  みき光
 
            
 
         流行歌「ああそれなのに、うちの女房には髭がある」  美つ奴
 
            
 
                  新小唄「あんこ椿」 小唄勝太郎
 
            
 
            流行歌「木曽は25里、おばこ可愛や」  小唄勝太郎
 
            
 
               流行歌「桐一葉、勧進帳」  東海林太郎
 
            
 
             流行歌「江南の華、坊やの父さま」  東海林太郎
 
 
 
 
 
 

マクドナルド

2015年02月13日 08時19分41秒 | Weblog
 近所にマックの店ができたのは何時だったろうか?、子供が小さい頃はお昼に家族全員で食べに行っていた。大きくなると子供たちの注文を聞いて私が買出しに行った。そして子供が独立して家を出て行った今、外出しない休みは新聞を持って珈琲を飲みに行く。そんなことを思い出すとマックは私の生活にすっかり馴染んでいた店である。
 
 そんな身近にあったマクドナルドが昨年の使用期限切れの肉を使ったナゲットの問題、そしてその後の異物混入事件から大きく売り上げを落としていく。直近の1月の売り上げは前年比-38.6%、客数は-28.5%、客単価は-14.1%と最悪な状況である。ナゲットの問題からすでに半年が経過している。それでも回復できず、より大きくダウンしているのはマクドナルドの構造的な問題にあるように思うのである。
 
 私の通うマックの店は駐車場付の郊外型である。朝10時頃店に入るとまだモーニングメニューの時間帯である。ガランとしている店内のお客さんは、私と同じように100円の珈琲でゆっくり新聞や本を読む年寄りが多い。以前であれば10時30分以降の昼メニューに変わってからは家族連れが入ってくるのだが、しかし今は子供連れの家族は1/3程度になってしまった。これは明らかにナゲットと異物問題での不信感の表れである。以前であれば席を確保するのも大変だったが、今は何時行っても席は空いている。
 
 そんな状態が半年以上続いていくと、お客さんの利用目的が次第に変化しているのに気づく。今まではハンバーガーやポテトを食べに来た人達が多かったのに、今は空いた店内を利用して集会所的に利用するお客さんが増えている。例えば私のよう珈琲一杯で新聞を読んだり、仕事の整理をしたり、主婦や町内会の打ち合わせに利用したり、学生の勉強の場に、保険等の契約の場所として、さらに英会話教室の個人レッスンにと利用されるようになった。そしてそういうお客さんのほとんどがドリンク1杯の人達である。これでは客単価が落ち、売り上げが落ちていくの自明の理であろう。
 
 マクドナルドが日本に上陸したころ、アメリカの文化をまとったファストフードとして若者を中心に人気が出て、瞬く間に日本中を席巻していった。当時はお洒落に感じたハンバーガーも時代と共に飽きが出てくる。あれから40年日本の食に対する意識も変わってきた。量から質へ、均質からこだわりに、そして健康志向へと変わってきた。しかしマックのメニューや味は旧態依然として大きな変化は見当たらない。だからなのか今では、パサパサしたバーンズに薄っぺらいパテ、冷めると極端に不味くなるポテト、そんな風に感じてしまうのである。
 
 今、外でハンバーガーを食べようと思うときは、ほとんどモスバーガーを利用する。オーダーしてからの時間はかかるし値段も高い。しかし原料にこだわりがあり、調理は丁寧で、セットのメニューにも野菜セットなどがあってなんとなく健康的に感じるからであろう。そんな私の変化は実際の数字にも表れ、昨年上半期の売り上げは6.4%、利益は20%も増えているという。
 
 大量生産大量消費時代そのままで、変化に対応できなかったのがマクドナルド、今現在日本に3600店舗もある。これだけ大きなスケールになると、小手先でメニューだけを変えて回復を図るのは無理なように思ってしまう。
 今郊外型喫茶店(駐車場付)に人気が出ている。(コメダ珈琲や星乃珈琲など) そんなことから郊外型のマクドナルドを「マックカフェ」として、喫茶中心の店に変化させたらどうだろうと思う。テーブルや椅子を落ち着いた雰囲気にし、ドリンクの値段を200~300円に上げる。バーガー類のメニューを極端に絞り込み、野菜を使ったメニューを増やす。セルフサービスはそのままに、コメダや星乃よりはリーズナブルな価格帯での展開をめざす。日曜日の朝、マックで新聞を読み終え、まだ空席の目立つ店内を見てそんなことを考えてみた。

