60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

記憶

2009年10月30日 09時05分16秒 | Weblog
先週、離職して完全主婦業をやっているOさんと飲んでいた時の話である。   彼曰く、
毎日同じような家事の繰り返しだと、日々の流れの中に句読点がなくなってしまうらしい。
だんだんイライラしてきて、年老いた親に対して、怒ってみたり、辛く当たってみたりするという。
毎月1回私と飲むことは家族には公認で、家事をしなくてよい絶好の理由になるらしい。
何もそこまで家事に律儀さを持つ必要もないように思うのだが、それが主婦業なのだそうだ。
今、月1回の飲み会がストレスの解消、憂さ晴らしとして無くてはならない物になったと言う。

そしてこの句読点が、毎日変わらない時間の流れの中の記憶の付箋にもなるようである。
「前回会った日の翌週の何曜日に・・・・」というように思いだす記憶の目印になるらしい。
毎日気晴らしで行くコーヒーショップ、毎週末の馬券場通い、毎月の私との飲み会、
これがないと記憶に付箋が付かず、自分が今どこにいるのかも見失ってしまいそうだと言う。
そんな話の流れから、時間の経過とその時々に残っている記憶、という風に話は移って行く。
そして人生最初の記憶は何歳で、どんな記憶が残っているのだろうかという話になった。

幼い記憶はあいまいで、時間の特定ができるものは少ないが、私も思い出す記憶がある。

3歳
後々、親に聞いて整合性を持ってくるのだが、多分これが一番古いだろうと思うものがある。
私には3つ下に双子の弟がいた。上が康男、下が俊男、しかし康男の方は生まれて間もなく
亡くなったそうだ。その当りの記憶はないが、たぶん家内でささやかな葬儀を行ったのだろう。
近所の人や親戚だろう大勢の人が集まっていて、子供ながらにはしゃいでいたようである。
持ち込まれた小さな棺(子ども用)の中に、ふざけ半分で自分が中に入って寝そべって見た。
私の記憶は、狭苦しい板の棺、それの周りを取り囲んで大人達の笑った目線が私を見下ろし、
何か喋っていたのを覚えている。「子供は無邪気だねぇ」多分そんな会話であったであろう。
弟が3つ下だから、その時私は3歳だったはずだである。

4歳
戦後まもなくで、幼稚園の数は少なく、希望者全員が行ける状況にはなかったようである。
希望者はくじ引きで入園を決めたいた。私はおばあちゃんに手を引かれ、幼稚園に行った。
運動場にテーブルが置かれ、その上に真四角なボックスがあり、中から三角くじを引いた。
それを先生だろう人に渡すと、くじの周りを切り取って私に手渡してくれる。
それを開けてみると、そこに×のマーク。「残念だったわね」それで私は入園はできなかった。
近所の友達が幼稚園に通うのに、私は5歳の1年間いつも一人で過ごしていたように思う。

5歳
7月30日は父の誕生日である。当日の朝、父に何かプレゼントして驚かせようと思いついた。
誕生日には子供達はプレゼントは貰えたものの、子から親への習慣は無かったはずである。
色々考えた末、父の好きなタバコを贈ることにする。しかし自分の小遣いではお金が足りず
買うことができない。母に「買いたいものがあるから、お金をちょうだい」と何度も頼み込む。
母は「何を買うの?」と聞き、「何を買うのか言わなければダメ」と取り合ってくれなかった。
家族をビックリさせたいのが目的の私はしゃべることは出来ず、とうとう泣き出してしまった。 
しょんぼりと座った夕食の席で母が「ひろしがお金をほしがって、何を買うのか言わないのよ」
と父に言い付ける。父は「ひろしは何がほしかったんだ?」と尋ねる。答えないわけに行かず、
「今日はお父さんの誕生日だからタバコを買って上げようと思ったんだ」と白状してしまった。
「そんなことなら、そうと言えば良いのに」と母親は言ってのける。「そんなことではないんだが」
これは、幼稚園に行けず家でぶらぶら過ごしていた時のこと、たぶん5歳であろう。

6歳
私が6歳の時は1950年、昭和25年である。「あと50年経てば2000年という年になる」
ある日、ふとそんなことが自分を捕えた。2000年というはるか先、思いも及ばない未来が、
50という自分の数えられる数字を足すことで、現実のこととになるように思えたのであろう。
その2000年の時、自分は56歳になっている。多分働いていて、この世に生きているだろう。
その時父は86歳、母は79歳になっているはず、「そんな歳まで2人は生きているだろうか?」
そう思うと急に不安が襲ってきた。「一人ぼっちになってしまう」ただただそう考えてしまった。
幼い頭ではこれから先がイメージ出来ないから、今の状況の単純な延長を考えたのであろう。
そんなことで一人で落ち込んでいたのは、お正月のぽかぽかと日が当たる昼下がり縁側で、
一人ぼんやりと座っていた時。そばに三毛猫の「ミーヤ」が寝そべっていた。

