60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

散歩(荒川土手)

2017年03月31日 08時38分08秒 | 散歩(6)
 今日は特に材料が無いので、3月12日に荒川土手を歩いた時の記録をアップする。
東武伊勢崎線の西新井駅で降り、バスで鹿浜都市農業公園行きに乗って終点で下車、そこから荒川の土手を下って行くコースである。都市農業公園は平成7年足立区が芝川が荒川に注ぐ河口付近に作った農業公園である。昔はこのあたり一帯は農業地で、園内には田畑、果実園、温室や古民家などあり、昔の面影をしのばせる。荒川の土手の「荒川五色桜」は有名で、明治45年にワシントンに渡った桜はこの荒川の桜だった。しかしその桜も戦中戦後の戦災の被害や材木不足で切られ、昭和20年代にはほとんど無くなってしまう。今その荒川五色桜の復活を目指し徐々に桜の植林が行われているようである。
            
   
 
                東武伊勢崎線 西新井駅西口
 
        
 
   
 
                  鹿浜都市農業公園
 
   
 
                  鹿浜都市農業公園
 
        
 
                    豊後梅
 
        
 
                    豊後桜
 
   
 
                  鹿浜都市農業公園
 
   

                   古民家長屋門
 
   
 
                   古民家長屋門
 
        
 
                   ユキヤナギ
 
   
 
                      長屋門
 
   
 
        
 
                    フクジュソウ
 
        
 
                     小城
 
   
 
                   熱帯温室
 
        
 
                  デンドロビュウム
 
        
 
                  ブーゲンビリヤの木
 
        
 
                    ブーゲンビリヤの花
       色がついているのは苞という部分、花は中にある白い部分
 
   
 
                     荒川 右が芝川
 
   
 
   
 
   
 
        
 
                  ツクシを取っている人
 
   
 
         

                  どういう風に食べるのだろう?
 
   
 
                    荒川の五色桜
 
   
 
                 土手に寝転がって日向ぼっこ
 
        
 
        
 
        
 
     
 
          

                         川鵜
 
   
 
   
 
                     五色堤大橋
 
   
 
                      江北橋
 
          
 
                      江北橋
 
   
 
                   左が足立区右が北区
 
   

                橋のたもとにあった古めかしいビル
 
   
 
            足立区小台を歩いていたら火災現場に出くわす
 
   
 
       前日の火事で規制線が張られ、警官一人が警備に当たっていた
 
   
 
                  見るも無残な火事現場
   
           
 
               舎人スカイライナー足立小台駅
 
   
 
                  スカイライナーで西日暮里へ














 
 
 
 

雑司が谷の手作り市

2017年03月24日 08時47分56秒 | 散歩(6)
 日曜日、散歩に出遅れてしまい10時を過ぎてしまった。どこに行くとも決めないまま、とりあえず池袋まで出て本屋に向かう。本屋を出て、「さてどこを歩こう」と考える。「久々に雑司が谷の鬼子母神で都電の写真を撮って絵の題材にしよう」、と思いつく。池袋東口から鬼子母神へは15分程度である。鬼子母神に着くと、そこには「手作り市」が開催されていて大勢の人が集まっていた。この市には何度か出くわしているが、以前に比べて店の数も人の出も増えているように感じる。
 
 次回予告のパンフレットを配っている事務局の人にそのことを聞いてみると、手作り市は毎月第三日曜日(原則)に開催、昔に比べると盛んになって今回の出展者は150店になるそうである。その境内に散らばる店を観て回る。お店には手作りの作品を思い思いに陳列し、作家自らが売り場に立っている。どちらかと言うと30~40代の女性作家が多いようで、それに符合するよにその年代の客層が主である。それぞれの店では出品者と顧客が共に笑顔で、和やかに会話しながらの買い物を楽しんでいる様子が伝わってくる。
 
 昭和40年頃からスーパーマーケットが進出し、今まで主力だった対面販売の小売店が淘汰されていった。スーパーはセルフサービスで売り手と買い手の会話はほとんど無くなっていく。今の小売はスーパーやコンビニやネット販売が主力で、人とのやり取りのわずらわしさは無いものの、だだ物を買うというだけの無機的な行為になってしまった感じがする。しかしこの手作り市を見て回ると、大量生産大量消費は終わり、商品のこだわりや個性を重んじ、買い物に楽しみを求めるようになっていく傾向にあるように思う。
 
  
 
            池袋から蓮光院の側の小路を抜けるのが近道
 
  
 
                    鬼子母神
 
             
 
  
 
                   鬼子母神本堂
 
  
 
