60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

仏像

2018年02月09日 08時44分54秒 | 日記
 お正月に妻の実家に行ったとき、床の間に仏像が置いてあった。昨年11月に義母がなくなったから、同居している末の娘が置いたのであろう。この仏像、元々は私が持っていたものである。それが紆余曲折あって今ここにある。話せば長くなるが順序だてて書いてみる。
 
 私が独身時代の27か28歳の頃、会社の研修旅行で台湾に行ったことがある。研修と観光が半分づつで移動は全てバス、行く先々で土産屋に立ち寄る。私はお土産を買うタイプではないので、店内をぶらぶらしながら皆が買い物する様子を眺めていた。そのとき棚の上にポツンとあったこの仏像が目に止った。大量生産されたお土産でもないし、雰囲気が中国風の仏像とも違うように感じる。興味が湧いて店員に棚から下ろしてもらい値段を聞いた。しかし普通のお土産品と違い、かなり高い値段を言われたように思う。値切ってみたが、相手も譲らず物別れになり買わずにその場を去った。その後も店内をウロウロしていたが、やはりあの仏像が気にかかる。再びその場に行って再交渉、結局当時のお金で1万円前後(今の価値で3万円程度か?)で買ったと記憶している。
 
 まだ20代の私に信仰心があったわけでも、仏教や仏像に興味があったわけでもない。では何故買う気になったのだろうか、後でその動機を考えた。思い当たるとすればTVで見た宮本武蔵のドラマに影響されたのだろう。宮本武蔵が京都一乗寺下り松で、吉岡一門との決闘で多くの門弟を切ってしまった。その後逃走しある農家の納屋に隠れ、一心不乱に仏像を彫るシーンがあった。そのシーンが印象深く残っていて、同じような仏像に惹かれたのかもしれない。買って帰ったものの一人身の小さなアパート、置く場所も無く整理ダンスの上に置いておいた。
 
 それから2、3年後、突然私のアパートに母が尋ねてきたことがある。当時母は三男(私の下の弟)を交通事故で亡くし、その後も悲しみが癒えることもなく鬱々とした日々を送っていたと思う。たぶんその気持ちを紛らわすために、東京の私のアパートまで来たのであろう。来てもどこに行くわけでもなく、私が会社に行っている間、部屋を片付けたり洗濯をしたり、夕食を作ってくれて2~3日して帰ったように思う。ただ帰るとき整理ダンスの上にあったこの仏像を胸に抱え、「これ私に頂戴よ!」と有無を言わさず持って帰っていった。
 
 その後の母の手紙にはこの仏像のことがしばしば登場するようになった。この仏様は弟の位牌がある仏壇に飾り、毎日欠かさず手を合わせているとか、法事で来たお坊さんが仏像を見て、「この仏像には魂が入っていない」と、何やらお経を唱えたあと「渇!」と言って魂を入れたとか、この仏像でどれほど私の気持ちが救われたことか、そんな内容の事が書かれていた。その後1~2年してから母は父と一緒に上京し、上野の仏具街で自分の気に入った小さな観音像を買い、2つ並べて仏壇に置いていた。
 
 さらに時は経ち私が結婚して5~6年した頃、まだ60代だった義父が亡くなった。葬儀が終わりしばらくして、たまたま九州の出張の帰りに、私は下関の自分の実家に帰ったことがある。その折り母が布に包んだこの仏像を私の前に置き、「この仏様を貴方の手から、お義母さんに渡して欲しい」と言う。母は自分の体験から夫を失った義母の悲しみを思い、それを癒してくれるものとしてこの仏像を渡す気になったのだろう。言われたとおり私は義母にこの仏像を渡した。義母の心の内は聞いていないが、しばらくは仏壇に飾られていたように思う。小さな仏壇で置き場が無かったのか、そのうち茶箪笥の上に置かれて時は過ぎていった。
 
 今回義母が亡くなった時に、この仏像は茶箪笥の上から床の間に移動していた。たぶん義妹はこの仏像の経緯は知らないであろう。しかし母を失った義妹の喪失感はやはり大きく、この仏像にすがる気持ちも有ったのではないだろうかと思う。お正月に義妹と話したとき、16年という長い間病床の義母の面倒を見ていても、いざ亡くなってしまうと、もう少し頻繁に見舞いに行ってやるのだったとか、あの時こうしとけばという後悔が残ると言う。そして遺骨の前でただただボンヤリしている自分に気づくことがあると言う。
 
 人は自分の心の支えを失ったとき、大きな喪失感に襲われる。また困難な状況になったとき、だれかにすがりたいという気持ちが大きくなるだろう。そのすがりたい気持や、癒しの気持ちを受け止めてくれるのが仏像なのであろう。ドラマの中で宮本武蔵が大勢の人を殺め、その自責の念から仏像を彫った。その思いに影響され私は仏像を買った。それ以降その仏像は人の手を渡り繋いでいく。台湾の名もない彫刻家の作品が日本で私の家族たちの心を癒してくれた。なんとも不思議なつながりのようなものを感じてしまう。
 
 
 

