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60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

宗教に思う

2016年01月29日 08時23分54秒 | 読書
 イスラム過激派(IS)による攻撃が世界各地で激しくなり、直近の3か月に1000回を超える攻撃で3000人近くが死亡したというニュースもある。欧米諸国への不満に端を発し、貧困や格差社会への不満が要因なのであろうが、根っこには歴史的な宗教対立があるのだろう。十字軍(キリスト教)による聖地エルサレムのイスラム教諸国からの奪還に始まり、ユダヤ教とイスラム教、イスラム教の中でのスンニ派とシーア派、その中で派生したISと世界全体と言う風に・・・、そんなことから宗教を少し知ってみようと思い、「世界の宗教」がわかる本を数冊買って読んでみた。以下読んでみて私が宗教に思うことを書いてみる。
 
 本来宗教は人を苦悩から救うものだったはずである。しかしその宗教が存在するがために、争いがより根深いものになっているように思える。それは自分の信じる神が絶対的もので、他の神を信じる者は異教徒として排除の対象になるからである。そのもっとも先鋭的な宗教がイスラム教なのかもしれない。イスラム教では神への帰依として1日5度の礼拝が義務づけられている。毎週金曜日と、年2回ある祝祭日の礼拝は集団で礼拝を行う事が決まりで、さらにラマダン月には日の出から日没まで断食が命じられている。そして一生に一度はメッカの巡礼が求められる。ここまで厳しい戒律のある宗教に属していれば、帰属意識も団結力も強くなり、一旦もめごとが起これば集団としての行動につながり、大きな争いにも発展しやすいのかもしれない。
 
  宗教には一神教と多神教がある。唯一の神という概念を持つのが一神教でキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ゾロアスター教などで、多神教はヒンドゥー教、仏教などがある。また宗教の信者数を人口比に換算すると、おおむね3人に一人がキリスト教、4人に一人がイスラム教、6人に一人がヒンドゥー教、14人に一人が仏教徒の割合になる。ということで世界人口の6割程度が一神教のキリスト教(+ユダヤ教)とイスラム教が占めている。したがって当然この2強による衝突は必然のことかもしれない。
 
 日本古来の宗教は神道で「八百万の神」という言葉通り、草、木、山などさまざまな神が存在する。6世紀に伝来した仏教も阿弥陀如来、薬師如来などさまざまな信仰の対象が存在する。そんな多神教的な要因から受け入れやすかったのか、今まで共存してきた。そして現在では生活の中で、あまり意識されないかたちで溶け込んでいる。現代の日本人は無宗教と言われるが、戒律が緩やかなため宗教に対して無意識あるいは無自覚なお国柄なのであろう。そんな歴史が幸いしたのか、我々は世界的な宗教対立には巻き込まれずに済んでいる。
 
 私のように宗教に無自覚な日本人は口には出さないが、神なぞ存在しないと思っている。神を作り上げたのは人であり、それは人の弱さからであろう。生きとし生けるものは死を避けることができず、誰しもが直面しなければならない恐怖である。人は死んだ後、意識はどうなるのだろうかと、誰もが一度は疑問を抱いたはずである。出来ることならもう一度人間に生まれたい。そのためにはこの世で何をすべきか・・・・、天国や地獄のある死後の世界や生まれ変わりという概念は、人間の素朴な感情から生み出されたものであろう。一人で考えているだけでは宗教は体をなさない。同じ考えを持ち、それに同調し実践する集団になって、宗教が成立したのである。
 
 人は死ねば意識は無くなる。死後の世界なぞ無いし、自分が再び自分として生まれ変わることも無い。これが科学的に考えての真実であろう。宗教は死後の世界にもストーリーがある。だから人は受け入れやすかったのかもしれない。死によって今までのつながりは途絶え無になる世界、それはなかなか受け入れがたい。ではどう考えれば良いか、自分の中でどう折り合いをつけるのかが問題なのである。
 