7歳
小学2年になると、漢字が多くなる。ある日テストがあり一つの漢字が分からず困っていると、
隣の女の子が自分の答案を私の方にずらし見せてくれた。私は横目で見ながらそれを写す。
後日先生が採点し答案を返す時、隣の子に「人のを見てはだめだよ」と強い口調で注意する。
隣同士で同じ漢字を同じように間違っていた。私の方が彼女よりは成績は良い方だった。
先生の先入観で、彼女が見たことになってしまっている。さあどうしたらいいだろうと戸惑う。
「私が見ました」と言えないまま黙っていると、「すいません」と隣の女の子が先生に謝った。
後ろめたさ、自分の卑怯さ、意気地なさ、子供ながら嫌な自分自身を見たのはこの時だった。

8歳
校内で「作曲コンクール」というものがあった。3年と4年、5年と6年それぞれのグループに
音楽の先生から「詩」が配られる。生徒は各々に笛やハーモニカを持ってきて、曲を考え、
楽譜に書いていく。私はその詩を2~3回黙読すると、すぐに旋律が浮かんできた。
ハーモニカでその曲を吹きながら、一つ一つの音階を探して楽譜に書いていった。
後日優秀作品の発表がある。私の作品は3、4年での優秀作品の何人かに入っていた。
全校朝礼で、先生の伴奏で歌った記憶がある。その時の晴れがましさ今でも忘れられない。
今もその歌詞と曲とは覚えている。「ほろほろほろと、ハトが鳴く、皆な元気ハトの声、・・」

記憶とはどのようなものであろう。
つい最近の事も、何十年も昔の事も、どちらに優先順位があるわけでもないように思える。
多分記憶のファイルは年代順に積み上げられているのではなく、小さな引出しに「何か」と
関連付けられて保存されているのだろう。その「何か」とは、その時の感情ではないだろうか。
怖かったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、心の動揺が大きいほど、記憶は鮮明である。
人がより良く生きていくために、過去の経験を活かすために、その記憶が役立つのであろう。
今の私に記憶(経験)という物が残っていなければ、ただのぼけ老人である。曲りなりにも
まだ現役で働けているのも3歳から記憶されている心の動揺の数々が今に生きていると思う。
そう思うと「若い時は苦労は買ってでもしろ」という意味がよくわかる気がする。

今の世の中、ストレスフルで生きずらい世の中のように思える。しかし今の若者を見ていると、
なるべく平穏にと、いろんなことに一線を構えて、深入りはしないというスタンスが多いと思う。
それでは記憶に残らない。挫折を知らない人は使えない。挫折を知る人は人に優しくなれる。
そんな言葉もある。やはり、つまづきながらでも前向きに歩いた方がいいように思うのだが、

糖質制限

2009年10月23日 09時20分16秒 | Weblog
今、ダイエットのためには「カロリー制限」をするより、「糖質制限」をする方が正解ではないか、
と思っている。それは身近にいる2人が「糖質制限食」をやって、結果を出しているからである。
一人は私の友人で、糖尿病境界型と言われ、4月からこの糖質制限の食事療法を始めた。
今、彼は糖尿病境界型から脱し、数値的には正常になって、すこぶる体調は良いようである。
もう一人は私の義弟、医者をしているが何時も肥満気味、本人はアイスクリームが大好きで、
時に絶食をしてカロリー制限してまでアイスクリームを食べていた。その義弟とお盆に逢った時
いつもと違ってスリムな体型をしているので聞くと、「糖質制限」をやっているとのことであった。
2人とも「糖質制限食」を始めてから半年も経たないうちに8kg近く減量したようである。

私は意識して食事の量を減らし、できるだけ低カロリーのものを食べるようにしてダイエットを
心がけてきた。しかし、なかなか上手くはコントロールできない。私は別に糖尿病ではないが、
糖質制限とはどんなもか?、体に不都合はないのか?それにより減量できるものなのか?
そんな興味から、「糖質制限食」というものを勉強してみる気になった。
早速、本屋に行き、「主食を抜けば糖尿病は良くなる」※江部康二著と、「我ら糖尿人、
元気なのには理由(ワケ)がある」※宮本輝・江部康二対談集の2冊を買って読んでみる。