終活

2017年12月15日 08時32分01秒 | 日記
 茨城県に住む義姉から個展(油絵)の案内葉書が送られてきた。
 去年の2月、兄から突然義姉が肺腺ガンでステージ4の段階だと聞いた。腰が痛いと病院で検査したら、ガンはすでに骨にまで転移しているということである。抗がん剤しか対処法がなく、定期的に抗がん剤治療の日々が続いているという。抗がん剤の影響で手の平が異常に過敏になってきたとか、ぼんやりする日が多くなったとか、衣服など身の回りの私物を片付け始めたとか、それでも好きな油絵は一生懸命描いているとか、そんな話を何ヶ月かに一度兄から聞いていた。しかし義姉に直接会いに行くのは憚られる。ここ何年会っていない義姉に何を理由に会いに行くのか、たとえ会いに行ったとしてもどんな顔をすれば良いのか、どんな話をすれば良いのか、と考えてしまい結局行動に移すことは出来なかった。
 
 そんな折の個展の案内である。「ご都合がよければお越し下さい」という義姉の手書きの文面が添えてある。「義姉の方から会う機会を作ってくれた。これは行くしかないだろう」、そう思って開催日の初日に顔を出すことにした。銀座の外れの小さなビルの4階に、こじんまりしたその画廊はあった。2時過ぎに行ったとき義姉は留守で、画廊の受付の人が「今、友達という人がこられ、一緒にお茶を飲みに行かれました」ということである。会わずに帰るわけには行かない。しばらく絵を見ながら待つことにした。
 
 義姉はお母さんが絵の先生だったということもあり、小さい頃から絵を描いていた。趣味で続けていた絵を、今の住まいに落ち着いたころから本格的に始め、東光展や二科展にも出品するようになったそうである。私が結婚したときも1枚油絵を贈られて、今でも我が家の居間にかかっている。地元では定期的に個展をやっており、都内でも何回かやったことがある。待つこと30分義姉が帰ってきた。
 
    
 
 「お久しぶりで・・・」、「お元気そうね」、しばらく当たり障りの無い話が続いて、私が「都内での個展は何回目でしたっけ?」と聞くと、「3回目、今回が最後ね。これ終活なの・・・・」と義姉は個展を開いた動機を話しはじめた。
 
 ガンと分って2年、最初は動揺もしたが今は抗がん剤が効いていて、なんとか日常生活は出来ている。今は絵を描く意欲もあるし、来年には展覧会への出品のため100号の大作を考えている。しかし何時かそれも出来なくなる。限られている時間の中で、元気な内に親しかった人に会っておきたい。家に来てもらったり、一人一人と会うのも負担になるから、個展を開くことにしたそうである。
 
 それともう一つ、個展に合わせて小冊子を作ったと言って、私にも一冊手渡してくれた。30ページほどで、中に30点程の絵が掲載されている。「私が死んでも、覚えてくれているのは精々孫まで、その時どんなお祖母ちゃんだったと聞かれたとき、この冊子を見れば、こんな絵を描いていたのかと分る」、「絵を残しても掛ける所もないし邪魔なだけだから、いづれ全部処分しようと思っている。まあ、だからこの小冊子は私が生きた記念になればと思って作ったの」と言う。
 
 義姉が「貴方はどの絵が良いと思う?」と聞く。私が会場の隅にあったあるヨーロッパの町並みを描いた絵を指差すと、「この絵の空の色を全体の色調に合わせるために、何度も何度も塗り直したの、・・・・」と絵を描いたときの苦労話をし始めた。そして、「そう、貴方はこれが好きなのね。覚えておく!」と言った。たぶん何時か遺作として贈ってくれる腹つもりなのかもしれない。30分程したときに絵を観にきた人が2人ほど入ってきた。それを契機に会場を出た。これが義姉との最後になるのか?それともまた会う機会があるのか? どちらにしても義姉の終活の試みは、私に清々しさを感じさせてくれた。
 
    
 
    
 
               義姉の小冊子







義母の死

2017年12月01日 08時42分17秒 | 日記
 11月24日PM4時、長年患っていた義母が亡くなった。大正9年10月生まれで97歳(享年98歳)であった。98歳ということは大往生ということになるのだろうが、ここに至るまでには本人の並々ならぬ苦闘もあったように思う。35年前義父が食道がんで亡くなってからは末の娘と2人暮らし。14年前義母は脳出血で倒れる。発見が早く一命は取りとめたが、右半身不随となった。80歳を過ぎた義母にはリハビリでの復活は難しく、車椅子の生活を余儀なくされる。娘も働いていたので自宅看護は難しく、施設を転々とした後、実家の近くにある特別養護施設へ落ち着いた。結局特養の施設が終の棲家となったことになる。
 
 義母には我が家の3人の子が生まれたときには大変なお世話になった。そんなこともあって子ども達は皆おばあちゃん子である。お正月やお盆など実家に連れて帰ることも多く、私自身も夫を亡くした義母とはよく話をし、しばしば相談を受けることもあった。義母は四国愛媛県の生まれで4人兄弟の一番上である。だからなのかしっかり者で面倒見が良く、勤勉で忍耐強いという、昔の女性の典型的な人だったように思う。我々家族が滞在しているときは、四六時中動いていて甲斐甲斐しく面倒をみ、孫達には優しく接してくれていた。しかし自分の子供たちには厳しく、一旦こうと決めたことは頑として譲らず親子喧嘩も絶えなかった。昔ながらの家意識が強く、総領はこうあるべき、結婚はこうあるべき、女はこうあるべき、ふだんはつつましく、いざというときにお金を使う。そんな家訓のようなものを大事にする人でもあった。
 
