60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

散歩(小平~玉川上水~鷹の台)

2014年05月30日 08時38分01秒 | 散歩(3)
                           狭山・境緑道

 今週も特にブログにアップするような話題を思いつかないので、日曜日の散歩の時の写真をアップしてみることにしました。散歩でいつも写真を撮っていると、どういう写真だったらその場の空気感が伝わるかを考えるようになります。そのため、「これ!」と思う場所があれば撮る角度を変えてみたり、構図を変えてみたり、ズームを使ったてみたりして何枚も撮ってみます。そしてその中で気に入ったものをピックアップして編集します。今回は29枚の写真を使いましたが、この散歩で撮った総枚数は288枚、したがって10枚に1枚を使い、9枚を捨てているわけです。これができるのがデジカメのよさなのでしょう。

 今回の散歩は以前に何度か歩いたコースの一部をつなぎ合わせ、遊歩道だけを歩いて見る。西武線の小平駅を下車して「狭山・境緑道」へ入り、多摩湖に向かって歩く。この道は多摩湖から境浄水場(11km)までを水道管の布設した道路を緑化したもので、ほとんど真っ直ぐな舗装された遊歩道である。この緑道を西武拝島線の八坂駅の手前で左に折れ、今度は「野火止用水」に沿った遊歩道を上流に向かって歩く。野火止用水は立川市の玉川上水から分岐し、埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である。昔は玉川上水の1/3を分水し、流域の川越藩の生活用水として利用されたそうである。

 そして今度は野火止用水が玉川上水とぶつかるところから、「玉川上水」脇の遊歩道を下流に向かって歩く。玉川上水は羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し四谷大木戸まで43kmである。江戸市中への飲料水を供給するために、玉川兄弟によって作られた。上水の両側は木が生い茂り鬱蒼として、長いグリーンべルトとして都心へ向かって続いている。この流域も何市かにまたがっていて、それぞれの地区で改造計画がある。小平市では道路計画で500本の伐採が問題になっていたり、小金井市では桜並木の復活が取りざたされたり、時代の流れの中で江戸時代の史跡も変貌を余儀なくされていくのであろう。今回は途中の西武国分寺線の鷹の台駅までで終了した。

      
                           狭山・境緑道
      歩く人、走る人、自転車に乗る人、そして私は撮る人、それぞれの楽しみ方がある

      
           走る人の背中にピントを合わせれば周りがボケて立体感が出る

      
                             ホクシャ

      
                       カナブンが一生懸命蜜を吸う

      


                  
                   八坂駅の手前で左に折れ野火止用水に、

      
                            野火止用水

               
                      野火止用水には多くの鯉がいる

      


      


      


      
                            野火止用水
                       淀みに一羽のカモが休んでいた

               
                             カルガモ

               
                         突然ダイナミックに水浴び

      
                  野火止用水も東大和市当たりでは整備されている

      
                           ムクドリの水浴び

      
                            ザリガニ採り

      
                 老若男女が出てきてコミュニティーの場になっている

      
                           野火止用水緑道
             野火止用水の上にできた緑道、東大和駅から玉川上水駅まで
             絵画的な美しい並木道が続く。この先で玉川上水につながる

      
                             玉川上水

      
                             玉川上水

      
                    玉川上水の左右は遊歩道になっている

      
                            こもれびの足湯
         そばにあるゴミ焼却場で発生した余熱で井戸水を温めた足湯施設(無料)

      
                    玉川上水の左右は鬱蒼と木が茂っている
                     
               
                              コゲラ

               
                             シジュウカラ

      