本に書いてある「糖質制限食」の基本は2点である。
1.ご飯やパンなどの主食やいも類など糖質の多い食品はほとんど摂らない。
2.肉や魚、油ものなど、脂肪分や蛋白質の多い食品は好きなだけ食べてもいい。
平たく言えば主食を食べない代わりに炭水化物を含まないおかずばかり食べるこのになる。
米、麦、小麦、芋、トウモロコシなど糖質を多く含む食物を極力食べなければ、後は何を
どのように食べてもいいというものである。(お酒もビールや日本酒などの醸造酒は糖質を
多く含むためにダメだが、焼酎、ウイスキーなどの蒸留酒は無糖で特に制限はしない)
(炭水化物≒糖質+食物繊維と考えられるが、その炭水化物を取らないことで食物繊維の
不足が考えられるため野菜などのは多めに食べた方が良い)

今までの糖尿病の食事療法とは全く逆の処方である。カロリー制限をするのではなく、糖質
制限をすることで、糖尿病を改善して行くというものである。副効果として体重も落ち体調も
よく、引いてはメタボも解消するようである。これが正しければ今までの定説の否定である。
はたしてこれは正しいことなのか?体にとって良いことなのか?興味津津なテーマである。

糖質制限食効用の理屈はこうである。
糖質を摂取すると血糖値が高くなり、それを調節する人間のホルモンはインスリンだけである。
インスリンは血液中のブドウ糖を取り込み、エネルギーとして利用したり、脂肪やグリコーゲン
にして体内に蓄える。このたった一つの糖質調節メカニズムであるインスリンがパワーダウン
した時、食後の血糖値が異常に高い(200mg/dl以上)状況が続くことになる。
この高血糖は血管内皮に障害を起こすことになり、様々な特徴的な合併症をきたしていく、
この一連の障害が糖尿病である。厚生労働省の推測では、今や日本人の1400万人が、
糖尿病あるいはその予備軍であるとされているほどである。

正常な人でも糖質の多いものを食事で摂ると血糖値は上がり、食前と食後の血糖値の
差が大きいほど血管内皮を傷つけていると考えられる。従来の糖尿病観でやり玉に挙げ
られていた脂肪を多めに摂ったとしても、食後血糖をほとんど上げることはない。そのため、
血管の障害は起こらなくなり、糖尿病のリスクはないのである。
では、糖質以外の脂質や蛋白質だけでエネルギー補給や体調の維持ができるかである。
食事由来の糖質がなくても、アミノ酸や脂肪酸の分解産物を材料にして肝臓が常に
ブドウ糖を作っている。だから糖質制限をしても人体に必要な血糖値は常に保たれる。
本はエネルーギー源としてのケント体について詳しく説明しているが、ケント体なるものの
説明は容易でなく、また長くなるのでここでは省く。

心臓や筋肉や脳も、そのエネルギーの8割から9割は脂肪酸とケント体で維持されている。
「脳はブドウ糖しか使えない」という定説も間違いで、脳は脂肪酸の代謝産物のケント体を
いくらでも利用している。人にとって脂質こそがメインのエネルギー源であり、糖質はそれを
補助するサブ的なものに過ぎない。今まで我々は糖質というサブのエレルギーを重視しすぎ、
脂質というメインエネルギーを軽視し排除しようとしてきていたようである。

北極のイヌイットはほとんど穀物を摂取せず、魚やアザラシなどの動物蛋白や脂肪に頼って
生きていた。彼らには脳血栓や心筋梗塞などの血栓性疾患や動脈硬化などの血管の病変、
あるいは糖尿病や癌などの先進国に多い病気はほとんどが極めて少なかったそうである。
それが今は西欧食が一般的になりつつあり、糖尿病や癌の発生が目立ち始めたそうである。
人類が誕生して約400万年、農耕が定着して穀物依存できるようになったのは約1万年前、
穀物依存する以前の何百万年間の人類は長い間、狩猟民族として生活していた。
その食事内容は動物、魚、野草、果物、木の実などが中心で、今よりは糖質の摂取量は
圧倒的に少なかったはずである。したがって、人体は基本的には脂質やたんぱく質依存の
システム設計になっていて、糖質はサブ的なものと考えられる。

今の我々の食事は糖質を大量に摂取しすぎていて、いわば糖質の中毒症状を起こしている。
そのため、サブシステムである膵臓に負担がかかりすぎ、インスリンのトラブルが多くなる。
だから人にふさわしい食物に変えることで、サブからメインにエネルギーの摂取を変化させる。
このことで、体のバランスを正し、結果健康を取り戻すことになるというのである。
従来の糖尿病食は 糖質55~60% 脂質20~25% タンパク質15~20%である。
糖質制限すると   糖質 30%前後 脂質 45%前後 タンパク質25%前後に変わる。
糖質からのカロリー摂取を抑え、脂質からのカロリーを半分近くにして行くものである。