               境内は所狭しと店が出ている
 
  
 
  
 
  
 
  
 
  
 
              全体に手作りのアクセサリーの店が多い
 
  
 
  
 
              出展者は30~40代の女性が多い
 
  
 
  
 
 
  
 
              売る人も買う人も穏やかな表情
 
  
 
  
 
               商品の特徴を丁寧に説明
 
  
 
                  人気の店は人が集る
 
  
 
               作者みづから身に付けて説明
 
  
 
                    ・・・・・・・・・・
 
  
 
                  鬼子母神参道
 
  
 
                都電荒川線 雑司が谷駅
 
  
 
                   面影橋で下車
 
  
 
                    神田川
 
         
 
                 桜の蕾みも膨らんできた
 
  
 
             次回の教室ではこの風景を描こう!


        
 
  

家族の異変

2017年03月17日 08時15分02秒 | 日記
 20年前、以前の会社で私が面接して採用した女性、今は結婚して二児の母である。結婚式の主賓になって以来、年賀状は欠かさず来ているし、年に1、2度はお昼ご飯を食べている。そんな女性からの突然のメールである。
 
こんにちは。ご無沙汰してます。
・・・・・・・・・・
人生わからないものですね。
母がくも膜下出血で倒れ、翌日手術をして、未だ意識が戻らずにいます。
医者からは、倒れた時の状態が悪すぎ、即死でもおかしくない状況だった。
もう手は尽くしたが、今はまだ脳からの出血が続いている。
あとの手段は、脳の出血部を取ってしまえば延命になるけれど植物状態になる。
そういう説明があり、「さあどうする?」の選択をせまられました。
家族で協議して、結局追加の手術はしないことにしました。
あとは本人の生命力に任せ奇跡を信じるのみの状況が続いています。

私としては急に突き付けられた現実を受け止めたくはないものの
結局は受け入れざるをえないのが現実です。
今は何が出きるわけでもなく、毎日チクチクと時間が過ぎていきます。
酷な時間で、人間は誰もが乗り越えていく時間なのだろうな、、と、
人が居なくなるのは寂しいな、と、思いながら静かに毎日を過ごしています。
・・・・・・・・
 
 
こんばんは。

母は未だ意識不明です。
脈がずっと150程度で、いつも苦しそうにしています。
見ているこちらも苦しくなってきて、私も含め、みんな疲れてきています。
父は糖尿に加え膝も痛め、部屋の中を這っている状態です。
なので、毎日家事をしに行かなければなりません。
こんな生活いつまで、、いや、一生なのだろうと、ため息が出ます。
病院の独特の匂いや、ICUの重たい空気が、
気持ちをいっそう辛いものにさせますね。

意識が戻っても半身不随だそうです。
生きていて、あの母が気持ちを強く保てるのだろうかと思ったり、
ああ、このまま居なくなってしまうだろうかと思ったり、
どこかで誰もが覚悟していながら、口に出さないでいる状態です。
・・・・・・・・・
 
 
こんばんは。

母が倒れて1ヶ月ちょっと経ちました。未だ意識不明です。
2週間前に再度脳からの出血があり危険だと言うことで、
夜中に病院に駆けつけ、翌日には親戚にも来てもらいました。
それからまた持ちこたえ、今は血圧や心拍も落ち着いた状態です。

痩せてきたからか瞼の下の眼球だけが グリグリ動いてるのが分ります。
その眼球が孫の話や、カーペンターズの曲をかけたりすると、激しく動きます。
ピアノの先生に情動に語りかけることは意識の回復に効果があると聞き、
試してみているところです。

さて、おかしなもので私は母のそんな姿にも見慣れてきて、
話し掛けるときも赤ちゃんにでも話しかけるように、
自然に赤ちゃん言葉になるのが不思議です。

24時間見舞いを許されているので、朝、見舞いをして家に帰り
ご飯を作って父のお昼ご飯を持って実家に行きます。
この生活がいつまでも続くのは無理だなぁ。とつくづく思います。

兄夫婦達と代わる代わるで面会はしているものの、
ふと、みんな何を待っているのだろうかと思います。

目が開いた時、傍にいてやりたい。
意識が戻った時、名前を呼んでやりたい、色々と奇麗事は言えますが、
本音を言えば、このまま容態が悪化し、
極力こんな苦しみから解放させてやりたいとも思います。
兄は、「絶対回復させるぞ!」と気合いのメールをよこしますが、
こちらとしては、ちょっと温度差を感じます。
 