 私の父母と義父母、4人はいづれも大正の生まれである。昭和の始めに青春を過ごし、太平洋戦争の前後に結婚し、終戦後の物の無い時代に子育てをした世代である。いってみれば環境そのものがが波乱万丈の時代であった。節約を旨とし、食料不足でも何とか子ども達に食べさせ、子ども達の教育には熱心で、色んなものが不足でも不満を言わず、黙々と自分の役割を果たしていたように思う。時代の波に鍛えられられたからか、普段は優しく温和な人柄でも、いざとなれば悩むことなく決断し実行していく。4人とも1本筋が通った生き方、その凛とした姿は共通しているように思う。たぶん親の代から受け継がれてきた鉄則のようなものがあったのだろう。
 
 親4人が亡くなり、私の周りから大正が消えた。いよいよ我々昭和生まれの順番である。「終活」を辞書を引くと、人生の最期を迎えるにあたって執る様々な準備やそこに向けた人生の総括とある。親たちの生き方を見て何を参考にし、自分の終活をどうしていくのか、真剣に考える時期に来た。私の両親は自分達の遺影まで用意していた。さて私は、今の仕事をどう終わらせるか、家のローンは、いつまで生きるか分らない老後の生活設計は、病気になった場合は、身の回りの整理は、お墓をどうするか、・・・・・何事も計画通りには行かないし万全の準備も難しいしのだろうが、それでも一つ一つやっておくしかないのだろう。子ども達には極力迷惑を掛けたくないし、何より10年程度で確実にその時が来ることになるからである。
 
     

大人の粉ミルク

2017年10月27日 09時02分04秒 | 日記

 先日通勤時にラジオを聴いていたら、「大人の粉ミルク」が注目を集めているというニュースをしていた。3年半前、救心製薬が「大人の粉ミルク」として発売したのが最初。その後、森永乳業が「ミルク生活」を発売、さらに雪印が「プラチナミルク」として今年6月に発売と、続々とこの分野に参入しているそうである。もともと粉ミルクは、これだけで乳幼児が育つわけだから、栄養バランスについては問題ない。そこに大人に不足がちな栄養成分を強化したり、反対に脂質や栄養過多にならないようにバランスを考えて各社は作っているようである。

 このニュースを聞いたとき、これを最初に考えた救心製薬の開発者は、「良いところに目を付けたなぁ!」と感心した。粉ミルクは乳幼児専用との固定概念を外し、大人用に栄養調整したら売れるだろうという、その発想がユニークだと思ったのである。救心製薬は粉ミルクなど扱っていなかったし、しかもこの業界には大手乳業メーカー(明治、森永、雪印等)がしのぎを削っている。そのメーカーを差し置いての開発には苦労もあったろうし、開発への意気込みは大したものだと思うのである。
 
 高齢になって牛乳を毎日の週間として飲む人は多い。しかし飲むとお腹がゴロゴロするとか、アレルギーの人とか、味があまり好きではないとか、と言うことから週間になっていない人も多いようである。私もその一人である。特に嫌いなわけではないし、飲んだ方が良いのも分っている。しかし朝食を抜くから牛乳を飲む機会が少ないこと、冷蔵庫で冷えた牛乳をそのまま飲む気がしないこと、温めて飲むのも面倒だし、温めた牛乳の味はあまり好きではない(常温が一番飲みやすい)、そんなことが理由なのかもしれない。
 
 私のこどもの頃、母親は子ども達の栄養を考えて、脱脂粉乳を飲ませていた。しかし脱脂粉乳は溶け辛く、味も不味くて飲むのが嫌だった記憶だある。そのうち父の収入も上がったのか、明治の缶入りの粉ミルクを飲ませてくれるようになった。これは飲みやすく中学生頃までは飲んでいたように思う。そんなことから、粉ミルクを懐かしく思い、この商品を買ってみようと思い薬局に行ってみた。「さてどこの売り場にあるのか?」と、ベビー用粉ミルクの売り場付近を探しても見当たらない。探しあぐねて店の人に聞いて見ると、「TVで紹介されたのか、今、大人の粉ミルク系の商品は全て売り切れで、製造がまに合わず、しかもいつ入荷するかは未定な状態」、とのことであった。
 
           
 
 もう一つ、無印良品が9月から販売を始めた「ぽち菓子」が売れていると言う。全50種類、大小2種類のサイズの展開で、税込み100円と120円というリーズナブルな価格帯のお菓子のシリーズである。こんぺいとう、フルーツスティックキャンディー、きなこ玉、しょうゆ豆菓子、いかソーメン、フルーツミックスキャンディ、3色マシュマロ、ゼリービーンズ、ごま玉、梅キャンディ、麦チョコ等々、大手メーカー品と違い無印が得意とする昔菓子の類である。同じ商品類は今までにもあった。今回はサイズを小さくして小容量にし価格帯を揃えている。
 
       
 
 スーパーの菓子コーナーにも100円均一のお菓子はあるが、どちらかといえば徳用感を売りにしたシリーズである。ではなぜ今この商品が売れるのだろうか?ある友人が解説してくれた。スーパーは家族のための買い物が中心、それに対して無印は30~50代の働く女性の個人消費が中心である。お菓子は女性には嗜好品としては不可欠なアイテム、ケーキなどの高級スイーツを食べることは自分へのご褒美として許容できる。それに対して市販のお菓子類は量を食べる(=太る)ことに抵抗感がある。そこに量を抑えて100円120円と手ごろに買えるお菓子があれば、購買へのハードルが下がり、ついつい買ってしまうのではないか?というのである。女性の心理はよくは分らないが、意外と当たっているようにも思えるのである。
 
