60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

デジタルカメラ

2011年10月28日 08時24分42秒 | Weblog
                            カシオQV-70

私がデジタルカメラを最初に買ったのは1997年である。それはカシオQV-70という機種である。
当時デジタルカメラも出たばかりで、どれも5万円以上と高かったが、カシオのこの機種だけは安く、
3万円程度だったように思う。25万画素、画像サイズ320X240(pixeis)、2MBの内臓メモリー
(当時はメモリーカードはない)、単三電池3個を入れるものであった。それ以来デジカメは兆足の
進歩をし、瞬く間にアナログカメラにとって替わった。あれから14年、もう何台買い換えただろうか?
今、使っているのはソニーのサイバーショットというスリムタイプの機種である。このサイバーショット、
タッチパネル方式で小さな画面を押して操作するのだが、反応が鈍いのか誤作動が多く、何時も
イライラしている。「もうそろそろ買い替え時か?」、そう思って家電量販店へ行ってみた。

私は散歩の時にカメラを持って歩き、その場の風景を撮っている。その写真には私なりのこだわりが
あって、どちらかと言えば美しい写真を撮るのではなく、面白く自然な写真を撮りたいと思っている。
歩くほどに移り変わる風景、季節にふさわしい草花、そして道々に出会う人々、出来れば散歩中に
味あう空気感をそのまま写真に撮り込んでみたい。そんな写真を撮ろうとすると、一眼レフのように、
いかにも「綺麗な写真撮ります」と言う感じではなく、手軽で操作が素早く、相手にそれと気付かれ
ないカメラの方が良いのである。

家電量販店に行き、店員に私の条件と希望を話をしてみた。「どちらかと言えば隠し撮りですかね」
そんな話しを交えながら紹介してくれたのが、カシオの「エクシリムEX-TR100」という機種である。
このカメラ一風変わっていて、レンズと液晶と自在に動くフレームだけである。
セールスコピーに、こんなことが書いてあった。 《デジタル画像の撮影に必要な最小限のエレメント
だけで構成した新世代のデジタルコンパクトカメラです。ボディに替えてフレームという新しい要素を
備えることで楽々と自立し、壁に掛けることもできれば、ムービーカムのように片手で握りながら撮る
こともできる。それは、銀塩カメラの時代から脈々とつながってきた、カメラのカタチによる制約からの
解放を意味するとともに、思いもかけなかったアングルから風景や被写体をとらえ、驚くほど自由で
斬新な表現を実現することができる。さらに静止画とムービーという違いも軽々と飛び越えて、真に
"自由自在"な新しい撮影スタイルがここから生まれる》 とあった。

私は「新し物好き」である。そのアイディアが気にいって買うことにした。価格22800円、ポイントが
21ポイントつくから実質20000円である。1210万画素、サイズ12M(4000X3000)、感度I SO
3200相当、リチュームイオン電池内臓。14年前の同じカシオのデジタルカメラと比べても圧倒的な
能力差である。デジタル世界の変化の速さをまざまざと感じてしまう。
                       
                     
                       カシオ Exilim EX-TR100

最近の自分の写真を振り返って見て、自分でもあまり面白くないと思っている。それは風景の中に
「人」があまり写っていないからである。歩く道々の風景の中に人がいて、その人のしぐさや表情が
写り込んで、初めて写真に情感が宿るように思うのである。しかし、他人を写すことには抵抗があり
躊躇してしまう。そんな意識は歳を取るほど強くなっていき、人を写すことをしなくなってしまった。
それでは私の持ち味が出ない。出来れば前のように自在に撮って見たい。そう思い直したのである。
別にヘンな写真を撮るのでもなく、人のアラやおかしさをあげつらうわけでもない。風景の中の人を
切り取ることで、その場の雰囲気をよりリアルに引き出して見たい。そう思っている。さあ、次回から
新しいカメラを持って散歩に出よう。どこまで「人」に迫ることができるか?再挑戦である。

