60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

挫折

2012年10月26日 10時31分33秒 | Weblog
 Oさんのことは今までに何度も書いてきた。彼は55歳、3年半前に会社を辞めて(リストラ)、今は両親と同居で親の年金を当てにしてのパラサイト生活である。そんな自分の不甲斐なさは、誰に言われなくても自覚しているのだが、しかしどうにも気力が上向かず立ち直れないでいる。そして彼は「もう自分は働くことは出来ないだろう」と思うようになってしまった。今は年老いた両親の食事などの世話をすることで、何とか自分のモチベーションを保っているが、いずれ両親がいなくなれば自分は野たれ死にするかもしれない。そうであれば、それはそれで構わない。自分には「生」に対する執着は全く持っていない。と本人は言う。

 そんな彼とはこの3年半、定期的に会うようにしていた。会社を辞めた当初は彼の精神的な葛藤や変化をつぶさに感じ取ることが出来た。しかし社会と関わらなくなると、彼の話は次第に変化がなって退屈なものになってくる。そんな彼の中での最大の関心ごとは大リーグのイチローのことである。大リーグ中継は欠かさずに見ていて、イチローの日々の活躍を自分のことのように自慢するのが常である。それともう一つ、最近の話題は「ネコ」を飼い始めた事ぐらいである。近くの犬猫病院の張り紙で「捨て猫の飼い主募集」に目が留まり、最後に残った子猫をもらって育てることにしたそうである。もともと人間に飼育され、阻害されている家畜やペットに対して哀れみを感じていた彼は、その捨てネコを育てることが、自分の存在意義を作っているようにも思えるのである。

 イチローとネコの話、これだけで彼は2、3時間は喋るのである。私にとってイチローが何割打とうが、アメリカでどう評価されようが関心はないが、彼にとってのイチローは子供漫画のヒーローと同じように、その活躍に自分を同化させて心の満足を得る存在なのである。しかしそんなイチローも最近は陰りが見えてきた。打率も3割を割り、とうとうマリナーズから放出されてヤンキースに移籍になった。さて来年はどこのチームでどういう契約になるのか?彼にとっては自分のことのように身につまされることなのである。

 彼が最近よく考える幻想を私に語ってくれた。そのあらましはこうである。(多分イチローが落ち目だからだろう)自分が大リーグに乗り込んでいき、そこで活躍してやがてヒーローになる。マスコミは彼をもてはやし、契約金も何十億円につり上がっていく。独身で贅沢を嫌う彼は、そのお金を使って、捨てネコや捨て犬の大規模な保護施設を全米に作り始める。それをまたマスコミが取り上げ彼はますます有名人になっていく。そんな彼にある時に悲劇が訪れる。ジョンレノンが熱狂的なファンに射殺されたように、彼もまた彼のファンに銃で撃たれてしまう。その後死んだのかどうかまでは聞いていないが、彼は英雄として後世まで語り継がれる存在になるのであろう。

 この話普通の人が聞けば、「いい大人が子供のようなたわ言を・・・」、と思うであろう。私もそうは思う。しかし何十回と彼と話していると、人の心の弱さ、日々ぐらつく不安定さを感じずにはいられない。彼は自分の「不甲斐なさ」を自分ではイヤと言うほど感じているのであろう。だからこそ再び社会に出ることに対して臆病になり、動けなくなり、結果一種の引きこもり状態になっているのである。しかし自分の不甲斐なさ惨めさだけを感じているだけでは自分が押しつぶされてしまう。だから心のバランスをとるために、イチローに同化し自分を慰めているのであろう。そして捨て猫の命を救うことで、ささやかな心の安息を見出し、幻想の中に自分の活躍の場を求めて逃避しているのかもしれない。人は心のバランスを崩したままでは正常な生活はおぼつかない、だから心は必然的にバランスを取ろうとするのである。人の心とはデリケートなものである。

 彼に会うたびに「どうすればもう一度社会復帰できるのだろう」と考えてしまう。よく「挫折を知らない人は弱い」と言われるが、彼は50歳を過ぎて初めて大きな挫折を味わってしまったのである。歳をとっての骨折は治りにくいのと同様に、彼は挫折から精神的に立ち直れなくなってしまったのである。若い時であれば、自分が持っている生命力やエネルギーが再生の方向に働いて、再び復活していけたのかも知れない。しかし独身で背負うべき責任も義務感も希薄な彼にとっては、復活しなければいけない目的が見当たらない。年寄りの骨折が寝たっきりになる可能性が高いように、彼もこのまま引きこもりが続く可能性は強いように思う。だからこのままの状態を良しとせず、彼が再び社会復帰していこうとするなら、自らが何か小さな目的を見つけ一歩づつ踏み出していくしかないように思うのである。例えば幻想の中で考えた、捨て猫や捨て犬の保護のために、自分が尽力するとかのように。