 今私はこう考える。死ねば意識は無くなり、火葬によって僅かなお骨以外は空中に煙となって飛散していく。しかし物理的に言えば今まで自分を構成していた分子や原子はこの地球上から無くなることはない。またどこかで取り込まれて形を変えて存在していくことになる。空中に霧散した分子は雨になったり土くれになったりして、また草や木に動物に取り込まれるかもしれない。要は地球上に分散されて、また何かに活用されるのである。そういうことからすれば全てに神を見る多神教に通じるのかもしれない。
 
 宗教は死に対する備えだけではなく、生きていくうえでの行動規範になり、人の精神的なよりどころであり、文化芸術を担う役割も果たしている。従ってただ単に宗教を否定するのは問題がある。人は社会的な生き物であるから、なにか「頼るべき正しい考え方」という概念の体系が必要なのである。権力者の思惑で解釈を変え分派を繰り返してきた今の宗教は、すでに制度疲労を起こしている。これに取って代わり、神という架空のものを前提にしない新たな概念を持たない限り、この世の中から争いはなくならないのだろう。





映画の映像技術

2016年01月22日 08時11分42秒 | 映画

  先週と今週2回ほど映画を見に行った。1本は「スターウォーズ/フォースの覚醒」、もう一本は「シーズン/2万年の地球旅行」という動物の生態を追ったドキュメンタリー映画である。スターウォーズはもう30年近く前からあるSFのシリーズ作品だが、今まで映画館でもTVでも一度も見たことはなかった。それは最初から見ていないから物語の繋がりが分からなこと、現実から遊離した空想の世界には興味がもてなかったからである。

 今回見に行ったのには切っ掛けがある。お正月の初めにNHKで、「ハリウッド映像王国の挑戦」と題して、スターウォーズの製作現場にカメラを入れ、映像の技術革新の実態をドキュメンタリーで見たからである。番組はスターウォーズを手がける映像スタジオ「ILM」の現場に密着し、製作者の苦闘の様子を追っている。ILMは「E.T.」や「ジュラシックパーク」などを手がけ、世界最高の特撮技術を持つと言われる。SF映画は当初模型や縫ぐるみの実写から始まった。それからしだい技術革新がなされ、ジェラシックパークあたりからCG(コンピュータ・グラフィックス)が使われ始め、今はCG全盛期である。

 CGの導入によってクリエイティブで面白い視覚効果がたくさん使われるようになったが、反面過剰に使われると、作り物の世界を感じてしまう。今回、スターウォーズの製作に当たって監督のJ・J・エイブラムスは宇宙船の実物大模型を作ったり、登場するキャラクターも人の手で動かすなど、CGに極力頼らず、手間のかかる実写撮影にこだわったと言う。そんなNHKの番組を見て、実際にそのこだわりの映像を確認するために見てみることにしたのである。

           

        

        

 もう1本が「シーズン/2万年の地球旅行」、これもラジオの映画解説で視覚の面白さを取り上げていた。無音小型バギーの開発で、馬やオオカミと同じ視線で狩りの臨場感あふれる映像を撮り、改良を重ねた軽飛行機を駆使して、渡りの雁の群れと並走飛行して撮影し、鳥となって大空を浮遊する爽快さが体感できる映像など、動物の目線で捉えた映像が新鮮だというものである。

        

        

        

 確かに両作品とも映像的は工夫され面白いと思った。しかしストーリー性において物足りなさを感じる。スターウォーズは相変わらずハリウッド映画の勧善懲悪のワンパターンで新味が無い。一方シーズンもそれぞれの野生動物の生態映像を組み合わせ、氷河期から現在までの2万年を必死に生き残ってきたというストーリーに違和感がある。2作品とも「まず映像有りき」で、ストーリーに意外性も感動も無いのである。