 「大人の粉ミルク」にしても無印の「ぽち菓子」にしても、売れるには売れる理由がある。世の中、物が溢れて、欲しいと思うものが少なくなっているのも確かである。そんな中での商品開発は、消費者自身が気づかないニーズを見つけ、そこにどうスポットを当てていくかという、なかなか難しい競走になってきたように思う。
 
 
 
 

選挙速報

2017年07月07日 08時40分12秒 | 日記
 7月2日(日曜日)午後8時、本来ならNHKの大河ドラマが始まる時間だが、その直前から4、3、2、1、とカウントダウンが始まり、8時ジャストから東京都議会議員選挙の選挙速報が始った。まだ1票も開票されてもいない段階からである。その内容は「小池知事が代表を務める都民ファ-ストの会が、第一党になり、公明党などを加えた小池知事を支持する勢力が、過半数の議席を獲得することが確実です」、「出口調査や情勢分析の結果、都民ファーストの会は48~50議席を確保、公明党が21~23、東京・生活者ネットワークが1~2、さらに都民ファーストの会が推薦する無所属の候補も3~10議席を獲得し、これにより小池知事を支持する勢力は合わせて73~85議席になる見通しで、都議会の過半数の議席を獲得することが確実です」というものである。
 
 投票締め切りと同時に選挙予測の発表、「自分のところの予測能力はこれだけすばらしいのだ!」と誇示しているようで、何となく興醒めの感がある。昔(中高生の頃)、速報は各開票所の集計に基づいて報道されていた。従って時間が経過するごとに得票数が加算され、状況は刻々と変化していった。そして夜中の12時ごろまでに、次々と「当確」がでて体勢が決まる。そんな選挙速報を見ていると、子供なりにイベント感覚のようなものがあってワクワクしたものである。

 
 下の表は日曜8時時点の予測と翌日の結果である。
 
            予測       結果
 
 都民ファースト     48~50      49
 都民ファースト推薦   3~10       6
 生活者ネットワーク   1~2        1
 公明党        21~23      23
 
    合計      73~85      79
 
 確かに予測は的中していると言っていいのだろう。しかしどうも面白くない。それは選挙民の意思を読み取られているという、気持ち悪さからであろうか。子供の時代はリアルな実数の積み上げだから、決着がつくまで時間もかかった。それが年々速くなり、最近は衆議院選でも知事選や市長選でも、まだ開票されていないのに当確が打たれるようになった。こうなるともう虚数の上での当選である。そんな速報を見ていると、必死に戦ってきたが、落選した候補者はどんな気持ちになるだろうと思う。可能性を持って戦っていたのに、一喜一憂する間もなく即「X」である。なんとなく気持ちの収まりが悪いのだろうと思ってしまう。
 
 今はコンピューターに投票率や過去の実績、世論調査や出口調査まで、多くのファクターを入れ込めば瞬時に予測が出るのであろう。今やチェスも碁も将棋もAIが勝つようになった。人工知能がどんどん我々の生活に関与し、個人の好みや買い物傾向まで読まれてしまう。すべて予測される時代になってくると、自分のアイデンティチィーまで失ってしまうような気になる。私のような昭和生まれは、やはりアナログの世界の方が落ち着くのである。


※ 昨日から台東区の入谷朝顔まつりが始まりました。
 
    
 
                  毎年7月6日~8日
 
    

                     言問い通り
 
    
 
    
 
          

                 
 
    
 
           
 
           
 
                       団十郎
 
    
 
                    入谷鬼子母神
 
           
 
           
 
    
 
          

    
   
    
 
    
      
 
           合わせて開催される、かっぱ通り商店街の七夕まつり





 

瞑想(座禅)

2017年06月30日 08時43分35秒 | 日記
 先週は瞑想(マインドフルネス)のことを書いた。しかし瞑想といえば最初に思い描くのが座禅である。そこで座禅を経験してみたくなって、インターネットで探し、台東区の谷中にある臨済宗のお寺に座禅の体験に行くことにした。事前予約の必要もなかったので、お昼過ぎにお寺にいく。入り口で参加費500円を払い本堂に入ると、すでに10人ぐらいの人が座布団に座って待っていた。本堂にある白板に「座禅体験への独り言」として住職の座禅に対しての心構えのようなものが書いてあった。それには、
 
    
 
          
 
                 座禅体験への独り言
 まずは体験してみましょう。みなさんはふだんは一生懸命に身体を動かして働き、家事をして頭で考え、他者と出会い、感情のやり取り、言葉のやり取りを交わしていますね。そこを一切止めるのです。とても簡単なことでしょう。ただなにもせず、なにも考えず、一人で黙って座れば良いだけです。
 いろいろ考えてしまう時は考えを止めようと無理をする必要はありません。あるがままでいいのです。体験に身をゆだねましょう。自分を責めたりせず、否定したりせず、考えることを悪いことだとは思わないでください。なにかを考えてしまっても良いのです。いったいなにを考えてしまうのか、よく観察してみて下さい。
 そして、ああ、自分はいつもこんなことを考えているんだな、というふうに落ち着いて見つめてください。考えを深めない。考えを発展させない。考えを追わないようにします。是非自分自身をみつめる観察者になってください!!  住職
 