      
                          もうすぐアジサイの季節




ズームの世界

2014年05月23日 08時24分45秒 | 散歩(3)
                           西福寺 三重塔

 私の郊外散歩も500回に近づいてくると、だんだん行くところがなくなってくる。本屋で散歩の本を探してみても新たなコースは少ない。仕方なく雑誌などを探してマニアックなものからチョイスして歩くことになる。そんな中から今日は埼玉高速鉄道の「戸塚安行駅」から歩くコースを選んだ。ここは元々は埼玉県北足立郡安行村であったが、1956年に川口市に編入される。安行は江戸時代から「植木の村」として有名だったそうである。この地は赤土(関東ローム)で肥料分がすくなく、米や野菜を作るのには適していない。しかし傾斜地、低湿地が複雑に入り組み、日当たりを好む植木、そうでない植木、湿地を好む植木等々、この地形をうまく利用して植木が盛んになった。

 コースはこの植木造園など点在する農地を見ながら歩く。当然緑に囲まれ気持ちの良い散歩であるが、一方で写真の被写体になるような風景に乏しく不満も残る。そこで今日はカメラのズーム機能を駆使して写真を撮ってみることにした。5月に咲く花々をクローズアップしてみたり、遠くで鳴く小鳥を探してみたりと・・・・。そうすると今まで気にも止めていなかったものが映し出されてくる。今のデジカメは性能もアップしていて2~3万円のものでも、スマホでは撮れない写真が楽しめる。
       
      
                             植木農家

      
                         色々な植木を育てている

      
                       東京外環道をくぐると緑が広がる

      
                             赤木城跡

      
                        この小さな花にズームしてみる

      
                             さらにズーム

      



      


      



      
                           紫蘭(しらん)

      



      
                             紫陽花

      



      

                               
      



      
                             矢車草

      



      


      



      


      



      
                           林の中にズームイン

      


      


      
                            スズメバチの巣


                             ズームの力
      
                        用水路の先に橋が架かっている

      
                           これをズームしていく

      
                             さらにズーム

      
                         目いっぱいズームしてここまで





分人化

2014年05月16日 08時31分45秒 | 読書
 今読んでいる本は福岡伸一と著名人との対談集である。その中の一人、平野啓一郎(芥川賞受賞の作家)の対談で、意外と面白く感じたところを抜き出してまとめてみた。

 《僕はもともと、接する相手によって自分の中に異なる人格が現れることを意識していました。自分なりには、これまでのアイデンティティー(主体性・自己同一性)に代わる新しい思想を考え始め、やがて「分人」という概念にたどり着いたのです。私たちは個人のアイデンティティーというものを、もともと与えられた唯一無二のように思っています。しかしそれを対人関係ごとに生じる「分人」という複数の人格として捉え、人をその集合体であると考えてみると、自分の思考が前に進んでいくように思うのです。

 僕らは初対面の人と会うときは、互いにちょっと警戒したり、探り合ったりします。そして多くの場合、当たり障りのない会話を交わしたりしながら、どうすれば相手との関係がうまく成り立つかを手探りしている。最初はお互いの未分化な状態でやり取りし、その中のコミュニュケーションの成功体験を反復することで、その相手に対応する「分人」を形成していくわけです。別に意識してキャラを演じているのではない。自分の意識とは関係なく、その場の対人関係に合わせて、ごく自然に、異なる自分になっているわけです。そのどれか一つを「本当の自分」だと決め付けることに、強い違和感がありました。むしろ僕は「本当の自分」があると考えることによって、苦しみを抱えているのではないか。そういう疑問から、「私とは何か」というアイデンティティーの問題に本気で向き合っていったのです。

 一人の中に正20面体のような人格があり、相手によってその一面を見せるということではなく、アイデンティティーそのものを、出会いから生じるエフェクト(結果・影響)とし、与えられた環境に従ってアメーバーのように変化する動的な現象と捉える。もしも人の本質がそのように動的なものであるなら、確固たるアイデンティティーがあるとして信じ、ひたすら求め続ける「自己実現」の物語も、非現実的な虚構でしかないことがわかります。我々は日々、一なる神ではなく、多種多様な人間とそれぞれに異なる人格で向き合っている。アイデンティティーは固定したものではなく、さまざまな人や物との出会いによって分化するものです。こうした動的な変化を、「分人化」と表現できると思うのです。そうすれば 「一貫性のない自己」という人間の非合理性を、「分人」という概念で当たり前に受容される日が来るかもしれません。》