 映画の歴史も長くなってネタ切れになったのか、もう昔の名作と呼ばれるような作品が出てこなくなったように思う。その代わりにトリックやCGを駆使して壮大さや迫力を追い求めているように思う。そして遂に、私がよく行く映画館でも4DXと呼ばれる体感型の上映システムが現れた。映画のシーンに合わせて前後左右に座席が動き、嵐のシーンでは水が噴霧され風が吹きつけ、雷鳴で劇場にフラッシュがたかれる。さらに臨場感を演出するため、煙や香りも出すようである。(通常料金+1000円) 映画もここまで来たのか、こうなればもう遊園地のアトラクションである。

 我々の時代は映画に感動を求めたように思う。それに対して今の時代はディズニーランドやユニバーサルスタジオと同じように刺激を追い求めるようになったのかもしれない。時代の変遷と共に映画も変わっていくのは仕方ないと思うのだが、しかしオールドファンとしては映画の中に引き込まれ、その展開に一喜一憂し、心揺さぶれれ、終わったあとに満足感がある。そんな映画を求めたいのである。そう思うのは私だけなのか、それとも私が年齢と共に不感症になって、今の映画に感動しなくなただけなのか、・・・・・





散歩(天界の村・峰谷)

2016年01月15日 08時23分20秒 | 散歩(6)
 東京にも標高900m以上に山岳集落がある。最近までは車道が通っていなかったから、わざわざ訪ねる人も少なかった。そんな不便な村だから静けさとのどかさが残っている。都会がとっくの昔に捨てた昔ながらの生活、今日はそんな場所を訪ねてみることにした。
 
 JR青梅線の終着駅奥多摩からバスで30分、奥多摩湖の北端、峰谷橋バス停で降りる。そこから峰谷川に沿って山道を登っていく。所々に人家があり駐在所やお寺があり、1日3本ながらバスもある。そのバスの終点の峰谷(みねたに)を過ぎると人家はなくなり、杉の林に囲まれた寂しい道になってくる。数件の家がある三沢集落から登山道に入り、さらに上を目指す。この道は鷹巣山(1737m)への登山道なのであろう。登山道に入って約40分登ると突然人家が見えてきた。ここは西多摩郡奥多摩町留浦(奥集落)である。家々の入り口や窓はしっかりと閉められ、人の気配が感じられない。標高900m、高齢化が進み今は仕事のために郊外に住み、時々帰って家を管理する住民もいるようである。
 
 この地に何があるわけでもない。麓からひっそりとした山道を上がりまた降りてくる。ただそれだけのことであるが、都心を離れ非日常の中に身を浸すと、何となく気持ちが穏やかになったように感じる。この地は昔、武田信玄の軍に追われた人々が住みついたのが始まりだと言う。確かにこんな山の中まで追っ手は来ないであろう。そんな安心感がこの地にはあるのかもしれない。ここは東京都、南に290km離れた八丈島も東京都である。山あり海あり都会あり、東京は広い。
 
    
 
                奥多摩駅から西東京バスで
    
 
           
 
                 途中左手に奥多摩湖が見える
 
    
 
                   峰谷橋バス停で下車

    
 
          ここは峰谷川が奥多摩湖に流れ込んでいるところ
 
    
 
         峰谷川沿って歩くと途中に住まいと併設の川野駐在所、
           入り口に只今パトロール中の張り紙があった。

    
  
                 旧小河内小学校、中学校
                 昨年3月で廃校になった。
            
    

               このあたりは湖と峰谷川の接点            
 
    
    
 
    
 
          
 
                 「雨降り」というバス亭
 
    
 
                       峰谷川
 
                      
 
              川にはみ出した住宅、2本の鉄柱が頼り
 
    
 
                          日陰は霜で真っ白
 
           
 
                       霜柱
            
         
 
               奥多摩駅~峰谷間のバスの折り返し、峰谷バス亭
                     標高600m
                                          
                          
 
              朝、昼、夕方の1日3本のバスしかない
 
    
 
                         さらに上に
 
    
 
           この地区は林業で生活が成り立っているのだろう
 
       
 
               ここから自動車道を離れ山道へ
 
          
 
        
    
 
                      三沢集落
        
    
             
            
               
               
 
            
 