 1時30分の開始時間までに入って来た人は27名、若い人も多く女性も7~8人混じっている。定刻になって住職から座禅を組むに当たっての説明がある。足は胡坐をかいた後、右足を抜いて左ももに乗せる「半跏跌座(はんかぶざ)」。さらに左足を抜いて上から右ももに乗せる「結跏跌座(けつかふざ)」がある。正式にはこの結跏跌座で座るのだが、身体のかたい人や足の悪い人は、半跏跌座、正座、胡座、椅子と一番楽な姿勢をとって良いとのこと。手は左手の親指を右手全体で包み、腿の上に静かに置く。目は薄く開いて1間(約2m)先を見つめる。呼吸は吐く息を細く長くゆっくり吐いて、これに注意を向ける。そして何もせず、何も考えず、黙って座る。
 
 座禅は15分ごと休憩を挟んで2回体験してもらうとのこと。座禅の時、住職が警策(背中を打つ棒)を持って、座禅者の前を歩くので、警策を受けたい人は合掌し頭を下げて合図をしてほしい。住職が止って向き合ったら、両手を互い違いにして肩に置き前かがみになる。右に2回左に2回背中に警策を入れる。なぜそれをするかといえば、座禅中に雑念が入りすぎるとか、気持ちを切り替える、とか自分が打って欲しい時でかまわないということであった。
 
 それから住職と短いお経を唱和してから座禅は始まった。急に本堂の静けさが意識される。27名もの人が一堂に会しているとは思えない。近所で工事しているのだろう、時々鋸を引く音が聞こえてくる。私はマインドフルネスで経験があるから、呼吸が意識から外れることはない。しかし新しい環境だから周りが気にかかる。・・・皆はなにを目指してここにきたのだろう。何も考えずに座っていられるのだろうか。・・・・女性も胡座をかくように座っているのだろうか?。時々板を踏む住職の足音が意識のなかに入る。・・・・左隣の人は正座している足が痛いのか、モゾモゾと動く。・・・・右の人は口呼吸しているのだろう、スースーした呼吸音が気になる。やがて住職の気配があり左隅に住職の足が見える。合掌し一礼する。住職はこちらに向き直る。手を交差させ肩において深く頭を下げると、「ビシッ、ビシッ」と左肩に警策が振り下ろされる。次ぎは右肩に、お互いに合掌し一礼して住職は又歩き始める。音の大きさの割には痛みは無い。平手で打たれたような感じで、気持ちがビシッと立ち直った気がする。
 
 休憩を挟み15分、15分の2回で座禅体験は終わり、再びお経の唱和の後、住職との質疑応答の時間になる。「座禅を続けたら、自分の中に何か変化が期待できるのでしょうか」、「いつ、どのぐらいの時間でやれば良いのでしょう」、「住職が薦められる座禅に関する書籍はありますか」・・・・・等々。参加者の質問の内容には座禅を続けてみようという意欲がうかがえる。最後に住職が、「当初このお寺で座禅体験を始めたときは3名でした。それが今日は27名、平日の昼間にこんなに大勢、皆さんはいったい何をされている人なのかと不思議に思います。折角時間を割いて座禅を体験されたのですから、是非皆さんの日常の中に座禅を取り入れられたらと思います」、そんな内容で座禅体験は終わった。
 
 仏教で座禅をする宗派(禅宗)は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(おおばくしゅう)の3つがある。臨済宗は座禅の修行をし悟りを目指す。曹洞宗は悟りを目指して座禅をするのではなく、座禅の姿そのものが悟りの姿だと教える。黄檗宗は禅と浄土思想の合致した念仏禅で、自己の中に浄土を見出し阿弥陀仏を発見しようとする教えである。座禅の型にも違いがあり、通路の方を向いて座禅しているのは臨済宗、壁の方を向いて座るのは曹洞宗だそうである。
 
 マインドフルネスと座禅、どちらも同じように瞑想するのだが、そこには違いもある。座禅は宗教であるから「悟り」を目指す。一方マインドフルネスはアメリカで広がったからか、そこには実利的な効果が期待される。感情のコントロール、ストレス耐性、ものごとへの集中、自己の客観視、等々であろうか。しかし私は残り少ない人生だから、それほど期待するものもない。あえて期待するとすれば、マインドフルネスで脳疲労を押さえ、認知症の予防に繋げることだろうか。
 
    
 
                 座禅を終え、寝転んで休息中
 
  

脱サラ

2017年04月07日 08時41分43秒 | 日記
 以前、このブログでも紹介したことがある昔の仲間がやっているパスタの店に行ってみた。7年半前、脱サラをして奥さんと2人で始めた小さな店である。開店当初は1人のお客さんも入らない日もあり、寸胴鍋に沸かしたお湯をまっさらのまま捨てた時もあったそうである。そんな不安にさいなまれた日々から紆余曲折があり、今は落ち着いてきているようである。
 
 店はカウンターが6席、テーブルが2卓で10数人でいっぱいになる。店内は綺麗に整理整頓されていて、鉢植えの草木が置いてあり家庭的な雰囲気である。時間をずらしあえて閉店間際の1時半に入ったので、店にはお客さんはテーブル席に2人だけであった。私はどちらかと言えばトマト味が好みなので、「海鮮と季節の野菜、フレッシュトマト」を注文した。彼は化学調味料を使わず、素材そのものを生かし自然でまろやかな美味しさを引き出すことにこだわっている。食べ終っての感想は、「久々に美味しいものを食べた!」という満足感である。これがこの店の魅力なのであろう。
 
