60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

女にとっての男の価値

2013年08月30日 09時15分47秒 | Weblog
 会社(親会社)の女性社員が、上司の男性社員を「使えない男!」とぼろくそに批判している。彼女にその理由を聞いて見ると、こういうことである。
 その上司は臆病な性格からか仕入先や女性社員には対等に話せても、得意先や先輩社員に対しては対等に話ができない。だから相手に対して阿る(おもねる)ことでコミュニケーションを取ろうとする。そういうスタンスでは難しい局面になると腰が引けてしまう。仕事でトラブルがあれば女性社員を使って、「○○さんに事情を聞いておいて・・」、「○○さんに今聞いた事を伝えといて、・・」、と直接のコミュニケーション避けてしまう。母親の後ろに隠れる子供のようで、こういう男性は女性にとって「使えない男」の代表例なのである。

 もう一つ、会社を辞め結婚し、今は2児の母になっている女性(30代)の話である。今年のお正月、子供2人を連れて旦那の実家がある福岡県に帰った。何泊かして東京に帰る段になって旦那は熱を出してしまう。福岡空港まで出てきたが高熱でフラフラの状態、仕方なく空港の医務室に駆け込んだ。幼い子供を連れ、荷物も沢山抱えて彼女は途方にくれてしまう。その時思わず自分の旦那を、「使えない奴」と思ったそうである。冗談半分で私に言ったのであろうが、ある意味彼女の偽らざる気持ちなのであろう。結婚して子供もでき何年も経てば夫に対する愛情も薄れてくる。家庭を切り盛りし子供を育てることが最優先の課題、そんな時の女性にとっての男の価値は、自分にとって使い勝手が良いか否かであろう。重い荷物を持ってくれ、切れた電球を変え、朝ゴミ出しをしてくれる。そんな旦那は使い勝手が良い男。旦那の実家に行って、ここ一番でダウンしてしまい役に立たない旦那、彼女にとっては「使えない奴」なのである。

 最近何人もの女性から、「あいつ使えねぇ~」という言葉を聞いたことがある。いづれも30代の女性で、彼女達の世代ではそんな言葉が流行になったのだろうか?と思ってしまう。女性も20代と違って30代になれば、一応男を立てているが、仕事でも家庭でも日常的な仕事はイニシアティブを持つようになる。そんな女性が男性に求めるものは、自分達が苦手なことをホローしてくれる男性である。
 世の中では建前として男女平等と言われえていても、動物としての雌雄がある以上、その役割や得て不得手に差異が生じるのは自然なことである。有史以前から女はを家を守り、男は外から餌を運び、いざとなれば敵と戦い家族を守る。これがホモ・サピエンスにインプットされている本能なのであろう。しかし人間社会の急速な発展は、そんな本能による秩序を排除し、意識の上で男女のボーダレス化が進んでいった。しかしどっこい本能は生きている。そして女性が男性に求める価値の中に、「強くたくましい」と言う要素は依然として残っているのである。だからそれが欠けてしまうと「使えない男」と烙印を押されてしまうのかもしれない。

 女性は自分達が生きていく上で、如何に上手く男性を使うかがテーマなようである。以前、ある芸者さんの話が載っていたエッセイを読んだことがある。曰く、「女は同時に3人の男を愛することができる。一人は今のスポンサーである旦那。2人目は、もし旦那に万一があった場合のスペアーとしての男、そして3人目が自分を庇護してくれるか否かに関わらず、本当に好きになった相手」、と書いてあった。それを読んだとき「女性はなんと打算的なのだろう?」と思ってしまった。しかし翻って考えて見れば、男も女も基本的にはジコチュウな生き物である。自分にとって必要な相手かどうかで、好きにもなり嫌いにもなって行く。これが人間が動物としての証のようなものかもしれない。








認知症

2013年08月23日 08時20分19秒 | Weblog

 朝の通勤時にはスマホでインターネットのラジオを聴いている。先日そのラジオのニュースの中で認知症の問題を取り上げていた。今現在認知症患者は全国で400万人で10年前の2倍と急速に増えているという。原因は高年齢者の比率が増えたこと、それと認知症という症状がクローズアップされたことで、今まで隠れていた認知症患者がカウントされるようになったことが理由だと言う。しかも認知症予備軍はさらに400万人いるといわれていて合計800万人。65歳以上の4人に一人が認知症の症状があり、益々増える傾向にあるという。核家族化の現在、認知症の介護や支援活動は今後の大きな課題になるという。

