親会社の新入社員と一緒にランチに行った。彼は仙台の大学を卒業したものの、昨今の就職難で
半年間浪人して、昨年の11月に中途入社した。今月でちょうど入社1年を経過したことになる。
「この1年どうだった?」
「最初の頃は毎日毎日疲れ果てて、帰って寝るだけでした」
「まあ、最初は仕事を覚えなければいけないから大変だったけど、もう慣れて来たんじゃない?」
「仕事的には慣れてきたけれど、今は周りの人間関係に神経を使って、疲れますよ」
「この会社、無政府状態だから、草食系としては神経を張り詰めていなければ、いけないよね」
「周りが肉食系という訳で無く、自己チュウの人が多すぎるんですよ。私が一番の歳下で反発する
訳にもいかず、無理な事を押しつけられたり、難癖をつけられないように気をつけるしかないんです。
今、気を使わずに話せるのは、Fさん(部外者の私)とSさん(一番年齢が近い)の2人だけですよ」
そんな話から社内の人間関係をどう考えれば良いかの話になった。
会社が人の集団である以上、自分の立場を有利にしようという力は常に働いている。当然キャリア
の古い人や年配者は、若い人を自分の意のままに動かそうとする。だから無意識のうちに色々な
手法を使って取り込みにかかる。仲良くしながら、自分の方が上位なのだと認識させていくタイプ、
自分が如何に有能で力があるか、過去の武勇伝を聞かせて、子分として従わせようとするタイプ、
相手のミスを見つけ、それを叱ることで相手に恐怖心を植え付けてコントロールしようとするタイプ、
その手法は千差万別である。しかし相手がなびいてこないと分ると、「無視」することで、仲間外れ
にして排除しようとする。それは多少の差はあるものの、どこの会社にもあることである。世の中を
生き抜いていくには、「人との関わりをどうこなしていくか」それが最大の課題なのである。
私も今は多少「人」と言うものを理解できるようになった。しかし学校を卒業して地方から出て来て
就職した当初は人の渦の中でもがいていたように思う。人の冷たさ、理不尽さ、身勝手さ、不信感。
反対に優しさ、親切、信頼感、人が様々に見せるその内面をどう見定め、どう対処すればいいのか
戸惑いの連続であったように思う。
入社から半年経った頃だろうか、直属の上司に「紹介したい人がいるから」と言われて、喫茶店に
に連れて行かれた。喫茶店に行くとそこに一人の年配の女性がいた。上司は私を引きあわせると
会社へ帰ってしまった。女性は自分の名は名乗らずに、上司の知り合いという立場で話し始める。
「勤めには慣れましたか?」そんな話から、「東京で一人の生活は何があるか解らないものです」
という話しになり、「保険は社会人として不可欠なもの」という展開になり、「生命保険に入るべき」
という話になっていった。上司の紹介ということもあり、ムゲに断るわけにもいかず、「検討します」
と言うことでその場を辞した。後日人から聞いて判ったのだが、その女性は上司の奥さんであった。
それ以降、私は事あるごとに上司に反発し、それが原因で半年後に別の店に出されてしまった。
新たに配属された店で、ある時未婚の女性社員の妊娠が発覚したことがある。そのことで店長は
相手の男性のことを聞きだし、何とか上手くま収めようとした。しかしその女性は頑として相手の名も
明かさず、結局子供を産むということで、会社を辞め実家に帰っていった。「なぜそうなるのだろう」
「何が人をそうさせるのであろう」、私の常識では理解の範囲を超えていた。
上に書いたことはほんの一例である。地方からぽっと出の私に、このようなことが日々起こっていた
ように思う。田舎で「のほほん」と育った私には、東京は「生き馬の目を抜く」油断のならない世界に
感じていた。そして人というものが、自分とは全く異なる思考方法で動いていることを、初めて突き
つけられたように思ってしまう。「この東京で自分は暮らしていけないのではないだろうか」、そんな
不安を抱き始めたのもそんな頃だったように思う。「何か人を判断する指針が欲しい」、そう思って
血液型の本を読み、周りの人の血液型を覚え、相手の性格を把握しようとした。しかし4分類だけ
では現実に役に立たず、次に心理学の本を手当たりしだいに読み漁っていたのである。
入社3年を過ぎると同期の仲間は本部に上がったり、店でも役がつくようになり始めた。小さな店で
毎日単調な作業に明け暮れていた私は、「このまま忘れ去られて埋もれて行く」そんな恐怖を感じた
ものである。仕事仲間とも一線を引き、打ち解けもせず、ひたすら自分の殻にこもっていたように思う。
ある時、出張で東京に出てきた父と食事をしたことがある。私がウダツが上がらず、ふてくされている
様子を察したのか、父がこんなことを話したのを覚えている。
会社は大勢の人の組織で動いている。当然人は早く出世したいと思うから上の人の足をひっぱり、