 
 
     店内は彼の好みで小物や鉢植えの草花が所狭しと置いてある。
 
 
 
         海鮮と季節の野菜 フレッシュトマト 1280円
 
 彼は55歳で脱サラし今は63歳である。開店当初は昼と夜の営業をやっていたが、年齢と共に無理が利かなくなったことと、夜の営業が不安定で効率が悪いことなどから昼間だけの営業に絞った。昼間の営業は11時15分から2時15分の3時間、しかも営業日は週休2日制で4月は21日間の営業で9日休みである。それでも1日平均3万円は売り上げるらしい。したがって月商は60~80万、家賃諸経費を引いて手取りを半分として30万以上あることになる。基礎年金ももらっているそうだから、夫婦2人で暮らしていくには充分である。彼曰く、「サラリーマンで人に使われているより、はるかに気楽で充実している」という。あとはどこまで体力が続くかである。
 
  
 
                          月曜日木曜日定休で最終週は3連休

 私が食べ終わる頃、2時の閉店間際に2組のお客さんが入ってきた。隣に座った1組は40代の夫婦、彼らは2種類メニューでそれぞれ大盛りを注文した。そして、ある程度食べたところで、二人は料理を交換して今度は違うメーニューを食べ始める。たぶん常連のお客さんで、それぞれ違う味をたっぷりと堪能してみたかったのであろう。それほど、味には魅力がある。

 では、なぜここまで人気店になったのだろうかと考える。一つは彼の料理に対するスタンスである。化学調味料を使わず素材の美味しさを引き出した美味しさが評価されたのだろう。二つ目が気取らず家庭的な雰囲気が店に安心感と親しみをもらたらしているように思う。そして三つ目が毎月季節の素材を使った旬のメニューを提案し、お客さんを飽きさせず、次に来店することへの期待につながるのであろう。下の写真は彼のフェイスブックから拾った、ここ直近5ヶ月の旬メニューです。
 
  
 
            4月 生海老と春キャベツのフレッシュトマト
 
  
 
           3月 蛤とズワイガニのフレッシュトマト
 
  
 
            2月 ネギとベーコンの焼きチーズ
 
  
 
             1月 野沢菜と桜海老の和風味
 
  
 
              12月 牡蠣のバター醤油
 
※本来なら宣伝のために、店の場所を紹介したいしたいところですが、彼は「忙しくなるのは嫌だ!」ということで、TVでの取材も断ったほどです。ということなので、紹介は遠慮させていただきます。






家族の異変

2017年03月17日 08時15分02秒 | 日記
 20年前、以前の会社で私が面接して採用した女性、今は結婚して二児の母である。結婚式の主賓になって以来、年賀状は欠かさず来ているし、年に1、2度はお昼ご飯を食べている。そんな女性からの突然のメールである。
 
こんにちは。ご無沙汰してます。
・・・・・・・・・・
人生わからないものですね。
母がくも膜下出血で倒れ、翌日手術をして、未だ意識が戻らずにいます。
医者からは、倒れた時の状態が悪すぎ、即死でもおかしくない状況だった。
もう手は尽くしたが、今はまだ脳からの出血が続いている。
あとの手段は、脳の出血部を取ってしまえば延命になるけれど植物状態になる。
そういう説明があり、「さあどうする?」の選択をせまられました。
家族で協議して、結局追加の手術はしないことにしました。
あとは本人の生命力に任せ奇跡を信じるのみの状況が続いています。

私としては急に突き付けられた現実を受け止めたくはないものの
結局は受け入れざるをえないのが現実です。
今は何が出きるわけでもなく、毎日チクチクと時間が過ぎていきます。
酷な時間で、人間は誰もが乗り越えていく時間なのだろうな、、と、
人が居なくなるのは寂しいな、と、思いながら静かに毎日を過ごしています。
・・・・・・・・
 
 
こんばんは。

母は未だ意識不明です。
脈がずっと150程度で、いつも苦しそうにしています。
見ているこちらも苦しくなってきて、私も含め、みんな疲れてきています。
父は糖尿に加え膝も痛め、部屋の中を這っている状態です。
なので、毎日家事をしに行かなければなりません。
こんな生活いつまで、、いや、一生なのだろうと、ため息が出ます。
病院の独特の匂いや、ICUの重たい空気が、
気持ちをいっそう辛いものにさせますね。

意識が戻っても半身不随だそうです。
生きていて、あの母が気持ちを強く保てるのだろうかと思ったり、
ああ、このまま居なくなってしまうだろうかと思ったり、
どこかで誰もが覚悟していながら、口に出さないでいる状態です。
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こんばんは。

母が倒れて1ヶ月ちょっと経ちました。未だ意識不明です。
2週間前に再度脳からの出血があり危険だと言うことで、
夜中に病院に駆けつけ、翌日には親戚にも来てもらいました。
それからまた持ちこたえ、今は血圧や心拍も落ち着いた状態です。

痩せてきたからか瞼の下の眼球だけが グリグリ動いてるのが分ります。
その眼球が孫の話や、カーペンターズの曲をかけたりすると、激しく動きます。
ピアノの先生に情動に語りかけることは意識の回復に効果があると聞き、
試してみているところです。

さて、おかしなもので私は母のそんな姿にも見慣れてきて、
話し掛けるときも赤ちゃんにでも話しかけるように、
自然に赤ちゃん言葉になるのが不思議です。

24時間見舞いを許されているので、朝、見舞いをして家に帰り
ご飯を作って父のお昼ご飯を持って実家に行きます。
この生活がいつまでも続くのは無理だなぁ。とつくづく思います。