過去の写真で人を写し込んだものを何枚かピックアップした。こんな写真を撮って見たいのである。

      
                          京都 仲保利町

      
                             柏市

      
                           東神奈川

      
                          白金 八芳園

      
                            杉並区

      
                           石神井公園

      
                          川越 五百羅漢

      
                         狭山市 智光山公園

      
                         小田原 二宮神社

      
                         箱根湯本 旧東海道

      
                            秋川渓谷

      
                         前橋 親水水上ステージ

      
                         横浜 ランドマークタワー

      
                         大船 フラワーセンター
     
      
                         大船 フラワーセンター

                
                           逗子 鷹取山

      
                           入谷 朝顔市

      
                          横浜 山手教会

      
                            三浦海岸

      
                            三浦海岸

      
                            三浦海岸

      
                              葉山

      
                             七里ヶ浜

      
                             田園調布

      
                              衣笠
                           
      
                              川越

      
                          自由が丘 ラヴィータ
      
      
                            新宿御苑

      
                          府中市 大国魂神社

      
                            秩父 金昌寺

      
                              茅ヶ崎

      
                            千葉 中山町

      
                           六本木 森美術館
                       
      
                           浅草鷲神社 酉の市

      
                           浅草鷲神社 酉の市

      
                           巣鴨 とげぬき地蔵

      
                             鎌倉 駅前

      
                           鎌倉 鶴岡八幡

      
                              所沢

      
                            駒込 六義園


同窓会

2011年10月21日 09時48分18秒 | Weblog
東京周辺にいる大学時代の同期の同窓会が7年ぶりにあった。学校は単科大学だったから人数は
少なく1学年4学科で180名、我々の学科は50名である。そのメンバーで4年間も一緒なのだから、
小学校のクラス会と同様な感覚である。今回集まったメンバーは12名、その中でも3年ぶりだったり
7年ぶりだったり、卒業以来1度も会っていなかったりとさまざまである。40数年の時間軸に、最後に
会った時をプロットしたら、おぼろげながら昔のイメージとつながるのは最後に会って20年ぐらい前。
卒業以来、初めて会う同窓生は、名前の記憶はあるものの当時の面影を思い出すことが出来ない。
それだけ40数年の変化の大さを実感してしまう。

一人一人が順番に、卒業からの自分の人生の粗ましや近況を報告した。一つの会社を勤めあげた
人もあり、職業を転戦した人もあり、独立した人もいる。海外を転々としていたり、女房・子供を残して
単身赴任をトータル20年も続けたり、それぞれに苦労を積み重ねて来たのであろう。そんな仲間も
今はやっと終の棲家に辿り着いたという感じである。その間に、ガンで胃を全部摘出した人もあれば、
肺がんで肺の一部を取った人もいる。50名の内、工場の機械に巻き込まれ死んだ同窓生、農薬を
飲んで自殺した仲間もいるという話も聞いた。卒業してから40数年、昔の仲間はそれぞれが激戦の
中を潜りぬけて来たのである。そしてその人生は千差万別であった。

話の中でリタイアの人に共通して話しに出てくるのは女房との折り合いの問題である。自分がどこか
に出かけようとすれば、「どうぞ、どうぞ」と、帰ってくるなと言わんばかりに追い出され、女房がどこか
出かけると、反対に自分がホッとする。今まで隠れていた夫婦の亀裂が退職ともにあからさまになる。
女房と今後どう向き合って行くか?それが当面の大きな問題のようである。もう一つ共通の課題が、
有り余る時間をどういう風に使うかである。半数以上の人に共通していたのが、散歩、図書館通い、
地元の博物館や美術館巡りと、あまり金のかからない過ごし方を実践しているようである。現役の
時代は稼ぎ手として、退職すれば粗大ごみ扱いで、男の悩みは何時も共通のようである。