下から上ってこようとする者を抑えようとする気持ちが働く。これではダメである。上の者を押し上げ、
下の者を引き上げてやる。一見不合理なように見えるが、そうすれば自分も連れて上って行くのだ。
上の者の足を引っ張り、引き下ろせば自分もやがては落ちて行く。それが組織というものなのだ。
もう一つ、人が人を評価するのだから当然そこに感情が入る。一人の人を評価してダメと評価すれば
長くその評価は変わることはないだろう。しかし、その人を10人が評価したとすれば、「×」が7つで
「○」が3つかもしれない。見る人が変われば評価も変わるものである。組織の人事は、人の評価を
多数決では決めない。7:3は7:3として記録として残しておく。そして、その人を「○」の方向に配置
転換で活かそうとする。それが人を伸ばし、会社の活性に繋がり、延いては会社の力になって行く。
そんな話をしてくれた。この話が私に影響したかどうかの自覚はない。しかし未だに覚えているという
ことは心のどこかに刺さったのであろう。1年後私は本部に上り、仕事のおもしろさを見出していった。
私は人と接するとき、できる限り自分の主観だけで人を評価しないようにしている。私が「×」と評価
しても、それは私の見方でしかない。だから私の意見は1/10と考える。それから周りの人に自分の
意見を押しつけることが無いよう心がけている。そして周りの人に、「あの人をどう思う?」と聞くように
している。人の意見は意見として、そのまま私の記憶の中で、その人の個人ファイルに保存しておく。
(むかし周りの人の血液型を全て覚えていたように)、そうすることで私は組織の相関図を手に入れる
ことが出来るのである。誰が誰のことをどう思っているか、誰と誰が組み、誰が誰に反発しているか、
人の集団の中の人間模様が見えてくる。それはサル山のサルを遠くで眺めているように、私は人の
集団の中の葛藤を客観的に見ることができる。しかし何時も傍観者でいるわけにいかない。時には
人の渦の中に入って行って闘わなくてはいけない。その時は、自分の作り上げた相関図を携えて、
就職してから40年以上が過ぎ去って行った。私の新入社員の時の体験が、私に人との関わり方を
勉強させてくれた。しかしそれを会得した時にはもうその必要が無くなっている。人は自分の体験の
中から、自分に合った世の中の対処法を身につけて行くのであろう。ランチを一緒にした新入社員が
これからどんなものを身につけて行くのだろうか、私は今は傍観者として楽しんで見ているのである。
半年間浪人して、昨年の11月に中途入社した。今月でちょうど入社1年を経過したことになる。
「この1年どうだった?」
「最初の頃は毎日毎日疲れ果てて、帰って寝るだけでした」
「まあ、最初は仕事を覚えなければいけないから大変だったけど、もう慣れて来たんじゃない?」
「仕事的には慣れてきたけれど、今は周りの人間関係に神経を使って、疲れますよ」
「この会社、無政府状態だから、草食系としては神経を張り詰めていなければ、いけないよね」
「周りが肉食系という訳で無く、自己チュウの人が多すぎるんですよ。私が一番の歳下で反発する
訳にもいかず、無理な事を押しつけられたり、難癖をつけられないように気をつけるしかないんです。
今、気を使わずに話せるのは、Fさん(部外者の私)とSさん(一番年齢が近い)の2人だけですよ」
そんな話から社内の人間関係をどう考えれば良いかの話になった。
会社が人の集団である以上、自分の立場を有利にしようという力は常に働いている。当然キャリア
の古い人や年配者は、若い人を自分の意のままに動かそうとする。だから無意識のうちに色々な
手法を使って取り込みにかかる。仲良くしながら、自分の方が上位なのだと認識させていくタイプ、
自分が如何に有能で力があるか、過去の武勇伝を聞かせて、子分として従わせようとするタイプ、
相手のミスを見つけ、それを叱ることで相手に恐怖心を植え付けてコントロールしようとするタイプ、
その手法は千差万別である。しかし相手がなびいてこないと分ると、「無視」することで、仲間外れ
にして排除しようとする。それは多少の差はあるものの、どこの会社にもあることである。世の中を
生き抜いていくには、「人との関わりをどうこなしていくか」それが最大の課題なのである。
私も今は多少「人」と言うものを理解できるようになった。しかし学校を卒業して地方から出て来て
就職した当初は人の渦の中でもがいていたように思う。人の冷たさ、理不尽さ、身勝手さ、不信感。
反対に優しさ、親切、信頼感、人が様々に見せるその内面をどう見定め、どう対処すればいいのか
戸惑いの連続であったように思う。
入社から半年経った頃だろうか、直属の上司に「紹介したい人がいるから」と言われて、喫茶店に
に連れて行かれた。喫茶店に行くとそこに一人の年配の女性がいた。上司は私を引きあわせると
会社へ帰ってしまった。女性は自分の名は名乗らずに、上司の知り合いという立場で話し始める。