兄夫婦達と代わる代わるで面会はしているものの、
ふと、みんな何を待っているのだろうかと思います。

目が開いた時、傍にいてやりたい。
意識が戻った時、名前を呼んでやりたい、色々と奇麗事は言えますが、
本音を言えば、このまま容態が悪化し、
極力こんな苦しみから解放させてやりたいとも思います。
兄は、「絶対回復させるぞ!」と気合いのメールをよこしますが、
こちらとしては、ちょっと温度差を感じます。
 
家事やパートの仕事で、とにかくハードワークだった母、
今考えれば父にも兄にも、分らないくらいのしんどい状態が
半年くらい前から有ったように思います。
それは母の話し方が、のっぺりのっぺりになっていたからでしょうか、、
同居する兄夫婦は共稼ぎで、家の孫達はおばあちゃんを頼ります。
だから私が実家に行っても、私は母には何も頼みづらく
最近は長居せずにすぐ帰っていました。
 
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こんばんは。

母の見舞いと父に時間を割くことで半日が終わります。
そんなことから下の娘に割く時間は圧倒的に少なくなりました。
母が入院してわりに早い段階で、これではマズイと思い、
見舞の時間をなるべく少なくしようとしました。すると兄からメールが来て、
「どうにか熱も下がり脳からの出血は止まったようだ」
「瞼が八ミリ空いた時間があった」
「なんとか少しでも見えるのなら、視覚に訴えることも出来るのだが…」
「お前もあまり丁寧に扱わず、荒いくらいの方が反応が見られるかもしれない」
「明日の昼間は足のむくみのマッサージと声かけを頼む。夜は俺が行く」
と言った内容で、私は「おっと、と、・・」と自分の気持ちを引き止められる感覚です。

兄は根が真面目で、家族へはきちんと義理立てする人です。
その家族の一大事とあらば色んなことを調べ、精一杯の労力を割きます。
私は、兄のお嫁さんも大変だろうなと思い、お嫁さんに感謝です。
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こういう状況は子供にとっては誰もが経験することで、
通らなければいけない試練なのでしょう。
しかし私はどこかホッとしているところもあります。
あの気弱な母が突然の出来事で病に付し、病と向き合わずして眠っている。
これは神からのプレゼントなのでは、というふうにも思ってしまいます。

母は、父や我々子供たちや孫達にほんろうされ、
「家族と言う病」と闘病していたのです。
そして恐らく、そのストレスからくも膜下出血なのかな、とも思っています。
だからカルテに病気の原因は「家族」と書いてくれれば分かりやすいのですが、
その元凶の家族が毎日病室を訪れてるのだから、
母もなかなか眼を開けないはずですね。
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 ゆったりお茶しながら会いたいですね。
4月になって上の娘の新学期始まったら声かけます。
その時は下の娘も預けるのでゆったり話しましょう。
今はそんな時間がほしいです。
 
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 母親が入院して、既に50日以上が経過している。その間のメールを読むと彼女の心の変化が見て取れる。最初の混乱や動揺から、時間が経つほどに現状を客観的にみられるようになり、次第にその状況を受け入れている様子が伝わってくる。そんな中での私の存在は、たぶん「なんでも喋れる昔の上司」なのであろう。家族でもママ友のような実生活に関わる立場でもなく、彼女の利害から離れた第三者、そんな相手に自分の心の内を吐露することで、少しは自分の気持ちが軽くなるのであろう。これはある種のカウンセリング効果なのかもしれない。
 
 昔読んだカウンセリングの本にこんなことが書いてあった。クライアントが自分のことを語るには、自己の内情を整理しなければならない。そして心情を喋ることで自分自身でもそれを聞くことになる。そのことで本人も自分の立場を客観視することができる。客観視するということは、一歩離れた処から自分を見直すことである。そのことから気付きがおこり、自分がどうすれば良いのかがわかってくる、というようなことが書いてあった。
 
 彼女はメールすることで今の自分の状況を俯瞰することになる。母親の病状の予測、自分の2人の娘のこと、父親のこと、旦那のこと、兄のこと、自分の置かれた立場や、やらなければいけない優先順位がおぼろげながら見えてくるはずである。もしそうであればメールを受け取り返事を返す私も少しは役に立っていることになる。
 

70という歳

2017年02月24日 08時15分01秒 | 日記
 先週、以前の会社の仲間で恒例の集まりがあった。メンバーは68歳~74歳まで12人、そのうち今回は4人が欠席した。欠席理由は急な要件が出来たからが2人、体調不良が2人である。1人は悪性リンパ腫の抗がん剤治療後の免疫低下での外出自粛、1人は脊椎間狭窄症が原因の体調不良だそうである。出席したメンバーでも糖尿病が1人、前立腺がんで手術が1人、胆石で胆嚢摘出した者、緑内障の上に白内障が重なっている者、高血圧で薬を飲んでいる者と、ほとんどが何らかの病気を抱えている。
 
 最近読んだ本に、「自然の摂理から言えば、人は80や90歳まで生きるようには設計されていない」と言っていた医者がいた。人類の平均寿命は延びているものの、大体40歳までに子供をつくり、それから20年かけて育てて60歳、多少の余裕をみて70歳が耐用年数の一つの目安であろう。だから70歳前後になるとあらゆるところが不調になるのは当たり前である、という持論である。
 