家事やパートの仕事で、とにかくハードワークだった母、
今考えれば父にも兄にも、分らないくらいのしんどい状態が
半年くらい前から有ったように思います。
それは母の話し方が、のっぺりのっぺりになっていたからでしょうか、、
同居する兄夫婦は共稼ぎで、家の孫達はおばあちゃんを頼ります。
だから私が実家に行っても、私は母には何も頼みづらく
最近は長居せずにすぐ帰っていました。
 
・・・・・・・・・
 
 
こんばんは。

母の見舞いと父に時間を割くことで半日が終わります。
そんなことから下の娘に割く時間は圧倒的に少なくなりました。
母が入院してわりに早い段階で、これではマズイと思い、
見舞の時間をなるべく少なくしようとしました。すると兄からメールが来て、
「どうにか熱も下がり脳からの出血は止まったようだ」
「瞼が八ミリ空いた時間があった」
「なんとか少しでも見えるのなら、視覚に訴えることも出来るのだが…」
「お前もあまり丁寧に扱わず、荒いくらいの方が反応が見られるかもしれない」
「明日の昼間は足のむくみのマッサージと声かけを頼む。夜は俺が行く」
と言った内容で、私は「おっと、と、・・」と自分の気持ちを引き止められる感覚です。

兄は根が真面目で、家族へはきちんと義理立てする人です。
その家族の一大事とあらば色んなことを調べ、精一杯の労力を割きます。
私は、兄のお嫁さんも大変だろうなと思い、お嫁さんに感謝です。
・・・・・・・・

こういう状況は子供にとっては誰もが経験することで、
通らなければいけない試練なのでしょう。
しかし私はどこかホッとしているところもあります。
あの気弱な母が突然の出来事で病に付し、病と向き合わずして眠っている。
これは神からのプレゼントなのでは、というふうにも思ってしまいます。

母は、父や我々子供たちや孫達にほんろうされ、
「家族と言う病」と闘病していたのです。
そして恐らく、そのストレスからくも膜下出血なのかな、とも思っています。
だからカルテに病気の原因は「家族」と書いてくれれば分かりやすいのですが、
その元凶の家族が毎日病室を訪れてるのだから、
母もなかなか眼を開けないはずですね。
・・・・・・・・
 ゆったりお茶しながら会いたいですね。
4月になって上の娘の新学期始まったら声かけます。
その時は下の娘も預けるのでゆったり話しましょう。
今はそんな時間がほしいです。
 
               ・・・・・・・・・
 
 母親が入院して、既に50日以上が経過している。その間のメールを読むと彼女の心の変化が見て取れる。最初の混乱や動揺から、時間が経つほどに現状を客観的にみられるようになり、次第にその状況を受け入れている様子が伝わってくる。そんな中での私の存在は、たぶん「なんでも喋れる昔の上司」なのであろう。家族でもママ友のような実生活に関わる立場でもなく、彼女の利害から離れた第三者、そんな相手に自分の心の内を吐露することで、少しは自分の気持ちが軽くなるのであろう。これはある種のカウンセリング効果なのかもしれない。
 
 昔読んだカウンセリングの本にこんなことが書いてあった。クライアントが自分のことを語るには、自己の内情を整理しなければならない。そして心情を喋ることで自分自身でもそれを聞くことになる。そのことで本人も自分の立場を客観視することができる。客観視するということは、一歩離れた処から自分を見直すことである。そのことから気付きがおこり、自分がどうすれば良いのかがわかってくる、というようなことが書いてあった。
 
 彼女はメールすることで今の自分の状況を俯瞰することになる。母親の病状の予測、自分の2人の娘のこと、父親のこと、旦那のこと、兄のこと、自分の置かれた立場や、やらなければいけない優先順位がおぼろげながら見えてくるはずである。もしそうであればメールを受け取り返事を返す私も少しは役に立っていることになる。
 

散歩(所沢市三富)

2017年03月10日 08時17分41秒 | 散歩(6)

 わが町所沢市も結構広い。所沢駅周辺は高層マンションが建ち並び繁華街がある中心地。新所沢や小手指地区は集合住宅が多い東京のベットタウンである。しかしその反面北部の富岡地区は江戸時代からの新田開発によりできた農地(三富新田)が広がっている。交通の便が悪いからこの地区にはあまり行くことが無い。そこで今日は意を決して三富地区を歩いてみることにした。

 
        