 ニュースの解説者はその象徴的な事例として今月の初めにあった名古屋地裁での判決を取り上げた。その事件とは、6年前91歳だった認知症の男性がJR東海道線・共和駅で線路内に立ち入り、快速電車にはねられて死亡した。電車の運転士が男性を発見してブレーキをかけたが、間に合わなかったという。自殺の可能性もあるとされたが、立ち入った経緯ははっきりしていなかった。この事故に対し、JR東海は保護者の安全対策が不十分だったとして、男性の妻と長男を提訴した。男性はこの年に、常に介護が必要とされる「認知症高齢者自立度4」と認定されていた。裁判で妻は、当時85歳の高齢のため夫を常時監視できなかったと反論した。しかし名古屋地裁はJR東海の訴えを認めて、遺族に電車の遅延などの賠償金約720万円を支払うよう言い渡したのである。その理由として裁判長は、同居の妻が介護ヘルパーを依頼せず、目を離したすきに男性が外出したことを指摘、長男は事実上の監督者であるにもかかわらず、徘徊防止の適切な措置を取らなかったとした。認知症の男性は常に目を離さないようにしていなくてはならず、2人の過失責任は免れないということである。

 認知症高齢者自立度の基準は5ランクに分かれていて、「ランク4」は「日常生活に支障を来たすような症状・行動や意思疎通の困難さが頻繁に見られ、常に介護を必要とする」と既定されている。四六時中監視を怠ることができず、徘徊した時の事故は保護者の責任にとなるとなれば、認知症の4ランク以上の人には人権というものはなく、一種動物的な扱いのように思えてしまう。認知症に対する有効な手段が無い現状で、家族の中で症状が顕著に出てきた場合は、その後の状況は悲壮なものになることは想像に難くない。

 この問題を自分に当てはめてみると、私の両親はすでに他界しているから、我々夫婦が子供達に如何に負担を掛けずに暮らし死を迎えるかである。認知症の原因は何種類に分かれるようで、主なものに脳の神経細胞の異常が原因で起こるアルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症。他に脳梗塞など脳の血管の異常が原因で起こる脳血管性認知症や、脳の外傷や脳腫瘍、脳炎などで起こる認知症がある。現時点での認知症の治療薬は、アルツハイマー病に対するものが多少あるだけで、脳血管性認知症自体を対象にする薬剤はないようである。現状にこれと言った有効な対策がない以上、如何にして認知症を予防するか、進行を遅らせるか、それが目標になってくる。ニュースの中で解説者は、しいて上げれば男性は血管年齢、女性は骨粗鬆症への注意が重要と言う。それは脳の血管障害や骨折等で日常生活・社会生活が停滞したときから、急速に認知症は進行するからということであった。

 以前父親が、「親戚や知人の死に様を見てくると、やはりピンピンコロリが理想になるよ」と言っていたことを思い出す。(ピンピンコロリとは、病気に苦しむことなく、元気に生き、病まずにコロリと死のうという意味)。そのためにはやはり食事と運動、そして生活に対しての意欲とが基本になるのだろうと改めて思うのである。
                








2013年08月16日 09時11分50秒 | Weblog
 上の娘が先月末、陣痛から30時間にも及ぶ苦闘のあと2900gの女の子を出産した。その後5日間入院、先週から産後の里帰りで今は家にいる。家に戻ってきた当初は精根使い果たしたのか、母子共にボロボロの状態に見えた。出産時の痛みと不安で精神状態も最悪で、家に戻ってきてからも過呼吸や幻聴もしばしばあったようである。睡眠不足で朦朧とした意識、疲れと貧血から眩暈がある中、それでも2~3時間毎の授乳である。見ているこちらの方が痛々しく、果たして娘は立ち直れるのか、子供は育つのかと不安でもある。

 母乳が足らないようで、今は毎回30~50mlのミルクを足している。私も昔取った杵柄で夜はミルクを作り哺乳瓶で飲ませるようにしている。抱けば口をモゴモゴさせて乳首を捜している様子、それが見つからなければやがて泣き出してしまう。乳首を口に当ててやれば勢いよくすい始める。そして疲れてしまうのか、休み休みになり、やがて乳首を吐き出してしまう。お腹が空けば泣き、お腹がいっぱいになれば寝る。これは母親の胎内にいた時の延長線上なのだろう。今はただひたすら自らの遺伝子の発現に身をゆだね、己の成長を待っているような感じである。

 毎日1回でも抱いていると、赤ん坊の日々の変化が見て取れる。シワクチャだった肌は日1日と艶を増してきて張りが出てくる。こちらを見つめる視線はおぼろげなのだろうが、次第に時間が長く落ち着いた雰囲気になり、時にニコッと笑ったような表情に見えることがある。この小さな命、誰かが支えてやらない限り維持することさえ不可能である。強烈な陣痛を伴う出産、睡眠もままならぬ間隔での授乳、寝ても起きても赤ん坊のことから目を離すことが出来ない。そんな自然の仕組みから、母親は「この子は私が守るのだ」と言う、強い自覚を持っていくのであろう。そこには男に太刀打ちできない執念のようなものさえ感じる。そしてそんな時間の経過が母性を芽生えさせ、母親に確固たる自己の存在理由ができあがっていくのであろう。

