60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

血液型

2010年02月26日 09時13分48秒 | Weblog
東京に就職して2年目(昭和46年)、大泉学園の店から国立の店に配置転換になった。
当時日本は高度成長期の真っただ中にあって、物は飛ぶように売れ、上昇機運に乗って、
社会全体に熱気が渦巻いていたように思う。急成長するスーパーには高校や大学を卒業し、
地方からの若い社員が大勢働いていた。仕事は立ち作業や重労働が多く、日々の単純な
作業の繰り返しに将来への期待や夢は失われ、次第に不満を募らせていたように思う。
職場環境からか、若さからか、苛立ちからか、店では様々なトラブルや事件が起こっていた。
言い争いや殴り合いの喧嘩、商品やレジ金の紛失、業者から金品を受け取っての癒着、
節操のない男女交際等々、そこは無秩序で社会の底辺のようにすら思えるようであった。

いつの間にか責任を負わされていたり、非難の的になったり、何人かの仲間に無視されたり、
時にはロッカーの私物が無くなっっていたりと、自分はこの先、この職場で働いていけるのかと
不安を覚えていた時期でもある。地方育ちで、ぽっと出の私にとって、そんな環境は「生き
馬の目を抜く」世界に思えていた。そんなある日、レジの女性社員が突然出社しなくなる。
噂によれば子供ができ、出産が間近いという。彼女は地方出身で二十歳前の独身である。
子供を堕ろすわけにいかず、男の方も責任を取らなかったようで、未婚のまま郷里に帰って
子供を産むらしい、そんな噂が飛び交った。「なぜ、そうなるのか?それで納めて良いのか?」
男ばかりの兄弟4人で育ち、男子高から男子だけの大学へと進み、女性といえば母親しか
しらなかった私にとっては、女性というものが解らなかったし、人というものが分からなくなった。
大げさにいえば、世の中の道理というものを見失っていたように思うのである。

親兄弟とわずかな友人としか関わってこなかった「私」は、「人とは信頼しあうもの」と言う、
「性善説」の上に自分の思考が成り立っていたようである。そんな考えは通じないようで、
「正直者はバカを見る」ではないが、自分の無知、世間知らず、無防備さを実感させられ、
自分が大きな「欠陥」を持っている人間のように思えていた。そんな時、本屋で見つけたのが、
能見正比古の「血液型人間学」という本である。内容は血液型と人の気質の因果関係
についてデータを集積し、対象者の思考パターンや行動パターンとを関連づけたものである。

A型は取り越し苦労、責任感が強く意地っ張り。B型は気楽、外面的には積極性あり。
O型は意思が強い、人間が味ありホット。AB型は感情を率直に表現する事が不得手、等々。
職場の人間関係に破綻をきたしていた私は、人を判断する基準になるものがほしかった。
その本の内容は解りやすく明快で、私にとっては何よりの救いであり、バイブルにもなった。
それから周りの人の血液型を片っ端から聞き出し、頭に叩き込んでいく。その分類と実際の
性格が合致していたかどうかは解らない。しかし、人と接する時、相手の性格をある程度
パターン化し、相手を全体的に捉え、客観視する習慣ができるようになったのは確かである。
それ以来、人間関係が少しは楽になったような気がしている。

やがて店を離れ本部に勤務し始めると、接する人の範囲も数も圧倒的に多くなっていった。
そうなると血液型の4分類だけで人の性格を判断するには、あまりに大ざっぱで、科学的な
根拠も乏しいと思い始める。それからは本格的に生物学や心理学の本を読み漁るように
なっていく。どちらかと言えば理系のタイプ、「人間」というものを生物の一種、動物の一種
として捉えることで、より客観的に見ること。人の心理を原因があって結果があると考えること。
読むほどに、相手を知るほどに、人の心の多様さ、複雑さ、深刻さが解るようになってくると、
ますます興味を持つようになる。今「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「散歩」と「読書」と
「人間観察」と答えている。「人間観察」は私の生涯のテーマになってきたようである。


