先週は長女の結婚式であった。先月、自身の誕生日に入籍を済ませ、その後借りた新居に引っ越して行った。長男と次女は就職と同時に家を離れていたから、これで我が家は夫婦2人となったわけである。会う人ごとに「寂しいでしょう?」と聞かれる。女房は涙が止まらないほど寂しいという。しかし、周りで言うほど私は寂しいという実感が湧かない。「父親とはこんなものだろうか?」、自分の気持ちを見つめ直してみた。
結婚して一年後に長男が生まれた。その後一度流産をしたから、第二子である長女が生まれたのはさらに6年後である。待ちに待った第二子、しかも女の子である。私の兄弟はすべて男である。子供のころは今と違って「男女七歳にして席を同じうせず」で、小学校のころから女子と口を聞くこともはばかられる時代であった。しかも高校は男子高、大学も男だけであったから、私にとって長女は身近かに接することのできる待望の女の子であったわけである。オムツを替えるのも、ミルクを飲ませるのも、風呂に入れるのも、寝かせつけるのも、家にいればすべて私がやっていた。そんな猫っ可愛がりで大きくなっていったから、お互いにべったりで、娘は四六時中私のそばを離れることはなかった。
子供は成長とともに親離れしていくものである。私がそのことを実感することになったのは、一緒に風呂に入らなくなったときからである。3人の子供は皆私が風呂に入れていた。シャンプーハットを被せて頭を洗い、湯船の中で一、二、三と一緒に数をかずえることが、私の日課であった。そんな時期もやがて終わりを告げる。長男も次女もその時期は小学校5年頃であったが、長女は中学校1年くらいまで一緒に入っていたように思う。娘2人と私の3人で入っていた風呂に、ある時期から長女は入らなくなる。「風呂に入るぞ!」と誘うが、「一人で入るからいい」と、明らかに一緒に入ることを拒むようになった。これが長女の親離れのスタートだったのであろう。今まであんなにべったりしていた娘が、自意識が芽生え、私から離れて行こうとしている。とうとうそんな時期が来てしまったのか、当然の成り行きと思うものの、その寂しさは今でも覚えている。私にとっては嫁いでいく今より、そのときの方が何倍も寂しかったのである。
それ以降、私の娘に対する接し方は変わって行ったように思う。一人の自立した女性であって欲しいという希望からである。「自分のことは自分で考える」、それが基本の接し方で、今までのようなべたべたした接し方から、一見突き放した接し方になって行った。だから高校受験も大学受験も私は一切口を挟まなかった。大学受験では娘の第一志望は落ちたが、滑り止めの女子大には合格する。しかし娘は、「納得いかないから、浪人させて欲しい」と懇願した。女房はお金がないから、ダメだと反対するが、私はそれを許した。娘の強い意思を尊重してやりたかったからである。
娘は必死に勉強し1年後、第一志望の公立大とフロックで有名私大にも合格した。女房は就職に有利だからと、有名私大を強く勧める。しかし娘はその私大の校風が合わないようで、どちらに行くか悩んでいた。多分女房の意見に引きづられ、どちらとも決めることができなかったのだろう。私にも相談してきたが、「どちらに行くかはお前自身が決めること」と、意見は言わなかった。入学手続きの期限が来ても、なお迷う娘を見て、私はある方法を試みてみた。マッチ2本の一方の先端を折って手の中に隠し、「どっちを引いたら、どちらに行くと心の中で決め、このクジを引いてみろ」と促す。娘が意を決したように、そのクジを引いた。娘が引いたマッチは先端が折れてない方であった。そのとき娘がニッコリと微笑んだように見えた。それから娘は公立大の方へ行くと宣言をしたのである。女房はそれに不満だったようだが、娘はその後一切迷うことはしなかった。
