私の膝の上で寝てしまったこの子は、長男の方の孫である。昨年の10月7日生まれだからもうすぐ6ヶ月、体重は6kgを超し標準内で、とりあえずは順調のようである。ただアレルギーが酷く、手足のいたるところに湿疹ができて可哀そうである。今は医師の指示で母乳もドライミルクも避け、アレルギー用の特殊なミルクを飲ませているとか。赤ちゃんにとっては与えられるものが全て、親も初体験なのだから戸惑いの毎日なのかもしれない。
この子に会うのはお正月以来、その時はまだ抱っこも壊れ物を扱うようであった。しかし今は首も座ってきて、抱くのも楽になってきた。見るたびに成長していく孫を見ると、命ということを真摯に考え、それを慈しみ、その健やかな成長と継続を考えるものである。
今読んでいる本「動的平衡〈ダイヤローグ〉」福岡伸一著のプロローグに以下の文章があった。その一部を紹介してみる。
「生命とは何か?それは自己複製システムである」。DNAという自己複製分子の発見とともに、そのように定義された。しかし自己複製が生命を特徴づけるポイントであることは確かであるが、私たちの生命観には別の支えがある。柔らかさ、温度、揺らぎ、粒だち、可変性、回復性、脆弱さ、強靭さ、かたち、色、流れ、渦、美しさ・・・・・・私たちは、たとえ言葉にできなかったとしても、それらが生命の重要な特性であることを気づいている。ではそれらは生命の何に由来するのであろうか。
我々が摂取する食べ物由来の栄養素の大半は、他の分子の一部になったり、分解されて再合成されたりしながら、いったんは身体の内部にとどまるものの、やがて体外に輩出されていく。つまり外からきた栄養素は、生物の身体の中を、くまなく通りすぎてゆく、そしてその通り過ぎつつある物質が、一時、かたちづくっているのが私たちの体にすぎないのである。私たちの皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっているように、我々のありとあらゆる部位、それは臓器や組織がけではなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。入れ替わっているのはタンパク質だけではない。貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえも、ダイナミックな「流れ」の中にある(先入れ先出し)。その結果、私たちの体を構成する要素は、ほぼ1年で完全に入れ変わる。物質的には、私たちは1年で別人になるわけである。つまりここにあるのは流れそのものでしかない。
肉体と言うものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし分子レベルではその実体は全く担保されていない。私たちの生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み(よどみ)』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れの事態が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出て行く分子との収支があわなくなる。「生物が生きているかぎり、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。
著者は分子生物学者だから、その文章もなかなか分かりづらいところもある。私なりに注釈をすると、こういうことであろう。地球を取り巻く分子の流れを大河に例えるとすれば、我々はその水辺にできた小さな「淀み」である。その淀みには常に水が注ぎ込み、また出ていってバランスが取れている。その淀みは1年も経てば全ての水は入れ替わるが、淀みは淀みとして変わったようには見えない。我々が生きているということは、止めどなくこの流れが続いていることにに他ならない。水の流入が止まったり細ったりすれば、淀みはたちまちのうちに消え失せてしまう。
かつて私という「淀み」も戦争の混乱期に下関と言う地に誕生した。淀みの流れが増大するにつれ「私という意識」が芽生えてくる。やがて時間が経過して、私という淀みが起因して別な小さな淀みが出来上がる。これが子どもなのである。子どもの淀みはまた大きくなり、また別の淀みが誕生する。しかし私という「淀み」は何時までも続くわけではなく、時間とともに流れの速度が落ち、やがて淀みは消え、意識もなくなってしまう。しかし淀みが消えたとしても、それを構成していた要素までがなくなるわけではなく、大河に流れ出しただけである。いずれまた一部が、別の淀みの構成要素になるかもしれない。地球に生命が誕生して38億年、こんな流れが連綿として続いているのである。
私には宗教心のようなものはあまりない。したがって私は生命観というものを科学を通して考えざるを得ないのである。福岡伸一が唱える「動的平衡」に関する何冊かを読むうちに、私の生命観のようなものが次第に定まってきたように思う。そして今、私の膝の上にある小さな「淀み」の体温を感じていると、著者が言うDNAとは別の・・柔らかさ、温度、揺らぎ、粒だち、脆弱さ、美しさ、可愛さ・・・・という、生命の特性があることを確かなこととして感じることができるのである。