         
 
           自動車道との分岐点から約40分、人家が見えてきた。
 
     
 
                       標高900m
 
                     
 
                    人が住んでいない家
 
         
 
    
     
 
            奥集落、九十九折の道に人家が点在している
 
                 
 
            軒下に大きなスズメバチの巣(残骸)が2個
 
    
 
                   桜(寒桜)が咲いていた
 
                  
 
                        寒桜
 
         
 
                    帰りは自動車道を降りる
 
     

   
     
  
                       再び奥多摩湖へ
 
      
 
              来る時スタートした峰谷橋が見えてきた 
 
     
 
                           峰谷橋バス亭         
 
     
 
                    奥多摩湖の北端








浅草散策

2016年01月08日 08時10分16秒 | 散歩(6)
 1月4日(月曜日)に初出勤した。しかし4日まで休みの会社が多くほとんど電話もかかってこない。午前中で仕事を終え、昼からは年始の浅草を見てみることにした。浅草寺に向かって歩くと途中消防車がずらりと並んだでいる。「また火事か!」、この地区は木造住宅が多く残っていて、しかも住民は年寄りが多い。したがって火事も多く、年に何回かはこんな現場に出合っている。
 
   
 
  
   
 
 野次馬根性で火元と思われる方に歩いて行くと、周りを囲んでいた消防車を11台数えることが出来た。しかしどの車もホースを伸ばし消火活動をした跡が見えない。近くの消防士に聞いてみた。「火元は何処ですか?」、消防士の答えは「調理中の煙を見て、火事と勘違いした住民の通報でした」、私「迷惑な話ですね」、消防士「・・・・・・・・」
 
 何と言う無駄であろう。今まで何回か火事現場を見たが、どんな小火(ボヤ)でも10台以上の消防車とパトカー2~3台が集まる。よってたかって火事の延焼を防ごうというのは良いのだが、一方何時もこれほどまでの陣容が必要なのだろうかとも思う。今回のような誤報で振り回される消防活動を考えると、通報内容にもよるが最初は3~4台の体勢で駆けつけ、現場の状況をみて順次増強していけば良いのではないかと思ってしまう。
 
 次に昨年12月に浅草六区にオープンした「まるごとにっぽん」という商業施設に行ってみることにした。
 
   
 
 
                     
 
 
   
 
                           1階は食品階
 
   
 
      世界中から厳選したコーヒーと紅茶をお届けするという振れ込みの澤井珈琲
 
   
 
              2階と3階は雑貨と衣料、4階は飲食階になっている
 
     
 
   
 
             
 
                   1包1回分になった漢方のパック
 
   
 
                          帽子の製造実演
 
   
 
 
   
 
                     
 
 この「まるごとにっぽん」のコンセプトは、地域情報の総合拠点として地方自治体や地方事業者が出店して情報を発信できる仕組みを構築し、「真の地域振興の拠点」を目指す。浅草の再開発とともに、地方の村おこし、町おこしを助ける役割を目指して行く、という大仰なものである。しかし売り場を見て回ると、なんとなく企画倒れの感じがする。入っているテナントはどこもこじゃれた感じで取り澄ましている。日本橋に有ればまだ様になるのだが、ここは浅草である。住民は年寄りが多くターゲットには不向きである。浅草に来た観光客を狙う計画なら、観光客は浅草を見に来たのであって、こじゃれた店は期待しない。館内はお正月で人は入っていたが、実売には結びついていないようである。早晩手直しが必要になるように思った。
 
         「まるごとにっぽん」の店を出て初詣客で賑わう浅草寺へ
 
   
  
                  これが下町浅草の雰囲気である。
    
   
 
                         大衆劇場「木馬館」
 
                        
 
                         バックパッカーの観光
 
                        
 
                        人力車に乗る外国人
 
   
 
                              浅草寺
 
      
 
                      浅草寺のカメラスポット雷門
 
                             
 
                     スマホで自撮りする観光客
       (この女性、上の写真にも下の写真にも写っていた。捜せますか?)
 