大学を卒業して就職するときも、その進路を親に相談することはしなかった。就職すれば当然、今までの自由な生活は一変し、仕事に追われ、会社の人間関係のストレスを感じることになるのだが、娘は愚痴をこぼすこともあまりなかったようである。仕事なのか、遊びなのか12時を過ぎて帰ってくることもしばしばであった。当然親としては気になるところではあるが、娘の自覚を信じて、あえて何も注意することもしなかった。そしていよいよ結婚である。後で聞けば、新郎の彼は学生時代から9年の付き合いだと聞く。私に結婚の意志を伝えたのは式場を仮押さえしてからである。「自分の人生は自分で決めていく」、ある意味私の希望通りに成長してくれたわけであるが、そこには一抹の寂しさもあるものである。
両家の親族の紹介が終わり、時間通りに式がスタートした。新郎新婦と一緒にチャペルの控え室に向かう。新郎は神父と先にチャペルに出て行く。係りの人に促されて、私は娘と腕を組んで扉の前で待機する。やがて扉が開きスポットライトが当たる。娘の右手の温もりを左の二の腕に感じながらバージンロードをゆっくり歩いていく。チャペルの皆の視線が娘に向けられるのを感じる。牧師の前で娘を新郎に引き継ぐ。セレモニーではあるが、これで父親の役割は終わったのであろう。
ざわめく披露宴会場で終始にこやかに笑みをたたえる娘、主賓のスピーチや友人が語る娘の外での顔、多分それなりに会社の中でうまくやっているのだろうと察しはつく。式は時間通りに進んで行き、やがて披露宴も終わりを迎えた。結婚式の恒例なのだろう、娘が両親への感謝の言葉を読み上げる。「・・・・・・・。お父さんの休みの日はいつも一緒に散歩し、帰りにアイスクリームを買ってもらうのが楽しみだった。私から見てもお父さんは大甘であったが、しかしいつも自分のことは自分で決めろといって、私のやることを見守ってくれていた。・・・・・・」、少し涙腺が緩みかけるが、涙をぬぐうほどではない。娘から花束をもらい、新郎の父と新郎の挨拶が終わって、会場の外で来賓者を見送る。娘は一人一人の来賓者と打ち解けた会話を交わしながら、お礼の言葉を言っている。私は娘のそばで来賓者に頭を下げながらも、娘がさらに遠い存在になってしまったように感じていた。
結婚して一年後に長男が生まれた。その後一度流産をしたから、第二子である長女が生まれたのはさらに6年後である。待ちに待った第二子、しかも女の子である。私の兄弟はすべて男である。子供のころは今と違って「男女七歳にして席を同じうせず」で、小学校のころから女子と口を聞くこともはばかられる時代であった。しかも高校は男子高、大学も男だけであったから、私にとって長女は身近かに接することのできる待望の女の子であったわけである。オムツを替えるのも、ミルクを飲ませるのも、風呂に入れるのも、寝かせつけるのも、家にいればすべて私がやっていた。そんな猫っ可愛がりで大きくなっていったから、お互いにべったりで、娘は四六時中私のそばを離れることはなかった。
子供は成長とともに親離れしていくものである。私がそのことを実感することになったのは、一緒に風呂に入らなくなったときからである。3人の子供は皆私が風呂に入れていた。シャンプーハットを被せて頭を洗い、湯船の中で一、二、三と一緒に数をかずえることが、私の日課であった。そんな時期もやがて終わりを告げる。長男も次女もその時期は小学校5年頃であったが、長女は中学校1年くらいまで一緒に入っていたように思う。娘2人と私の3人で入っていた風呂に、ある時期から長女は入らなくなる。「風呂に入るぞ!」と誘うが、「一人で入るからいい」と、明らかに一緒に入ることを拒むようになった。これが長女の親離れのスタートだったのであろう。今まであんなにべったりしていた娘が、自意識が芽生え、私から離れて行こうとしている。とうとうそんな時期が来てしまったのか、当然の成り行きと思うものの、その寂しさは今でも覚えている。私にとっては嫁いでいく今より、そのときの方が何倍も寂しかったのである。