 今、甲斐甲斐しく赤ん坊の世話をする娘を見ていると、不思議な感覚になる。幼稚園まで迎えに行った時の娘、部活で遅く学校から帰ってくる娘、友達と泊りがけで旅行に行くようになった娘、就職してからはしょっちゅう駅まで迎えに行った娘、今その娘が赤ん坊に優しく声をかけながら、ベビーバスで沐浴をさせている。この孫娘が娘と同じような経過をたどって成人していくのは20年先である。時間の経過は短いようでもあり長くもある。この先どこまでこの子を見守れるのかは分からないが、今は母子ともに明るく健やかに成長して欲しいものだと思うだけである。

 さて、私にとっては初孫である。しかし今の私には可愛いとか、愛おしいとかはいう感情はあまりなく、この子が特別な存在という実感も湧かない。それは母親になった娘とその旦那と言う当事者、そして今は自分のことのよう世話をする女房の陰で、そっと垣間見ているだけの存在だからであろう。もう少し時間が経過して、この子が笑い始め、歩き始め、話し始めて初めてその実感が湧いてくるのかも知れない。






偏屈

2013年08月09日 08時35分13秒 | Weblog
 先日、よく行く会社近くの喫茶店の店主(女性)に、「男の人は、歳を取ると不機嫌さを露骨にみせる人が多くなるけど、なぜなの?」と質問を受けた。「はて???」、一瞬何のことだろうと考えてしまう。そう言われれば、年寄りで偉ぶった態度で、何時も不機嫌そうにしている人が多いように思う。コンビにでも、飲食店でも、電車の中でもムスッとした顔で、「俺に近づくな!」的なオーラをまとっている人は確かにいる。歳を取ると男は偏屈になり、女はますます口うるさくなると言うが、こういうことを言っているのかと思ってしまう。多分そういう男性は、仕事をしていたときは組織の順位付けの中で「俺は偉いんだ」と思っていた人、歳と共に「自分は偉くなったんだ」と錯覚している人達だろう。しかしリタイアしてからは威張る場所がなくなり、歳とともに周りから阻害されてしまう。そんなことから世間に対して自分の権威を誇示し、偉そうな態度を作っているのかもしれない。それが傍から見ると不機嫌さに見えるのだろう。

 振り返って見ると、自分自身もそういう面があるのかもしれない。私の場合は周りに偉そうな態度は取らないが、社会生活の中で怒りの頻度が多くなったように思う。
 最近の例を2、3挙げてみる。通勤で使う最寄り駅で改札機にカードを当てたフリをして、強引に通り抜ける若者を見つけた。最初はたまたまなのかと思ったが、後日に再度その光景を見たとき怒りがこみ上げてきた。そして3度目その若者を呼びとめ、「今不正乗車しただろう!」と問いただした。「いや、ちゃんとカードで入りましたよ」と言う。「私はあなたが改札機の警告音が鳴ったのに強引に入ったのを3度見ている。正式に入ったかどうかは駅員にカードを調べてもらえばわかるから」そう言って、その若者の腕をつかんで改札の駅員詰め所へ連れて行こうとした。「勘弁してくださいよ」、そう言いながら若者は私の手を振り払ってホームへ向かって走り去った。私には後を追いかけるまでの気持ちも意地も無い。その後その若者を見ることはない。

 もう一つ、毎朝池袋のコーヒーショップで珈琲を飲んでいる。ある朝、コーヒー回数券(1000円)を買ったとき一万円札を出した。その時レジ係り(30代男性)が、「今五千円札を切らしているので千円札になってしまいます」と言う。「かまわないよ」と言うと、レジから千円札を出してカウンターの上に並べ始めた。札と札の間を2センチずつずらして5枚並べる。そして今度は5枚目と6枚目を完全に切り離して残りの4枚を並べていった。さすがにこんなバカなことに付き合わされることにムッとなって、「幼稚園児にお釣を渡しているのではないのだから、束ねて数えたら!」と言う。それに対して店員は「これはマニュアルですから」と平然と答えた。「マニュアルが絶対ではないんだよ。朝の忙しいとき臨機応変に運用するのがマニュアル。もう少し相手を見て考えたら」と、捨て台詞を吐いてその場を離れた。