以前このブログでも書いた「コラーゲン」。コラーゲンが不足するからコラーゲンを食品から
補うという考え方はあまりにも素人的な発想であると認識した。
《食品として摂取されたコラーゲンは消化管内で消化酵素の働きにより、ばらばらのアミノ酸に
消化され吸収される。吸収されたアミノ酸は血液に乗って全身に散らばって行く。そこで新しい
タンパク質の合成のための材料になる。しかしコラーゲン由来のアミノ酸は必ずしも体内の
コラーゲンの合成原料とはならない。むしろほとんどコラーゲンにならないと言ってよい》
これと同じで、食品由来の脂肪が体内の脂肪に置き換わるというイメージは間違いである。
サブエネルギーの糖質の方が即効性があり、脂質より優先的に使われる。短時間の間に
使われなかった糖質は脂肪やグリコーゲンとして体内に蓄えられる。これが体脂肪である。
したがってメタボの原罪は糖質の取り過ぎにあり、脂質は無罪なのである。

本を読み終わって感じることは、今までの私が持っていた糖尿病や肥満に対しての認識と全く
違うことが書かれている。今までのカロリーコントロールよりは、糖質コントロールの方が重要
であり効果的だというのである。これには賛否両論があり、さまざまな意見があるであろう。
本に書いてあることは著者の江部康二氏の実証にもとずく、一つの見解であり、意見である。
かと言って、私の持っている今までの知識や常識もまた人や書物からの受け売りに過ぎない。
どちらが正しいか、やはり自分の身を持って経験することがてっとり早いし、納得がいくと思う。
65歳を過ぎた今、これをやることで大きな障害があるとは思えないし、いまさらどうでも良い。
そんなことから、今週からこの糖質制限食に挑戦することにした。

始めてみてわかったことだが、外食比率が高い私としてはこれは結構大変なことである。
朝、モーニングセットの時は「パンを抜いてください」となり、サラダと珈琲とヨーグルトになる。
昼は蕎麦やパスタがダメとなると、定食屋に行き「ご飯はいりませんから」ということになる。
主食のごはんを抜いておかずだけではいかにも貧弱で、食べた気がしない。したがって冷奴や
野菜炒めなど、もう一皿追加で頼むことになる。夜は主食の変わりに焼酎のお湯割りを飲む。
それと、おかずを何品も食べることになるのだが、主食のコメや麺がないと腹持ちが悪くなる。
結果、多くのおかずを食べることになってしまう。体に害はないと思うが、食費はかさむだろう。
さてさて、どうなるのか?我ながら楽しい挑戦である。経過はまたブログに書こうと思う。


過呼吸

2009年10月16日 09時45分54秒 | Weblog
夜9時ごろパートから帰ってきた女房が、「息が苦しくて我慢できない、どうしよう」と訴える。
「朝から苦しかったが次第にひどくなってきた。これでは明日の朝までは耐えられない」と言う。
土曜日の夜だし救急病院しか思い当らず、私は近くにある救急病院に連れて行こうとした。
しかし女房は、あの病院はロクな医者がいないと近所で評判だという。「あんな病院に
行くのは嫌だ。出来れば呼吸器の専門の医者がいるところでないと心配だ」と言い出す。
こう言いだすと女房は人の意見は聞かない。自分が納得いかないと済まない性分である。
相談されたから今考える最善の方法を言ったわけだが、彼女はそれでは納得したことがない。
何時もこれで喧嘩になる。「じゃあ、自分の好きなようにすれば・・」これで決裂することになる。

女房は娘に手伝わせて、ネットで調べた6~7軒の病院へ片っぱしから電話を掛けまくる。
「今は当直の技師がいないからレントゲンが撮れない、だから来てもらっても検査ができない」
「当院は診察はできるが、重大な容態であっても今ベットが空いていないから難しい」等々
結局すべての病院から体良く断られてしまった。その間も「苦しい、苦しい」と言い続ける。
「救急車を呼ぶか?」私の提案に「救急車でも今電話を掛けた病院へ連絡を取るだけで、
結局たらい回しになるだけだから」、やはりこちらの提案に素直に従うことはありえない。
自分の思考が堂々めぐりしているのだろう。結論が出ないままとうとう12時を過ぎてしまった。
その間も「苦しい苦しい、息ができない。このままでは朝まで持たない」そう言い続けている。
「どうしよう、どうしよう」何の解決策も考えつかず、私が言った救急病院へ行くことになった。
病院へ着いた時は、すでに夜中の1時を過ぎていた。

その病院は当直の看護婦と技師と大学病院から来ている外科医の3人体制であった。
容態を話すと早速検査に入る。血圧、脈拍、吸入の酸素量測定、肺のレントゲン等々。
検査後、先生は「酸素は充分取れている、肺にも異常がないから今時点では何とも判断
できない。何にか急激なストレスでもありましたか? 精神安定剤でも出しておきましょう」
そういうことで診察は終わった。女房も検査で異常がなかったからか少し落ち着いてきた。
家に帰ったら3時を回っている。明日やっている病院へ連れて行くということで私は休んだ。