水彩画教室(4)

2012年10月19日 08時17分53秒 | 美術
                        受講生展覧会

 今週、絵画教室の受講生展覧会が開催され見に行ってきた。会場には美術系のカルチャー教室に通う受講生の作品約150点が一堂に並んでいる。油絵、水彩画、淡彩画、押し花アート、ぬり絵、絵手紙等々、こんなにも多くの教室があったのか?、と思うほど描き方は多彩である。1年に1回の作品展、どの絵も丁寧に描かれていて、受講生の作品にかける意気込みが伝わってくる。2ヶ月前、私にも「出品しませんが?」というお誘いがあった。しかし「まだ修行の身、作品として披露するには、あまりにもつたないから・」とお断りした。自分の描いた絵を額装して展示するのは、あまりにもおこがましいと思ったのである。

      
                          展覧会

 先週までの教室では生徒は展覧会に向け、熱心に作品を仕上げていた。その姿は真剣で、1年の成果を発表するために全神経を注いでいたように思えた。傍で見ていると、私にはあれほどの集中力や持久力、そして緻密さも丁寧さも持ち合わせていないように思えてしまう。生徒は私を除いてすべて女性である。これが女性の特性だろうか?とひとりごちてしまう。私の元々の絵を習う動機は、「散歩の時にさらさらと手軽にスケッチしてみたい」と言うものである。そのために絵の具ではなく水彩色鉛筆を選んだ。今は2時間の授業時間内に1枚のペースで描くことを目標にし、出来ればもう少し時間を縮めたいと思っている。そんなことから丁寧さに欠け、絵は大雑把で雑である。これは私の性格なのであろう。

 絵を習い始めてこの10月でちょうど1年になる。この間月2回の教室は1度も休むこともなく通うことができた。これは6月のブログ「水彩画教室(3)」の時にも書いたが、絵を描く手法を学んでいくことが楽しいからである。子供の頃は対象の捉え方や絵の描き方について、なにも教えてもらえず、ただ画用紙に絵を描くだけであったように思う。しかし今はデッサンの描き方、遠近法、光と影、色の使い方など初歩から教えてもらうことが出来る。一作一作自分なりにどう描こうかと考えてみる。そして自分では手に負えないと思えば、先生にアドバイスを受けられる。このことの繰り返しが、徐々にではあるが進歩しているように思えるのである。「自分にもまだ上手くなる余地がある」、この発見がこの歳になって「学ぶ」という行為に新鮮さを感じるのである。

 下の作品はこの1年間の後半(6月~10月)までの作品である。前半までの絵は中学生程度の絵、今回は高校生程度の絵までには上達したのではないかと思っている。さて来年の受講生展覧会には出品出来るまでに上達できるのであろうか? 

      
                      横浜山下公園 「氷川丸」

      
                     千葉県印旛郡 「房総の村」

      
                       御茶ノ水 「聖橋」

      
                      山口市 「雨の瑠璃光寺」

      
                 入間郡毛呂町 「武者小路実篤・新しき村」

      
                      多摩市 「布田道・切通し」

      
                        町田市 「薬師池」

      
                        新潟市 「間道」

      
                         「京都御所」

      
                         「三浦海岸」

      
                         「古河市街」

               
                       今描いている絵の題材

      
                     新宿御苑 「プラタナスの並木」



散歩とカメラ

2012年10月12日 08時17分24秒 | 散歩(3)
 土曜日曜と出かけ、三連休の最後「体育の日」は家にいた。しかし秋晴れの良い天気である。家でゴロゴロしているのはもったいないと思い近所を散歩することにする。所沢も市街地を少し離れると農地で畑が広がる。そんな田園地帯をただ気の向くままに歩いていると、季節の変化を目で確認することができる。異常に長かった夏だったが、外に出るとそこには彼岸花やコスモスが咲き、柿が色付いている。歩いていても汗もかかず、時折涼しい風が吹いてくると、もうすっかり秋になったのだと実感する。散歩は私にとって日常から離れ、心を癒してくれる一番簡単な手段である。