今読んでいる、藤田紘一郎著の「血液型の科学」という新書で、昔、夢中になった血液型
のことを改めて思い出した。藤田紘一郎は東京医科歯科大学医学部の名誉教授である。
以前「笑うカイチュウ」という著書で、人が害虫だと思い込んで体内から駆除した寄生虫が、
実は花粉症やアトピーなどのアレルギー症には抑制に働いていた。という説を展開し、一躍
有名になった人である。今回「血液型の科学」の著書では、ABO血液型について科学的な
メスを入れ、その本質について考察を行っている。

今、日本人の半数近くの人が、「血液型によって性格の違いがある」と実感していると言う。
一方、多くの学者は血液型は血液のたんぱく質によるもので、、性格とは何ら関係がない。
したがって「血液型性格論」は「えせ科学」であると主張する。一般庶民が実感することと、
学者が言うことと、はたしてどちらが正しいのであろうか?、著者は「えせ科学」と主張する
学者は血液型を決める「血液型物質」というものがどういうもので、どのように出現したかを
全く知らずに自説を唱えている人が多いと言う。「血液型という生まれつきのもので、他人を
判断するのは不当なことだ」と、ただ感情で批判しているだけであろう、と言っている。
著者は「血液型によってある程度は性格が規制されるのは、むしろ当然のことと思われる」
という見解である。以下その概略を書いて見る。

ABO式血液型は赤血球の表面についている糖の分子「糖鎖」の違いで、区別されている。
血液型物質は最初に血液から発見されたため、そう命名されただけで、実際は体の中の
体液はもとより、臓器や筋肉など全て、爪、歯、骨にいたるまで全身に行きわたっている。
又、ABO式血液型物質は人間だけでなく、他の動物やあらゆる細菌までもが持っている。
著者は当初人類の血液型は全てO型であったと考える。紀元前3万年頃からそのO型の
血液を持った人類がアフリカをスタートし、世界中に広がって行った。
(南北アメリカのネイティブ・アメリカンやイヌイット、アマゾンやオーストラリアに住む先住民など、
最近まで他の民族との交わりがなく暮らしてきた先住民族のほとんどがO型であることからも
それがうかがえる)

ではO型だけの血液型から、なぜA型やB型が生まれたのかということになるのだが、これは
腸内細菌がもつA型物質やB型物質が人間の体内に潜り込むことで、遺伝子への移入が
起こったのではないかと考えている。全世界に散らばって定住し始めた人類は、その地での
生活様式の違いにより食生活が変わって行く。農耕民族は穀物を主食にすることによって、
穀物に合う腸内細菌の影響からA型が生まれる。家畜の肉や乳製品を食料にする遊牧民
からはそれに合う腸内細菌の影響からB型人間が誕生していったという。
そして最後(1000~1200年前)にA型とB型との交配からAB型の血液型が生まれた。
そういうことから、A、B、O、ABの4種の血液型が基本になった、と考えられると言う。

食性によって、血液型が変化したため、血液型によって人の食べ物との相性が違ってくる。
A型は鶏肉、大豆、人参、タマネギ、パセリ、カボチャ、ほうれん草、珈琲、緑茶などを好み、
B型は牛肉、レバー、ヨーグルト、白菜、キャベツ、なす、しいたけ、ピーマン、サツマイモ、
バナナ、などを好む等、血液型による食べ物の好き嫌いがあるらしい。(O型、B型は略す)

もう一つ、血液型の違いにより、かかりやすい病気が異なってくるようである。例えばO型は
結核にはかかりにくいが、コレラ、ペスト、病原性大腸菌による下痢症にはかかりやすい。
A型は感染症になりやすく感染してしまうと重症化しやすい、又ガンには他の血液型の人
よりなりやすいという。主な病気で例えば、梅毒、サルモネラ菌中毒、病原性大腸菌中毒、
肺炎球菌性肺炎、ノロウイルス食中毒、インフルエンザ、天然痘、肺結核、マラリア、ペスト、
コレラ、がん、糖尿病、心筋梗塞、リュウマチ、悪性貧血、などの病気でその発症の確立が
血液型によって左右されるとのデーターもあるようである。

