60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

暗証番号・パスワード

2015年07月31日 08時40分37秒 | 日記
 先々週書いたブログで、スティックパソコンの設定中に「マイクロソフト・アカウント」を聞いて来る画面があった。以前買ったタブレット「SufaceRT」の時に設定したアカウントのxxxx@outlook.comを打ち込み自宅の電話番号の8文字を使ったパスワードを入れる。すると、「パスワードが違う」と拒絶されてしまった。何度やっても同じで、結局その部分はスルーしてしまう。後日池袋の家電量販店に行って状況を話すと、「今はパスワードは英文字と数字混ぜて8文字以上」でないとだめで、パスワードの変更手続きが必要になる、と言うことであった。パスワードの基準を勝手に変えられれば、使う方は戸惑うばかりである。ではパスワードの変更手続きはどうするのか、面倒くささが増してくるとそれが怒りに変わってくるものである。
 
 2年前、会社に来ている銀行マンと話していたら、「クレジットカードの申し込みは70歳前までです」と言われた。私は基本的に現金派で今までクレジットカードは使っていなかった。しかし最近はネットでの購入は便利で、老後買い物が億劫になった時のために、私専用のクレジットカードを作っておくことにした。そのために今までほとんど使っていなかった古い銀行口座を生かし、クレジットカードを申請した。その時設定したのがクレジットの暗証番号とインターネットバンキングのパスワードだった。その後何週間かしてクレジット会社から、「クレジットの暗証番号が誕生日に関連するから、○○○○に変更します」との一方的な通知が来た。「自分と関係ない数字を勝手に設定された暗証番号」、そんな番号など記憶に留まるはずも無く、いつの間にか忘れてしまった。
 
 さて、今年の夏休み、友人の実家がある宮崎県の高千穂に遊びに行くことになった。羽田から熊本空港まで飛行機のチケット予約をしようと、2年前に作ったのクレジットカードを出し、銀行にお金を入れる。そして変更された暗証番号の書類を捜したが、どこを探しても見当たらない。仕方なくクレジット会社に問い合わせると、自宅住所や誕生日など根掘り葉掘り聞かれたうえで、暗証番号の通知書類を郵送すると言うことであった。結局、飛行機の予約はJTBで済ませたので、今回もクレジットを使うことはなかった。
 
 アナログからデジタルへ、現金払いからクレジットへ、世の中がドンドン便利になっていく反面、そのセキュリティーのための暗証番号やパスワードは次第に多くなり複雑になっていく。今回のトラブルから散らばっていた暗証番号やパスワードを全て書き出して一覧表にしてみた。以下主だったものだけをピックアップしても15以上あった。
 
みずほ銀行キャッシュカード暗証番号
みずほ銀行クレジットカード暗証番号
ソニー銀行 ログインパスワード 取引暗証番号 合言葉
ビューカード パスワード
野村證券 ID番号 パスワード
ビックカメラ・スイカ・カード クレジット暗証番号
ヤマダ電機パスワード
ヨドバシカメラ 会員パスワード
 
OCNお客様ID OCN認証ID OCN認証パスワード 
ドコモアプリケーションパスワード
インターネットパスワード
フェイスブック パスワード
マイクロソフトアカウント パスワード セキュリティーコード
ライン パスワード
ブログ パスワード
Gメール パスワード
運転免許証 暗証番号 2コ  等々である。
 
  さて書き出した一覧表をどう管理しようと考えてしまう。今までは暗証番号など一部はスマホのメモ帳に入れていた。しかしスマホを失くしたり壊れたりしたら、それも失われてしまう。紙に打ち出して保管しても同じことが言えるし、最悪自分が痴呆になったり、交通事故などで死んでしまえば全てが、不明になってしまうだろう。やはり家族に渡しておくしかないのだろうが、しかしこれもメールなどプライベートな部分を覗かれそうで躊躇してしまう。
 そこで考えたのが陶器の貯金箱(割らないと取り出せない)に、十数枚の500円硬貨と一緒に暗証番号とパスワードの一覧表を入れておくことである。万一家族に伝えることが不可能な状態になったとしても、貯金箱にお金が入っていれば、身内の誰かがこれを割るだろう。そうすれば銀行預金や株式のことが分かり、(残っていれば)取り出すことが出来る。デジタルな時代にもっともアナログな方法ではあるが、今考えうる最善の方策のように思える。