 私の今までの経験則からすると、この「分人化」という考えは意外に腑(ふ)に落ちるのである。私にコミュニュケーションの相手が100人いるとすれば、細かくは100通りの対応をしているように思っている。ラジオのチューナー(同調回路)のように相手の波長に合わせて、同調させるべくチューニングしていくるわけである。そしてもう一方で、私の波長を受け止めてくれる相手がいるわけで、双方の感度が良好で気の合う人もあれば、なかなか同調できずに不仲な人もできるのであだろう。しかも時間の経過の中でお互いが変化していき、その同調にも変化が生じるのかもしれない。著者が言うように人はさまざまな出会いによって変化し分化していくことで、人間形成が出来上がり、歳を経て分人化することに慣れ、より細分化し丸みを帯び、人間味をまして行くのであろうか。

 しかし一部の人は相手によって何パターンかで対応しているような人もいる。相手が男か女か、年齢が上か下か、職位が上位か下位か、性格が攻撃的か従順か、・・・それによって自分のスタイルを決めてくる。そういう人は仲間内でも浮いた存在になりやすく、対人関係がいつもギクシャクしているように見える。自分を変えないことがプライドとでも言うように、頑なにそのそスタイルを押し通そうとするのである。もう一つは宗教の戒律に縛られた人たちである。確かに多くの人が共存しなければいけない社会では、宗教の道徳規範があることは有用なことのようにも思っている。しかしあまりにもガチガチにその規範にしたがって生きている人は、見ていて人間くささがなく、個性がないように思える。そういう人達に「もう少し自分らしく生きてみたら、・・・」そう思うのは、私に主義主張が乏しいからだろうか。

 私の理想は、生れたからには楽しく自在に生きてみたい、と思っていた。したがって目標設定を明確にし努力を積み重ね、歯を食いしばって生きていくタイプではない。子どもの頃から勉強もそこそに、どちらかといえば成り行きに流されて生きてきた方である。だから勤めていた会社もあっさり辞めてしまったり、どちらかといえば気ままな人生であったようにも思っている。ただ自在に生きるには自分自身が自在でなければいけないとも思ってた。そのためには相手が女性であろうが男性であろうが、老人であろうが子どもであろうが、上司であろうが部下であろうが、社長であろうがパートターまーであろうが、人として対等なのだという意識を持ち、初対面の人とはニュートラルに接し、相手に合わせて人間関係を作っていったように思っている。結果的にはそのことで、自分が分人化しやすくなり、100人100様の対応がスムーズにできたようにも思うのである。アイデンティティーは固定したものではなく、相手によって分化するもの、そういう風に心得ていれば、人生は意外と楽に生きられるのかもしれない。







老後対策

2014年05月09日 08時22分33秒 | Weblog
 5月3日、青梅線の河辺駅に集まり、迎えに来てくれた友人の車で彼の自宅に行く。そこで一服し、塩船観音のツツジを見てから青梅を散策する。これは毎年の行事になっていて、もう6年も続いている。最初は青梅に住んでいる友人の誘いで、何人かで塩船観音のツツジを見に行った。その時のツツジの見事さに皆が感動し、「又来年も」ということから始まったのである。メンバーは年によって入れ替わるが、いずれも60歳を過ぎた元の会社の同僚である。なぜ何年も続くようになったか?それにはそれなりの理由がある。