 
 新所沢駅からバスで20分、終点の所沢ニュータウンで下車、県道56号に出て三芳方面に向かう。県道の両側は倉庫や配送センターが並ぶが、一歩奥に入るとそこは古くからの農家である。この地区は300年も前に川越城主柳沢吉保の新田開発により農地になった。昔は道の両側に農家が並び、その1軒の農家ごとに畑と雑木の面積が均等になるように短冊型に並んだ地割であった。雑木林は薪炭材として利用しやすく、葉が堆肥として発酵しやすい木(コナラ・クヌギ・エゴ)が選ばれて代々の農家が育てて来たそうである。
 
  
 
  
 
  
 
         
 
         
 
         
 
         
 
         
 
  
 
  
 
           中富小学校校庭の一角に穀倉が残っている
 
  
 
                   三富開拓地
 
  
 
           この地区は短冊型の地割りになっている
 
  
 
        
 
  
 
                  人参の収穫
 
        
 
  
 
              春に向かって何を植えるのか?
 
 
  
 
          
 
  
 
  
 
  
 
                     神明社  
 
  
 
               「鬼の悟り」の名がついている
 
  
 
                   多聞院 毘沙門堂
            何となく妖艶な感じの寅の石像が左右に一対
 
           
 
                  足元に寅の土鈴(どれい)
 
  
 
              身代わり寅の土鈴がずらりと並ぶ
 
  
 
              寅の土鈴に名前を書いて納める
            降りかかる災いの身代わりになってくれる
 
         
 
  
 
 
  
 
           最近の神社仏閣は色んなことでお金を集める
 
         

                      かわたけ当て
 
  
 
            
 
                耳が吊り上って恐ろしげな顔
 
  
 
             落ち葉を集めて堆肥を作っている
 
           
 
        冬に落ち葉を掃き集めて一年以上かけて堆肥にし、
 それを畑に投入して土を作る。一反の畑に一反のヤマと言われるように、
       よい作物を作るためには平地林からの恵は欠かせない。
 
  
 
                 多福寺周辺の雑木林
 
  
 
  
 
                 多福寺周辺の雑木林
 
  
 
                     多福寺
 
  
                   多福寺参道
 
    多福寺バス亭から所沢まで帰ろうとしたが、1時間半後までバスが無い。
     しかたなく反対方向のバスで東武東上線の上福岡まで行き
    ぐるっと川越を回って帰ってくる。やはり散歩には不向きなコースである。
 
 
 
 

散歩(鎌倉古道)

2017年03月03日 08時19分15秒 | 散歩(6)

 小田急線の向ヶ丘遊園に住んでいる友人が、「のんびりと歩きたい」と所望する。そこで以前歩いたことのある昔ながらの里山の風景が残っている町田市北部の小野路地域を歩くことにした。

 多摩センター駅で待ち合わせ、バスで恵泉女学園大学入り口で下車、20分ほど歩いて妙櫻寺の脇から鎌倉古道(推定)に入る。鎌倉古道は鎌倉街道ではなく、鎌倉時代に、幕府の御家人たちが、「いざ鎌倉!」的な有事の際に通った路である。鎌倉古道と思われる道に入ると、そこからは道幅が狭くなり雑木林や畑が続き、都内とは思えない牧歌的な風景が広がる。
 
 このあたりは風雨で浸食されできた緩やかな谷のような地形(多摩丘陵)で、昭和53年歴史環境保全地区に指定された。それから地元の人の尽力により田畑や町並みが保全され、今でもコンビにも無ければ自動販売機も無い。そんな小野路地区は江戸時代は東海道と甲州街道を結ぶ脇往復としてにぎわう宿場であった。風も無く穏かな日和、ただただのんびりと歩いて行く。「800年前の人と同じ道を歩いている」、そう思うと昔にタイムスリップしたような不思議で懐かしい気持ちにさせてくれる。
 
 そういうことで今回は周りの情報(写真)は入れず、歩いた道を中心に編集してみた。
 
   
 
                 鎌倉古道入り口付近
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                   道の左にしだれ梅 
 
   
 
   
 
   
 
      
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                   関屋の切り通し
 
   
 
   
 
                4年前に水彩色鉛筆で描いた絵
 
   
 
         比道は布田道にて、幕末に近藤勇らが通いし道に御座候
          是より関屋を経て二町程にて小野路宿に着き申し候
 
   

   

                   今回描いたもの
 
   
 
             
 
   
   
                     万松寺
 
   
 
   
 
                 境内は砂紋が描かれている
 
   
 
                     アオキ
 
   
 
        

   
 
          
 
          
 
          
 
   
 
   
 
                  小野路城跡付近
 
   
 
   
 
   

   

                   今回描いたもの
 
   
 
   
 
   
 
   
 
               中宿からバスで再び多摩センターへ