人類の歴史は細菌やウイルス、寄生虫などの病原性微生物との戦いの歴史でもあった。
コレラ、ベスト、黒死病、天然痘、梅毒など、その大流行は何度となく人類絶滅の危機を
もたらしてきた。その結果、血液型による生存確立の差が、地域による血液型の比率の
差を生じさせて来たという。例えば、インドやアフリカの調査で天然痘に対して弱かったのは
A型とAB型でO型とB型とを合わせたより6倍かかりやすく、4倍死亡率が高いという。
ペストはO型が弱く、ペストの流行地域ではO型の人口が少ないことが知られている。
AB型は梅毒に弱く、コロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち帰った梅毒でAB型の人間が
壊滅的な被害を受けた。その結果、アメリカやヨーロッパにはAB型が極端に少なくなった。

※日本ではA型38%、O型31%、B型22%、AB型9%、の比率であるが、メキシコは
8割がO型、アメリカはA型とO型で90%を占め、インドはB型が一番多いようである。

遺伝子で決まる血液型、それにより食物の好みが異なり、病気による生存確率が違ってくる。
それが何万年もに渡って人類に影響してくれば、血液型で人の気質が異ってくるのは当然
ありうるというのが著者の主張である。少し強引な論理の展開であるように思うが、世界の
血液型分布などの説明には納得するところも多い。人の気質は特定の因子によって決まる
ものではなく、心理学では先天的なものと、後天的な要因が作用し合うと考えられている。
その先天的な要因の一つに血液型物質があると考えても良いのであろう。

下の表は今大リーグで活躍する日本人野球選手10名の血液型である。
松井秀喜 O  イチロー B  岩村明憲 O  福留孝介 B  松井稼頭央 O
上原浩治 B  松坂大輔 O  斉藤隆 O  岡島秀樹 O  川上憲伸 O
この中にA型とAB型がいないことを、「偶然」だと言い切るのは少し無理があるように思う。
「血液型性格論」、これは当たらずといえども遠からず、と言って間違いないだろう。

カフェ・ガスト

2010年02月19日 09時01分32秒 | Weblog
先週の休み、友人と11時の待ち合わせで西武線の駅に降りた。しかし降りたとたんに
携帯電話が入り「急用が出来きて行けなくなった。次回改めて逢おう」ということになる。
今さら予定も立たないし、お茶でも飲みながら、ゆっくり本でも読もうと思い駅前に出る。
この駅は乗降客も多く駅前は充実している。11時ではお昼には早い。お茶を飲んでから
食事をするのもばからしい。ドリンクと軽い食事と思い駅前の「カフェ・ガスト」に入ってみた。
モーニングの時間はすでに終わって、テーブルのメニューはランチメニューに切り替わっていた。
見開きのメインメニューはハンバーグランチ。ハンバーグと付け合わせが違うアイテムで5品、
もう一つのコーナーは和風御膳として、チキンやカレイ(魚)のフライものが5品ならんでいる。
他に追加の単品メニューが4品、後はデザートとドリンクだけである。

ここまで極端にメニューを絞り込んであると、顧客の選択の楽しみを奪われた感じがする。
メニューを見ながら、どう組み合わせにするか考える。しかし食べたいものが見当たらない。
ランチとドリンクのセットにすれば、どれを選んでも、750~850円にはなるはずである。
このメニューで、この雰囲気で、それだけの価値があるのかどうかと、疑問に感じてしまう。
メニューの調理写真を見ると、スーパーやコンビニで売っている弁当の中身を、ただ皿に
盛り付け直しただけのような感じである。ますます食べたいという気がおこらなくなった。
ウエイトレスが注文を取りに来た。「さあ、どうしよう」、しかし食べたいものが見当たらない。
「すみませんね。メニューを見ても食べたいものが見あたらないから」そう言って席を立った。
怪訝な顔をするウエイトレス、しかし入ったら食べなければいけないという義理もないだろう。
店に悪いと思うのだが、本当に食べるものがなかったのである。いままでの「すかいらーく」
と違って、「ガスト」は若い人が中心で、年寄りが入る店だはないのだろうかと思ってしまう。