             ある日のマックの店内アレコレ

                 
                   一人静かに本を読む

                
                  自分の書斎代わりに使う人

     
             PTAの打ち合わせで大きく席を占領、各自ドリンク一杯

     
                        町内会の打ち合わせ

     
                    友達と勉強の場に、仕事の整理で

     
                             保険の契約?

     
                    英会話教室 珈琲一杯で1時間
     
 
 
 

退職後

2015年01月23日 09時18分00秒 | Weblog
 彼とは昔の麻雀友達でもう40年の付き合いである。彼は1月21日が65歳の誕生日、1月末で42年勤めた会社を退社する。昨年の11月は仕事の整理と引き継ぎ、12月は得意先と仕入先へのあいさつ回り、そして1月は身の回りの整理と退職に当たっての年金や健康保険等の諸手続き、そんな風に自分でスケジュールを決めて淡々と実行していった。「老兵は消え去るのみ」そんな言葉を発しながらも、やはり寂しさと先への不安は覆い隠せない雰囲気である。
 
 彼は常々「豊かな老後は月額30万円」、そんなことを言っていた。しかし年金は20万弱、あと10万円が不足する。今は奥さんがコンビニでパートタイマーをやっていて年100万円を稼いでいる。しかし彼としては女房の稼ぎを当てにするのも口惜しい。かといって65歳の再就職やアルバイトはなかなか難しいのも現実である。「とりあえず知り合いの伝手を頼って仕事を当たってみたり、近場でマンションや駐車場などの管理の仕事を探してみたい」、どちらにしても一息ついてから考えたいと言っている。「しかし仕事が見つからなくても自分の小遣い程度はなんとかしたい」ということから、「手元資金で株を買うことにした。できればこれで月5万程度は稼ぎたい」、そんなことを言っていた。
 
 もう一つの悩みは仕事が見つからなければ日常をどう過ごすかということである。今までは年365日の7割は仕事で3割がプライベートな時間であった。それが今後は10割がプライベートの時間となる。「さて何をするか?」それが彼の最大の憂鬱である。一般的なサラリーマンは仕事にかまけてあまり趣味を持っていない。彼も典型的で、プランターで少しの野菜を育てているぐらいで他になにも趣味は持っていない。しかし今さら取って付けたように何かを始めたとしても、それはなかなか身に付きづらいものである。学生時代にサキソフォンやトランペットを吹いていたという仲間は、地元の市民オケや私的なクラブに入って演奏活動をしているという話を聞く。若い頃、山に登っていた仲間は近くの低山を歩いて楽しんでいる。そんなふうに焼けぼっくりには火はつきやすいが、生木に火を点けるのは難しく、趣味の炎は燃えずらいものがあると、彼自身も自覚している。
 
 いずれにしても、彼がこの1月で辞めることはもう何年も前から決まっていたことである。しかし辞めた後に何をするかは、ほとんどの人が彼と同じように準備不足のように思うのである。これから先10年も20年もあるだろう人生、何故みんな前もって準備できていないのだろうと考えてみる。サラリーマンとして働くということは、組織の中で職務分担しチームとして動くことに慣れていて、単独での活動が不得意なのである。そのためリタイアして単独の行動をしなければいけなくなると、途端に臆病になり億劫になってしまうのだろう。何かのサークルに属すことができれば上手くいくのだろうが、今度はそこで新参者として扱われるかもしれない、それも気が進まない。だから次の人生が退屈なものになってしまうように思うのである。彼は私に「一緒に畑を借りて家庭菜園をやらないか」とか、「1ヶ月に1度麻雀をしよう」とか、「定期的に散歩に行こうよ」と誘ってくれる。それはやはり複数を前提での活動しか思いつかないからかもしれない。
 