 本格的に散歩を始めてからもう10年以上が経過するだろう。初めはひたすら歩いていた。しかしただ歩いているだけでは趣向がないと思い、デジカメを持って歩くようになった。デジカメだからプリントアウトしない限り何枚撮ってもお金はかからない。歩きながら自分の気が向いたものにカメラを向けシャッターを切る。3~4時間の散歩なら200~300回程度はシャッターを切っているだろう。それを後でPCに取り込んでその中から自分の気に入ったものだけを抜き取っていく。同じ被写体でも角度を変えて何枚か撮っていると、写真の雰囲気が微妙に違ってくるのが分かる。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる方式である。そして今度は撮るときに少し構図を考えるようになる。

 私の写真の好みは、綺麗な写真ではなく自然な写真である。人物にしてもカメラ目線ではなく、撮られることを意識していない方が面白いと思っている。だから風景写真も、「この一枚」「この一瞬」と言うのではなく、日常の風景のある部分を切り取り、その場の雰囲気を表現できれば良いと思っている。そのためカメラも相手が撮られているという意識が働かないようなに小さなカメラが良い。一眼レフより小型カメラ、小型カメラの中でもレンズが飛び出さないカード型の方が好みである。すばやく起動して軽く小さなもの、散歩の時に手に持って歩いても違和感がないものが良いのである。デジカメもどんどん進化し、小型でも機能は多彩で驚くほど充実しいる。今はソニーのサイバーショットDSC-TX55という機種(上の写真の黒)を使っている。型落ちで14800円で買った品であるが、今はこれが一番のお気に入りである。

 散歩にカメラを持って歩くことで写真を撮るという目的ができる。写真を撮ることで周りを観察する目が養われる。数多く写真を撮ることで、どうすれば雰囲気を織り込めるかを考えるようになる。光や色や構図を考えているということは、写真が単なる記録ではなく「自己表現」の手段になっているのである。今水彩画教室に通っているが、やがてスケッチブックを持って野外に出る日を目標にしている。散歩が健康管理という目的から、写真や水彩画へと広がっていけば、私にとっての老後の楽しいライフワークになっていくのかもしれない。
 仕事をやめたとき、デジカメとスケッチブックを持って日本のあちらこちらを旅して歩く、これが今の私の夢である。

      

      

      
                     カメラの背景ぼかし機能を使う

               
                         鶏頭(ケイトウ)

               

      

      

      
                     蝶にピントを当てて背景をぼかす

               
                            クマ蜂?

               

               

      

      
                           小川

      
                          小手指ヶ原


                       パノラマ機能を使ってみた

      
                       上の風景を絵画調に撮る

      
                     絵画調にすると秋の雰囲気がでる

      

      
                            空が広い 

      
                            蜘蛛と雲

      
                             芋畑

      
                         すっかり秋の空

      
                   無造作に畑の中に落花生が干してあった

      
                          農家の集合地区

      
                            北野神社

      
                        北野神社本堂(絵画調で)

同期会

2012年10月05日 08時45分41秒 | Weblog
 7月の初め大学の同期の同窓会を9月に開催するとの葉書をもらう。私の出身大学は地方の単科大学で、1学年は4学部だけで、学生数は学年全体でも180名という小規模な学校であった。私の所属した学部も50名、その学友が4年間を共にしたわけだから、当時は出席番号順に全員の名前を全員が覚えていた。しかしあれから50年、当時の記憶の糸を手繰っても途中でプツプツと切れてしまい、すべてがおぼろげである。8年前の60歳の頃、「みんなが退職の時期になり、これが今生の別れになるだろうから」ということで京都に集まったことがある。そのときは50名中の30名近くが集まったと思う。それから8年、今回は学校のある地元での開催である。「さあ、どうしよう?」、積極的に参加する気分にもなれず、出欠の返信葉書も出さずに、いつの間にか忘れていた。
 学友の中で唯一メールをやり取りをしている友人がいる。彼から、「参加するのだろう?会えるのを楽しみにしているから・・・」というメールをもらう。「そうだ自分のスタンスを決めなければいけない」、しかしどう考えても気持ちが乗らない。そして結局は参加しない旨を友人に返信した。先週その彼から同窓会の時の集合写真をメールで送ってきてくれた。その写真を見ても名前を思い出せるのが6~7人、学生時代の記憶までさかのぼれるのが10名ぐらいである。さあ、この席に自分が参加したらどんな風に感じたのだろう? そんなことを考えながら友人にお礼のメールを書いた。

○○さん

返信が遅れました。同期会の写真ありがとうございました。
写真を見ても、なんとか思い出だせるのは10名ぐらいでしょうか?
その人たちとは以前に何度か会っていたから、時間による変化がつながります。
しかし他の人達は面影はあるものの、「さて誰だったか?」と学生時代とつながりません。
多分直接会って何時間か話したとしても、思い出さないかも知れませんね。
皆、頭は白くなり、脂肪が溜まり、精悍さを失い、穏やかな顔の好々爺という感じです。