翌朝「昨日は苦しくて、まともに寝ることができなかった。どうしよう、どうしよう」と訴えてくる。
「昨日もらった安定剤は効かなかったのか?」と聞くと。眼科の先生が緑内障の恐れが
あるから眼圧を上げる薬は飲むなと言われている。ネットで調べたら、この薬は眼圧を
上げる可能性があるから飲むのを止めたと言う。「苦しさと眼圧のリスクと、どっちが自分に
とって優先するのか?先ずは試してみるべきだろう」そういっても人の言うことは聞かない。
「患者が呼吸が苦しいと言うのに、気休めで安定剤を出す医者は信用できない」と言う。
ああ言えばこう言う、自分が納得しない限り医者の言うことも聞かない。何時もこうである。
自分が高い見識を持っているならいざ知らず、ただ感情だけに支配され物事を判断する。
そんな女房に何時も苛立つ。「だったら勝手にすれば」そういう態度を取るしか方法はない。

最近は土日診療を中心にする病院も珍しくない。9時過ぎに市内の病院へ連れて行く。
病院は患者も多く、結局診察が始まったのは11時過ぎになった。早速検査することになる。
血液検査、肺と心臓のCT、インフルエンザの検査等、病院で可能な限りの検査をやった。
検査結果が出て、医師に呼ばれた時はすでに3時を回っていた。同伴で検査結果を聞く。
「検査の結果に異常と思われるものは出てきませんでした。あとは筋肉から来る場合や
神経から来る場合も考えられます。今はもうすこし様子を見てください」との診断である。
これで女房は納得しない。「これだけ苦しい思いをしているから、対処療法でも何でも
良い、何かこの苦しさをやわらげる薬を出してもらえないか」そんな風に医者に迫る。
しかし医者は「気管支も開いているし、原因がはっきりしないから薬は処方できません。
今日は日曜日で、これ以上ひどくなり耐えられなければ救急車を呼んだ方が良い思う。
又データーは貸し出しますから、なるべく多くの医者に診てもらえばまた違った角度で
病気を捕え解決に結びつくかもしれません」と丁寧に対応してくれる。
私はこれだけ調べてなんら原因になるものが見つからなければ、この医者の知る専門
範囲内で該当するものがなければ、こう言うしかないだろうと思う。しかしワラをもすがる
患者としては「ハイ、そうですか」と言うわけにはいかないであろう。それも分る。

診察室から出て女房は医者に対しての不満を言い募る。「患者がこれだけ苦しいと訴えて
いるのだから、気休めでも良いから何か薬を出すべきだ。薬が出せないなら、点滴でも良い
どうにかして患者を落ち着かせるのが医者の勤めではないか」と言いはる。
自分に納得がいかなければ誰でもが批判の対象にしてしまう自己中な性格なのである。
「こんなに苦しいのに、どうすればいいのだ、どうすれば・」と尚もぶつぶつ愚痴を言い続ける。
検査に異常もなければ後は精神的な問題であろうということは容易に察することができる。
私は「昨日もらった精神安定剤、気休めだと思って飲んでみたら良いではないか」と勧める。
しかし本人はこの苦しさはどこか体の異常が原因で、精神的な問題と言われることに納得が
いかないのであろう。やはり薬を飲もうとはしない。

家に帰ったが、日曜日でもあり、医者が見て原因が分からなければこれ以上打つ手はない。
こんなことを続けていれば女房も疲れ果てるであろうが、付き合うこちらももううんざりする。
夜になって諦めたのか、結局精神安定剤を飲んだようだ。薬を飲んでしばらくしてから、
寝たのであろう。夜中に様子を聞いたら、苦しさは治まってきたという。
安定剤が効いたという事実があるのに、それは女房には受け入れがたいことだったのだろう。
週明け、都内の呼吸器専門病院へ予約を入れ検査結果のデーターを持って行くことになる。
その病院でもやはり本人には納得いく見解は聞くことはできなかったようだ。先生はデーター
を見て「何にも心配することはありません。専門外で何とも言えないが過呼吸症候群でしょう。
特に薬はありません。発作の時は救急病院で出された精神安定剤を飲まれたらどうでしょう」
そんな風に言われたようである。女房は半ばがっかりした面持ちで私に報告した。