 私はどちらかといえば「群れる」のが苦手だから単独の行動を考える。以前に何度かこのブログにも書いたことがあるが、ある老齢の女流作家(名前は不明)がラジオのトーク番組で高齢者の心得として言っていたことを、今でも念頭に置いている。それは1、.自分のことは自分でできるようにする。2、ネットワークは大切にする。3、自己表現の手段を持つ。というものである。これを言い換えれば、「人に頼らず、孤立せず、自分の楽しみを持つ」ということであろう。このことは60歳頃から意識はしてきた。①、掃除や.洗濯も自分でやり、極力女房には頼らない。②、交友関係を億劫がらず、それを最優先にする。③、このブログもそうだが、散歩写真の編集とメールでの配信、水彩画、クラシックギター(まだほとんど進んでいない)など、自己表現手段の習得を試みている。どこまで準備すれば退職後に軟着陸できるかは分からない。が、そろそろ私の番も近づいているように思っている。






男と女

2015年01月09日 08時42分36秒 | Weblog
 年末、お正月に読む本を買いに近所のツタヤに行った。宮本輝の随筆集と新書の2冊を持ってレジに向かう。途中大きなPOPが付いて籠に並べられている本が目に止まった。スーパーの特売品のような売り方、そうとう目だって「上手い売り方だな」と思う。本のタイトルは「察しない男・説明しない女」、そのPOPを読むと、いかにも興味を引きそうな内容の一部が書いてある。しかし買ってまで読もうとは思わない。とりあえず参考までにとスマホのカメラに収めておいた。
 
 今週会社に出てきてパソコンに取り込んで拡大してみると、POPには以下のような男女の思考方法の違いが書いてあった。面白いと思うのでここに列記してみる。
 
《 こんなにちがう男と女 》
 
 男は理屈で動く
 女は感情で動く
 
 男はほめてほしい
 女はわかってほしい
 
 男はナンバーワンになりたい
 女はオンリーワンになりたい
 
 男は会議が好き
 女はおしゃべりが好き
 
 男は結果を重視する
 女は過程を重視する
 
 男は子どもでいたい
 女は女でいたい
 
 男は使えないものを集める
 女は使えそうなものを捨てられない
 
 男は日常が好き
 女は記念日が好き
 
 男は「初めての男」になりたい
 女は「最後の女」になりたい
 
 以前友人に、恋愛遍歴での男と女の違いをパソコンの保存方法になぞらえて、「男は名前を付けて保存」、「女は上書き保存」と聞いたことがある。男性は過去に好きになった女性を個々に大事に覚えているが、女性は新しい恋愛感情が起こると前の男性のことは興味がなくなる、ということであろう。だから女性は男性も自分と同じように考ると思うから、「最後の女」になりたいのかもしれない。
 
 人間も哺乳類に属する動物であるから、当然雌雄によって動物的な役割は違ってくる。だからその思考方法も違ってきて当然のように思うのである。男も女も同じ人間だから同じように考えると思うと、そこに大きな落とし穴がある。お互いが頭の中で理解するだけで、実際のところはなかなか理解しがたいのである。以前読んだ女性心理学者の本にこんなことが書いてあった。女は感情の糸で思考方法が紡がれていて、男は理屈の糸で紡がれている。同じように見えても、そこは微妙に違ってくる。例えば「理性」ということにしても、女性はそこに感情的な要素が加わり、男性は「こうあるべき」という理屈が優先する、というようなことであった。男と女は本当には理解できないまま、一緒にいるのかもしれない。
 
 以前のイギリスのサッチャーのように、今は国のトップも女性が活躍するようになった。お隣の韓国の朴 槿惠(パク・クネ)大統領は女性である。だからなのか女性ならではの外交政策になっているように思う。隣接する大国中国には「長いものに巻かれる」的な部分があり、北朝鮮とは角つき合わすのではなく、平和裏にことを進めたいとの思いが強い。一方日本とは「嫌い」という感情が先に立って、なかなか打ち解けられないように見えるのである。一方ドイツのメルケル首相は「肝っ玉母さん」のように、どっしり構えて混乱するユーロ圏の中で頼れる存在のように見える。あまりでしゃばらず、どちらかといえば控えめであるが自国の利益はしっかり守る、そんなイメージである。
 