写真を見つめると、私にとっては懐かしさを感じるというより、
忘れていた自分の時間の経過を見せ付けられる思いで、唖然としてしまいます。
あれから50年の時間が経過してしまったのだ。まだ若いつもりでいたのに、・・・・・
自分では曖昧にしていたものが、白日の下に晒されたような気分になるものです。
写真の中で○○さんが一番若く見えますね。
はつらつとした感じで学生時代とあまり印象が変わらないからでしょう。
もう一人、松井さんの印象も変わりませんね。しかし病後だからすっかり痩せています。

学校を出て、それぞれが社会の中で、一生懸命に生きて来たはずです。
サラリーマンで転勤を繰り返したり、転職を繰り返したり、会社を興して独立した人も、
大きな手術をした人、すでに鬼籍に入った人、自殺した人もいると聞いたことがあります。
それぞれに紆余曲折があって、それぞれに歴史があって、皆今に至っているわけです。
しかし、私はまだ皆さんのように、次の人生へ、というステップが踏めないでいるのです。
サラリーマンであれば、ある年齢で強制終了させられてしまうのですが、
一人でやっていると、その終了時期は自らが決めなければいけません。
会社が立ちゆかなくなれば終わりなのですが、そうでなければなかなか踏ん切りが付かず、
「あと少し、あと少し」と、ずるずると伸びていってしまうものです。

せっかく貴方からもお誘いを受けたのに、出席しなかったのには自分なりの理由がありました。
一つは日程が平日だったためです。一人でやっているとルーチンに動いている仕事があって、
全体としては暇なのですが、なかなか平日の2日間を空けられないものなのです。
もう一つが何十年も会っていない仲間と昔を思い出して懐かしむことが億劫だったのです。
決して、酒を酌み交わし昔の仲間と語り明かす喜びを軽視しているのではありません。
旧交を暖めておくことの大切さはこの歳になれば身に染みて分かります。
こちらでは昔の会社の同僚や仲間とは意識的に会うようにしています。
それは私にとっての老後に備えて、ネットワークのメンテナンスのようなものなのです。
しかし、30年も40年も会っていないと、私の記憶の中から学友のデーターが消失しています。
そんな状態で昔の仲間と話題を探りながら話すのは、全く知らない人と話すより苦痛なのです。

懐かしさとは、過去を思い出して心引かれること、ということのようですが、
私の中での懐かしさは、どちらかと言うと人ではなく、そのときの情景にあるように思います。
同じ費用を使って懐かしさを味わいたいと思うときは、一人で学校を訪れて思い出の建物や
毎日通った通学路、近所にあった神社仏閣、そして海や山や田圃など私を取り巻いていた
空気感を思い出しながら、カメラをもって歩いて見たいと思うのです。

私は入学した時、下宿せずに学生寮に入りました。
寮は1年生と2年生が主体で、同部屋の8人は学年も学部もばらばらでした。
しかし寮生活で寝食を共にするうちに、学年や学部を横断して仲良くなってゆくものです。
夜、海に泳ぎにいったり、川にうなぎを釣りにいったり、休みには一緒に山にも登りました。
寮を出てからもその仲間とは親しく、一緒に映画を観たり、レンターカーを借り合コンをしたり、
(当時は合コンとは言わず、合ハイと言っていように思う。合同ハイキングの略である。)
夏休みには彼らの実家を訪ねて、戸畑や鳥取や広島や赤穂へ行ったものです。
そんなことから、代返もカンニングも気心知れた彼らと組んでやっていたように思います。

元々不器用ですから、教室で一緒になるだけでは同期生とは親しくなれませんでした。
授業の合間も皆の話を聞いているだけで、会話の中に入っていけなかったように思います。
そんな中でも、マンボ楽団に誘ってくれた○○さん、柔道部で一緒だった松尾さん、
一緒にギターを習いに行き、卒論で一緒だった松井さんは私の中では特別な存在です。

2年後は貴方が幹事で名古屋で開催とのこと、是非出席させていただきたいと思います。
その時は私はすでに70歳になっています。それでもまだ会社にしがみついているのか?
それとも会社をたたみ、リタイヤして暇をもてあましているのか?自分でも分かりません。
自分の人生でありながら、先が見えずその日その日を暮らしているのが現状です。
果たして皆はどんな風な心境で暮らしていっているのか?そのとき聞いてみたいものです。
それまでは、お互い健康に留意して元気な体で再会したいものですね。