今回参加したのは、まだまだ人との接点や社会との関わりに未練を残している仲間であろう。だから
わざわざ銀座まで出てきたのであろう。社会の中で、もまれもまれて人と言うものにヘキヘキしている
人は同窓会すら面倒で苦痛なものと感じるように思う。現に、今回幹事が出欠の電話をかけたとき、
「もう昔の人達と、つき合う気は無いから、今後とも誘って欲しくない」と、言った人もいたそうである。
私もどちらかと言えば人付き合いは苦手である。だから今回も誘いを受けた時「さあ、どうしよう」と
一瞬の迷いがあった。しかし、「苦手を逃げれば、逃げ癖がつくだろう」、そう思って「出席」を決めた。

リタイアして仕事の人間関係を失ってしまえば、残っているルートで重要なのは同窓という関係なの
かもしれない。今回の集まりの話の中で、「来年の春は名古屋で他のメンバーも集め、泊り込みで
飲もう」、「来年の秋には下関で全国から人を集めて・・・・・・」と、話は盛り上がった。首の皮一枚で
現役に残っている私にとっては少し億劫でもあり、負担でもある。今までそんなに活発でも無かった
同窓会が、その回数や規模を増していくのは、人との関わりを大切なもの、貴重なものと思うからで
あろうか?それとも、日常の中に刺激を失って、何かイベントが欲しいからなのだろうか? 
我々の年代の平均余命は84歳で、まだ17年ある。その間どのように人とのネットワークを発展させ
維持していくかも、我々年代の大きな課題の一つである。


佐々部 清

2011年10月14日 09時15分06秒 | 映画
以前インターネットで私の出身高校のウィキペディア(Wikipedia)を見いたら、著名な出身者欄に
映画監督佐々部 清(ささべ きよし)を見つけた。映画は好きだから、佐々部清をクリックしてみる。
そこに紹介されていた経歴に、2002年に『陽はまた昇る』《西田敏行》、(日刊スポーツ映画大賞
石原裕次郎賞受賞、日本アカデミー賞 優秀作品賞受賞)で監督デビューする。以降2003年には
『チルソクの夏』《上野樹里》(日本映画監督協会 新人賞受賞、新藤兼人賞受賞)、2004年には
『半落ち』《寺尾聰》(日本アカデミー賞 最優秀作品賞受賞、日刊スポーツ映画大賞 石原裕次郎
賞受賞)、などと書かれていた。

来歴を見る限り、前途有望な監督のように思える。映画はどれも見たことがない。どんな映画を作る
のだろう?興味があるので、下関がロケ地という「チルソクの夏」をアマゾンの通販で購入してみた。
映画は下関と姉妹都市である韓国釜山との間で、年1回夏に開らかれていた「関釜陸上競技大会」
に参加した下関の女子高校生と、釜山の男子生徒との間に芽生えた、淡い恋を描いた作品である。
チルソクとは韓国語で七夕という意味、次に逢うまでは1年を待たなくてはならない、日韓の海峡を
越えた恋をなぞらえた題名とあった。見るうちに、見る方が恥ずかしくなるようなミーハー(死語?)な
映画である。内容が透けて見えるような、深みも味も感激もない映画というのが私の評価であった。
しかし、ロケ地が下関だけに自分の知っている所が方々に出てきた。映画にはあんな場所が選ばれ
るのか、あの場所をこんな角度で撮ると意外と絵になるものだ。映画の内容よりも、その組み立てに
興味を持って見ていたように思う。

その後も「カーテンコール」《伊藤歩・藤井隆》、「四日間の奇蹟」《吉岡秀隆》と、下関を舞台にした
作品を発表した。それらはいずれも映画館に見に行った。しかしやはり興味は映画の内容ではなく
懐かしいわが故郷の下関に向いてしまう。そしてその次が瀬戸内海を舞台にした「出口のない海」
《市川海老蔵》である。どの作品を見ても私の評価は「それなりの作品」として、☆3つ止まりである。
何が不足なのだろうと思ってみた。俳優陣もそれなりの役者が出ている。映像も丁寧に撮ってある。
しかしなぜか心に響かず、感情移入できずに冷めて観ていたように思う。それ以降、佐々部監督の
追っかけは止めてしまった。