ネットで過換気症候群を調べてみると、原因は何らかの誘因により呼吸中枢(脳内にある)が
過剰に刺激され、呼吸を多くしすぎるため血中の二酸化炭素が減りすぎ、さらに呼吸が乱れ
苦しくなるというもの。過呼吸状態になると、血中の酸素濃度は普通以上に高くなるが、
本人は空気が吸い込めないような苦しさを強く感じる。処置は紙袋を口にあて、吐いた空気を
再度吸い込むという行為をくり返し、血中の二酸化炭素濃度をあげる方法が一般的らしい。
「なんだ、スーパーの紙袋一つで治るのではないか」こちらの方ががっかりである。
最初に行った救急病院で出された安定剤を飲んでいればこんな大騒ぎにはならなかった。
人の意見は聞かず勝手に判断し周りを巻き込んで大騒ぎする。こんな事態は日常茶飯事。
私は何十年のことだから、巻き込まれるのは嫌で遠目から、しらーっと見ていることになる。
それが女房には不満なのだろう。それが女房には愛情の欠如に見えるのだろう。それが
彼女にとっての夫婦のあり方に反することだと思うのであろう。多分そうであろう。

その繰り返しが、結果として女房との距離を広げることになり、夫婦仲が悪くなる原因である。
これでも私が悪いのか?努力が足らないのであろうか?愛情が欠如しているのであろうか?
今は「勝手にしたら」それがまぎれもなく私の女房への気持ちである。

ある社員の退職

2009年10月09日 09時12分16秒 | Weblog
親会社の方でまた一人の社員が辞める。彼は46歳、中途採用で2年9ヶ月ほど勤めた。
入社後1年以上かけて仕事を引き継ぎ、1年前から仕事も一人でやれるようになっていた。
仕事は受注した注文を何段階かの加工先に手配し納めるまでの工程と納期管理である。
顧客の要求通りに納品して当たり前、納期遅れや商品クレームは彼の責任範疇になる。
会社の中では要の仕事で、煩雑な業務や日々納期に追われることに神経をすり減らす。
そのため誰もがその仕事を敬遠して、何も知らない新入りにお鉢が回ってくる感じである。
業界のことも商品知識も乏しい彼がこの仕事を回すには少し荷が重すぎたのかもしれない。
仕事が自分の物にならないまま、営業との感情的なしこりや摩擦が引き金になってしまい、
結局辞めることになったようである。

オーナーは人の管理が苦手である。特に社員間のトラブルや感情の縺れには介入しない。
「私は命令してやらせるのは嫌だし、やる方も嫌だと思う。だから社員の自主性に任せる」
それがオーナーの言い分である。そのためオーナーは公私とも社員との交わりを極力避ける。
どちらかと言えばチームプレーは苦手で、社員には評論家的なスタンスに立つことが多い。
オーナーに代わって管理する人間も置かず、労務管理的なものは存在しない会社である。
オーナー自身が「この会社は弱肉強食のサファリーパーク」と、その野放図さは認めている。
しかし「指図されて動くのは人間的ではない」と言って、社員管理に乗り出すことはない。

そんな野性の世界で生存していくには一人一人が生きる術(すべ)を持たねばならない。
誰にも有無を言わせぬ実力をつける。徒党を組む。マイペースを貫く。強い者にすり寄る。
まさしくサファリパークの動物のように生きるための戦略を持たねば生き抜いていけない。
「のほほん」としていればたちまち、周りから寄ってたかって攻撃されボロボロにされてしまう。
そんな環境の中で過去に多くの社員が辞めていった。仕事の適正を欠いた人もいたが、
多くはこの会社の雰囲気に馴染めず、会社に失望して辞めていった人がほとんどである。
会社という人間の集団であれば、どこの会社にも大なり小なり、あることなのであろうが、
管理された大企業とは違い、中小零細ではそれがより鮮明に出てきてしまうようである。
その環境の中で勤め続けるには「彼」はあまりにも大人しい「草食系」タイプであった。

彼は子供はいなく奥さんと2人暮らしである。毎日定時に地下鉄の入谷駅に降り立つ。
言問通りを歩いて2つ目の信号を右折し、角の100円均一の自販機で飲料を買う。
会社までの道のり歩きながら煙草を吸い、吸い殻は道端の下水口に投げ込んで捨てる。
10分程で会社に着くが、会社に直ぐに入らず、素通りして隣にある公園のベンチに座る。
そこで又煙草を一本吸い、吸い終わると靴底で火をもみ消す、さらにもう一本を吸う。
2本目の煙草を吸い終わると、2つの吸い殻を拾い、やはり道端の下水口に投げ入れる。
やおら玄関に立ち意を決したように扉を開け、一礼してから事務所の階段を上がっていく。
これが彼の1日のスタートである。この行動パターンは変わることはない。