この子に会うのはお正月以来、その時はまだ抱っこも壊れ物を扱うようであった。しかし今は首も座ってきて、抱くのも楽になってきた。見るたびに成長していく孫を見ると、命ということを真摯に考え、それを慈しみ、その健やかな成長と継続を考えるものである。
今読んでいる本「動的平衡〈ダイヤローグ〉」福岡伸一著のプロローグに以下の文章があった。その一部を紹介してみる。
「生命とは何か?それは自己複製システムである」。DNAという自己複製分子の発見とともに、そのように定義された。しかし自己複製が生命を特徴づけるポイントであることは確かであるが、私たちの生命観には別の支えがある。柔らかさ、温度、揺らぎ、粒だち、可変性、回復性、脆弱さ、強靭さ、かたち、色、流れ、渦、美しさ・・・・・・私たちは、たとえ言葉にできなかったとしても、それらが生命の重要な特性であることを気づいている。ではそれらは生命の何に由来するのであろうか。
我々が摂取する食べ物由来の栄養素の大半は、他の分子の一部になったり、分解されて再合成されたりしながら、いったんは身体の内部にとどまるものの、やがて体外に輩出されていく。つまり外からきた栄養素は、生物の身体の中を、くまなく通りすぎてゆく、そしてその通り過ぎつつある物質が、一時、かたちづくっているのが私たちの体にすぎないのである。私たちの皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっているように、我々のありとあらゆる部位、それは臓器や組織がけではなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。入れ替わっているのはタンパク質だけではない。貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえも、ダイナミックな「流れ」の中にある(先入れ先出し)。その結果、私たちの体を構成する要素は、ほぼ1年で完全に入れ変わる。物質的には、私たちは1年で別人になるわけである。つまりここにあるのは流れそのものでしかない。
肉体と言うものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし分子レベルではその実体は全く担保されていない。私たちの生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み(よどみ)』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れの事態が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出て行く分子との収支があわなくなる。「生物が生きているかぎり、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。
著者は分子生物学者だから、その文章もなかなか分かりづらいところもある。私なりに注釈をすると、こういうことであろう。地球を取り巻く分子の流れを大河に例えるとすれば、我々はその水辺にできた小さな「淀み」である。その淀みには常に水が注ぎ込み、また出ていってバランスが取れている。その淀みは1年も経てば全ての水は入れ替わるが、淀みは淀みとして変わったようには見えない。我々が生きているということは、止めどなくこの流れが続いていることにに他ならない。水の流入が止まったり細ったりすれば、淀みはたちまちのうちに消え失せてしまう。
かつて私という「淀み」も戦争の混乱期に下関と言う地に誕生した。淀みの流れが増大するにつれ「私という意識」が芽生えてくる。やがて時間が経過して、私という淀みが起因して別な小さな淀みが出来上がる。これが子どもなのである。子どもの淀みはまた大きくなり、また別の淀みが誕生する。しかし私という「淀み」は何時までも続くわけではなく、時間とともに流れの速度が落ち、やがて淀みは消え、意識もなくなってしまう。しかし淀みが消えたとしても、それを構成していた要素までがなくなるわけではなく、大河に流れ出しただけである。いずれまた一部が、別の淀みの構成要素になるかもしれない。地球に生命が誕生して38億年、こんな流れが連綿として続いているのである。
私には宗教心のようなものはあまりない。したがって私は生命観というものを科学を通して考えざるを得ないのである。福岡伸一が唱える「動的平衡」に関する何冊かを読むうちに、私の生命観のようなものが次第に定まってきたように思う。そして今、私の膝の上にある小さな「淀み」の体温を感じていると、著者が言うDNAとは別の・・柔らかさ、温度、揺らぎ、粒だち、脆弱さ、美しさ、可愛さ・・・・という、生命の特性があることを確かなこととして感じることができるのである。