 メンバーの一人が、60歳の退職を前にして、「退職後の心構え」という内容のセミナーを聞きに行った。セミナーでは退職後の生活設計などについてアドバイスを受けたが、その中で彼がもっともショックを受けたことがある。それはその席で週間、月間、年間の白紙のスケジュール表を配られ、これに退職後を想定して自分の予定を記入するように言われたそうである。その時に書いたのは、週間では毎朝7時から1時間散歩、それから朝食、ゆっくり朝刊を読み、後は昼飯と夕飯と風呂、月間は毎週の何曜日かを決めて週一のゴルフ練習、年間は正月の初詣以外は書くことが思い浮かばなかったそうである。「俺から仕事を抜いたら、何も予定が立たない」、そのことを見せ付けられて愕然としたという。彼はそのことを何人かの仲間に話して聞かせた。仲間も当時はまだ嘱託などで働いていてはいたが、やはり退職後の過ごし方に大きな不安を持っていた。そんなことからゴールデンウイークのどこか1日、塩船観音のツツジを見るために集まる。それは強引に誘いあわせなくても自然と定着するようになったのである。

 以前勤めていた会社のOB会(10名程度)がある。原則年2回であるが、前回の会が終わった時に、次回は8月21日(木)PM5:30からと半年先の予定が全員一致で決まった。この時あるOBが、「俺の手帳はスカスカだが、これで一つ予定が入ったよ」と笑っていた。これは仕事をしている時には考えられないことである。働いている時は年間の2/3は仕事で埋まってくる。プライベートな時間は1/3で、それも若い時には家族と共有する時間が大半であった。しかしリタイヤする頃には子どもは独立して行き、女房とはそりが合わずに、いつの間にか邪魔者になっている。そして今までなんとなく詰まっていた予定はなくなり、自分のスケジュールは自分のプライベートな用事で埋めなければいけない。それは仕事を辞めた途端、現実になるのである。

 私も仲間からそのセミナーの話を聞いて、老後対策を意識するようになった。2年半前から水彩画教室に通うようになったのもその一つである。水彩画教室が月2回で年24回、麻雀の集いが月1回で年12回、OB会が年2回、塩船観音が1回、随時誘い合って昔からの友人と会う機会を月2回程度設けるとして、これで年間60日は対外的な予定は埋まるはずである。後は日常の生活で何をするかである。庭に畑を作って家庭菜園をする、スケッチに出歩く、ギターを覚える、俳句を勉強する、読書、散歩、時には一人旅、今考え付くことはこんなところである。しかし実際にその段になったら、考えていたようにはいかないようである。結局は自分の興味や意欲や資金がどこまで続くかにかかっているのだろう。

      
                         塩船観音のツツジ



      
                        塩船観音寺は真言宗

      

               

      

      

               
                         古来より伝わる紫灯護摩

               

      
                     境内に積まれた杉の葉に火がつけられる

      
                           高く火柱が上がる

      
                            火渡りの荒行

      

      
                           一般信徒も渡れる
      




ガンの告知

2014年05月02日 08時25分38秒 | Weblog
  フェイスブックで、ある人の記事に友達がコメントをつけていた。そのことで私もその人の記事を読むことができる。記事にはこう書いてあった。

 《 私事、また病のことで恐縮です。最近ふと喉に違和感を感じたので、耳鼻咽喉科に行きました。かかりつけの病院なので、こちらの体調も良く心得てくれていて、診てもらうと、そのドクターは開口一番、「ここより設備の整った病院に行って診てもらってください。紹介状を書きます」ということで、その足で市民病院に行きました。とりあえず診察後造影剤を注射して、CTを撮りました。その後、喉に麻酔して喉の組織を取りました。あれよあれよといううちに血液検査などもして、その結果をドクターから伝えられました。「喉頭癌の疑いあります」、一瞬にして頭の中が真っ白になりました。「まだ、組織の病理検査が終わらないとわからないけれども、最悪な状況もあり得ますから、僕はそれを伝えます」というドクターの言葉は、なまじ隠しだてされるよりはまだましだと思いました。最悪の場合喉頭部の摘出が余儀なくされて、声を失う。でも、人口声帯で話はできる。とのことです。