先週、何か興味を引く映画は無いだろうかと、インターネットで上映スケジュールをチェックしていた。
そこに、『ツレがうつになりまして』《宮崎あおい・堺雅人》、と言うのが目にとまった。題名の面白さと
その中に「うつ」という言葉が入っていたからである。そして監督が佐々部清とあった。その名には
同郷の出身で、しかも同じ高校という親しみと懐かしさとを感じるものである。封切の最初の土曜日、
早速映画館に行ってみた。

映画は「うつ病」を患った夫との生活を描き、30万部を超えるベストセラーとなった細川貂々の同名
エッセー漫画を映画化したものである。売れない漫画家(晴子)に宮崎あおい、生真面目で気弱な
夫(幹夫)に堺雅人という配役である。夫はパソコン購入者からの苦情や問合せ専門の部署で働く
サラリーマンである。ストレスフルな職場環境で、とうとう会社に行けなくなってしまう。病院で診て
もらうと、うつ病(心因性うつ病)と診断された。それを聞いた晴子は、なんとかしなければと「うつ」に
ついて詳しく勉強し、夫に会社を辞めさせてしまう。そして夫に家事をまかせ、自分が漫画で生計を
立てようと決意する。しかし晴子は売れない漫画家、生活はたちまち窮してしまう。それでも明るく
振る舞い、2人の生活を大切にしていく。そんな映画である。

配役から想像は出来たが、「うつ」という重いテーマを取り上げている割には、全体にほのぼのとし
とて暖かな雰囲気を醸し出している。夫が自殺を図る場面もあるが、それでも、ストーリーは淡々と
流れて行く。映画は、2人の生活が主体になるが、そこにペットとして、イグアナやカメが出てくる。
爬虫類独特の無表情さが、映画の内容の深刻さを、和らげてくれる効果を持たせているのだろう。
ストーリーのテンポや流れ、カメラアングルの面白さ確かさ、しらずしらずに観客を映画に引き入れ、
2時間が「あっ」と言う間に感じるほどであった。見終わった後の違和感もない。口はばったい言い
方だが、「佐々部清、腕を上げたな!」そんな感じである。

5年前「出口のない海」以降、「夕凪の街 桜の国」、「結婚しようよ」、「三本木農業高校馬術部」
「日輪の輪」と発表していたようだが、どれも見てはいない。多分、単館の映画で、宣伝も少なく、
目に止まら無かったのであろう。来歴を見ると助監督になって18年、監督になって10年である。
映画一筋30年、その間にいろんな体験をし、決して順調な道のりだけではなく、苦労もあり辛酸も
なめたのかもしれない。デビュー当初の作品には、気負いがあり、わざとらしさがあり、あざとさが
あったように思う。しかし今回の作品、感情移入がスムーズで、自然に共鳴できたように思った。
それは宮崎あおい堺雅人などの演技力もあるのであろうが、やはり監督の演出力というか「力」に
負うところが多いのだろう。同郷同窓の映画監督、今後が楽しみである。

追記
「うつ」、私が接した人達でも「えっ、あの人も」と、思うぐらい多いのである。心の問題で外傷がある
わけで無く、本人は平常を装うことが多いから、なかなかそれと気づかない。分ったとしても自分に
経験がないから、相手の苦しさ辛さを理解することが難しい。下手をすると、「なぜ、もう少ししっかり
出来ないのか!」と、相手に苛立ちさえ感じることがある。今回の映画、実話に基づいての話であり、
漫画が原作だからか、コミカルな描き方になっている。だから一般の人にも理解しやすいのであろう。
体験者からすると異論もあるのだろうが、一般的な「うつ」という病気への心構えにもなるように思う。

「鬱は心の風邪」などと言われるようだが、私の認識は「風邪」というほど安易な感じには思えない。
わずかな症状が出始めた時、それと気付いて対処すれば良いのであろうが、往々にして軽く考えて
こじらせてしまう。それでも我慢してしまうと、やがてある一線を越してしまい、深いうつ症状になって
しまうように思う。うつになるには、環境に原因があるはずである。その人にとってはあらゆる事情が
絡んで抜け出し辛いのも理解できる。しかし一旦こじらせてしまえば、さらに辛くなる。これが原因だ
と分れば、頑張らず、我慢せず、一線を超す前に、休むか、その場から退却することが、最良の療法
なのであろう。