 それから最近よくやるのが、信号機の無い道で、自動車が来るのが分かっていて、わざと横断歩道を渡ってブレーキを踏ませることである。当然車の直前を渡るのだからリスクが伴う。走って来る車のスピードと渡りはじめるタイミングとを計り、相手が車を止めることのできる間合いで、平然とした体で渡るのである。しかし万が一の時を考えて全神経を張って、いつでも飛びのくことも意識している。なぜそこまでしてこんな事をするのか?、それは横断歩道で歩行者優先の原則を無視する運転者があまりにも多いからである。歩行者の方が車が通り過ぎるのを待つのが当然と思っているのか、時に横断歩道を渡る歩行者にクラクションを鳴らす運転者までいる。これが許せない。これが私の怒りになる。
 
 若い頃だと受け流せたり、無視したり、気にもしなかった事が、歳を取ってくるとやたらに気になるようになる。そしてそれが次第に怒りになって一言言わないと気が済まなくなってくるのである。なぜそうなるのか、その理由は自分でも分からない。年齢と共に融通が利かなく偏屈になるのか?、それとも社会の中で自分の存在意義が薄れてくるため、その存在意義を取り戻そうとしているか?
 時代は高齢化社会になり、これからは益々年寄りの比率が増してくる。そんな中で年寄りが不機嫌だったり、偏屈だとすると国全体から明るさがなくなってしまう。年寄りは年寄りとしての存在意義をどう確立していくか?、どう生き生きと暮らしていくか?、そんなことを一人一人が意識していく時代のように思ってしまう。




自制心

2013年08月02日 09時16分47秒 | Weblog
 通勤の駅までの間、よく犬の散歩を見かけることがある。先日私の10mくらいを前を年配の男性が犬を連れて歩いていた。その男性が突然、前方に向かって「イヌの糞、始末して行きなさい!!」と大声で叫んだ。私はハッとして目を上げる。私は気づかなかったが、そのさらに10m先を若い女性が小さな黒っぽいイヌを散歩させていた。たぶん犬の糞を始末しないまま立ち去ろうとしたのだろう。注意された女性は布のバックからティッシュを取り出し、しぶしぶその糞を包みビニール袋に収めた。やがて男性が女性の傍を追い抜く。その時一言、「あなたのような事をする人がいるから、我々も疑いの目で見られてしまうんだよ!」 女性は黙ってうつむいたままであった。

 人は見られているいないでその行動を変えることがある。社会のルールを厳格に守ることは面倒なことで、できれば自分勝手にやりたいと思うものである。信号無視タバコのポイ捨てなど、マナー違反が当たり前になってくると、しだいに後ろめたさがなくなってくる。そしてそれがさらにエスカレートしてくると、万引きや置き引き不正乗車と犯罪の域にまで進んでいくのかも知れない。会社の仕事上でもこの手の行為は日常茶飯事である。特に外回りが基本の営業職に激しい。営業先に行ったことにしてサボることは誰でもやることだろう。たまに気が向かないからサボったとしても、そこに後ろめたさや罪悪感が働けばまだ良い方である。しかしそれが恒常的になって自制心が働くなると、行ってもいないのに交通費を請求したり、さらにエスカレートして空出張や家族との飲食代まで会社経費で落とすようになってしまう。そうなればもう不良社員というか詐欺行為である。

 今まで仕事上で多くの営業担当者と接してきた。長い経験から営業の人と何回か話しているうちに、大体の営業のスタンスが分かるようになる。手を抜かず誠心誠意仕事をする人、何時もオドオドして営業に不向きない人、口先だけで要領よくやろうとする人、営業と言う職を良いことに公私混同が激しい人、営業のタイプも千差万別である。そんな中でも要領が良く不正な行為が多い人は雰囲気で分かる。彼らに共通する気配は「姑息」である。人と目を合わせない。何時もあいまいににして自分の行動をオープンにしない。適当に人と話をあわせるだけで自分の考えをはっきり言わない。ざっくばらんに話しているように見えて、なんとなく嘘っぽく胡散臭い。人の性癖はその人の言動や物腰に必ず出てくるものである。そして長い間に、その人の評価が定まり信頼度が決まってくる。

 人は聖人君子ではないから嘘をついたり、時に不正を働くかもしれない。しかしどこかでブレーキが効かないとどんどん安きに流れてしまう。人が見ているから、見ていないからは外的な歯止めである。それだけが行動を左右するのであれば、その人は人の目を盗むようになる。人生の道を運転していくとき、自分の心の中にブレーキ装置を持っておく必要があるだろう。「人には迷惑をかけたくない」、「金銭的にはキチッとしておく」、「人に借りたものは必ず返す」、「人との約束は守る」、「ズルはしない」、「嘘はつかない」、どこでどんなブレーキをかけるかは人それぞれである。漫然とそれらを意識しておくのではなく、何か一つでも良いから自分に課せた「掟」のようにしておけば、その人には1本筋が通ったように感じることができる。そんな人を見ると芯があるように思い信頼できるものである。