それ以降、私の娘に対する接し方は変わって行ったように思う。一人の自立した女性であって欲しいという希望からである。「自分のことは自分で考える」、それが基本の接し方で、今までのようなべたべたした接し方から、一見突き放した接し方になって行った。だから高校受験も大学受験も私は一切口を挟まなかった。大学受験では娘の第一志望は落ちたが、滑り止めの女子大には合格する。しかし娘は、「納得いかないから、浪人させて欲しい」と懇願した。女房はお金がないから、ダメだと反対するが、私はそれを許した。娘の強い意思を尊重してやりたかったからである。
娘は必死に勉強し1年後、第一志望の公立大とフロックで有名私大にも合格した。女房は就職に有利だからと、有名私大を強く勧める。しかし娘はその私大の校風が合わないようで、どちらに行くか悩んでいた。多分女房の意見に引きづられ、どちらとも決めることができなかったのだろう。私にも相談してきたが、「どちらに行くかはお前自身が決めること」と、意見は言わなかった。入学手続きの期限が来ても、なお迷う娘を見て、私はある方法を試みてみた。マッチ2本の一方の先端を折って手の中に隠し、「どっちを引いたら、どちらに行くと心の中で決め、このクジを引いてみろ」と促す。娘が意を決したように、そのクジを引いた。娘が引いたマッチは先端が折れてない方であった。そのとき娘がニッコリと微笑んだように見えた。それから娘は公立大の方へ行くと宣言をしたのである。女房はそれに不満だったようだが、娘はその後一切迷うことはしなかった。
大学を卒業して就職するときも、その進路を親に相談することはしなかった。就職すれば当然、今までの自由な生活は一変し、仕事に追われ、会社の人間関係のストレスを感じることになるのだが、娘は愚痴をこぼすこともあまりなかったようである。仕事なのか、遊びなのか12時を過ぎて帰ってくることもしばしばであった。当然親としては気になるところではあるが、娘の自覚を信じて、あえて何も注意することもしなかった。そしていよいよ結婚である。後で聞けば、新郎の彼は学生時代から9年の付き合いだと聞く。私に結婚の意志を伝えたのは式場を仮押さえしてからである。「自分の人生は自分で決めていく」、ある意味私の希望通りに成長してくれたわけであるが、そこには一抹の寂しさもあるものである。
両家の親族の紹介が終わり、時間通りに式がスタートした。新郎新婦と一緒にチャペルの控え室に向かう。新郎は神父と先にチャペルに出て行く。係りの人に促されて、私は娘と腕を組んで扉の前で待機する。やがて扉が開きスポットライトが当たる。娘の右手の温もりを左の二の腕に感じながらバージンロードをゆっくり歩いていく。チャペルの皆の視線が娘に向けられるのを感じる。牧師の前で娘を新郎に引き継ぐ。セレモニーではあるが、これで父親の役割は終わったのであろう。
ざわめく披露宴会場で終始にこやかに笑みをたたえる娘、主賓のスピーチや友人が語る娘の外での顔、多分それなりに会社の中でうまくやっているのだろうと察しはつく。式は時間通りに進んで行き、やがて披露宴も終わりを迎えた。結婚式の恒例なのだろう、娘が両親への感謝の言葉を読み上げる。「・・・・・・・。お父さんの休みの日はいつも一緒に散歩し、帰りにアイスクリームを買ってもらうのが楽しみだった。私から見てもお父さんは大甘であったが、しかしいつも自分のことは自分で決めろといって、私のやることを見守ってくれていた。・・・・・・」、少し涙腺が緩みかけるが、涙をぬぐうほどではない。娘から花束をもらい、新郎の父と新郎の挨拶が終わって、会場の外で来賓者を見送る。娘は一人一人の来賓者と打ち解けた会話を交わしながら、お礼の言葉を言っている。私は娘のそばで来賓者に頭を下げながらも、娘がさらに遠い存在になってしまったように感じていた。