「ガスト」はファミレスでは草分の「すかいらーく」の別ブランドである。昨年「すかいらーく」が
不振のため「すかいらーく」という店名を廃し、低価格店の「ガスト」への転換を図っている。
したがって「カフェ・ガスト」は「すかいらーく」再生のための新らしいモデル店舗なのだろう。
店に入ってみて感じることは、店の事情(すかいらーくの会社としての事情)を優先した店
であることを強く感じるのである。(言い換えればお客さんに目が向いていない店)
例えば、人件費を減らし少人数で効率を上げるためにアイテムを減らす。競争に負けない
ために、表面上の価格を落とす(安かろう、まずかろう)。利益を上げるために利益幅の
大きいアイテムをセントラルキッチンで大量に作り店に供給し、店では温めるだけにする。
アイテムによる食材の使い回しを良くするため、なるべく共通のものを使い、なお且つ
盛り付けも単純化する。メニューを見ると、そんな「すかいらーく」の事情が透けて見える。

学生同士や気のおけない仲間同士で安く食べる、というのが目的であれば「ガスト」は良い
のかもしれない。しかし1人でゆっくり食事をしたいという人間には不向きな店のようである。
店の落ち着き、雰囲気、接客、メニュー、盛り付け、どれをとっても「ガサツ」さを感じてしまう。
食事を単なる「メシ」にしていて、そこに豊かさ、癒し、満足感などを感じさせないのである。
私を知る人がこのブログを読んで、「あんなガサツな男に言われるなんて、ガストもかわいそう」
と言うかも知れない。「安いお金で、満足を得ようなんて虫がよすぎる」そう言うかも知れない。
「すかいらーく」は今まで良く利用していたし、決して嫌いな店ではない。しかし再生のための
方向転換は目先だにとらわれ過ぎているように思うのである。
「貧すれば鈍す」、このままでいけば、ますます泥沼に入り込むように感じるのであるが、さて。

「ガスト」で注文しないまま表に出て他の店を探す。結局入ったのはインストアベーカリー、
焼き立てのパンを2個選んで珈琲を注文する。パン工房のほんのり甘い香りのする店内で、
パンを食べ、珈琲を飲み、ゆっくり本を読んで小一時間、満足感を得て店を出た。
世の中、色々な価値観があるから、一概には何とも言えないのだろう。しかし今の世の中、
いずれ安いだけの価値は見直され、精神的な豊かさを求められるようになるように思うのだが、

婚活

2010年02月12日 11時42分31秒 | Weblog
最近耳にする「就活」や「婚活」という言葉、それを聞くと学校の「部活」を連想してしまう。
だからなのか「婚活」という言葉に、味気なさや、義務的なイメージを感じてしまうのである。
戦後の意識の変革の中で、「恋愛の自由」という価値観が定着し、結婚は当人同士の
自由意思で決めるものになった。だから本来なら明るく楽しく,、希望に満ちたことだろうが、
今は「婚活」が若者にとって「就活」と同じように、大きな壁になっているように思われる。
「なるべくいい条件の相手を見つける」それが「婚活」の最大の目標になってしまったようだ。

自分の周りを見ても「望む相手がいなければ結婚はしたくない」というスタンスを取る人が
多くなったように思うのである。しかし、一旦そういうスタンスを取ってしまうと、周りの人にも、
自分に対しても妥協しづらくなってしまい、結婚に対して柔軟さを失ったまま婚期を逸して
しまう人が多いようにも思うのである。「本当は結婚しておきたかった」それが結婚しなかった
彼らの本音だと思うのであるが、結局当初設定した条件から抜け出せなかったのだろうと思う。
それは「結婚活動」の「活動」という意味合いが強くなって、競争心、世間体、プライドが
邪魔をして本来の自由意志による結婚という、気軽さが無くなってしまったからだと思う。