「勤めには慣れましたか?」そんな話から、「東京で一人の生活は何があるか解らないものです」
という話しになり、「保険は社会人として不可欠なもの」という展開になり、「生命保険に入るべき」
という話になっていった。上司の紹介ということもあり、ムゲに断るわけにもいかず、「検討します」
と言うことでその場を辞した。後日人から聞いて判ったのだが、その女性は上司の奥さんであった。
それ以降、私は事あるごとに上司に反発し、それが原因で半年後に別の店に出されてしまった。
新たに配属された店で、ある時未婚の女性社員の妊娠が発覚したことがある。そのことで店長は
相手の男性のことを聞きだし、何とか上手くま収めようとした。しかしその女性は頑として相手の名も
明かさず、結局子供を産むということで、会社を辞め実家に帰っていった。「なぜそうなるのだろう」
「何が人をそうさせるのであろう」、私の常識では理解の範囲を超えていた。
上に書いたことはほんの一例である。地方からぽっと出の私に、このようなことが日々起こっていた
ように思う。田舎で「のほほん」と育った私には、東京は「生き馬の目を抜く」油断のならない世界に
感じていた。そして人というものが、自分とは全く異なる思考方法で動いていることを、初めて突き
つけられたように思ってしまう。「この東京で自分は暮らしていけないのではないだろうか」、そんな
不安を抱き始めたのもそんな頃だったように思う。「何か人を判断する指針が欲しい」、そう思って
血液型の本を読み、周りの人の血液型を覚え、相手の性格を把握しようとした。しかし4分類だけ
では現実に役に立たず、次に心理学の本を手当たりしだいに読み漁っていたのである。
入社3年を過ぎると同期の仲間は本部に上がったり、店でも役がつくようになり始めた。小さな店で
毎日単調な作業に明け暮れていた私は、「このまま忘れ去られて埋もれて行く」そんな恐怖を感じた
ものである。仕事仲間とも一線を引き、打ち解けもせず、ひたすら自分の殻にこもっていたように思う。
ある時、出張で東京に出てきた父と食事をしたことがある。私がウダツが上がらず、ふてくされている
様子を察したのか、父がこんなことを話したのを覚えている。
会社は大勢の人の組織で動いている。当然人は早く出世したいと思うから上の人の足をひっぱり、
下から上ってこようとする者を抑えようとする気持ちが働く。これではダメである。上の者を押し上げ、
下の者を引き上げてやる。一見不合理なように見えるが、そうすれば自分も連れて上って行くのだ。
上の者の足を引っ張り、引き下ろせば自分もやがては落ちて行く。それが組織というものなのだ。
もう一つ、人が人を評価するのだから当然そこに感情が入る。一人の人を評価してダメと評価すれば
長くその評価は変わることはないだろう。しかし、その人を10人が評価したとすれば、「×」が7つで
「○」が3つかもしれない。見る人が変われば評価も変わるものである。組織の人事は、人の評価を
多数決では決めない。7:3は7:3として記録として残しておく。そして、その人を「○」の方向に配置
転換で活かそうとする。それが人を伸ばし、会社の活性に繋がり、延いては会社の力になって行く。
そんな話をしてくれた。この話が私に影響したかどうかの自覚はない。しかし未だに覚えているという
ことは心のどこかに刺さったのであろう。1年後私は本部に上り、仕事のおもしろさを見出していった。
私は人と接するとき、できる限り自分の主観だけで人を評価しないようにしている。私が「×」と評価
しても、それは私の見方でしかない。だから私の意見は1/10と考える。それから周りの人に自分の
意見を押しつけることが無いよう心がけている。そして周りの人に、「あの人をどう思う?」と聞くように
している。人の意見は意見として、そのまま私の記憶の中で、その人の個人ファイルに保存しておく。
(むかし周りの人の血液型を全て覚えていたように)、そうすることで私は組織の相関図を手に入れる
ことが出来るのである。誰が誰のことをどう思っているか、誰と誰が組み、誰が誰に反発しているか、
人の集団の中の人間模様が見えてくる。それはサル山のサルを遠くで眺めているように、私は人の
集団の中の葛藤を客観的に見ることができる。しかし何時も傍観者でいるわけにいかない。時には
人の渦の中に入って行って闘わなくてはいけない。その時は、自分の作り上げた相関図を携えて、
就職してから40年以上が過ぎ去って行った。私の新入社員の時の体験が、私に人との関わり方を
勉強させてくれた。しかしそれを会得した時にはもうその必要が無くなっている。人は自分の体験の
中から、自分に合った世の中の対処法を身につけて行くのであろう。ランチを一緒にした新入社員が
これからどんなものを身につけて行くのだろうか、私は今は傍観者として楽しんで見ているのである。