                


                    


息子の転職

2011年10月07日 08時54分13秒 | Weblog
                息子の最後の仕事場になった 桜川市「真壁伝承館」

息子は昭和52年生れの34歳である。大学の建築学部を卒業して、準大手のゼネコンに就職した。
仕事は建築の施行管理であるから、入社当初から一ケ所に定着せず現場を点々と渡り歩いていた。
静岡、愛知、埼玉、千葉、茨城。 物件は工場、百貨店、アパート、マンション、飛行場、公共施設等、
11年で10ヶ所を渡り歩いたそうである。仕事はある程度大きな物件で、「地図に残る仕事」である。
当然工事期間も長く、思い入れも強くなり、仕事としての達成感もあり、面白さはあったようである。
しかし、息子の当初からの悩みは、仕事を続ける限り、定住は望めないということにあった。

工事内容に合わせて多様な職種の人を集めてチームを組む。そうして工期に合わせて頑張った
仕事も、完成してしまえば親しくなった人達とも別れ、また新たな現場で、一からのスタートになる。
自らが選んだ仕事とはいえ浮草家業で、何処にも根を下ろす場所がない。若い内はそれでも良い
のであろうが、30歳を過ぎてくると、自分の人生設計を真剣に考えるようになる。会社にも職種を
変えてくれるように訴えていたようである。しかし以前の建設不況の時のリストラの影響で現場の
人材が不足していた。しかも今は反対に建設不況を脱し、会社は猛烈に忙しい状況のようである。
おいそれと個人の希望がかなえられることなどありない。最近は残業が続き、通常の休みも取れ
なくなり、プライベートな時間もままならなくなってきたようである。そんな状況が続く中、自分の
抱えるジレンマから脱出の為、心の内に秘めていた転職を実行に移したのである。辞表を出すと、
会社の役員まで出て来て、引き留めたそうである。「お前の希望する営業に転勤させても良い」と、
その方が転職するより、リスクは少ない。しかし一旦振り上げたコブシを降ろすことができなかった。
息子はこの8月いっぱいで11年間勤めた会社を辞め、転職することになった。

何社かの候補先をあたり、最終的に9月から大手不動産会社の個人住宅の営業の職に決めた。
息子にとって営業は未知の世界である。土日は住宅展示場で顧客を捕まえ、平日は不動産斡旋
会社にコネを作り、個人住宅の新築や建て変えの情報を得、戸別訪問で客先を周って契約まで
こぎつけなければならない。一件2000万円も3000万円もする営業である。今まで現場専門の
人間が、おいそれとこなせる仕事でも無いように思える。しかも、住宅販売の営業という性質上、
給料は歩合だという。基本月額25万(年収300万)、今までの半分ほどになるようである。さらに
実績を上げることが出来なければ、何時までもそこに止まることはできない。同じ会社で11年の
実績があるから、ある程度の報酬は約束されていた。職種を変えれば、今までの個人の実績も
経験もあまり生きては来ない。「建物」という共通性はあるものの、マンションと個人住宅の違い、
現場と営業の違い、門外漢の私が見ても大変なことのように思える。果して息子は新しい仕事を
やっていけるのだろうか? 親としての心配がつのる。

9月の末、久しぶりに息子に会うことにした。地方を転戦していた息子と2人でゆっくり話すことは、
今までほとんど無かったように思う。息子の話によると、今回再就職した会社が個人住宅に進出
したのはまだ20年くらいで、今営業拡大を目指している。したがって販売員も中途採用者が多く、
営業社員の前職も設計や現場など多岐にわたっているそうだ。他の多くの住宅販売会社のように
TVコマーシャルを入れ、営業、設計、現場と流れ作業の仕組みではなく、営業が全てに関わり
プロデュースしていく仕組みのようである。新築や建替え希望の顧客を捕まえ、客の要望を聞き、
プランを作り、設計に繋げ、見積り提示し、契約を獲り、建築完成まで全てに顧客と関わっていく。
年間の最低ノルマは4件。新宿の本社と三鷹の展示場を拠点に、息子は再出発したのである。