机に座るとPCを立ち上げ、ウインドウズ付属のスパイダ、ソリティアというゲームで一回遊び、
それから仕事に取り掛かる。お昼は奥さん手作りの弁当を食べ、思う存分煙草を吸って
又仕事に戻る。仕事が終わってからはほとんど寄り道をせず、まっすぐ家路に就くのである。
休日は2匹の飼い犬の散歩、奥さんとの買い物、そして時々2人での外食を楽しんでいる。
彼の趣味は夜空の観察、流星群が来た時など、群馬天文台に行って星を見たそうである。
彼のパソコンのディスクトップは月のデコボコの表面が大写しになっている写真が貼ってある。
出世など望まない、心穏やかに毎日を暮らして行ければそれで良い、そんなタイプである。

彼は純粋な草食系だから人と戦うことうをしない、しないというより戦えないのかもしれない。
したがって社内外の人間関係を良好にしようとすると、どうしても自分の方が折れてしまう。
自分が相手の要求を全て受け入れることで、相手との良好な関係を維持しようとする。
その戦略は女性社員には好感を持たれ受け入れられても、サファリパークでは通用しない。
肉食系の男子社員からは良いように扱われ、理不尽な要求をされ、使い走りに使われる。
又彼をバカにすることで、自分の優位さを周りに示そうとするヤカラまでが出てくることになる。
彼の誠意、努力はなんら報いられることなく、社内の力関係の最下位に位置されてしまう。

昨年暮れ、彼は腰痛を起こし3ヶ月弱休んでしまった。彼は否定するが仕事のストレスが
昂じた事が原因だと思われる。復帰して半年経過したが、結局そのストレスに耐えることが
出来なかったのだろう。ある営業担当の言動に耐えかね「辞める」ことを決意したようである。
彼が辞めることで会社の業務としては大きな支障を来す。しかし自主性を言うオーナーは
「来るもの拒まず、去る者追わず」と引きとめることもせず、トラブルには関わろうとはしない。

彼は前に勤めていた会社も、社内の人間関係が原因で自ら身を引く形で辞めたと聞く。
縦列の会社の中では、すこしでも自分の優位を示すために相手を大きな声で威圧したり、
相手のミスをなじったり、欠点を言い募ったりすることで、上位に立とうとする連中が多い。
そんな中では自分の殻に閉じもり、自分を殺し、ひたすら耐えているだけではだめである。
一回で良い、自分の正しさを言い張り、自分の主張を通し、相手の要求を拒絶すれば
呪縛から抜け出すことができる。そのことで相手との関係が変わり、環境が変わるのだが。

管理された大企業であれば配置転換ということも考えられるのであろうが、中小企業では
そのポストもないし、そこまでの配慮を期待しても無理である。やはり誰に頼るのではなく
自らが勇気を出して打開するしかなかった。だが残念ながら彼にはその「勇気」がなかった。
「勇気」とは生まれながらに備わっているものではなく、自分の中から絞り出すものと言う。
ちょうど高い飛び込み台から飛び込むようなものである。一度飛び込んでしまえば次からは
恐怖が亡くなり飛べるようになる。そんなものであろう。

今朝の朝礼で彼は「退社」の挨拶をした。
か細い声で「短い間でしたが、皆さまにはお世話になりました」とだけの簡単な挨拶である。
彼は今晩から実家がある奈良に帰るという。それも送別会を拒否するためなのであろう。
もう彼はいっときも会社にいたくない、会社の誰とも関わりたくない。そんな心境であろう。
それほど彼は傷ついてきたのかもしれない。会社が恐怖の対象であったのかもしれない。
彼は大勢の人の中で協調しながら仕事をして行くのは不向きな性格のように思われる。
どちらかと言えば決められたマニュアルに沿って、動く方が力を発揮できるのかもしれない。
彼は落ち着いたら地元の工業団地をしらみつぶしに当たってみようかと思う、と言っている。
しかし昨年来の不況、製造工場にしても、おいそれとは再就職先は見つからないだろう。
家のローン、車のローンがまだたっぷりと残っているという。彼には生き辛い世の中である。

無印良品

2009年10月02日 09時22分46秒 | Weblog
池袋の西武百貨店内に無印良品の売り場が移設して新装オープンした。
無印の全アイテムが揃い、都内で2番目の大型店ということで、立ち寄ってみることにする。
パルコと反対側で、地下に「リブロ」という本屋がある棟の1階と2階が無印の売り場である。
正面1階の入口はスキンケア商品が占め、その奥は婦人ウエアの売り場が占有している。
一番奥に菓子中心の食品売り場、その配分で今後の無印の方向が見えるように思える。
2階部分は家具やインテリアの住居関係の商品や家電関係の商品が展開されている。

先日新聞で無印良品としては今後アイテム数を絞っていくという方針が記事になっていた。
15年前2,700アイテムだったものが今や7,500アイテムまで広がっているという。
商品全てがPB商品、その商品を製造段階から管理していくには困難が伴うことは容易に
想像出来る。またこれ以上広げれば広げるほどブランドの個性が弱くなって行くようにも思う。
そんなことから無印良品も扱い商品群やアイテムを絞り、より個性的な品揃えが不可欠で
あるようにも思えてくる。