                        
 
                   ちらほらと和服の参拝者も見られる
 
       
 
                                仲見世
 
      
 
                        ごった返す仲見世通り
  
             
 
                   仲見世通りと交差する新仲見世通り
  
       
 
                            宝蔵門と五重塔
 
       
 
                  香炉の傍でカメラを構える外人
 
                     
 
                彼は何度もシャッターを切っていた
 
  
 
                線香の煙を浴びる光景が珍しかったのだろう
  
  
 
                             本堂
 
  
 
  
 
                  顔の部分を金網でガードしたガードマン
 
                     
 
                     足元には賽銭が散らばっている
 
      
 
       
 
  
        
 
                            出店
   
       
  
      
   
 
               浅草寺からスカイツリーまで直線距離で1300m


















初詣

2016年01月01日 10時57分23秒 | 日記

 2016年(平成28年)が明けた。雲一つなく風も無く穏やかな元旦である。朝9時、家から一番近にある神社(歩いて5分)に初詣に行く。境内が100坪程度の小さな神社である。この神社は元々このあたりの大地主の敷地内にあったようだが、宅地開発が進み今は住宅地の中に埋没している。自動車道からも外れて、近所の人でなければその存在すら分からない神社である。

 神社の周りは紅白の提灯で飾られ初詣の人を迎える準備は整っている。境内には地元の人が集まり談笑しながら、時々は訪れる参拝者に甘酒を振舞っている。私もお賽銭を上げ手を合わせる。頭の中に走馬燈のように家族、親戚、知人友人と思いつく顔を思い起こし、最後にその人達の無事な暮らしを願って頭を下げる。わずか10秒、最近の神社仏閣でのお参りはこんなものである。

  関東近県を歩き始めて十数年、その間にコースの途中にある神社仏閣に立ち寄ってお参りしてきた。その数はゆうに1000社を超えているだろう。私の場合質より量である。だから初詣にわざわざ遠くの有名な神社にお参りしなくても、ご利益があるとすればもう充分お釣りがくるくらいである。私はどちらかと言えば信心深くない方である。「ではなぜお参りを?」と聞かれても、自分でも明快には答えられない。しいて答えるとすれば、人が住む所には必ず神社仏閣がある。そこはその地に暮らす人々の心のより所で神聖な場所である。そんな場所に対して敬意を表す意味で詣でているのだろう。

 初詣は自分の願いを叶えてもらうためではなく、この一年の決意表明をする場だと言う意見がある。受験生が希望の学校の合格祈願をするのではなく、「合格するんだ!」という決意表明をする場だと言うのである。わずかなお賽銭で自分の願望をかなえてもらうのは虫が良すぎる。新たな年を迎えるに当たって、自分のこの一年間はこうしたい、こうありたいと自分の願望を自分の心に刻み付ける、そんなことを誓う場なのかもしれない。

 さて「一年の計は元旦にあり」、私はこの一年どういう年にしたいか考えてみる。もう自分の中に若い人のように、あれが欲しいとか、こうしたいとかの欲求はほとんどない。今年の7月で72歳を迎え、男性の健康寿命を超えることになる。したがって何時どうなってもおかしくない領域に入った。こうなると健康でいることの大切さをひしひしと感じるようになる。当然健康には留意するが、しかしそれがいつ崩れていくかは分からない。

 身体が不自由になったり、認知機能が衰える前に「今生きているこの時を意識して感じてみる」 、そのことを今年の目標にしてみようと思う。人と会い話し喜びや悲しみを共に感じ、太陽の降り注ぐ緑の中を散策しその心地よさを感じ、読書や旅行で知的な興味を感じ、絵を書くことや楽器を弾くことで表現する楽しさを感じる。それが時に苦労や挫折を伴っても、感じるということが愛おしく大切なことのように思うのである。なぜならいずれ全てが失われ、何も感じなくなってしまう時が迫っていると思うからである。

            

                                        昨年訪れた阿蘇山