 来年11月にはアメリカ大統領選挙が行われる。そこでヒラリー・クリントンが立候補し当選すれば、アメリカ初の女性大統領である。そうなればアメリカの外交も大きく変わってくるように思う。権力志向(ナンバーワン志向)の強いロシヤのプーチンや中国の習 近平(しゅう きんぺい)、そんな相手に女性(オンリーワン志向)の大統領が相まみえたとき、どんな外交が展開されるのか、本当に理解しあえるのか?興味津々である。
 
 
 
 
 

物忘れ

2014年12月18日 10時02分47秒 | Weblog
 歳とともに物忘れが激しくなっていることを痛感するようになってきた。今週月曜日、通勤で池袋まで出てきたときに携帯(スマホ)を忘れたことに気がついた。昔なら「ああ、何てことをしてしまったのか」と、後悔と自分の不甲斐なさに地団駄踏むところである。しかし今は「ああっ、またやってしまったか」と、その後のことを考えて憂鬱になるぐらいである。会社にくる電話やメールは全てスマホに転送されるようになっているから、会社に居なくても仕事はこなせる。しかし反対にスマホが中心になっているから、これが無ければ仕事にならない。池袋から自宅にスマホを取りに帰ると往復2時間弱かかってしまう。しかし「面倒でも仕事にならなければ帰るしかないだろう」、そう自分を納得させてUターンした。
 
 先週はジャケットを着替えたことで、胸ポケットに入れていた定期券を忘れてしまった。この場合は駅で気づくから折り返せば良いのだが、それでも往復で40分のロスになってしまう。「まあ、歩くのだから健康のためには良いだろう」、そう自分に言い聞かせて駅に向かう通勤の人とすれ違いながら歩いて帰った。下の写真はある雨の日の通勤駅の写真である。キップの販売機の側に折りたたみ傘が置いてあった。推測するに、キップを買おうとして傘を畳んで脇に置いた。しかしキップを買ってから傘をさして来たことを忘れ、そのまま改札を入って電車に乗ったのだろう。これはたぶん60代以降の女性だと思う。
 
     

           
                      
 物忘れには二とうりあるように思う。一つは人の名を思い出せないとか、約束をわすれるとかの記憶力の衰え、もう一つが実際に物を忘れてしまうとか、風呂のお湯を出しっぱなしにするとか、自分の行動に対して意識低下から起こる物忘れである。どちらも加齢に伴い起こることなのかも知れないが、被害や危険度は後者の方が大きい。
 
 最近読んだものに、物忘れは「病的な物忘れ」と「生理的な物忘れ」という二種類に分ける事ができ、食事をしたこと自体を忘れてしまう場合は「病的な物忘れ」、食事をしたことは覚えているが、何を食べたかを忘れてしまった場合は「生理的な物忘れ」になるそうである。医学的な観点で以前は「病的な物忘れ」ばかりが重要視され、「生理的な物忘れ」は歳を重ねる毎に起こる、いわば「仕方のない事」で片付けられていた。しかし最近の研究では物忘れの種類の垣根が取り払われ、結局は「物忘れのレベルが違うだけ」、という風に捉えられるようになっているようである。だから、今まで軽く見られていた生理的な物忘れも、そのまま繰り返し放置していると軽度の認知症になり、さらにそのまま放っておくとアルツハイマー型認知症になる可能性が高いと言われるようになったそうである。
 
 では自分の物忘れレベルはどのぐらいかと考えてみる。20代の全盛期を10とすれば、今はレベル6ぐらいではないだろうかと思う。昔はスマホのデュアルコアではないが、2つのことを同時にこなすことは簡単にできていたように思う。例えば「自転車を漕ぎながら携帯電話で話す」ようなことである。しかしそれがだんだん難しくなってくる。だから出勤の準備をするという行為に付随して、定期券は?スマホは?財布は?と同時平行での処理がスムーズにできなくなって、物忘れの頻度が多くなってきたのであろう。上の写真のようにキップ売り場に傘を置き忘れるのもこのためだろうと思う。
 