        

               豚の貯金箱が欲しかったが、無かったのでパンダの貯金箱にした。






最近の散歩

2015年07月24日 08時36分55秒 | 散歩(6)

 最近は散歩のスタイルが変わってきた。以前は知らない場所を求めて、関東近県を日帰りで歩いた。そのため、買い集めた散歩の案内書は20冊を超える。今まで12年、年間50回行ったとして約600ヶ所になるだろうか、もう主だった所は行き尽くした感がある。一度歩いた場所を再度なぞって歩くのも新味がない。そんなことから最近の散歩はテーマを変え、『絵になる風景』を探して歩くことにした。今まで歩いた中で印象に残る風景を思い出し、「そこからスケッチしたら何処を描くだろう」、そんなことを頭に置いて写真を撮る。そんな写真をストックして水彩画の画題にしたいと思っている。

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                      豊島園
 
 西武線の豊島園駅の目の前に遊園地の「としまえん」がある。子供が小さいころはよく連れて行ったが、今は梅雨の始めに紫陽花祭りがある時か、傍にあるシネコンで映画を見るくらいである。駅から歩いて5~6分の所に向山庭園という小さいが静かで落ち着いた庭園がある。四季折々の変化をスケッチしたい場所である。
 
   
 
                  豊島園 あじさい祭り

   
 
   
 
                    花火アジサイ
 
   
 
                  練馬区の閑静な住宅地
 
   
 
                   向山庭園の前
 
   
 
                    向山庭園
 
                  
 
                   オオバジャノヒゲ
 
   
 
 
   
 
                     向山庭園 
          
                   ・・・・・・・・・・・・・              
 
                      新狭山
 
 西武新宿線の新狭山駅は我が家からもっとも近い水田がある場所である。駅を降りて入間川に向かって歩くと、水田地帯が広がり入間川にぶつかる。田園地帯特有のゆったりとした時間がながれ、昔懐かしい風景がある場所である。
 
   
 
   

                                     広福寺
 
   
 
                道の突き当りから田んぼが広がる
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                     入間川
 
   
 
   
 
                     狭山の農家
 
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                   秩父 寺坂の棚田
 
 西武線の横瀬駅から歩いて20分、埼玉県一の棚田、「秩父寺坂の棚田」がある。訪れた日はたまたま夕刻から「ほたる祭り」が予定され、ペットボトルを切て風除けした蝋燭を立てる杭があぜ道に並べられていた。夜にはこれに蝋燭を灯し、棚田に舞うホタルを楽しむイベントだそうである。しかしその日はあいにくの雨模様、夜までの長い時間待っている場所もないので、写真を撮って引き上げた。
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
        
 
   
 
   
 
               黒い雲が空を蔽い、雨が激しくなる
 
          
 
                田んぼの水が雨粒で乱される
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                     寺坂の棚田
 
 
 
 
 

スティックパソコン

2015年07月17日 08時00分59秒 | 日記
 新聞のコラムに「スティックパソコン」なるものが載っていた。手のひらに乗る大きさでモニターはテレビを使う。後は使用目的により拡張すれば良い、というものである。私はこの手のユニークな新商品が好きである。早速池袋の家電量販店に商品を見に行き、説明を聞いてきた。販売員によると、使用にあたってはテレビがHDMI端子付きであること、キーボードやマウスは無線(Bluetooth)でやるか、USBハブを使って有線でやるかで付属部品がいること、ワードエクセルを使う場合は別途MicrosoftのOfficeをインストールする必要があること、そしてインターネット環境があるかなどのチェックポイントを聞いた。
 
 家に帰ってからテレビの裏側を見る。HDMI端子は付いている。キーボードやマウスは会社にある余分なものを持ってくればよい。インターネット環境は、スマホとテザリングして(スマホに無線で接続してインターネットの接続を共有する)、必要な時にインターネットに繋げば良い。大雑把に今の状況で使える可能性がわかると、やはり買う気を押さえることが出来なくなる。昔からこの手の電子機器と、読みたいと思った書籍は自己規制が働きにくいのである。早速先週の日曜日に池袋に行って買ってきた。
 