我々の時代は結婚をするとかしないとかの選択肢はなく、人生を過ごす前提になっていた。
「結婚は妥協の産物」「結婚なんて誰としても一緒」と言われ、周りが寄ってたかって心配し、
面倒を見たものである。しかし今は周りの大人達のお節介は嫌われ、昔ながらの見合い
結婚は極端に少なくなっているようである。これは結局若い人達の出会いの機会を少なくし、
結婚への道を遠くしているようにも思われる。そのため「結婚」は本人の自助努力が主体に
なり、努力を怠ると(特に男性は)結婚もできなくしまったように思うのである。

私の近くに36歳の独身男性がいる。男性のボーダーラインは35歳という意識があるのか、
彼も2~3年前から、「このまま行くと結婚できないかもしれない」という焦りが出てきた。
インターネットで募集する合コンに参加したり、会社の社員の友達を紹介してもらったり、
意識して出会いの場を作って来た。しかし、なかな良い相手とは巡り合えなかった。
彼はどちらかと言えば内向的な性格、会社の中でも、友人との付き合いでも、相手との
調和を気にし、何時もそのバランスを取ることを考え、自分を抑えて行くタイプである。
特に打ち込んでいる趣味もなく、休日なども時間つぶしでスロットに行っているようである。
特段の癖もなく家庭的にも問題はない、すこし気の弱い標準的な若者という感じである。
しかし、その標準が女性から見ると印象に残らず、魅力に欠けるところなのかも知れない。
合コンに行っても、アピールポイントがないのか、積極性に欠けるのか、不発が続いた。
彼はそんな反省から、出会いの場を結婚相談所に求めるようにしたのである。

彼が入会したのは楽天の「O-net」、今は結婚相談所もインターネットの活用が主流で、
入会に当たっては顔写真はもとより、家族状況から学歴、経歴、趣味、相手に対する
条件や希望、好みと、結婚に関係するすべてのデーターをコンピューターに打ち込む。
しかも入会に当たっては住民票はもとより卒業証明書、給与証明書の提出を求められ、
厳格さを期しているようである。入会金は10万円、月々の費用は1万円である。

仕組みはいかにも今風で事務的、登録会員の中からコンピューターが自分に適した人を
毎月6人づつ紹介してくれる。紹介された人に関しては顔写真を除いて概要が分かる。
それを見て6人の中から「逢いたい」と思う人に自分の意思を伝える。
その後、相手から「逢っても良い」というレスポンスがくれば、その時点でお互いのスペックの
全部(顔写真やアドレスも含め)がオープンになる。後は当人同士で連絡を取りあって、
逢う時間や場所を決めて逢うという段取りである。逢って気にいらなければサインを出すと、
リストに×マークが着きその相手との通信はクローズされる。

彼は昨年9月から入会した。9月10月と各6人づつ計12名の候補者の紹介を受ける。
その中から何名かの人を選んでオファーしたのだが、待てども一向にレスポンスがなかった。
11月は6名の候補の3名に「逢いたい」のサインを出し、2名から「OK]の返事を貰った。
お互いの都合から、結果的にはその一人と12月の第2週の土曜日逢うことになった。
お昼を一緒にし、相手に好感をもった彼は翌週は夕食へ誘い、その次は映画にと誘う。
年が明けてからは浅草の浅草寺へ初詣に行き、1月の終わりに「お付き合いしたい」と
正式に申し入れ「OK」の返事をもらった。彼にとってはトントン拍子で夢のようである。

彼女は入会して初めて逢った人である。彼はデートの場所をあれこれと考えて下見し、
車で彼女の家の近くまで迎へに行き、帰りは近くまで送り届ける。もう後がない彼は
「今までこんなに一生懸命になったことがない」と言うほど、全力を上げている。
一方の彼女は28歳。30歳までには結婚をしたいという強い願望を持っているようだ。
今の環境では相手が見つからないと考えて、この「O-net」に登録したようでようである。
登録したのは一昨年、彼と逢うまでに入会して1年経過して、その間に何人もの人と
逢っていたであろう。しかし良い縁に巡り合えず、マンネリになっていたのかもしれない。
36歳で焦りがある彼と、1年間「O-net」でやったが、結果が出ず28歳になった彼女、
どちらもが「このあたりで良しとするか」という妥協の気持ちが出てきてもおかしくはない。