 TV番組で認知症のバロメーターとして、歩きながら傘を差せなくなったら初期の認知症だと言っていた。そうなればレベル5以下なのかもしれない。そしてもう少し進むと、ドアノブをまわして引くとか、ネクタイが結べないとか、同時に2つの動作が混じった行動ができなくなるそうである。こうなればレベル4以下なのだろう。私の認知力も年々歳々衰えていく。それを少しでも食い止めるために「何をすれば良いのか」、そろそろ真剣に考えておかないと、認知障害は目の前に迫っているように感じるのである。





2014年11月28日 08時25分14秒 | Weblog
 毎週金曜日にブログをアップする事を自分のノルマにしているのだが、最近は1週間1度がきつくなってきた。そんなスランプの時期を散歩の写真でごまかしていたのだが、今回はそれもない。仕方が無いのでここ数ヶ月、朝夕の通勤時や散歩の時に撮っていた「雲」の写真を集めてみた。
 
 「雲」それは身近に見えるものの中で一番自然なものだと思っている。海岸を歩いても山に登っても、そこは人の手が加わっていて人に管理された場所、決して自然とは呼べないものであろう。しかし雲は人の手が加わっていない本物の自然現象である。海などから蒸発した水分が大気に含まれ、それが温度や気圧の変化で雲になる。その雲が大気の流れに乗って流れていく。時に雨を降らせ、時に雲が切れて晴になる。人は天候を予測することはできても天候を管理することはできない。だから雲を見ることは、私の中では一番身近な自然を見ることなのである。
 
 私の子供時代は幼稚園の数が少なく入園はくじ引きで決まっていた。残念ながら私はくじにハズレ幼稚園に行くことができなかった。兄は小学校に、周りの仲間も幼稚園に行っている。たぶん遊び相手もいなくて暇を持て余していたのだろう、庭に面した縁側に寝転んでよく雲を見ていたという記憶がある。流れる雲に遮られて太陽が隠れ日差しが陰る、やがて雲が流れて再び太陽が顔をだす。そんな繰り替えす情景を飽きずに見ていたように思う。時に雲がなくなり、どこまでも続く青空を見ることもある。そんな時は決まって、この空はどこまで続くのだろうと考えてしまう。親に聞いても要領を得ない。やがて大きくなって空の先に宇宙が広がると知っても、ではその先はどうなっているのか?と、無限という概念が自分の中でふに落ちないままに空を見上げていた。
 
 地球の空は暗黒の大宇宙と繋がる渚のようなものであろう。だから雲はその波打ち際に見える白い泡のように思える。時に波は大きくうねり泡立ち、雲を厚くして雨を降らせる。時に穏やかになって刷毛で掃いたような薄い雲が見える。今私が住んでいる地区はビルはなく畑も多く、空は大きく開けている。せっかく自然に包まれて暮らしているのなら、この「雲」を観察しない手は無い。そう思って時々印象的な雲の姿を写すようになった。生まれてこの方、何万回と空を見上げただろうが、ただの一度も同じ雲の形はなかったはずである。これが自然ということのなのであろう。

   
                 朝もや これも雲の一種

   

   
             雲は低く垂れ込め、もう直ぐ雨が降りそう

   

   
                   雲が太陽を隠す

   

   

   

   

   
 

   

   

   

   

   
              雲の中で唯一人工的なのは飛行機雲

   

   
             夕方日が沈み始めると雲は茜色に染まる

   

   

   

   