 病院からの帰り道、もう葉桜になったサクラを見ながら考えました。「声が出なかったら授業できないな」、誰かと話せなくなるとか考えないで、「授業」の心配をしてる........自分。日頃アンチ教師である自分がそんなことを考えている。そんな自分がおかしくて少し笑いました。そして気がついたら頬に涙が伝ってました。病理検査がわかるのが28日。よりによって連休の始まりの日だそうです。どういう結果が出ようとも、運命だと思って受け止めようと思ってます。あんまり美声ではなかったけど、大学時代の私の声。覚えていてくださいね。》

 私にとっては見ず知らずの人である。しかし、こんな記事を読むと身につませれるものである。文章から推測すれば彼は学校の先生であろう。また知人の年齢から推測すると40代後半である。今週の月曜日には病理検査の結果が判明しているはずである。どちらにしてもその人にとっては人生最大の試練であることは確かである。記事の中にあった、「どういう結果が出ようとも、運命だと思って受け止めよう」と思っても、これがいかに大変なことであるかは、今まで色んな人の体験に接してみて感じていることである。そして思うことは、自分がガンの告知を受けた時どんな気持ちでいられるのか、それをどう聞き、どう受け止めるのか、やはり私にとっても最大の試練なのである。それもそんなに遠くはないうちに、

 先週、知人のお通夜に参列した。故人とはここ7~8年のお付き合いであるが、馬が合うのかよく飲みにいった仲である。彼は71歳、サラリーマン時代は部下に対して厳しい人であったようだが、しかし私の知る彼は気遣いの人であり、誰に対しても優しいく穏やかな人であった。昨年の3月、尿道ガンが見つかったと彼から連絡がある。治療としては入院はせず通院で抗がん剤でガンを叩き、小さくしてから手術するということであった。そして予定通り、昨年8月に手術をしたようである。術後は順調ということなので、久々に浅草で会うことになった。話し振りも以前と変わった様子はなく、いたって元気そうである。病状についても楽観的な口ぶりで、「今は医者に酒は止められているが、来年には又一杯やりましょう」ということで別れたのである。しかしそれから3ヶ月もしないうちに、ガンが(全身に)転移しているという連絡を貰う。この時も淡々とした話し振りで、やはり入院はせず自宅で闘病生活をするということであった。その後は連絡することも憚られ、彼の様子はわからないままであった。そして先週突然の訃報である。病気が判って1年あまり、人の命とは果敢ないものである。

 お通夜で聞いた話では、今年の3月頃から足が浮腫んで歩行もままならなくなり、外出時は車椅子を使うようになったそうである。たまたま一人でトイレに行った時に倒れてしまい、頭を強打して意識を失ってしまった。直ぐに救急車で病院に運んだが、翌日の早朝に帰らぬ人となったしまったという。家族の話では最後の最後まで、にこやかに穏やかに淡々と病気と向き合ったてしていたそうである。お通夜には彼の付き合いの広さと人柄からか、100人を越す弔問客があった。そんな中、誰に聞いても、彼は周りの人に対してはいつもにこやかに穏やかに有り続けたようである。しかし当然、彼の心の中では大きな動揺と葛藤が有り続けたはずである。それを彼はどう克服していたのであろうか? 遺影のにこやかに笑う彼の顔をみると、尊敬の念と、又一人得がたい友人を失ってしまった喪失感が、こみ上げてくるのである。

 今やガンによる死亡率は3人に1人といわれている。我が家系では父も母も、祖母や叔父もガンで死亡していて圧倒的にガン家系である。私の場合も体質的に心症患や脳血管症患より、ガンによる最期を迎える確率の方が高いであろう。ガンの場合は臨終を迎えるまでに家族と過ごす時間があるから良いだろうという話もあるが、私は長く生きるというより、苦しみたくないという希望の方が強い。人は何時かは最期を迎えるわけで、それがどんな形になるかは誰もわからない。しかしどんな形にせよ彼のように、自分を乱すことなく穏やかに逝きたいたいと思うのである。