 商品を買って帰って小箱を開けてみると、中には小さなパソコンと、電源コードと接続部品、そしてA4の説明書が1枚折りたたまれて入っていた。しかしかしその説明書は何ヶ国語かで書かれていて、日本語で読めるのは梱包商品の説明と、各部署の接続部の説明だけである。どういう風に接続するのか、どう設定するのか、途方にくれてしまうほどである。商品をあらゆる国に出しているアメリカのインテル製だからか、日本メーカーのようにきめ細かな説明は無く、いかにも不親切である。翌日会社から家電量販店に電話し状況を説明する。担当者も分かっていたのか、インターネットから取ったセットアップガイドを直ぐにFAXしてくれた。
 
 セットアップガイド見ながら、テレビの裏側のHDMI端子にステックパソコンをさし、USBのポートを分岐し、マウスとキーボードを繋ぐ、電源をONにし、初期設定をするとウインドウズ8.1の画面が現れる。それからスマホとテザリングして無線でインターネットと繋ぐ。自分のブログを呼び出して、見慣れた画面をみてほっとする。その間約4時間である。

 若いときはこの試行錯誤がワクワクするほど楽しかった。しかし今は面倒くさく、途中でトラブルが発生すると苦痛になってくる。たぶんこれは年齢の所為かもしれない。次第に神経を使う仕事が億劫になり、根を詰めた仕事が出来なくなってくるのであろう。

    

                 手のひらに乗る、これがパソコンである。
                     パソコンもここまで小さくなったかと驚きである。
 
    

                      テレビに映ったスタート画面

    


    

       私のブログが出て、これでインターネットを使える確認ができてホッとする

 
  ※インテル スティック型パソコン   23000円前後
 







おもしろ写真(2)

2015年07月10日 08時12分23秒 | 日記
 
 今週は少し風邪気味で、ブログを書く気力が湧かない。そんなことで今回は秘蔵の写真を出すことにした。私は人間観察が趣味だから、どこにいてもどんなところでも人の振る舞いが気になるのである。電車に乗ったり歩いていたり、その時面白いと感じたものをパシャリとスマホに収める。本来なら人を被写体にすれば何らかの罪になうのかも知れないが、そこは人生面白がって生きていて、悪気はないのでご勘弁願います。
       
       
 
                     池袋駅の構内
            どうしたらこんな風になるのだろう?と不思議である
 
        
 
                      池袋駅のプラットホーム

   
 
               鼻は出てマスクの横は開いている
            これでマスクを掛けている意味があるのだろうか
 
           
 
            山手線の中でカメラを構える韓国の観光客
                それを撮っている私もマナー違反
 
   
      
                   結婚式の帰り?

      
 
                ズボンがずり落ちますよ

   
 
        マスクを掛け手を組んでいる。よくそろったものだと感心する

   

                   足の長さ自慢か

   
 
           完全に2人分、これも迷惑の部類に入るのでは

   
 
             個人情報をさらけ出して電車に乗っている

      
 
      
          
            

      
  
            不心得ものが多くなって神社も大変 

   
 
           二宮尊徳の像、よそ見は危険の啓示だろうか?

         
 
           
   
  
      この前で愚痴をこぼしていると、ヘンな人に思われるのでは?

  
 
                アンパンマンも遂に仏像になる

      
 
        周りは全てマフラーをしているから、たぶん忘れ物だろう

  
 
  
        
           
            駅で切符を買った時の忘れ物

      
 
                トイレの洗面台の忘れ物

   

            大声で喋り続ける店員、「まじめに仕事しろ!」

   
 
                 豊後牛のバガー1300円

         
 
                  佐賀牛も1300円

         
 
               近江牛にいたっては1500円
          これロッテリア、企画担当者の意図がわからない

     
 
          やはり年寄りは胡坐の方が落ち着くのだろう

   
 
         喫茶店で編み物、1時間以上は占領することになるだろう

   
 
  
    
  
         通帳をじっと見つめる。オレオレ詐欺に騙されないように

  
 