   
                      月を隠す雲

   
                     雲の中の満月





お寺ごはん

2014年11月14日 08時36分51秒 | Weblog

 9月の上旬の日曜日池袋からの帰り、運動のつもりで隣の駅の椎名町まで歩いてみた。西武線の線路に沿うように歩けば道に迷うことはない。40分程度で椎名町の駅前まで来ると右手にお寺が見えた。道すがらに神社仏閣があれば立ち寄ることにしているのでお参りして行くことにする。境内は綺麗に整えられ、そこここに花が咲き、あちらこちらに石仏が置かれている。今まで散歩の途中に多くのお寺に参拝したが、その境内に住職の性格が現れるているように思う。殺風景で趣の無いお寺、賑やかしに既製品のような小坊主や狸の石像を置いているお寺、そんなお寺に比べれば、このお寺は住職のセンスの良さが見て取れる。 

 境内を一回りして山門を出る。入るときに右手にあった喫茶店が気になったていたので、入り口にあるメニュー版を覗いてみた。そこに「お寺ごはん」という面白いメニューが目に止まった。「あらっ、この店はお寺の運営だろうか?」、そう思うと益々興味が湧いて入ってみることにした。店内はお寺の境内に面してガラス張りになっていて、明るく開放的な雰囲気である。桔梗の花が一輪差してあるテーブルに座り、「お寺ごはん」なるのもを注文してみる。しばらくして料理が運ばれてくる。真っ白なご飯に味噌汁と焙じ茶、そして鯵のフライやヒジキの煮物が丸い木のトレーに乗せたままテーブルに置かれた。量もおかずも提供方法も、いかにもお寺らしさが感じられる。庭を見ながら食事をし、その後は珈琲を飲みながら、まったりとした時間を過ごすことができた。
 
 会社までの定期券があるから、区間内にあるこの店に時々行くようになった。行く都度境内に咲く花は変わり、お寺ごはんのメニューも変わる。駅から1分の近距離にありながら、比較的空いていてゆっくりと落ち着ける。休日に食事で立ち寄ったり、珈琲を飲みながら読書をしたりと、私の「お気に入りの店」の一つになった。先日行った時は結婚披露宴(30名程度)が貸切で行われていた。こじんまりしていて落ち着けるから、花嫁さんが選んだのかもしれない。檀家が減って右肩下がりのこの業界、活路としての副業としてはなかなかお洒落なように思う。今年の5月下旬にオープンのようだが、やがて人気が出てくるかもしれない。私としてはあまり人に来て欲しくない店であるのだが、・・・・

    

            右手がお寺カフェ 赤門テラス「なゆた」

            

            山門の前に咲く花 ギボウシ(擬宝珠)?

   

                     金剛院佛性院

   

              庭に面して開放的なガラス張りのカフェ

   

             境内のあちらこちらに石像が置かれている

   

  

                

            

 

   

   住職だろうか?バケツ一杯の菊の花を携えて、仏様の花を差し替えていた

       

                      新しく供えられた菊の花

       

 

   

             季節によって境内に咲く花も変わってくる

          

          9月、最初に行った時は彼岸花が咲いていた

                

   

          

          

          

   

                 店内からはお寺の境内が見渡せる

   

                   お寺ごはん(日替わり) 750円

          

                      珈琲 350円

              テーブルには桔梗が一輪活けてあった

   

                      ある日のお寺ごはん

   

                トマトうどん 700円 (PM3:00~)

          


   

                 貸切で披露宴 30名程度

            


   

          日によって変わる花に、店の気くばりが伝わってくる

 

 

 

   


葬儀に出て思う

2014年10月17日 08時59分30秒 | Weblog
 日曜、以前取引関係でお付き合いがあった人の葬儀に参列した。個人的に親しいという間柄でもなかっが、その人が会社を退職されて個人商売を始められてからは、よく情報交換などで話をするようになった。しかしその商売も手仕舞いされたようで、ここ5~6年はお会いする機会もなかった。そんな関係から先週末に訃報を貰ったとき、私の中で参列するか否に迷いがあった。しかし昨今は周りで直接係わり合いがあった人達の訃報が多く入る。「今までの人間関係も逝去によって否応なしに途絶えていく年齢。だからこれからは一つ一つにケジメをつけていく時なのだろう」、そう思って葬儀に出かけることにした。
 