先日彼が「彼女が本当は私をどう思っているか解らない。恋愛からのスタートでないから、
まだお互いが本音をさらけ出せないもどかしさがある。だけど、もう決めたいと思っている。
今度のバレンタインにチョコレートを貰ったら、ホワイトデーにプロポーズしようと思う」と言う。
付き合い始めて3ケ月、少し早いようにも思うのだが、焦る2人には時間が背中を押して
くれるのかもしれない。

結婚への道筋はどんな道から入っても良いのだろうし、また、長い付き合いをしたから良い
というものでもないのだろう。「結婚は所詮見切り発車」のようなものだろう。良い結婚とは
結婚後、お互いがどこまで妥協しどこまで努力するかに掛かっているのかもしれないと思う。
夫婦仲が悪い私に唯一言えることがあるとすれば、それは「どんな形であれ結婚した方が、
しないよりは良い」ということだけである。

2月という月

2010年02月05日 08時40分02秒 | Weblog
通勤途中にある20本ばかりの梅林に花が咲き始め、やっと春を感じられる2月になった。
2月という月は我が息子(長男)の誕生月であり、すでに亡くなった母の誕生月でもある。
そしてもう一つ、今だに鮮明に記憶に残っている私の実の弟(俊男)の命日の月でもある。
まだ母が生きていた頃、「2月は春待ち月(旧暦で12月)といって次第に春が近づいてくる。
私はそんな2月が1年で一番好きだったの、それなのに俊男が死んでしまって毎年2月に
なると俊男のことを思い出す。だから今は2月が一番嫌いになった。親より早く死ぬなんて、
あの子が一番の親不孝者だよ」、そんなことを言いながら涙ぐんでいた母を思い出す。

昭和50年2月(35年前)、会社で仕事をしていた時、突然父から電話がかかってきた。
「おおっ、ヒロシか、元気か?」、これは電話に出た時の、父のいつもの口調である。
何時もは母が電話してきて父に変わるパターンだったので、「あらっ」と不思議に思った。
「昨日の夜、俊男が熊本で事故に合った。・・・ だめだった。・・・ お前も早く帰って来い」
始めは何のことか解らなかった。しばらくしてゆっくりと喋り始める。「熊本の五木の山の方に
友達と車でヤマメを釣りにいったらしい、・・ その車が山道で道をはずして滑り落ちた。・・・
その時、車のドアが開いて後部座席に乗っていた俊男だけが、車から投げ出されたらしい。
打ち所が悪かったのだろう。車は樹に引っかかって、他の3人の友達は無事だったようだ」
それを語る父の声はびっくりするほど静かであった。

話を聞き終わっても、俊男が死んだという実感は全くしない。父の話した事が違和感のある
一つの塊のように私の中に入ってきて、何の反応もできないままに電話は終っていた。
しかし時間が経つにしたがって、体の中で氷が融けていくように、冷たいものが流れていく。
心臓の鼓動が早まり、思考が停止したようになり、体全体の力が抜けたような感覚になる。
上司に事情を話し、急ぎアパートに帰えって荷物を作り、その日の夜行列車に飛び乗った。

下関に帰る時は何時も寝台特急「あさかぜ」に乗る。これが休暇の帰郷であれば列車が
下関に近づくにつれて、懐かしさがこみあげてきて、何か気恥ずかしいような高揚感がある。
しかし、今回は風邪で熱に浮かされ、頭の中がもうろうとしている時のように、考えが飛び、
何一つまともな思考ができなくなっている。列車の通路側にある折りたたみの椅子に座り、
四六時中タバコを吸い続ける。踏切を通り過ぎるたびに「チンチンチン・・・・」と鳴る警笛が
異様なほど耳にこびりついて離れない。窓の外の夜景を眺めながら俊男のことを思い続ける。
私は俊男に対して、消し難い負い目を感じていた気がするのである。