     何も商品を買わず、店内に入って隠れるようにしてスマホを見ている
 
   
  
            こんな態度の客にも店は注意しない

    
 
         壁面全てが鏡のトイレ、落ち着いて用が足せない 

  
 
            店長は少し神経質すぎのように思う

  
 
              こう書かれると、大は出来なくなる。

      
 
        ペッパーにじっと見つめられて、どうしていいかわからなくなる




 





103歳になってわかったこと

2015年07月03日 08時11分06秒 | 読書
 友人に紹介されて「103歳になってわかったこと」という本を読んだ。著者は篠田桃紅という100歳を過ぎても現役の美術家である。ウィキぺディアによると、「和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けている」とある。画像検索で作品を見ても、私には「???」と、作品の価値は分からない。しかし本を読んでみると、100歳を越えて人生の高みに立って見えるだろうことが、素直に書いてあった。私はこの先あと30年、果たして彼女のような景色が見えるのか?、到達できるのか?、人生の先輩の言葉として指針になるように思えた。

 以下、本の中の一部を抜粋してみる。
 
                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 私も数えで103歳になりました。この歳まで生きていると、いろんなところで少しずつ機能が衰えます。老朽化していて、よく動いているものだと思います。私は生涯、一人身で家庭を持ちませんでした。比較的自由に仕事をしてきましたが、歳をとるにつれ、自由の範囲は無限に広がったように思います。自由と言うのはどういうものかと考えると、今の私かもしれません。なにかへの責任や義理はなく、ただ気楽に生きている。そんな感じがします。今の私は自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。・・・・自由という熟語は、自らに由(よ)ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。
 
 私には死生観がない。考えたところでしょうがないし、どうにもならない。どうにかなるものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら考えてもわかることではありません。現に、私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。
 
 歳をとったことで初めて得られたもの、歳をとったらもう得られないもの、それを達観して見ることができるようになりました。若いうちはいくら客観視していたつもりでも、自らがその渦中にいますから、ものごとを客観的にみることに限度があります。しかし歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がってきます。今までこうだと思って見ていたものが、少し違って見えてきます。同じことが違うのです。それは自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いていた友人のこと、社会一般、すべてにおいてです。
 
 老いるということは、天へと続く、悟りの階段を上がっていくことなのかもしれません。そしてそれができるのは、歳をとって目の高さを得るようになるからだと思います。自分というものを,自分から離れて別の場所から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じています。
 
 なにかに夢中になるものがないと、人は生きていて、なんだか頼りない。なにかに夢中になっていたいのです。なにかに夢中になっているときは、ほかのことを忘れられますし、言い換えれば、一つなにか自分が夢中になれるものを持つと、生きていて、人は救われるのだろうと思います。仕事に夢中になったり、趣味に夢中になったり、宗教などに夢中になるのもそうだろうと思います。
 
 人は用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかしどこかにあります。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。用を足している時は、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。無駄はとても大事です。無駄が多くなければ、だめです。・・・・・どの時間が無駄で、どの時間が無駄でなかったのか、分けることはできません。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれんません。
 
 今の人は、自分の感覚よりも、知識を頼りにしています。知識は信じやすいし、人と共有しやすい。誰しも、学ぶことで、知識を蓄えることが出来ます。たとえば、美術館で絵画を鑑賞するときも、こういう時代背景で、こういうことが描かれていると、解説を頭に入れます。そして、解説のとおりであるかを確認しながら鑑賞しています。しかし、それは鑑賞ではなく、頭の学習です。鑑賞を心から楽しむためには、感覚も必要です。感覚を磨いている人は非常に少ないように思います。感覚は自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。
 
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 一番最後に挙げた文章など、まさに私のことを言い当てられているように思ってしまった。美術館に行っても、作品に共感することは少なく、世間で言われる評価や解説を読んで、「なるほど」と理解する。これは鑑賞ではなく、著者が言う知識の共有に過ぎないのである。自分の最終のステップは、私がもっとも苦手な感性を開拓することかもしれない。そのためには著者が言うように、感覚を磨き、自分の感覚で包み込み受け止める訓練が必要なのであろう。私にはまだまだ人生の高みがそびえているのである。