 故人は享年81歳、1年前に肺がんになりその後入退院を繰り返して、最終的には呼吸不全で亡くなられたようである。受付を済ませ式場に入る。仕事を離れて長いからか会社関係の人は少なく、大半が親戚筋や近隣の身近な人のようである。席について祭壇の遺影に目をやると、黒い遺影リボンの後ろでにっこり笑っている故人の顔に戸惑いを覚えた。どちらかというと面長だった顔はまん丸になり、頭には髪の毛は1本もなく剃っているようである。私の記憶にある故人とはあまりにも違う変わりようである。隣に座る人にそのことを聞いてみた。するとその人も違和感を感じたのか、身内の人に聞いたことを話してくれた。この写真は入院の中のもので、お孫さん達が笑っている顔が良いからと遺影に選んだそうである。たぶん治療で使った抗がん剤の副作用で頭の毛は抜け、顔は浮腫んでしまったのであろう。闘病中の故人の苦悩を思わせる遺影である。
 
 席についてしばらくすると、進行係のアナウンスから式は始まった。宗派は日蓮宗のようで、黄色い法衣に帽子で身を包んだ導師様が祭壇の前に着席する。お経が始まり日蓮宗独特の木柾(もくしょう)(木魚)がリズムを刻み、時々リンの音色がアクセントになる。淡々と読み進んでいくお経の中に「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と覚えのある部分が何度も出てくる。しばらくして読経の中でご焼香が始まる。車輪つきの焼香台が喪主の前に置かれ、焼香が済むと隣の席へと周っていく。喪主の奥様は70歳代であろう、喪服の姿はほっそりとして小柄で品が良い人である。隣の席に娘さんであろうか50代の女性が並び、その隣もやはり50代の女性、そしてその隣は20代の男性とまだ学生のような女性と続く。たぶん喪主の奥様と2人の娘(姉妹)さん、そして妹さんの方の子供達(孫)であろう。時折奥様と2人の娘さんは右手に持ったハンカチで涙を拭っている。今まで故人のことしか知らなかったが、こうして見渡せば故人の家族環境のようなものを垣間見ることができる。
 
 一時間を要して、葬儀と初七日の法要が終わった。お坊さんが退席すると喪主の挨拶である。型通りの挨拶の後、故人が好きだった「月の砂漠」の歌を唱和して欲しいと、歌詞のコピーが配られ、場内に伴奏が流れる。歌い終わったあと棺が会場の真ん中に置かれ蓋が開けられて故人との最後のお別れである。故人が愛用していたブレザーコートと帽子が入れられている。係りの人がお盆に盛ったお花を持ちまわり、参列者はそれを貰って白装束の故人の傍に置いていく。私もお花を貰って棺の中に置きながら故人の顔を拝見した。すると遺影の顔と違って、私の覚えている面影が残る穏やかな顔である。たぶん治療の終盤は抗がん剤を止めたから、顔の浮腫みも取れたのかもしれない。会場にいた男性数人で棺を持ち霊柩車まで運び、親戚縁者はマイクロバスと乗用車に分乗して火葬場に向かって出発して行った。後に残った参列者は三々五々それぞれの方向へ戻って行く。今回の葬儀は涙涙の様相はなかった。それは故人がすでに80歳を過ぎていること、亡くなるまでに1年と少しの期間があったこと、そんなことから家族にはある程度の納得の葬儀だったのかもしれない。
 
 今までの人生の中で何度葬儀に出ただろうと振り返って見た。たぶん100回以上150回未満であろう。若いお父さんが亡くなって、残された奥さんと小さな子供たちが慟哭していた葬儀、冬の石巻のお寺で耐え難いような寒さだったこと、お寺で正座し痺れが切れて立てなかったこと、夏の暑い盛りにセミ時雨だけが記憶に残っている葬儀、会社関係のお偉いさんの葬儀でご焼香に築地本願寺に何百メートルも並んだこと、もし今までに参列した葬儀記録(故人と斎場)があれば、その時々の情景を思い出すことが出来るように思う。しかし今はその記憶は頭の中に散在していてすでに遠くの幻のようでもある。人は生まれてやがて死んでゆく、その最後のケジメとしての葬式も、いずれその人の記憶と共に忘れられていくのであろう。