俊男は双子の弟で上は生後4日で亡くなったと聞いている。双子だからなのか体は小さく
学校のクラスではいつも前から2、3番目、大人になっても身長は160cm足らずであった。
子供のころは体の割に頭が大きくて重心が安定しないのか、何時も転んでは泣いていた。
私が6歳、弟は2歳だったと思う。家の前の石段を下りて一緒にどこかに行こうとしていた。
私の前をおぼつかない足取りで石段を降りていた弟がバランスを崩し、石段を転げ落ちた。
石段の下で泣きながら立ち上ろうとする弟、その額が血で真っ赤に染まっていたのである。
「かあちゃん、かあちゃん、俊男が、俊男が」私の必死の叫びに母は家から飛び出して来た。
母は石段を駆け下り、血だらけの弟を抱き上げる。そして俊男の頭を自分の胸に押し当て、
何も言わずにそのまま駈け出した。後に残された私はただ呆然と立ち尽くしたままであった。
俊男には額に三日月形の大きな傷跡が付いている。大人になってその傷を見るたびに、
弟を思い出すたびに、「なぜあの時、手をつないでやらなかったのか」と後悔が湧き上がる。
その俊男が死んでしまった。やるせない気持ちで一睡もできないままに下関に着いた。

家に帰ると業者が祭壇の準備をしているところであった。母は目を赤く腫れ上がらせていた。
しかし、両親とも葬儀の準備や親戚や会社関係の電話対応を冷静にやっていたようである。
翌日、自宅で葬儀が始る。親戚の人達、父や弟の会社の人々、大勢の人の中に混じって、
車を運転して事故を起こしたその友達も来ていた。両親を前に泣いて詫びるその若者に、
「仕方がない、俊男に運がなかったんだろう。あなた達は助かったんだから」とあくまでも冷静に
話している。親戚の中から「運転者が生きていて、なぜ俊ちゃんだけが・・・・」と彼に対する
非難がましい声が聞こえてくる。運転者にぶつけられてもいいのかもしれない「怒り」の矛先、
両親はそれを何処に仕舞い込んだのだろうか。

嗚咽の中に葬儀は進み、お焼香も終わり、最後に棺の中の俊男の傍に花を手向けていく。
穏やかに目を閉じ花に囲まれた弟、その額の真ん中に大きな三日月形の傷跡が見える。
その時、こらえていた私の涙は堰を切ったように、あふれ出してきて止まらない。
出棺で兄弟3人と従兄弟達で棺を車の待つ場所まで運ぶ。左手にかかる棺はずしりと重い。
俊男を感じる最後かと思うと、また涙があふれてくる。とめどなく流れる涙で視界もきかない。
私は俊男の死を悲しいと思うより、たまらなく無念だったのである。体も小さく大人しい性格、
学校を卒業して福岡の百貨店に勤め、経理を担当していた。友達もでき、楽しく暮らして
いる様子を母から聞いていた。両親に、兄弟に、そして一緒だった友達に、大きな衝撃を
残してこの世から去っていった。26歳になったばかりの2月のことである。

昨年見た映画「がまの油」、その映画の主題である死生観、それは「人には2度の死がある。
一度は現世から体がなくなる時、 2度目は人々の記憶の中から消えた去った時」と言う。
そのことから言えば俊男の体はすでに35年前に無くなっている。しかし俊男の記憶や思慕は
私の中にいまだに生き続けている。両親はすでに亡くなった。俊男が存在したという記憶は
私ともう一人、車を運転していた友達に強く残っているのだろう。それは俊男に負い目を感じ
る者の責任なのかもしれない。梅がほころぶ2月になると、母の誕生日の2月7日を思い出し、
俊男の命日である2月13日のことを思い出す。