息子にしても初めての経験である。「やってみなければ分らない」、それが偽らざる気持ちだろう。
しかし、思ったより本人に悲壮感も気負いもないようである。息子と話をしていくうちに、私の中で
「これで良いのだろう」、そう思えるようになってきた。一つは、息子が前職の仕事が嫌になったり、
人間関係が嫌になったりして逃げ出したのではなく、自分の人生を真剣に考えた上で、決断した
からである。次に、この10年間で積み上げて来たキャリアと自信とを、しっかりと持っているように
思ったからである。現場に集まる多様な人達を束ね、やっていかなければいけない仕事、そこで
身に付いたであろう人とのコミュニケーションの能力、人間関係構築の為の手法など、それらは
これからの息子の仕事にとって、大きな武器になるように思うのである。
 
親のひいき目かもしれないが息子の性格は楽観的で明るい。人に対しては優しく、何時も誠意を
持って接しているように思う。家を建てようと思う人にとっては、それは人生に一度あるかどうかの
大きな買物である。だから相対する相手が信頼できるか否かが最大のポイントになるように思う。
営業テクニックを駆使していくより、相手と信頼関係を築けるかが、営業としての必須条件だろう。
建築に対してある程度の知識があり、顧客の立場になって考え、親身になって接する。この種の
営業にとって最も求められることのように思うからである。息子にとっては未知の世界ではあるが、
やってやれないことは無いだろう。そう思い始めたのである。

しばらく息子と話している内に、遅れて勤め先からフィアンセ?(まだ結婚するとは聞いていない)
が帰ってきた。息子から初めて紹介を受ける。彼女は岡山県出身で29歳だそうである。法学部を
卒業して、法律事務所に3年間勤めた。しかし自分の求める世界とは違うと思い直し、ユニセフに
勤めてボランティア活動を始めたそうである。今は高齢者支援のNPO法人に勤めているとのこと。
一人で旅をすることが好きで、海外もアフリカやイースター島など、どちらかと言えば僻地が多い。
そんな女性だから自分の世界を持ち、考え方もしっかりしていて、若いながら、たのもしい女性の
ようにも思われる。つき合い始めてから、すでに1年半になるそうで、2人の会話を聞いていても、
友達感覚で馬が合うように見える。たぶん息子は心の内で、この彼女を伴侶と決めたのだろう。
今までの仕事をしていれば収入は多いが定住は望めない。息子はこれからの人生を「この人」と
決めた相手と落ち着いた家庭を築くことを願ったのであろう。その為の今回の転職なのである。

人は何を動機に進路を変えて行くのか?それは個人の価値観に帰するところが大きいように思う。
息子にしても彼女にしても、今まで歩んできた道を変ることで、収入は大きく後退することになった。
しかしそれはそれで良いように思う。自分の人生である。自分が納得することが一番大切だと思う。
会社という組織の一員であれば、部長になろうが役員になろうが、一時の肩書であって辞めてしま
えば跡形もなく消えてしまう。その価値はあくまでも狭い組織内での話で、自己満足の世界である。
小説家や画家や芸能人のように、個人としての技量やブランドを磨いていく仕事であれば、それは
自分の目指す方向を全うする方が良いのであろう。しかし、サラリーマンというのは、仕事を通して、
そこで自分に何ができるか、何が得られるのか? ・・・仕事とは自己実現の「場」なのだろうと思う。

息子が今までの仕事で点々として、自己目標が叶わずストレスを溜めるのであれば、新たな目標を
得て、自分に力をつけて行く方がはるかに望ましいように思う。これからは大きな困難が待っている
であろう。しかし今からは1人ではなく2人である。共に助けあって、それぞれが納得のいく人生で
あってほしいと願うのである。息子もすでに34歳、もう何処に行っても、充分闘える力は持っている。
自信を持って自分の信じる道を歩んで欲しいものである。

              
                    2010年3月開港した茨城空港