1階から2階に上がると、2階の一画に「無印良品の理由(わけ)展」というのをやっていた。
入口に「無印良品が商品に込めた思いや、誕生から29年を経て今に至るまでの歩みを、
展覧会を通してご紹介します」と書かれている。何となく懐かしくのぞいてみることにする。
展示会場には代表的な商品が並び、商品の上に、商品が「無印良品」として開発された
理由(わけ)が書かれている。90度に曲がった靴下、柄にリボンが通せる穴がつけてある傘。
読んでいけば商品ごとの開発理由がわかり、商品の面白さが伝わってくる。
会場の最終コーナーに、無印が出来てから今までの販促用のポスターが展示してあった。
時代順に並べてある30枚程度のポスターを見ると、今までの会社の変遷が伝わってくる。
「わけあって安い」、「鮭は全身鮭なんだ」、「愛は飾らない」、「ひとりひとりの無印良品」
昔見た懐かしいポスター、これを見ると30年前のことが思い出される。

今から30年前、「無印」誕生前の現場に私もいた。当時も今と同じような社会状況から
価格志向が強く、大手量販店も盛んにPB商品を作り始めた。社名を冠したPBに加え
「ジェネリック商品」としてブランドに囚われないPB商品の開発にも各社が乗り出していく。
いわゆる「ノーブランド」である。無印はこの「ノーブランド」を直訳してつけられた名称である。
発案は当時のセゾングループを率いる堤清二とデザイナー田中一光との交流から生まれた。
この企画を立ち上げるにあたり会社にプロジェクトチームが出来、具体的な商品開発は
自社内の商品の仕入れを担当していた全バイヤーに対して提案依頼を行っていった。
その時の選定条件が「ただ安いだけではなく、その安さの理由を付加する」というものである。
そのコンセプトで集められた商品から、食品中心に40品が開発されスタートしたのである。

その後二次三次と企画募集があり、私も何品かが(確か5品)採用されデビューしていった。
しだいにアイテムが増えていき、それまで同じ商品群の売り場で売られていた無印の商品を
今度は店内の一ヶ所に集め一つの塊として販売するようになる。そして3年後路面店として
青山に出店したのである。一スーパーのPB商品をまとめてショップ販売する、しかも青山で、
その奇抜さと新鮮さが話題になり、無印の広告塔の位置づけになり売上を伸ばしていった。
当時携わっていた社員は、あまりの奇抜さに「さすがの堤清二も狂ってきたか」と、ある種
批判的なスタンスで見ていたが、それがヒットして評価せざるを得なくなったことを思い出す。
このあたりが我々凡人には思いつかない堤清二の着想であり、先見性であったのだろう。

一スーパーの商品から決別してブランド特化へと舵を切ったことが、無印成功の鍵であろう。
その後会社として独立し、ヒット商品を生み出し、アイテムも店舗数も次第に増えていった。
今や海外にも店舗を持ち1600億の売上で、2400人の従業員を抱えるまでに発展した。
しかし生みの親の西友はアメリカ最大の小売業に買収され、再建を目指して苦労している。
当時ライバルだった国内の量販店も今やその大きさ故に身動きがとれず四苦八苦している。
昨日の新聞にヨーカ堂は3年間で30店舗閉鎖という記事があり、イオンも3年間で60店、
ダイエーも3年間で20店閉鎖と、今まで広げてきた戦線の縮小時期に来ているのである。

展示会を見て、私が仕事として関わり、通り過ぎてきた小売業の40年を振り返てってみると、
「勢者必衰」ではないが、企業の勢いが何時までも続くことの難しさを実感してしまう。
大きくなればなるほど、時代の変化についていけず、やがて衰退するか、強制的な変革を
求められるようになる。激動の小売業の中で今まで天下をとってきた企業はやがて滅びる。
そして次代を担う企業が台頭してくる。それがユニクロやニトリなのであろう。
冷静に観察すれば今伸びているユニクロにしてもニトリにしても消費者に支持される理由が
あるように思う。反対に衰退する企業は衰退する理由(わけ)があるように思える。
常に謙虚に消費者の目を感じ続けることができる企業が生き残り、反対にそれを見失った
企業が衰退していく。

無印の初心は「わけあった安い!」である。消費者が商品を買うには必ず買う動機がある。
その動機を見極め分析し、そして新たな購買につなげる理由(わけ)を考え続けることが
無印良品が今後とも存続できるかどうかのカギのように思う。この会社の一端に関わった
人間にとって、何時までも元気な会社であって欲しいものだと願ってやまない。