 むかし読んだ本に「ゾウの時間ネズミの時間」というのがある。うる覚えであるがこんなことが書いてあったように記憶している。それはネズミからゾウまでさまざまな哺乳類を比べてみる。するとネズミの心臓は早鐘のように打って数年の寿命、ゾウはゆっくりゆっくりと脈を打って100年近く生きる。他の哺乳類も同じように見てみると、大体哺乳類の心臓は20億回脈打ってその役割を終えると書いてあった。
 
 この説で言えば、人は1分間に60回脈を打つとして20億回で63年である。戦前までは日本人の平均寿命は50歳代だということであるから20億回の耐用年数で充分であった。しかし今は日本人の平均寿命は80歳、これは心臓の鼓動で25億回に相当する。それだけ心臓の性能がアップしたのだろうか?、たぶんそうではなく、生活環境やメンテナンスがよくなって長持ちできるようになったのだろう。自動車に例えれば、昔は砂利道を走っていたのが完全舗装の道を走るようになり、ガソリンもオイルも品質がよくなって、エンジンが長持ちするのと同じなのかもしれない。
 
 しかし自動車も約3万点の部品で組み上がっているように、人も色んなパーツが機能して活動できるようになっている。そのパーツの寿命は必ずしも同じではなく、使い方やメンテナンスによって異なってくるのであろう。歯がだめになってくる。視力が落ちてくる。聴力がおかしくなる。腰や膝に痛みがでる。血管が脆くなる。そして内臓、さらに認知症など脳までも機能不全を来たしてきはじめる。
 
 70歳になって自分を振り返り周囲を見渡すと、ほとんどの仲間が何処か此処かに不調な部分を持っている。そしてそれが生活に支障を来たし始めた人も多くなった。年に何回か集まる昔の仲間の会合では、だれがガンで入院した、だれが亡くなったという情報が行き交うことになる。そしてそれを聞いて、「おう、そうなのか」と昔の仲間の話題でひとしきり盛り上がる。しかしそこにはそれほどの驚きも哀れむ気持ちも少ない。それは「いずれ自分も・・・・」という思いがあり、少なからず覚悟のようなものがあるからなのかもしれない。70という歳はそんな年齢である。








東海道五十三次

2017年01月13日 08時33分33秒 | 日記
  昨年の11月、外出先でランチに吉野家の牛丼を食べた。その時店内で、「東海道五十三次を歩いてクーポンをもらおう!」というポスターを見かけた。スマホの万歩計を連動させて東海道五十三次を歩くという企画である。以前スマホに万歩計をインストールして使っていたことがある。しかし自分の歩行習慣と歩数を大体把握してからは使わなくなった。今回の企画、「歩く目標が出来て面白いかもしれない」、「果たして京都までどのぐらいで歩けるのだろう」、「歩いて割引クーポンがもらえるのなら励みになる」、そう思って早速そのソフトをインストールして使ってみることにした。
 
 11月2日、日本橋をスタートした。このイベントのために特別に多く歩くことはせず、普段どおりである。私の歩行習慣は平日は13000歩前後、休みに歩くときは20000歩程度、歩かないときは5000歩以下である。スマホのソフトは歩数の積算で日本橋から品川宿、川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿と東海道の宿を伝って歩くことになる。そして時々割引(50円引き)のクーポンが配布されてくる。
 
       
 
        日々の歩行記録は棒グラフになる。   
 
       
 
      歩数の積算で五十三次の宿を京都へ向かう      
 
       

          東海道五十三次のルート
 
日本橋⇒品川⇒川崎⇒神奈川⇒保土ヶ谷⇒戸塚⇒藤沢⇒平塚⇒大磯⇒
 
小田原⇒箱根⇒三島⇒沼津⇒原⇒吉原⇒蒲原⇒由比⇒興津⇒
 
江尻⇒府中⇒丸子⇒岡部⇒藤枝⇒島田⇒金屋⇒日阪⇒桶川⇒
 
袋井⇒見附⇒浜松⇒舞阪⇒新居⇒白須賀⇒二川⇒吉田⇒御油⇒
 
赤坂⇒藤川⇒岡崎⇒知立⇒鳴海⇒宮⇒桑名⇒四日市⇒石薬師⇒
 
庄野⇒亀山⇒関⇒坂下⇒土山⇒水口⇒石部⇒草津⇒大津⇒三条大橋
 
        
 
      歩き終わった宿は赤くなり三条大橋に到着  
 
        
 
         1月4日に三条大橋に到着した
 
 年末年始の休みがあったから、所要日数は2ヶ月以上かかったことになる。総歩数70万7000歩である。これを53次で割ると宿場間の平均は1万3350歩、これは私が平日歩いている歩数とほぼ同じである。ということは東海道五十三次を一宿づつ歩いていけばそんなに大変な旅でもないように思える。昔は旅支度を整え草鞋で田舎道や山道を一歩一歩歩いて行ったのであろう。ゆっくり歩いて約2ヶ月の旅、歌川広重の東海道五十三次に出てくるような風景を見ながら旅を楽しんでいたのかもしれない。娯楽の少なかった昔、日常を脱して非日常の旅に出る。現代の楽しみ方と比べようもないが、私はこういう方が性にあっている。
 
  

              保土ヶ谷 

  
 
                原
 
  
 
               御油宿

  

               岡部
 
    
 
               袋井